前 漢代の洛陽と後漢代の長安



  歴史の記述で不満なのは、ある地域に焦点があたっているのは、その地域の全時代 の一部であり、それ以外の時代がどうなっているのか、の記載を見つけることが困難なことです。もちろん、歴史の流れには重心と推進勢 力があり、その推進体は常に地域を移動し続けるものなので、歴史の推進体中心に描く歴史記述は納得できます。この例の典型は、オリエ ントの歴史が古代地中海史へと移動し、更に西欧史に移動する、というものでしょう。しかし、古代ローマの盛期でさえ、シリアやエジプ トや小アジアが栄えており、イスラーム時代になっても東地中海の繁栄があまり変わらなかったことを考えれば、もう少し地域の持続性に 焦点を合わせた歴史記述もあっていいのではないかと思うのです。

 その一方で、その地域の住民ほとんど全部が他に移動してしまう場合があります。セレウキアができ てバビロンの住民がほとんど移住してしまい、更にバグダッドができてクテシフォンの住民が移動してしまう、という場合や、サー サーン朝滅亡以降、メソポタミアが荒廃し、住民が極度に減少してしまったことなども、地域を持続的に描くことは難しくなります。 いづれにしても、その地域に人が住み続ける限り、もう少し地域に焦点をあてた歴史記述が多くあってもうよいように思うのです。

 この点で、「ア フガニスタンの歴史と文化」(明石書店)という書籍は、様々な外部勢力の周辺地域として扱われる期間が長かったアフ ガニスタンという地域に焦点をあて、支配的な外部勢力の描写に流されることなく、支配的外部勢力時代の「アフガン」を持続的に描 いた書籍としてひとつのモデルともなるものだと思います。ただ、こうした書籍の登場の背景も、アフガニスタンが現在の独立国であ ることがポイントで、アフガニスタンがイランやパキスタンの地方だったら、このような書籍が成り立ったかどうか、疑問がありま す。

 こうした意味で、中国やインドのような大国の、ある程度一貫したまとまりのある地方の歴史が、 もっと出版されても良いのではないかと思うのです。

 さて、今回は、前漢時代の洛陽と後漢時代の長安の状況について調べてみました。歴史書では、「前 漢時代の首都は長安。宮殿があり、市場があった」「後漢時代の首都は洛陽。光武帝が西暦25年に遷都した。太学があり白馬寺が あった」などの記載がある程度。それ以前の洛陽がどうなっていたのか、後漢時代の長安はどのような状況だったのか、についてはあ まり触れられていません。そこで今回少し調べてみました。といっても調べきれない点も多く、最近の体調からあまり深い調査もでき ないこともあって、不明な点も多く残ってしまったのですが、とりあえずまとめてみました。

 

【1】前漢時代の洛陽

西周の周公が洛邑を建設した、という記載は良く出てきますが、実際に は、現在の洛陽市街の西側にある王城公園の付近と、現洛陽市街東15㎞郊外にある漢魏洛陽城遺跡のあたりに築かれた王城の二つが 築かれました。王城公園の城砦を「王城」と呼び、漢魏洛陽城遺跡のあたりの城を「成周」または「下城」と呼びました。西周は、商 の貴族を成周に移住させ、2500名の兵を派遣し、監視下におきました。東周は王城に都を建て、敬王の子が、王朝の乱を避けて成 周に遷都してきました。秦代には三川郡が置かれ、前漢初年に三ヶ月程、劉邦が洛陽に都を置きましたが、張良の進言で長安に都を移 しました(出典が見つからないのですが、劉邦が滞在したのは、ほぼ「王城」の上に築かれた河南県城だった記憶があります)。下記 は、左は東周王城と河南県城の発掘地図です。右は隋唐洛陽城との位置関係がわかります。出典はともに洛陽市博物館 展示パネル

真ん中色付き部分が河南県城。上と 左下の線が東周王城

左側が東周王城と河南県城。中央か ら右の大枠が隋唐洛陽城

 後漢代の洛陽城は、成周城、三川郡治、前漢洛陽城の上に築かれたとのことです。

 西暦25年6月に劉秀は皇帝に即位し、10月に洛陽に入り、五行 図讖説に従い火徳を尊び、水を禁忌し、水のさんずいのある洛の字を「」に改め、雒阳と改名します。220年魏文帝時代に「洛陽」の文字に戻され、西晋代も都とさ れ、西晋末年永嘉の乱にて洛陽は焼かれました。

 以上は、洛市文化局が出版した「洛阳市文物誌」という書籍p41からの引用です。1985年の出版ですが、洛陽の史跡をかなり網羅している便利な書籍です。前漢時代の洛陽城は、大きな都市ではなく、郡治が置かれた、通常の郡 の治所と同じような規模の町だったのではないかと思われます。では何故そんなところに劉秀が遷都しようとしたのでしょうか。これ については調査しきれませんでしたが、やはり、東周の都だったことと、当時流行していた五行図讖説の影響なのかも知れません。

 下記は、東周王城、隋唐洛陽城、漢魏洛陽城、魏洛陽外城、夏王朝とされる二里頭遺跡、商初期の偃 師城の位置図です。隋唐洛陽城の中心あたりから漢魏洛陽城まで15㎞となります。東周王城は左の紫 線、隋唐洛陽城は赤線、漢魏洛陽城は緑線、魏洛陽外城は漢魏洛陽城の北、西、東数キロのところにある緑線、夏二里頭遺跡は漢魏洛 陽城の右下の点線、商偃師城は、一番右の青線となります(出典:洛陽市博物館展示パネル)

 

 

追記:2010年1月に日本で出版された「千 年帝都洛陽」という書籍のp74によると、だいたい下記のような外形をしている後漢洛陽城の真ん中の四角部分が、西 周時代の成周城に相当する部分であり、上の増築が東周時代によるもの、下の部分が秦時代の拡張部分とのことです。

 

【2】後漢時代の長安(王莽末年から110年)

 これについては、「古都西安-長安商業-(西安出版 社)作者:薛平拴」p77かp94を参考に作成しました。

 王莽末年の戦火により、「民はお互いに食い合い、死者数十万、長安は廃墟となり、城の中は無人と なった(「漢書「王莽伝」下)」との記載があり、相当打撃を受けたようです。後漢に入り、社会が安定し、関中も安定したようで す。「後漢書「明帝記」に、一石30銭との記載があり、長安商業も順調に回復していたことが推測されているようです(山田勝芳氏 の「秦漢財政収入 の研究」などでは、極端なインフレではい時は1石=100銭としており、この数値と比べても、30銭は、安定した数値と言えそう です)。後漢代には長安の商業も急速に回復したと考えられているようですが、その理由は、後漢政権が、地主や商人、役人などの連 合政権であり、劉秀自身も大地主であり、配下の李通、樊宏、呉漢なども大地主兼大商人だったこともあり、後漢政権は抑商政策や専 売政策は取らず、自由な商業発展を見ることができたというわけです。

 王莽の乱以降、貨幣経済は衰退し、貨幣に変わって布帛金粟などが用いられていましたが、光武16 年(40年)に五銖銭使用が命ぜられ、貨幣経済は安定を取り戻しましたが、前漢程の流通量はありませんでした。長安は貨幣鋳造の 唯一の中心地で、光武年間に、第五倫は、京兆尹の閻興を主簿に向かえ、長安市の鋳造を監督させました(「後漢書光武帝紀)。この ようにして、京兆尹は長安の鋳造にも責任を負うことになりました(もともと前漢時代から、上林苑に鋳造官がいた可能性があり、京 兆尹の管轄だったとも考えられる)。後漢書第五倫伝には、「平銓衡、正斗斛、市無亜枉、百姓悦服」(秤や枡が正しくなり、市で不 正がされることはなく、百姓は皆喜んだ)」とあるとこことで、度量衡が正しく定められ、運用されることで、長安の商業、市場秩序 は順調に回復したものと考えることができる。また、長安市は、王莽末年以降たびたび戦火にあったものの、市内建築物はあまり破壊 されなかったようである。長安の宮城は依然として帝王の都の風格があり、全国屈指の都市だった。

 後漢中期、王符によると(「後漢書「王符伝」)、「今挙俗舎本農、趨商買、牛馬車輿、填塞道路、 遊手為巧、充都邑、努農者少、浮食者衆」(この頃は農業を俗っぽいとみなし、商 売に走り、牛馬車が道路を塞ぎ、町中にあふれ、農業に励むものは少なくなり、浮き草暮らしの人々が衆をなしている)」と記載して います。農業を捨て、都市に流入して商売に手を染めていた人が多く見られたことがわかります。王符は、洛陽では、商人は農民の十 倍いる、と記載しているとのことですが、長安の状況も大差ないと推測されます。

 このように繁栄した商業は、その対象を官僚や豪商など、社会の上層階層を対象とした奢侈品が多 く、一般人民向けの日用必需品は少なかった点、健全は商業発展とはいい難いと言えます。王符は「淫侈之幣、以惑民取産、于淫商有得」(奢侈が出回り、民衆を惑わし財産を取り上げ、淫商が儲ける)と批判するような状況となっていま す。このような現象は長安も例外では無かったと考えられますが、前漢時代、長安付近の三輔(京兆尹、左馮翊、右扶風)地区の人口 は240万。これに対して後漢代関中人口は50万余、後漢時代の長安が繁栄したとはいっても、前漢代のそれとは比べ物にならない くらい衰退していたと考えられます。とはいえ、洛陽の次くらいには繁栄していたと思われます。

 

【3】後漢時代の長安(110年から189年)

この時代の長安は、三次に渡る羌族の反乱を受けて衰退しました。王莽末年以降羌族の一部は内地に移 住しました。彼らが107年に最初に反乱を起こし、三輔地区も荒らしました。政府は鎮圧に11年かけ、240億銭を投入しまし た。140年第二次反乱がおき、三輔を荒らし、長安長官(長吏)を殺しました。鎮圧に6,7年かけ、80億銭以上を投入したとの ことです。159年第三次反乱がおき、今度は鎮圧に十数年間かかりました。前後3回にわたる反乱に政府は418億銭を投入したと のことです(漢代税収については、山田勝(「秦 漢財政収入の研究」に記載があり、こちらに概要をまとめてあります。それによると、 前漢末の数字で、地方中央の税収総計は162億銭となっているのですが、歳出の詳細が不明な為、羌族反乱鎮圧費のインパクトがい まひとつわかりにくい状況となっています)。

 この羌族反乱による長安の荒廃ぶりの直接の記述は無いようですが、交易路の遮断や羌族による襲 撃、政府軍軍隊による徴発などがあったと考えられることから、長安経済に大きな打撃をもたらしたと考えられます。とはいえ、反乱 鎮圧後の20年程は、ある程度の経済回復はあったものと思われます。

 

【4】後漢時代の長安(189年から220年)

 191年の董卓の長安駐留では、死者数千人程度と、市中は恐怖政治におののいていたようですが、 長安市が崩壊する程の打撃ではなかったようです。しかし、董卓の部下の李・郭 汜・樊稠が長安を攻めた時には1万人以上の死者が出、 長安の秩序は混乱し、盗賊が横行、昼間から略奪が行われるようになり、百姓も暴行を受けるようになったそうです。一石の穀物が50万銭、一石の豆が20万 銭となり、人食が行われ白骨が道路を埋めました(「後漢書 董卓伝)。195年には李は樊稠を殺し、李と郭汜の抗争のさなか、宮中の金帛や輿、 器・服が奪われ、宮殿は焼かれ、市中数万の死者が出ました。こうして献帝が長安に入場した時には、数十万戸を数えた三輔地区の戸 数も、196年の献帝の洛陽移住後には、「長安城空四十余日、強者四散、羸者相食、二三年間、関中無復人迹(長安市路は40日無 人となり、強きものはどこかに行き、やせ衰えた人はお互い食い合い、数年間関中に人は戻らなかった)」となり、関中の百姓十余万 家も荊州に移住し、長安は崩壊してしまいました。

 戦乱だけではなく、董卓は貨幣の改悪も行いました。始皇帝が作った12個の「金人」(実際は銅で できていた)は、24万斤の重量があったものを董卓は5から10億枚の銅銭にしてしまい、高いインフレを招き、貨幣経済は大打撃 をうけ、実物経済への移行を加速させたとのことです。

 その後、211年に曹操が関中を平定してから屯田を行い、長安に農官を置き、塩の専売を開始し、 関中に戻ってくる百姓には牛と犁を与え、粟の生産を奨励しました。関中の殖産政策を聞き及んだ者は戻ってくるようになり、更に運 河の開設などを行う(233年の陳倉(現宝鶏市東)から槐里(現陝西省興平東南)まで等)など、経済の安定に努めました。この結 果、魏時代には、長安、、洛陽、許昌、譙併と並ぶ五都のひとつとなるまでに回復 した。当時(両漢以来)、市場と住居地区(里)とはわかれており、駐留軍の為の軍市も設置されていた。

 曹操支配になってから、長安経済は復興に向かったものの、後漢時代の繁栄には程遠く、五銖銭の復 活も、曹操次に1回、曹丕次に2回(221年と227年)に行われたものの、穀物や絹帛が主流であり続けました(この状況は唐ま で続いた)。限定的であれ、少し筒回復した長安経済も、八王の乱でまたも壊滅的な打撃を受けました。

 292年には、潘岳と いう役人が長安令となり、洛陽から長安に赴く様子と、到着した時の長安の様子が「西征賦」という散文に綴られている。日本語訳 は、「新 釈漢文大系〈79〉文選 賦篇 上巻」(明治書院)に掲載されてお り、漢文の原文はWikisourceのこちら「西征賦」に掲載されている。これによると、長安は疲弊しており、

 「城内の居住区は閑散とし、外の村里は荒廃している。家々も、役所も、商店も、倉庫も、城壁の隅 に、すこしばかり固まってあるが、最盛期に比べて百に一つも残っていないようである。いわゆる尚冠、脩成、黄棘、宣明、建陽、昌 陰、北煥、南平などの居住区は、すべて消え失せてしまい、何も無いのに名のみが残っている。それから、長楽宮の階段をのぼり、未 央宮にのぼり、太液池に船を浮かべ、建章宮にのぼった。馺娑殿をまわって駘盪殿に至り、枍詣殿と承光殿を車で通り過ぎた。桂宮に さまよい、柏梁台で嘆き悲しんだ。これらの宮殿はすべて荒廃し、山鶏が楼台の斜面で鳴いているかと思うと、狐や兎が宮殿の側に穴 を掘って住んでいる。古の都は豊かに実った黍畑と化し、私は呆然とするばかりであった。崩壊した宗廟には、大きい鐘が置き去りに されているが、鐘を縣げる横木がこわれてしまっているのだ。天子の居たあたりも、草が生い茂り、異人を像った銅像も、持ち去られ て、居間は。灞水のほとりに在るという(邦訳198-200頁)」

と、長安が殆ど廃墟のようになっている様子が語られています。しかしp198には

 「長安の城壁は万丈の高さを誇り高くまっすぐに切り立っている」「長安の城中は、何千もの家、何 十万もの人で混雑している。中国人と異国の民、男と女が、ひしめいているのだ」

  との記載もあるので、寂れてはいても、いまだ大都市であった様子がわかります。

  その後の時代についての詳細はいづれ別途追記したいと思いますが、その後の長安は、五胡十六国 時代に都となったりと浮沈を繰り返し、417年には東晋の劉裕の侵攻などで手工業者を連れ去られたりと、苦しい時代が続きまし た。

 

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