2003/Aug created
2019/Apr/20 updated

漢・各種データ、漢代の予算、財政、GDP、給与、役人など


【領土面積】

  現在の地図を用いると、だいたい紀 元前140年頃 1553km2、紀元前100年頃 3279km2 、 西域を含む最大時約4841km2 となる。一方、「漢書』「地理志」記載の総面積は、全領土1億4513万6405頃(当時の面積の単位。で1頃= 0.0460374平方キロ (幻想山狂仙洞様 のサ イトにこちらの中国各王朝時代ごとの度 量衡換算表があり、本数字はそこから取得しました。1頃は約21.4m四方です) となり、14513 万* 0.0460374=約668万平方キロメートルと出ます。ほぼ現在の中国領土の2/3にあたります。この数字が宣帝以 降新王朝までの領土だとすると、現在の領土(959万平方キロ)と比べてもかなり正確に近い値となります(なお、後漢代の1 頃=0.031740平方キロで計算すると、460万平方キロとなり、現代地図から算出した、西域を含む最大時の領土、484万平方キロ にほぼ一致します)。 

『漢書』地理志の当該記載部分は以下の内容です。

本秦京師為內史,分天下作三十六郡。漢興,以其郡太大,稍復開置,又立諸侯王國。 武帝開廣三邊。故自高祖增二十六,文、景各六,武帝二十八,昭帝一,訖於 孝平,凡郡國一百三,縣邑千三百一十四,道三十二,侯國二百四十一。地東西九千三百二里。南北萬三千三百六十八里。提封田一萬萬四千 五百一十三萬六千四百 五頃,其一萬萬二百五十二萬八千八百八十九頃,邑居道路,山川林澤,群不可墾,其三千二百二十九萬九百四十七頃,可墾不可墾,定墾田 八百二十七萬五百三十 六頃。民戶千二百二十三萬三千六十二,口五千九百五十九萬四千九百七十八。漢極盛矣」 

 

  一方、同じく漢書の 9302里、南北1万3368里という数字を、前漢代の1里498.6mで計算すると、東西約4637km、南北約6665㎞となり、 3000万平方キロとなり、現在の中国領土の3倍にもなってしまいます。東西南北とも半分の、2000キロ*3000キロ程度で、600 万平方キロ程度となり、上述の、「頃」の面積から計算した値に近くなります。長城あたりからベトナム中部まで含めても、南北3000キロ 程度にしかならない為、東西4000キロはだいたい合っているとしても、この南北の距離の記録はかなり誇大な値となっていることがわかり ます。なお、漢書記載の領土全体1億4513万6405頃と比べた、開墾地面積827万頃の割合は、5.7%程度に過ぎないことになりま す。開墾可能だと思われていた土地は3229万947頃で、領土の22%となります。当時から領土の78%が山林河川、砂漠だったわけで すね。

【人口調査】

前漢時代の人口調査の実態については、佐藤武敏「前漢の戸口統計について」(『東洋史研究』43巻1号(1984年6月)にまとめられている。

【大都市人口】

  
前漢末(AD2年) 漢書記載の総戸数1223万3062、人口5959万4978人(戸籍漏れ人口などの推定から最大7100 万程度と の説もある) 官吏12万人、帝室10万人

6大都市 長安、洛陽、臨シ、成都、邯鄲

長安城 推定10万から16万程度(更に推定20%が役人と軍隊)。長安県人口24万人。80万戸。 京兆イン(12県)19万 戸、68 万人。首都圏であ る三輔(京兆イン、左ひょうヨク、右扶風)合計48県、64万戸、244万人。
漢代には皇帝陵に町が作られた。高祖の長陵邑の人口は18万、城内人口推定5万、武帝の茂陵邑人口28万人、推定城内人口8万人 など。

【財政:税収】

   数字は山田勝芳(「秦漢財政収入の研究」に全面的に依存。前漢末の数字。
 
□歳入

 

中央
地方
合計
田祖
10億
60億銭
70億銭

8000万銭
12億銭
12億8000万銭
算賦
20億7126万 20億7126万 41億4252万銭
専売
38億銭
0
38億銭
その他
1億
0
1億銭
小計
70億5126万銭
92億7126万銭
163億2252万銭

0
103億5630万銭
103億5630万銭
兵役
119億1600万銭
119億1600万銭 238億3200万銭
奴婢
2億8800万銭
0
2億8800万銭
刑徒
12億4480万銭
16億4800万銭
28億9280万銭
総合計
206億6万銭
331億9156万銭
536億9162万銭
帝室財政収入
33億3175万銭



以上のうち、貨幣徴収対象は92億6102万銭となり、当時の発行額280億銭の30%を越える。このように貨幣は商品経済 を支える ものではなく、徴税手 段としての意味が強かった。

ただし、兵役は1月2000銭で換算しているが、これは手弁当なのかどうか、疑問。何故なら食料を支払った場合の経費が歳出 に計上さ れることになる筈だか ら。

穀物生産高 24億9000万石(300石x827万頃) 1石100銭とすると約2500億銭となる(1人平均4000 銭、子供と 老人をあ労働者から除き、女性は労働するとすると、労働者の年収は6000銭で下級官吏に近くなる)。1銭 160円とすると56兆円ということになる。 しかしこの数字からすると、1世帯あたり200石で5人家族として年2万銭となる。1人平均月1.5石、年 間18石を食料とする と18*5=90石で110石余剰となり、額にして11000銭となる。ここから一人辺りの田祖1000*5人分=5000銭を収め ても6000銭あま る。算賦120*5=600銭を引いても5400銭。下級役人より裕福な計算になってしまうが、これはどのように説明すべき なのだろうか。勿論牛 の飼 育代、衣服代その他色々かかるとしても、下級役人の給与よりかなり高額所得ということになる。

明 石茂生氏の論文p34では、推計GDPを、山田勝芳氏の研究に基づき、主な項目穀物生産高約2432億銭+地方 役103 億銭+兵役238億銭+商業活動130億銭(専売税収から推定)=2903億銭に、黄今言氏『秦漢商品経済研 究』(2005 年、p83)の推定する、各世帯での副業(唐代の主要税収にあった布帛の家内生産が漢代にもあったと想定している模様)の489 億銭 を加算し、約3482億銭と推計している。

 当時の粟の収穫生産性(播種率)からすると、1畝あたり2石程度の生産高だとも考えられ(詳 細はこちら)、その場合は、総生産高は16億6千万石となり、1石100銭とすると、約1660億銭となる。徭 役や商業 活動を含めると、2620億銭となる。1畝3石は、特に豊作時の場合で、平均的には2石程度だったのではなかろうか。

  なお、人口 5959 万で、耕地面積827万頃(82700万畝)ということは、1人あたり約13.9畝(41.7石)となる。上述の幻想山狂仙 洞様のサ イトにこちらの中国各王朝時代ごとの度 量衡換算表では、前漢代の1石が34.3リットルとなっていて、1人年間18石の穀物を消費するとすると、619キ ロ、1日 あたり1.69kgとなります。ご飯一杯が200g程度なので、3食全て2杯づつ食べても6杯分。しかも当時の庶民は1日2食だったよう なので、せいぜい4杯しか消化できず、この数値は少し大きすぎな感じです。そこで後漢代の1石(19.8リットル)で計算する と、356 リットルとなり、ほぼ1日1kgとなります。上述の領土面積の計算でも、後漢時代の数字が実勢値に近い値となったものもあるので、ひょっ としたら漢書に登場する度量衡は、記載された後漢の時代のものに基づいたものもあるのかも知れません。なお、「古 代ローマを知る事典」でも、ローマ人の穀物摂取量は1日1kg程度、とあるのでほぼ一致します。

  穀物生産高総額24億9000万石を1石34.3リットルで計算する と、 8540万トンとなります。後漢代の19.8リットルだと、4930万トンとなります。

□関連記事
  アンガス・マディソン のローマ 帝国GDP算出方法で算出した漢王朝地域別GDP

 

漢代の税率は、田祖については以下。

初期
15分の1
文帝

景帝
30分の1
王莽
10分の1
建武6年
30分の1

歳入について見ると、中央政府の歳入は103億銭程度となり、約3兆3000億円程度となる。これだけ見てもほぼ人口総数が近い 2700 億円程度のローマ 帝国とは随分な相違である。漢はローマと比べると、やはり官僚の占める割合の多い、「大きな政府」であったといえるのではないだろうか。 もっとも古代ロー マの奴隷生産が占める割合も大きく、課税対象ではなかった(かも知れない)ことを考えると、単純な比較は出来ないけれども。 またローマ 中央政府にとって は秩序の維持が基本目標だったと言えるが、漢政府の行政が、祭りの指導まで中央から事細かに指示が出ていることを見ると、文字通り 中央 政府の「まつりご と」中心に国家全体が動くことを期待されていた側面も大きい。とはいえ、「塩鉄論」などを見ると、国家(君主)役目は民の安定にあるとい うような文言が出 ていて、民の安定はまつりごとの目標ではあった。このことも、財政の目標が異なっていたことから、財政規模の相違に影響しているのではな いかと思われる。

□歳出
    前漢代。役の部分を抜いた歳入163億2252万銭が国政歳出財源。

国家財政(大司農担当)

軍事
兵卒食費40億銭
官吏給与
約9億銭
官庁経費

建設費

陵墓造営費

外交費

祭祀

帝室財政(少府担当)

皇帝関係費

賞賜

宮廷費

祭祀

建築費


□役人の給与

 また役人の給料も判明していることから、概ね文官費は計算できるはず。あと帝室の維持費とかも。仮に全官吏一律最低賃金である 600銭/月 として1年で 7200銭、12万人で約8億5000万銭となる。北方辺境の防衛施設の例(「漢帝国と辺境社会」P121)では、100名程度の機関で 600銭の下級役 人は80名、残り10名が1200銭、残り10名が600銭-900銭、長官6000銭、副官2000銭となっており、概ね7万4000銭。 これを100 人で割ると平均7400銭となり、12万人で8億9000万銭程度になる。上級官吏の給与差分を入れれば約9億銭程度になろうか。
 軍隊の給与はどうなっていたのであろうか。後漢では紀元120年頃の対外戦争費10年で240億銭とい う数字があり(この頃人口はすでに5000万人)、1年あたり24億銭となる。後漢政府は前漢とくらべて財政規模は縮小されていたからなんと も言えない が、前漢、後漢ともに徴兵制であったことを考えると、やはり軍事費は歳出に入っていたことは確かである。
 前漢代、匈奴戦争では1回の出撃で数十億銭。

□兵卒

 兵卒には給与は出なかったが、食料は月3石3斗3升支給された(粟(殻付米)と殻無し米の比率は10:6)であり、支給は粟でなさ れた。米 にすると月2 石。取りあえず1石100銭で換算すると、100万の兵卒に対して年40石で40億銭となる。現物支給であったから田祖歳入70億銭中40億 銭が兵卒用に 支出されたことになる。兵卒の衣服については地方所属官庁から支給され、私物とともに辺境兵士に送付された。衣服の費用は不明(紀元前400 年頃の魏では 年間一人200銭。ただしこの頃1石30銭)。兵卒の仕事は戦闘員ではなく、パトロール、連絡、文書搬送、雑役(日干し煉瓦の作成、天田のな らし)など。 戦闘は防戦時にボウガンを使うくらい。一応各自鉄兜と鎧は置かれていたが、平時は着用していなかった。23-56歳の間の1年間1期を勤め た。彼らは侯官 などの役人に従った。(侯1つについて官吏100名、兵卒2~300名程度であったらしい)。


【行政】

 任官資格、景帝以前は資産10万銭以上、BC142年以降4万銭以上。これは知識重視となったため。
  なお、漢代行政組織の詳細は、「叔 孫通の部屋」様の「百官公卿表」に、中央・地方別に詳細な記載がありますので、そちらをご参照ください。


□郡
    華県長
    朗中
    州従事
    守令・丞・尉
    五官掾
    督郵
    郡列掾
    郡副曹史
    郡文学
    河堤従事
    州書左

□県
    県功曹
    主簿
    従掾位
    處士
    好学


【軍隊】
 


    
□ 
      一般のパトロールなどを任務とする兵卒は徴兵であり、無給だが、実際の戦闘を行う兵隊は「騎士」と呼ば れ、以下 のような編成であり、給与を支給されてい た。彼らは官吏12万人の中に含められているのだろうか?

     部隊    校      - 部  - 曲 - 官  -隊 -什  -伍
     指揮官名 軍尉(都尉)-司馬-侯(千人)-五百-士吏-什長-伍長

 


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