中世ポーランド歴史映画「Gniazdo(永住の地)」(初代ミェシュコ王)

    ポーランド初代国王、ミェシュコ(930頃-992年・在位962-992年)の半生を 描くポーランド1974年製作の伝記映画。 題名は、Google翻訳を使っての私の意訳です。

95分程の作品ですが、本作に関するネット上の情報が少ないことと(Wikiに映画紹介がありますが、ポーランド語なので翻訳機にかけて少しわかった 程度)、ポーランド初期の歴史の知識の無さに泣けました。

 そこで今年は、山川世界各国史の「ポーランド・ウクライナ・バルト史」、恒文社の全900頁の通史「ポーランド史」、更に12世紀初頭に成立したポーランド初の年代記「匿名のガルの年代記」 などを購入したのですが、映画鑑賞の参考資料として一部を参照する以外、読んでる時間は全然無く、読むのは来年に持ち越しとなっ ている状況です。本作品 は、5月に見て記事を書いたもので、その後多くのブルガリアとポーランドの歴史映画を見た今では、多少聞き取れる範囲も増えた今 もう一度見直せば、もう少 しちゃんとしたあらすじが書けるような気もします。購入したポーランド通史の日本語書籍には、ミェシュコに関しては詳細な記載は 無かったのですが、考えて みれば、本作品のネタとなる内容は「匿名のガルの年代記」から持ってきている可能性が高く、「匿名のガルの年代記」のミェシュコ 王に関する記載を読めば、 ちゃんと筋が理解できたかも知れません。というわけで「匿名のガルの年代記」のミェシュコ王に関して読んでから記事を公開しよう かと一瞬考えたのですが、 そのうち読んだら記事を修正することにしました。というわけで、以下本作品のご紹介です。


 題名の「永住の地」とは、恐らく、諸侯に分裂していたポーランドの中心部を統合したことを意味した題名なのだと思います。その ポーランドですが、10世紀中頃には大きく分けて6つ程の勢力に分かれていたようです。下記はyoutube上の「Historia Polski (930-1030) Gdzie ci Polanie (ok. 930-940 r. n.e. ) 」というポーランド歴史アトラスのフラッシュ動 画からもってきました。

 この分裂していた諸侯勢力が、ミェシュコ王の時代の960年代々に、下記地図の真ん中の紫色の部分として統一されたようです (地図はWikipediaのこちらの地図か ら)。更に、70-80年代には紫の北と東南部の濃いピンクの部分に拡大し、990頃に南西部のピンク色の部分に拡大したようで す。西南部の黄色はチェ コ、青色はモラヴィア、緑がスロヴァキア、南の青紫はハンガリー、東の薄緑はキエフ公国、東北部の無着色はプロイセン族(非ゲル マン民族で、後にドイツ騎 士団に征服された)となっています。西は、現在のドイツ領内のエルベ川以東が入っており、この部分だけ、現在のポーランドよりも 広意のですが、おおむね現 ポーランド領土と一致するようです。

とはいえ、その後のポーランド領土の変遷には激しいものがあり、youtubeの「Polska Poland Borders 990 - 2008 」は動画 で地図の変遷を描いていて非常に参考になります。

  さて、ポーランド語は全然わからず、ミェシュコ王以外の人名もわからないので、こういう映画の場合、セットに注目がいってしまい ます。セットは非常に大規 模なものが用意され、映画完成後、廃棄されたとのことで、今となっては、貴重な映像となっているのがこの映画の見所の一つのよう です。下記は、ミェシェコ の根拠地の砦と周辺農村の映像。屋根が急斜面なのがわかります。別の映画でも描かれていたのですが、当時の農村の屋根の下の家の 壁は、人の身長よりも低く なっていました。恐らく内部は、周囲の地面よりも、掘り下げられているものと思われます。

 下記は、砦からみた、周囲の農村。川沿いにあり、川には大きな橋が架かっていることが見て取れます。

 下記を観ると、農村の周囲には、更に土塀と、土塀の上に木の柵があることがわかります。恐らく、土塀の外側には堀があるのでで しょう。

 そして下記は砦の内側。全面的に木造で、内側にも農村と同じ構造の家があることがわかります。これほど大掛かりなセットを撮影 後、廃棄してしまったなんて、もったいない。観光資源としてなんとか使えなかったのでしょうか。


 セットの次に注目されるのは衣装です。下記はミェシェコの軍装。映画前半部での戦闘場面ですが、映画の最後の方での決戦のよう な場面でも同じ装備でした。

  下記は、ミェシュコ王の父らしき人物(映画の中で名前が確認できなかったので違うかも)。ボレスラフという名前も聞き取れました が、ミェシェコの息子のボ レスラフなのか、別の人物なのかさえわかりませんでした。もう少し勉強してからもう一度見れば、もう少しわかるかも知れません が。。。

 
  映画の冒頭は、軍隊の対決場面からはじまり、次いで洞窟のようなところで部族長のような風情の人たちが会議をしている場面になり ます。恐らく、諸侯の激突 と、その後の講和会議かなにかなのではないかと推測されます。それにしても、前半の画面は暗かった。洞窟なのか屋内なのか、篝火 に照らされた陰影の濃い映 像が続く。顔の半分以上が影だったり、半分どころが火に照らされた顔の半分だけが浮き上がり、体が闇に溶け込んでいたりと、全体 的に暗い映像が続く。焼き 討ちや、人々を縛ったまま川に落とす処刑や、縄で吊り上げた諸侯の一人と思われる人物に、次々馬上から槍を投げつけて処刑した り、何かの儀式なのか、椅子 に座っている老人を、長打の列が担いで行進し、そのまま山積の薪の上で焼いてしまうなど、全体的に暗い中世という感じの映像が続 きます。

  漸くストーリが若干わかるようになるのは50分を過ぎたところから。ボヘミア王の息女、Dobrawaとの結婚場面から。王妃と 父のボヘミア王らしき人物 が、ミェシュコの砦の入り口で、ポーランド側が持ち出した直径70cmくらいある大きなパンの匂いを嗅ぐ儀式的場面が面白かっ た。その後、ミェシェコが洗 礼を受ける場面が出てきます。彼は、最初正教徒だったそうですので、これは、正教徒になる場面なのかも知れません。なぜかと言う と、先礼式の教会の入り口 のファサードには、下記のイコンが書かれているからです。ビザンツ史跡に残るイコンと比べても、貧相なのが良くわかります(とは いえ、その後、ポーランド ではイコン文化が伝統的に、現代に至るまで継承されているとのことを知り、映画のファサードが正教の影響なのかどうかについては 疑問が出てきました)。

 更に下は先礼式。真ん中に裸で上半身が写っているのがミェシュコ。正教徒の先礼式は水に沈めるとのことなので、この、ミェシェ コが入っているプールのような穴(水があるかどうかまでは映されなかった)は、水に沈むことを意味しているのかも。

 その後の宴会場面。殆ど始めて石造建築が登場。教会内なのかも。

 続いて下記は、どこかの国王と会盟する場面。小学校の運動会でのテントのような、背後と屋根だけの天幕。とはいえ、背後の織物 が華やかに見えてしまう程、ポーランド諸侯の服装は原始的な装束でした。毛皮はあったかそうでしたが。。。

  下記は王とミェシェコの前に、両側に机を並べ、食事をする諸侯と司教と思われる人々。諸侯よりも、司教の方が身なりが洗練されて るのが目立ちました。王妃 との結婚式でさえ、木造建築だったのに、上記洗礼式後の宴会は石造。キリスト教司教の富裕さが目立ちました。とはいえまだ司教も 諸侯も食事は手づかみです ね。フランスにフォークとナイフが伝わったのは、カトリーヌ・メデシスがイタリアから嫁いだ16世紀という話がありますし、同様 にセルビアに伝わったの は、14世紀のステファン王の時代だったという話もありますから、ポーランドもしばらくこんな感じだったのでしょうね。

  で、この王の名前が聞き取れなかったので、誰だかわからなかったのですが、下記写真にあるような、海辺にある、洗練された白亜の 王宮を、ミェシュコが訪ね る場面があります。ミェシュコはスウェーデン王と同盟したとのことですから、スウェーデン王エリックかも知れません(その娘、シ フィエントスワヴァは、後 にデンマーク王と再婚し、クヌート王を生んでいたとは知りませんでした)。

 下記は海辺で儀式を挙げる場面。ミェシェコがバルト海までの領土を統合した時の話かも知れません。城と黒の馬の背後に、馬の頭 骨に馬甲をつけた祭式道具と思われるものが見えていて異教的な感じ。

 映画最後の激戦場面。どこと戦っているのかまったくわからないが、騎兵は、武田騎馬軍団を思わせる迫力の映像。


  というわけで、ちょっと体調不良なこともあり、調べが浅く終わってしまいましたが、10世紀のポーランドを、比較的リアルに描い た作品であるように思えま す。ただ、農民や女性が背景程度しか登場せず(王妃も結婚式の前後数分程度)、徹底的に男性諸侯たちの世界が描かれている映像で した。

 本作は、ネット上ではvhsもdvdも見つかりませんでした。リアルな映像は、学習にも使えます。英語字幕版でいいので、是非 dvdを出して欲しいものです。


IMDbの映画紹介はこちら。
ポーランド歴史映画一覧表はこちら
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