「後漢書」郡国志所載の人口データについて

 

 後漢時代は、紀元57年から157年までの100年間に関し、11の年についての全国合計値が記載されているが、地域別の人口一覧が記載されているのは、紀元140年の「後漢書」郡国志だけとのこと。各地の郡と国についての戸数と人口が個別に記載され、末尾に、合計数値が記載されています。

 

 この一覧を、表計算ソフトにまとめてみました。また、幾つかの箇所に欠損や、明らかな誤記がある為、それらを補正した値についても纏めてみました。データの補正は、中国人口通史第四巻「東漢」p43-49所収の方法を用いています(OpenOfficeでまとめたファイルはこちら)。出典 中華書局「後漢書」 2007年7月版

 

1.郡国志記載データの合計値

 

 

都城数

戸数

口数

備考

各郡合計値

戸数・口数記載都城数1143、合計都城数1181

9346658

47908838

末尾所載の合計値との差、38都城、 351972戸  1241382人

末尾所載の合計値

1180

9698630

49150220

 

補正値

 

9726475

49223783

 

補正値と記載値の差

 

-27845

-73563

 

 

補正値である交趾郡や鬱林郡の1戸あたりに人数が、周辺よりも多い為、この値を若干調整すれば、郡国志記載に合計値に一致させることは容易だと思われる。成立当初の郡国志は、各都城の数値の合計と、全体の合計値が一致していたと思われる。算出合計都城数が、所載合計値を1つ上回っているのは、表計算ソフトへの転記ミスである可能性もある(が、面倒なので、再チェックはそのうちにする予定)。

 

2.中国人口通史第四巻「東漢」p43-49所収の補正手法概要

 

@

 沛国の戸数あたりの人数が、1.25と低い。反対に、次の陳国は、13.74と高過ぎ。陳国の百万の桁は、沛国の方のものを誤記した可能性が高い。陳国の「1」を沛国へ移動。 

A

泰山郡の戸数あたりに人口が48.98と高過ぎ。10万の桁が消失していると推定し、戸数を8929->108929に修正

B

  琅邪郡の戸数あたりの人口が、27.45と高過ぎ。10万の桁が消失していると推定し、戸数を20804->120804に修正

C

酒泉郡の口数記載なし。近隣の武威、張掖、張掖属国の戸数平均3.67を適用し、29170と算定

D

 敦煌郡の戸数人口39と高過ぎ。近隣の武威、張掖、張掖属国の戸数平均3.67を適用すると、戸数は、7948となる。つまり、7748の先頭の桁が失われたものと推測。

E

遼東郡の戸数人口1.27と低過ぎ。遼西、楽浪の戸数人口平均4.98を用いると、31万近くとなる。おそらく20万の桁が落ちたものと推定される。81714->281714と算定 

F

玄莵郡の戸数あたりの人口、27.08は高過ぎ。楽浪郡が4.18なので、この場合の戸数値、10236。記載値は1594であるため、11594か9594のいづれかと思われる。11594だと、戸数あたり3.72となり、周囲と比較すると低過ぎる。9594を採用。    

G

 遼東属国はデータが欠落している。遼東と遼西の、城あたりの戸数、人口数から算定。遼東属国は6城なので、戸数22986、口数116592と算定      

H

       

鬱林のデータ欠落している。南海、蒼梧、合浦郡の前漢時代と後漢時代の人口の伸び率を算出。戸数205、口数114%と算定。これを前漢時代の鬱林郡に適用し、後漢代人口を算出。戸数12415、口数71162となる。  

I

交趾のデータが欠落している。合浦、九真郡の前漢時代と後漢時代の人口の伸び率を算出。戸数40%、口数18%と算定。これを前漢時代の交趾郡に適用し、後漢代人口を算出。戸数129416、口数880560となる。この値は、馬援伝記載の128004に近い。

J

永昌郡の戸数平均8.18は多過ぎるように思えるが、周囲もだいたいこの程度(哀牢は、55万戸に対して人口55万など)なので、この値は修正しない。

                        

            

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