パ ルティア時代のペルシア地方におけるフラタラカー政権



    
 最近セレウコス朝とパルティア時代のペル シア州の政権、フラタラカー政権の統治者一覧表を作成 しましたが、その後、「Cambridge history of Iran vol3-1」のp299-306や、「The Age of the Parthians (Idea of Iran)」第3章「Fars under Seleucid and Parthian rule」や、エンサイクロペディア イラニカのフラタラカの記事な どがあることがわかり、読んでみました。本記事は、要約という程のものではなく、単に目に留まった情報のメモ程度に過ぎませんが、簡 単にまとめてみました。

 「Cambridge history of Iran vol3-1」や「The Age of the Parthians」にはアケメネス朝時代の言及は無いので、「フラタラ カ」という称号の起源について「エンサイクロペディア イラニカのフラタラカの記事」 を参照すると、アケメネス朝時代のエジプトのエジプトの南地域、メンフィスなどのサトラップの役人の称号、とあり、パピルスに記 載されたアラム語では、3名の名前が知られているようです。

     rmndyn- *Ramnadainā  前420頃. (エレファンティネを含む地区)

     wydrng- *Vidranga   前410以降. (同上の地域)

     gršpt- *Garšapati-, (前419頃、メンフィス地区)

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 フラタラカは、 Syene(シエネ・現アスワン) の守備隊の司令官よりも偉かったので、副サトラップ(アケメネス朝時代の太守)という形容(The Age of the Parthians」)もあるようです。なお、Vidrangaについて記載したエレファンティネ文書の全訳が、  「古 代ペルシア―碑文と文学 (伊藤 義教 (著)」に掲載されており、「フラタラカ」についても若干の言及があります。

 

 セレウコス朝時代になってからは、アルメニア語で、fratakara(フラタカラ), fratadāra(フラタダーラ), fratakāra(フラタカーラ) という3種類の表記.出で記載された(とエンサイクロペディア イラニカでは記載されていますが、The Age of the Parthians」では、 fratadāraと fratakāra(fratakara)はfratakaraとは違うとの見解となっています)。

 さて、セレウコス朝とパルティア時代のペルシスですが、「Cambridge history of Iran vol3-1」では、コインの表裏の文字とデザイン、重量、サイズ、貨幣単位、質などから、フラタラカーの称号や、個人名、時代の判別を扱っています。ア ケメネス朝、セレウコス朝、パルティアの各王の貨幣と比較し、共通点によって時代を判別する根拠としているようで、Cambridge history of Iran vol3-1」のパルティア時代のペルシア地方を扱った章(p290-306)では、延々と貨幣の分析の解説となっています(なのであまり面白くない)。 因みに、Cambridge history of Iran vol3-1」では、FratarakaはPratarakaと記載してあり、PratarakaでGoogleを検索すると、なんとGoogle Booksが表示され、当 該部分の前後数ページを読むことができます(このリンク先です)。Google Booksでは、読めないページもあり、これで購買させようということらしいのですが、結構なページを読むことができます(試したことはありませんが、検 索ページをずらして、何度かに分けて検索すれば、読めないページも見れるようになるのかも知れません)。Cambridge history of Iran vol3-1」の記事の貨幣考証の部分は省きますが、その結果復元された統治者一覧表がこちらです。

 一方、「The Age of the Parthians」の第3章では、コイン以外の文献資料や考古学資料も用いて、もう少し歴史っぽい記載と考察がなされているので、紹介したいと思います (といっても、本人の推定以外に、「何人かの学者は」という引用も多用しています)。ただし、議論の対象となっている王の数と、 復元した即位順は、「Cambridge history of Iran」や「古波斯币」とは若干異なっています。なお、The Age of the Parthians」の第3章も、半分くらいはGoogle Bookで読むことができきます

時期

解説

Baydad

コインの重量がセレウコス朝のスタン ダードであるテトラドラクマで、画像はアケメネス朝のもの。フラタラカーと刻んでいる。2種類のコインを発行。また、議論の 余地があるとして、一部の学者は、前300-280の間にパサルガダエとTall-i Takhtの破壊が見られることから、Baydadがここで反乱を起こしたとの見解をとっている。が、反乱があったとしても、独立できたとは限らず、セレ ウコス朝の支配下に留まったと思われる。なお、彼の貨幣の1種類には、王やマギではなく、サトラップのティアラ(冠)となっ ている。

Ardashir

コインの重量がセレウコス朝のスタン ダードであるテトラドラクマで、画像はアケメネス朝のもの。フラタラカーと刻んでいる。

 

ビザンツ史家ステファヌス(6世紀)によると、アンティオコス1世 (前281-261)が、南西イランに都市を建設したとされる。このことから、ペルシス地方はセレウコス朝の支配下にあった と推測できる。

前220

ポリビュオス(5.40)によると、前 220年、Molonがペルシスの太守アレクサンダーに対してで反乱を起こしているので、仮に、Baydadや Ardashirが独立していたとしても、その後、セレウコス朝の支配下に戻ったと思われる。ただし、2世紀に「戦 術書」(邦訳あり)を書いたポリュアイノス(7.39)によると、Molonの反乱はセレウコス1世に対するも のとされているとのこと。

前217

ポリビュオス(5.79)によると、ペ ルシア人のKatoikoi(Paroikoi(外 国の住民というギシリア語が小アジアではKatoikoiと言われたとのこと)が前217年にプトレマイオス王 とアンティオコス三世のRaphia の戦い(パレスチナ)の時ににいた、としている。ペルシア人が従軍していたことから、ペルシア地方はセレウコス 朝支配下にあったと推測できる。

前205

アンティオコス3世が、ペルシア地方のアンティオキアにいた(出典 記載無し)。このように、この時代までは、ペルシア地方はセレウコス朝の支配下にあったと推測できる。

前189年

リヴィウスはアンティオコス3世がローマに敗北したマグネシアの戦 いで、ペルシア人の従軍について言及していない為、このあたりから、フラタラカ政権がセレウコス朝から離脱を始めたとも推測 できるが、プリニウス(6.152)によると、前175以降にセレウコス朝のEparch Numeniusがホルムズ海峡付近でペルシア人に攻撃された、との記載があるので、少なくとも189年以降直ぐにペルシア地方が離脱した、とは考えられ ない。

前150以降

バフレイン(アラビア半島側)とFailakaでの発掘結果による と、この地方のこの頃は、セレウコス朝の影響力は低下していたと思われる。

前140

セレウコス朝のデメトリオス2世(出典ユスティノス)は、ミトラダ テス1世との戦いの為、南西イラン軍を避けたとされているので、この時点では、ペルシア地方は独立していた可能性がある。

Wahbarz

コインにフワルナフが登場する。セレウコス朝から一時的に離脱した 可能性がある。ただし貨幣はテトラドラクマ。なお、ポリュアイノス(7.40)によると、OborzosはWahbarzと 同じとのことで、3000名のKatoikoiを率いていたとのこと。彼はセレウコス朝の司令官の地位にいたのでセレウコス 朝に所属していたが、イラン人軍隊を率いて反乱したことから、ある程度一時的に独立していた可能性がある。但しポリュアイノ スは、この反乱をセレウコス1世の時代としており、史料的に混乱があり、確定はできない(おそらくこのエピソードから、Cambridge history of Iran」や「古波斯币」では、 Baydadの次にリストされているのだと思われる)。

Wadfradad 1世

コインにフワルナフが登場する。セレウコス朝から一時的に離脱した 可能性がある。貨幣はテトラドラクマだが、BaydadやArdashirになかった、アケメネス朝の貨幣にあるフワルナフ が復活している。テトラドラクマを発行した最後の王。以降の王はパルティア標準のドラクマになるので、彼はミトラダテス1世 時代の人物と推測される。Wadfradadは、恐らくフ ラタラカー一覧表のAutophradatesと同一だと思われる。

 

なお、前2世紀のフラタラカーの政府はペルセポリスにあり、イスタ クルではなかったと思われる。

Wadfradad 2世

’ペルシア王朝の反乱の結果、アルサケス朝の制約下に置かれるもの とする"とされた(出典は他の研究者の書籍となっているので、根拠は不明)。

無名王

’ペルシア王朝の反乱の結果、アルサケス朝の制約下に置かれるもの とする"とされた(出典は他の研究者の書籍となっているので、根拠は不明)

Darew1世

 

Wadfradad 3世

明確にパルティアコインの特徴が出てくる(テトラドラクマではな く、ドラクマになる)。前1世紀末。

前1世紀

ストラボン(15.3.24)(前63年頃 - 後23年頃)によると、彼と同時代のペルシア人は王によって支配され、その王は他の王によって支配されていた、とあることから、それはパルティア人の王だ と思われる。

1世紀

「エリュトラー海案内記」33-37節によると、カラケネの Apologusの港を含むペルシア湾とホルムズ海峡近郊のOmanaと東南アラビアは、「Basileia tes Persidos」に属している、と記載されている。Basileiaをパルティアと解釈するか、パルティアに臣属するペルシアと解するか、ペルシアが独 立しているか、現在定説は無いとのこと。

1世紀末

κύριος (kyrios - lord)銘の銀貨が1980年代に発見される。Alramという学者の説によると、1世紀末のペルシアのもので、アルサケス朝の王家に近いとのこと。一 部の学者は、フラタラカーがこれを以って、kyrios (load)を名乗ることで、ペルシアとパルティアの緊張関係を示唆しているとのこと。称号の昇格は、後のバーバクやアルダシールの称号の昇格という文献 資料と合致している。

106年

「The Age of the Parthians」の5章「Parthia in China」によると、一般に後漢書に記載されている、和帝13年の安息王満屈復の使者は、年代的にパル ティア王パコールースとされているが、Manquという発音から、フラタラカー政権のmanuchihr (Minuchetr/Manouchehr )王との見解が示されている。

2世紀末

シリアの「アルベラ年代記」では、ヴォロガゼスが12万の兵ととも にペルシアに攻め込み、ホラサーンでペルシアを破る、という記載があります(カリフォルニア大学サーサーン学サイトで「アル ベラ年代記」英訳が公開されており(こ ちら)、第6章「Bishop Habel of Arbela. (183-190 A.D.)」に、この事件の記載があります。

 

205/06年、バーバクはKhir(キール王)、アルダクシール はダーラブギルドの王に。

  コインから見るとセレウコス時代のフラタラカーはアケメネス朝の継 承意識はあったが、大王を目指すことも、ペルシア地方から出ることも無かった。また、ペルセポリスの埋葬地から推測すると、ペル シア人には埋葬の習慣があり、ゾロアスター教は定着していなかったと考えられる(オスアリ(納骨容器)が使われだすのはサーサー ン朝時代となってから)。

ところで、「パルティア時代の」といいながら、殆どがセレウコス時代の話となってますね。それだけパル ティア時代については史料が無いということなのでしょうね。

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