Dec/2016 created , May/2017 last updated


アンガス・マディソンのローマ帝国GDP算出方法で算出した漢王朝地域別GDP


 アンガス・マディソンは、紀元1世紀のローマ帝国と漢王朝の一人当たりのGDPと人 口を推計しています。ローマ帝国は570ドル、漢王朝は450ドルです。また、ローマ帝国を構成する現在の国単位での GDPも推計しています。一方漢王朝では地域別GDPはなく、全土一括して450ドルです。ローマ帝国のGDPと地域別 GDPはどのように算出したものなのでしょうか?漢王朝のGDPはどのように算出したものなのでしょうか?
 この記事では、まずはこの点について調べた後、漢王朝の地域別GDPの算出を試みようというものです。
 なお、あまりにも馬鹿馬鹿しい内容です。アンガス・マディソンのGDPの推計値は、各種書籍やネットの記事に、その根 拠について無批判なまま流用されていますが、1820年以前の多くの地域・年代については、これから学問的検証が詰めら れるべきものだ、ということが改めてわかりました。


【1】アンガス・マディソン研究における漢王朝の一人当たりGDP


  アンガス・マディソンは、『Chinese Economic Performance in the Long Run 960-2030』 (2007年)で、中国歴代王朝の一人上がり平均GDP(以下にGDPと称しているのは、アンガス氏が開発した"1990年ゲア リー・ケーミスドル”とい うもの)を、漢代紀元1年450ドル、960年450ドル、1000年を466ドル、1300年600ドル、明代1500年 600ドル、1600年600 ドル、清代1700年600ドル、1820年600ドルとしていて(1000年の数字のみ、フローニンゲン大学のマディソン氏のサイトのxls表か ら引用)、近代以前の中国史上一人当たりGDPが上昇したのは、宋代だけ、だとしています。しかし、『Chinese Economic Performance in the Long Run 960-2030』を読んでみても、宋代から元代における農工業などの技術革新の様子を描いた記載はあっても、なぜそれが、450→600という数字と なったのか、についての数字的根拠の記載はありません。清代1820年の600という数字は近代の数字ですから比較的数値的根拠 がありそうですが、宋代漢 代がなぜ450なのか?

 昨年出版された『世 界経済史概観―紀元1年-2030年』(岩波書店)に、ローマ帝国各地域別平均所得の算出方法が記載されて いたことから、漢王朝に対しても適用して数字で遊んでみました。


 実は、上記xls表では、中国の一人当たりGDPは、1850年の600ドル以降低下しはじめ、1950年には448ドルと、 漢代と同じ値になっています。その後再び600ド ルに到達するのは1956年の616ドル。即ち、漢代と元明清代の差は、1950年と1956年の違いと同じだということになり ます。つまり、現在生存し ている70歳以上の中国人の方々は、漢代から清代に至る生活レベルを実体験している、ということになります。漢代のGDPの数値 の成り立ちを知りたけれ ば、1950年の中国の経済状況を知ればよい、ということになるのです。

 ということがわかっても、イマイチピンと来ません。そもそもア ンガス氏は、中国については、王朝全体の平均値しか出していないのに、ローマ帝国については、現代の構成国別にGDPを算出して います。しかしこれが どうしてそういう値となっているのかが不明です(この構成国別一人当たりGDPは、上記アンガス氏のxls表に掲載されています。それによると、ローマ 帝国部分の平均所得の推計 値は、紀元1年人口4470万人で平均GDP570ドル、ローマ帝国の地域平均値を計算すると、地中海沿岸諸国は人口3475万 人で平均605ドル、地中 海に面していない欧州諸国が平均446ドルとなり、漢は、非地中海諸国の値に相当していることがわかります。漢王朝だって、中核 地帯には先進地域もあった 筈です。ローマ帝国に征服されて100年も経っていない内陸の後進地域の平均と漢王朝全土の平均が同じだというのは納得しがたい ものがあります。

  私が思うに、元代から1955年まで中国のGDPが600ドル程度であり続けた(とアンガス氏が考えている)理由は、技術革新に よるGDP増大分や一部都 会人の生活レベルの上昇を、過剰人口による賃金低下が吸収してしまい、結果として全体人口の平均GDPが変わらない、という観点 に立っている、というよう に思えます。(彼の著作『Chinese Economic Performance in the Long Run 960-2030』にはGDP値の算出方法が書かれていない。一方都市化率GDP上昇の背景となる技術革新などの記載や歴代王朝時の都市化率、灌漑面積変 遷などのグラフは各種掲載されている。しかし、これらの数値とGDP値の数式的関係は記載されていない)。漢代人 口6000万、明代 1600年1億6000 万、清代1820年3億8100万と、人口がそれぞれ倍以上増加していることが賃金低下につながっているのだとすれば、明代の半 分以下の人口しかない漢代 も600ドル程度あってもいいのではないか、と思えます。人口増による賃金低下が吸収できないほどの生産性向上が、宋代から元代 にかけてあった、とするの がアンガス氏の考えなのだと思うのですが、そのロジックを数値的に示してもらわないことには納得しがたいものがあります。


【2】アンガス・マディソンのローマ帝国各地域別一人当たりGDPの算出方法

 昨年6月に、『世界経 済史概観―紀元1年-2030年』 (岩波書店)という2007年の著作が翻訳され、その第一部で100ページ程かけて、ローマ帝国の人口とGDP推計の詳細が記載 されていることを知り、読 んでみました。ローマ帝国全体の平均値570ドルの根拠は概ねウォルター・シャイデルの論説を読んでわかっていたのですが、本書 では、現代の国別一人当た り平均所得の算出方法が解説されていました。その結果、驚くべきことがわかりました。

 数値は、帝国全体の平均所得が、857ドルという 高い値を示すイタリア(本書ではイタリアは857ドルだが、xls表では809ドルとなっている)を除くと、残余の帝国領土の平 均は516ドルとなり、こ の値に収まるように、各地に数値を割り振った、というものです。その割り振り方は、まったくアンガス氏の恣意によっています。同書p71によれば以下の通 りです。

@エジプト 古代先進文明が栄えた土地でありかつ、ナイル川など特別な条件があるため600ドル
Aギリシア、チュニジア、リビア、小アジア、大シリア、キプロス 古代から先進文明地帯だったので550ドル
Bバエディカ、ナルボネンシス、スペインとフランスの最も富裕な部分 ローマ征服以前からある程度の経済発展があった地帯なので 525ドル(古代文明の遺産を引き継いでいる地域は500ドル以上)
Cシチリア、サルディニア、コルシカ、バエディカを除くイベリア 475ドル これらの地域については理由は示されていないの で、推測するに、次のDの地域とBの地域の中間の経済段階にあることからこの数値になったものと思われる
Dその他のガリア、アルジェリア、モロッコ  450ドル ローマ征服後開発に関心を寄せたが、紀元14年まではほとんど何もで きなかった地域
Eドナウ諸属州 425ドル 最近まで蛮族だったから、純正蛮族(400ドル)より若干多めの425ドル

と いうものです。この方法は、我々のIT業界でも、新規システム導入やサーバーリプレイスに伴う、性能や業務効率改善率 の概算見積もりを出す場合 に、事前の実機検証が難しい要因にのみついて行なうオーダー・エスティメイショ ン(学問的にはフェルミ推定というらしい)に似た考え方で す(本当は、オーダー・エスティメイションそのものだ、と言い切りたい)。

  オーダー・エスティメイションとは、例えば新規システム導入提案にあたって、業務効率改善率などを、他社事例や、異業務であって もシステム的観点では同様の同時実行ユーザー数、オペレーション数、トランザクション量、蓄積データ総量等の要件を持つ異業務シ ステム事例や性能検証試験の数値を流用 し、データが空白の部分は統 計解析(ひらたく言えばグラフを作って空白部を推測)を用いて埋める、という方法です。ただし、システム提案見積もりと数量経済史の見積 もりが大きく異なるところは、システム提案の場合、実際にシステムが構築された後、見積もり通りだったか、或いは見積もりと合わ なかっ た部分があれば、それが現 実に判明する点です。数量 経済史の場合、大きな史料や分析手法(文献史料以外の、骨の分析による栄養状態とか、古生物学による植物や気候の分析等)が新た に発見されたりしない限 り、当時の人々の経済格差は簡単には検証できないので、悪く言えば適当な見積もりが検証されないまま、次の世代の論者に既 知のデータとして採用されてし まった りする性質のものである点 は、十分にわきまえておく必要がある、ということでしょうか。

 こんなんでいいの?と思ったところ、アンガス氏もすかさず書いています。

これは試験的な性格のものであり、異論は全く自由である。私は更なる研究を喚起することを望んで、あえて これらの数字を 提示してみたのである」(同書p73-75,下線は筆者)。

  私は、各地の数値も、ローマ帝国全土平均値の算出方法と同様、各地に関する生活費や給与史料、穀物生産量や開墾率、各地の都市化率、土壌 や気候による生産性の相 違、建築物等を用いた地中海文明の浸透度などのデータを用いて個別に算出したものだと思っていたのですが、全然違いました。しかし、システム導入 による業務効率改善率同 様、何かとっかかりになるものがないことにははじまらない場合、こういう方法が現実的には有効な面もあります。まあしかし、日本 の(に限らず世界でも)多くの歴史家が、こうした思考 を持つ数量経済史を受け入れられないのはわかる気がします。日本企業でも、オーダー・エステメイションを嫌がって、細かいデータよ りも、より単純な「他社の導入事例」にこだわるところが未だに結構あったりするのと似ているかも知れません。こうした方法が定 着している米国の中でもとりわけ理系でシリコンバ レーの人材供給元となって いるスタンフォード大でウォルター・シャイデルが教授をやっているのが良くわかる気がします。文学にグラフや分布図を用いた数値 解析を導入したフランコ・ モレッティもスタンフォード大に勤務しているのは、なんか「あぁ(やっぱりね)」という感じを受けるのと似ています(フランコ・モレッティについては、『遠読――〈世界文学システ ム〉への挑戦』や当ブログ記事「世界文学とは何か」をご覧くだ さい)。


 結局のところ、ローマ帝国の各地域別平均所得の算出方法は、明代最盛期の人口見積もり記事でご紹介した、 Liu,P.K.C氏と K.S.Hwang(1979)氏が論説 "Population change and Economics Development in Mainland China since 1400"でやっているのと同程度のものである、ということが良くわかりました。なお、アンガス氏の『世界経済史概観』p76には前300年時の、後の ローマ帝 国領土相当の各地と全領土のGDPの一覧表もあり、これによると、前300年の(後のローマ帝国領土)の一人当たり平均GDPは 462ドルで、紀元2年の漢王朝の450ドルを上回っています。


【3】アンガス・マディソンのローマ帝国の各地一人当たりGDP算出を漢王朝に適用した数字

 というわけで、この程度でいいのであれば、漢王朝についても簡単に出来そうなので、以下にやってみました。

1.感覚的な割り振り(あくまで私の恣意)

600ドル 河南省  夏といわれる王朝時代から連綿と続く先進地域
550ドル 山東省、陝西省 戦国時代から漢代にかけての先進地域
525ドル 河北省、江蘇省、山西省、四川省、 戦国時代に古代文明の範囲内にあった地域
475ドル 安徽省、湖南省、湖北省 以下の地域と上の地域の中間
450ドル 甘粛省、浙江省、遼寧省、広東省  秦代漢代に征服され開発途上の地域
425ドル 雲南省、江西省、ベトナム、広西省、北朝鮮、貴州省、福建省 ほぼ未開発の蛮族地域

とし、各々の省の人口(後漢時代の人口を、現代の各省ごとに集計したこちらの表から数値を利用)で一人当 たりのGDPを乗じて、合計人口で除すると、一人当たりの平均GDPは519ドルと出ました。

2.人口密度

 アンガス氏の同書p74に、以下の地域別平均所得の表があります。



 また、以下は、『プトレマオイス地理学』に出てくる地名の密度を地図化したものです(Hans van Deukerenという方(多分ドイツ人)のサイトにある、プ トレマイオスの(恐らく)全座標を打ち込んだPtolemy's World: index mapから引用)



  これは人口密度ではありませんが、『プトレマイオス地理学』に登場する地名が多いということは、人が多数住んで地名をつけている ことが大きな要因で、更に 『地理学』に登場している地名7800のうち約3000が都市や町であることから、都市や町が多いということは人口密度も多い、 とも考えられ(絶対そうだ とは言い切れないにしても)、ある程度の指針にはなります。

 この2つの図を比較すれば、基本的には地名密度の高い地域と、アンガス氏が 高所得としている地域には大まかな対応があるこると仮定することができます。そこで、以下に後漢時代の人口密度地図を見てみます(図は、講談 社『中国の歴史2 秦漢 帝国』(1974年版)巻頭の綴じ込み地図から引用したもので、大本の出典は、勞榦『両 漢 郡国人口之估計及口数増減之推測』から。『後漢書』には県毎の人口が掲載されているので、かなり正確な人口密度地図を作成することが可能)。




人口が多く、古来から先進地域であった場所、前漢代に開発された地方などを高所得地域として並べてみました

600ドル 河南省、山東省
550ドル 河北省、四川省
525ドル 安徽省、江蘇省、湖北省、雲南省、湖南省
475ドル 山西省、江西省、ベトナム
450ドル 陝西省 、甘粛省、浙江省、遼寧省、広東省
425ドル 広西省、北朝鮮、貴州省、福建省

(『後漢書』掲載の後漢時代の人口を各省別に集計した数字は、こちらの記事から。集計を行なっている 研究書は、『中 国人口通史(4):東漢巻-中国人口通史叢書 袁延勝 著 人民出版社 2007年4月』)。 恣意的に割り振った各省平均GDPを人口で乗じて合計し、全人口で除して平均値を算出しました。

この場合の平均所得は544ドルとなりました。


4.首都圏への富の流入による地域補正

アンガス・マディソンのローマ帝国GDPの研究ではイタリア半島のGDPが突出しています。しかし、上記都市化率や首都人口で は、漢王朝はローマを凌ぐこ とは無さそうです。一方首都圏(関中地方)の富は、『史 記』129巻貨殖列伝によると、「故關中之地,於天下三分之一,而人眾不過什三;然量其富,什居其六(天下の 1/3、人口は3/10、富は6 /10)」とあります。単純にいえば、関中は地方の倍の富がある、ということです。富=所得というわけではないのですが(ストックである可能性もある)、 一応 指標にはなりそうです。ア ンガス・マディソンは、イタリア半島の一人当たりGDP857ドル、属州516ドルとしていて、その差は1.66倍です。イタリ ア半島の富は、属州からの穀物や奴隷、鉱山で開削された金の流入で計算されていますが、漢王朝の場合は関東地方から長安に穀物が 400万石流 入(『漢書』食貨志(ちくま文庫、p444))し、2億銭の経費がかかったとしています(漕運に6万人を要したとあるので、1人あたり3333銭/年の経 費となる)。2億銭は6万人分の食費程度、1石100銭換算で4億銭相当、1人年18石(以下項目5.にて詳述)とすると22万 人分の流入です。これは宣帝時代に話で人口は約4000万程度、その1/3の1300万人が関中の人口だとしても、22万人分の 食料流入程度では関中とそれ以外の所得差は、イタリア半島と属州程の差にはなりません。
 上記文章、関中の富は他の地方 の倍、という記述から、表計算ソフトでモデルを立ててみました。色々やってみました が、なんとか整合性がつくのは以下のモデルでした(『史記』貨殖列伝の「関中地方は、面積で天下の1/3、人口は3/10、富は6/10」というの は前漢の話ですが、現在の省ごとの人口が不明なため、後漢について、現在の省ごとの人口を研究した研究書籍(中 国人口通史(4):東漢巻-中国人口通史叢書 袁延勝 著 人民出版社 2007年4月)の後漢時代の各省人口表を 利用し、後漢の首都圏である河南と河北省を中心としたモデルとした)。

950ドル 河南省、河北省(人口30.66%でGDPの48.65%)
450ドル 陝西省、山東省、四川省、江蘇省、安徽省、湖北省、雲南省、湖南省
425ドル 山西省、甘粛省、浙江省、遼寧省、広東省、
410ドル 広西省、北朝鮮、貴州省、福建省

平均599ドル

どうやっても、30%の人口で60%のGDPを持つモデルは無理でした。人口30%の地域を950ドルとして、他の地域を思い切 り低い値にして漸く30%の地域でGDPの50%に届こうかという程度です。イタリア半島の857ドルを大幅に上回るばかりか、 平均599ドルもローマ帝国全土の570ドルを上回ってしまいます。更に極端に、河南と河北省以外を全部、アンガス氏のいう蛮族 レ ベルの最低値400ドル(アンガス氏の定義は、400ドル以下は存在しない、という定義です)に設定してようやく河南と河北でGDP50%を越える程度で す(その場合平均は565ドルでローマ帝国平 均とほぼ同等)。或いは河南と河北を850ドル(イタリア半島なみ)とすると、シェア45.88%で平均568ドルとなり、ロー マ帝国の570ドルとほぼ等しくなります。なお、後漢より前漢の方が首都圏への人口集積率が高いため、前漢代の関中地方の人口 30%で富の60%に達することはあるかも知れません。実は前漢代でも全国の県の人口は判明しているので、上述の試算はやればで きるのですが、前漢代人口を、概ね現在の省ごとに集計して表計算ソフトに打ち込むのが面倒なので、以下の論考掲載の数値を利用し てみました。
 佐藤武敏 「前漢時代の戸口集計について」 『東洋史研究』43巻1984年6月)のp135に、『漢書』地理志記載の紀元2 年の各県人口一覧を郡単位で集計し、旧秦(統一前)の領土について集計した表が掲載されています。これによると、旧秦地の人口は 950万で、全国5959万人の15.9%となり、30%には達しません。後漢時代の郡県人口の残る140年の記録では総人口 5242万に対して、旧秦地に該当する現在の省(陝西省 、甘粛、四川、雲南、貴州、山西の半分(秦地人口1/2として計算))を集計すると、約1066万となり、約20%となり、やはり1/3には達しません。 狭義の関中は旧秦地の一部なのですが、『史記』の当該文は、旧秦地を意味している可能性はあります。仮に関中が旧秦地を示してい る場合、『漢書』昭帝紀に、武帝時代の外征、奢侈により「海内は虚耗となり、戸口は半ばに減じた」とあるので、武帝時代 30%->前漢末15.9%と減少した可能性は残ります。

なお、『史記』貨殖列伝にある「30%の人口で60%の富」という文言は、フローではなく、ストックと捉える方がいいのかも知れ ません。こちらだとより妥当性が高まる気がします。

 この思考実験から一つわかることがあるとすれば、漢王朝の中核地方とそれ以外の格差が貨殖列伝が指摘するように高ければ、ある 程度ローマ帝国 の平均と、イタリア半島と属州の格差に近いモデルとなる、ということでしょうか。貨殖列伝の「天下の1/3、人口は3/10、富は6/10」という指摘 は、単なる筆者のイメージにしか過ぎないのが本当のところだとは思うのですが、ローマ帝国のモデルから大きく外れる(例えば人口 3割に相当する河南省・河北省を2000ドルとしないとモデルが成立しないとか、とはならなかった)ことはなかった、という点 は、一応重要なポイントなのではないかと思います。


5.都市化率

  アンガス氏は、同書(p57-8)でラッセル、ゴールドスミス、ブラント、フライヤー各学者の諸説を勘案し、ローマ帝国全体の都市化率 を9%、都市人口を約400万人と 「推計」しています。この場合の都市の定義は、1万人以上の都市であり、それは数にして50にしかなりません。漢王朝の場合、ほ とんど都市人口は判明して いません。

宇都宮清吉氏は『漢 代社会経済史研究』(1955年,弘文堂)で、『漢書』食貨志に記載された李悝(戦 国魏、前5世紀の人)の記載を元に都市と農村人口比率を算出しています。前5世紀の値を漢代の値に適用するのは無理があるわけで すが、他に数字がなく、取り合えず参考値としてあげておきます(各学者皆この値を利用しています。前5世紀魏の話ではあっても、 漢代にも通用する値だから、『漢書』ではこの値しか登場していないのだ、という解釈なのかも知れませんが、遺跡調査では漢代の方 が戦国時代より都市が縮小している事例が多く、都市化率が低まっている模様です)。

宇都宮氏は、漢代都市化率を30%としています。根拠は李悝のあげる以下の数値です(『史記平準書・漢書食貨志』』(岩波文 庫,1942 p130)にある、農民の収穫は150石、内1割を税金に取られ、90石が農民一家5人の食料である。残り45石が、農民の様々な出費に使われる、との文 章です。宇都宮氏は、税金15石分を役人や軍隊の給与と考え、残りの、農民が購入する商品を生産する労働者が、商人・工業人であ るか ら、都市労働者が45石分、よって45/150=30%を都市労働者と考えています(『漢代社会経済史研究』 p114-115)。つまり、非農業人口は40%、うち10%は官吏と兵士なので、残りが都市人口であるとして、ざっくり都市化 率を30%と見ているわけです(しかし李悝がいっているのは厳密には都市人口ではなく、農村における非農業従事者(専業商工役人 も含む)も含む非農業従事者の割合です)。

一方、アンガス・マディソンの都市化率の定義はこれとはかけ離れていて(アンガス、前傾書p58)、1万人以上の人口を持つ都市 を「都市人 口」とする、との定義です。この場合、属州の都市人口は300万人で都市人口率は8%、もっとも先進的なイタリア半島で14%、 帝国全体で9%としています。アンガス・マディソンが批判しているゴールドスミスの定義では、1000人以上を都市と定義してい て、この定義だと3000の都市、250万人の人口が加算され(1000人以上で3000だと300万人となる筈だが、この矛盾 についての指摘はない)、都市人口は550万人、イタリア半島の都市人口は150万、合計700万人で、都市化率は21%として います。

漢代の場合、前漢の村落は基本的に全て城壁に囲まれた邑で、後漢になると散村化が進むとされています。前漢の邑の場合も、もっと も 小さな単位は「里」で、県城の場合は、里が複数個あり、河北省武安県牛汲古城遺跡の場合は、東西5列、南北2列の里があり、合計 10個の里を城壁が取り囲んで県城としていたと考えられています。牛汲古城を一般化することはできないものの、取り合えずこれを 用いると、 里の中には50戸程度があり、1戸あたり5人家族とすると、1里で250人、10里=1県で2500人となり、これを都市と定義 すると、前漢における県の数は1589なので、397万2500人、約400万、総人口6000万に対して6.6%となります。 県より更に下の下位行政単位である郷も、郷内は県城より小規模であることから、仮に郷城内5里と仮定すると、郷の平均人口は 1250人、郷の総数は6622ですから、郷内の里の総計は33110、1里50戸で1戸5人とすると、郷の総計は827万 7500人となり、全人口に対する割合は約13.8%。郷と県を合算すると1225万人、全人口の約20.4%となり、ゴールド スミスの「人口1000人以上の都市3000の都市化率21%」に近づきます。当然郷城や県城以外の県や郷の管轄下にある里内に も一部に商人・職人がいたかも知れません。大都市の人口を合計すれば、宇都宮氏の都市人口(非農業人口)30%説に近づくことに なります。

 実際のところ、県城内の里も、郷城内の里も、基本的に城壁外に農地を持つ農民だったと考えられるため、県城・郷城人口をもって 都市と定義するのは無理があります。一方、ローマ都市の方も、古くから都市が成立していた東方はともかく、西方の内陸部では、住 民1000人程度の都市は、住民の殆どが都城外の農地を耕す独立自営農民か、少数の小作人や奴隷を使い、本人も農作業をする中規 模農家だった可能性があり(これに関する解説はこ ちらの記事のイベリア半島部に関する項目を参照)、”都市”や”県”と称されるものから非農耕人口を算出することは 難しいのが実態です。仮に県城や郷城内の里の半分が農民だったとすれば、アンガス・マディソンが9%とした、ローマ帝国の都市化 率に近づきます。ただし、アンガス・マディソンが定義する、「1万人以上の都市人口が全人口の9%」という定義では、10万人以 上の都市が9つで約100万人、残り300万人は40の都市(平均7.3万人)なので、定義は大幅に違います。そこで次の項目で 大都市に関する検討をしてみたいと思います。

ここで指摘できることは、1000人程度以上の”都市”の実態がどうであれ、全人口に対する”都市”或いは都市的な”県”や” 郷”が漢もローマも概ね20%程度あったかも知れない、という仮説はなり立ちえそうということは 指摘できるのではないかと思います。

都市化率についての結論からいえば、ローマと漢のGDPの相違を導き出せる要素は、現時点の材料では少なそうだ、ということかと 思われます。


6.大都市の人口

アンガス・マディソンは、1万人以上の都市についてはラッセルの研究をほぼ踏襲していて50都市、うち10万を越す都市はゴール ドスミスの研究を踏襲して9つとしています。10万以上の都市の総合計100万、残り41都市で300万(一都市平均7.3万 人)。合計400万という推計です。では漢王朝の大都市人口はどうでしょうか?

『史記』貨殖列伝には三河地区(河南省西北・山西省西南部)に楊,平陽,温,軹の都市があり,燕趙地区(河北省)には邯鄲,燕 (薊)があり,斉魯地区(山東 省)には臨淄,梁宋地区(河南省北東部)には陶,睢陽,江南地区(湖北省,安徽省,江蘇省)には江陵,寿春,合肥,呉があり,南 越地区(広東省)には番禺
があるとされていて、合計14都市です。

『塩鉄論』(前漢の後期の書籍)p16通有篇では大都市として列挙されているのは、燕の涿、薊、趙の邯鄲、魏の温、軹、韓の榮 陽、斉の臨淄、楚の宛、 陳、鄭の陽翟、洛陽、河南城、及び長安だけであり、全部で13箇所となっています。

宇都宮清吉氏は『漢代社会経済史研究』p116で大都市の人口推定を以下のように試みていています(大都市のある郡県の人口では なく、都市そのものの人口)。算出方法は、『史記』『漢書』に残る郡県の人口に、先の都市比率30%を乗じたものです。これに役 人の数(税率の10%)を入れれば10%増しになります。

洛陽(65168)、陽翟(36333)、信陵(87139)、宛(58641)、成都(94039)、魯(64133)、 彭 城(49757)、長安(82066)、長陵(59823)、茂陵(92426)、臨淄(370000)

(ローマ帝国には9つあった)10万を越す都市は、1つしかありません。宇都宮氏の計算方法によれば、前漢末総人口6000万 うちの30%、約1700万人もの都市人口(役人・兵士以外の非農業人口)がいることになり、宇都宮氏は、「史書に残る県の人口 は、各県の首都である県城だけの 人口なのではないか」という趣旨のことを記載していますが、私は逆で、漢代の大都市は、少なくともローマと比べると大きくはな く、その数も小さかったのではないか、という印象を持っています。上の数値に、役人・兵隊人口10%を加算しても、10万を越え る都市は信陵、成 都、長安、茂陵、臨淄の5つしかありません。なお、佐藤武敏氏は、長安の人口に関しては、『漢書』食貨志(岩波文庫、p155) にある、前漢宣帝時代、関東の400万石の穀物を長安に運んでいた、この業務に兵卒6万人を使ったという記述から、これを宇都宮 氏の 10万に加えて16万人と推計しています(『長安』講談社学術文庫、p76)。(李悝の記述、1男性人月1石半の穀物を必要とし た、との記載で計算すると、400万石は22万人を養うことが出来ます)。長安の人口は多くても20万程度だったのではないかと 思われます)。

漢王朝の場合、県のレベルでは人口記録が残されているものの、都市単位では残っておらず、長安も洛陽も、前漢・後漢の都であ りながら、遺跡からは、一般人の居住地区さえよくわかっていないのが現状です。フォルマ・ウルビス・ロマ エの ような市街地図や、住宅遺跡が発掘されていたり、ノティティア・ディグニタートゥムのような文書史料に住宅数が記載されていたり して、ある程度の人口見積 もりが出来るのと比べると、大きく異なります。前漢時代の長安の人口が20万人程度であるのに対し、アンガス氏は都市ローマの人 口を80万と見積もってい ますから、首都にせよ地方都市にせよ、ローマ帝国に比べ規模は小さかったことは間違いなさそうです。

都市化率同様、大都市率とその規模の点では、漢王朝は、少なくともローマを越えることは無いのではないかと思われます。


7.所得

後漢時代の学者桓譚の『新論』に農民の税金40億銭、その半分を役人の給与とする、という記載があるそうです(明石茂生『古代帝 国における国家と市場の制度的補完性について(2):漢帝国』(2011、p30)。役人の数は、、唐代の『通典』 36巻に後漢 代中央官吏15280人、地方官吏(137706人*1)、合計152986人とあり、単純計算で20億銭を152986人で割ると 一人当たり13073銭となります。下級官吏の給与は月600銭、年間7200銭程度ですから(同p29)、高級官吏と合わせた 平均が1万3000程度となるのは妥当な値だといえそうです。

*1 この計算を、記録の残る役人数と、推測される兵士の数から逆算すると、唐代の『通 典』36巻に後漢代中央官吏15280人、地 方官吏(137706人)、合計152986人とあり、出土文献である尹湾漢墓簡牘によると、一つの県の役人は27-107名と のことです。後漢代の県の数は1180なので、1県あたり100人の官吏がいるとすると、11万8000人でだいたい 137706人に近い値となります(郷や亭の役人も100人に含める)。
 
 対するローマ帝国は、ゴールドスミスは、3000の都市(ゴールドスミスの出典は確認できていないが、プトレマイオス『地理 学』に登場する都市・町のローマ帝国内の合計が約3000なので、値としは妥当)、各々の都市参事会員が100名(出土石碑に残 る参事会名簿などから推定されている。都市の規模により異なるが平均100名程度だと考えられている)づついると仮定し、30万 人のエリート を想定したのに対し、アンガス・マディスンは24万人(根拠は不明)に減らして、それに騎士階級4万人と、それ以外の富裕者5万を仮定して、総 計33万人の富裕層を仮定しています。33万人のエリートが約44億セステルティウス*2の所得があるとしています(一人平均 13030セステルティウス。アンガス氏は1セステルティウスを1.5ドルと定義しているので、エリートの1人あたりの平均所得 19545ドルです。エリートの人数は男性が33万人なので、女性子供含めると100万人程度、帝国総人口の1/45ですが、エ リートの総所得は、非エリートの総所得の1/3に達していて、エリートの一人平均所得は、帝国全土の一人平均GDP570ドルの 34倍です。漢王朝の生存最低所得は李悝のあげる5人150石=1人あたり30石、1石100銭として3000銭。官吏平均 13000銭の1/4程度でしかありません。漢王朝の役人が正規給与だけで暮らしていたとは思われず、何らかの収賄や役得、副業 (代書屋等)などがあったと考えるのが妥当だとしても、ローマ帝国のエリート層の方が格差は大きかったとの印象を受けます。

*2この推計の根拠を書くのも脱力を誘います。まずゴールドスミスの研究の値が紹介されます。労働者の日当を1日あたり 3.5セステルティウスと仮定し、1年に225日働くと仮定し、全労働者が1.5人の扶養者を 持っていると仮定、すると、一人の労働者は2.5人を養っていることになるので、5500万の人口に対する就業人口 は2200万人となる。労働者給与総計約173億セステルティウスとなる。この値を、こ ちらの記事の2016/Feb/07修正の部分でご紹介した一人当たりの平均所得380セステルティウス*5500 万=209億セステルティウスから差し引くと、約35億セステゥティウスが残る。この残余をエリートの総所得(17%)としたも のが、ゴースドスミスの研究だとしています。
 アンガス・マディソンはゴールドスミスの仮定を若干変更し、奴隷の所得を個別に計算して、自由民の就業比率を36%と仮 定し、労働者一人あたりの扶養者を1.8人と仮定し、奴隷人数はシャイデルの仮定値10%を採用し、奴隷の扶 養者は0.25人と仮定を追加し、奴隷の一人当たり最低生活費を300セステルティウスと仮定し、総 人口も4400万の推計を採用し、奴隷+自由人の総所得を約123億セステルティウス、4400万人の総所得=167億セステル ティウスから123億を差し引いた44億セステルティウスをエリートの総所得(26%)としたものがアンガス・マディソンの推計 です。
 ゴールトスミスもアンガスも、仮定が多すぎて、値の正確性は誤差の範囲です。アンガス・マディソンがゴールドスミスより有意な のは、奴隷と自由人を分ける、という要素を導入した、という点ぐらいなのではないでしょうか。

(1)漢とローマの役人層の平均所得(給与)を同一とした場合の双方の帝室財政規模

 アンガス・マディソンによると、ローマ皇帝の収入は1500万セステルティウス(これはゴールトスミスの想定を流用したもの、 アンガスの同書に理由は記載されていない)で、2250万ドルにしか過ぎませんが、漢王朝 の帝室収入は33億銭です(山田勝芳(『秦漢財政収入の研究』p657)。都市参事会員の平均所得は、ゴールドスミスの想定した値8333セステルティウ ス(12499ドル)としており(これは、上記総所得から労働者の生活費を差し引いた値をエリートの想定人口で割って出した値。具 体的にローマ時代のエリートの収入に関する史料から算出した値ではない)、こ れを取り合えず漢王朝役人平均給与13073銭と等しいと仮定すると、1セステルティウス=約1.569銭、つまり1銭約 0.95ドルとなり、13073銭は12419ドル、帝室収入33億銭は、31.35億ドルで、ローマ皇帝収入の140倍で す。ローマ帝国と比較すると、漢王朝の皇帝権力が飛びぬけていることになります。ローマ帝国のエリートの総所得は44億セステ ルティウス≒66.75億ドルなので、漢王朝の帝室収入の約2.13倍です。しかし漢王朝の役人給与総額は20億銭(19億ド ル)、 給与と帝室収入を合わせると、約50億ドル、ローマ帝国エリート層所得の約75.6%になります。

(2)漢とローマの労働者平均所得を同一とした場合の双方の帝室財政規模とエリート層の所得規模

 銭とセステルティウスのレートについて別の仮定をしてみます。
再三登場している李悝の一家150石という収穫が生活に余裕の無い一般農民の生活費だとすると、1人30石=3000銭くらいで す。アンガス・マディソンの定義する奴隷の(扶養家族(奴隷一人あたり0.25人)含めた)生活費は一人300セステルティウス 程度、一般労働者一人当たりを380セステルティウスという仮定を利用すると、3000銭=380セステルティウス=570ド ル、1ドル5.26銭とし て換算すると、漢王朝の役人の平均給与13073銭は2485ドル、ローマ帝国エリートの12499ドルの1/5程度です。 漢王朝の給与と帝室収入合計額53 億銭は、8億860万ドルとなり、ローマ帝国のエリートの総所得66.75億ドルの約1/8に なります。

ローマの場合、騎士が殆ど商人でしたし、商人として成功した解放奴隷は都市参事会員になったりしていくので、概ね帝国の富裕層は 33万人程度と考えてもよいかも知れません。これに対して、漢王朝の市井の富豪・大商人のボリュームゾーンの所得は不明です。

例外的に史上に名を残した人物の財産は、『史記』貨殖列伝に、7000万銭(≒1330万ドル)、『漢書』貨殖伝にも、成帝・哀 帝時代に1億銭の資産を残した者2名、5000万銭の資産を持つ2名の人物が掲載されています。20年間で5000万銭の資産を 構築したとすると、年250万銭の所得≒47万ドルとなります。しかし彼らは特に名が上げられている人物であり、こうした人物が 何万人もいたとは思えません。『漢書』貨殖伝には、富者の事例として、「封邑千戸の領主なら二十万銭の収入」(ちくま文庫7巻 p467)とあり、20万銭は38000ドルで、都市参事会員層(24万人)の年収12000ドルの3倍ですが、漢代に「封邑千 戸の領主」がローマの参事会員の24万人もおらず、漢書掲載の王族、功臣の諸侯表掲載人数も数百人程度なので、比較になりませ ん。年利が20%なので、100万銭の資産がある家は、年利だけで年収20万銭を達成できる、との事例も記載されていますが、 100万の資産がある家が数万人もいるような記載はありません(ただし、漢代において資産100万、年収20万が富豪の基準だっ たように見受けられます)。前漢代全国に1500程あった県の知事(県令)の給与は大県(戸1万以上(≒人口5万以上))で月 600−1000石(14000−23000ドル*1)、小県300−500石となっており、(アンガス・マディソンが推定す る)ローマのエリートの平均年収に近い値です。ひとつの県に地域を牛耳る富豪≒豪族(資産100万銭)が数家あると仮定すれば、 全国では5000−10000人程度です。後漢末期、首都洛陽の大学には3万人の在籍者を抱えていたとあり、彼らは官僚や地方豪 族の師弟だとすると、学生を送り出していたエリート層の人口を3万人程度と見積もれるかも知れません。一方、ローマの大土地所有 者であった元老院議員の平均所得は22万5000ドル(600人)、都市参事会員層(24万人)は1万2000ドル、エリート合 計33万人です。印象的には、富裕層の数はローマの方が多そうな印象を受けます。富裕層は漢王朝にも多数(十万人以上という規模 で)いたのかも知れませんが、今のところ証拠が見つからないのが残念です。

*1 漢王朝の年俸の石高と貨幣との換算率は、市価とは別に決められていた。600石は6000銭/月相当。

極端に、もし漢王朝のエリート層が役人だけしかいなかったとすると、人数はローマ帝国エリート層の半分、平均所得は1/5なの で、総額にして1/10程度。洛陽の太学に生徒を送り込めるエリート層3万人としても、ローマのエリート層33万人の1/10程 度。アンガスとゴールドスミスのエリート層の、全体に占める所得割合は20%程度でしたから、漢王朝の 場合2%程度、この程度だと、全体所得に対するインパクトは少なく、一人平均がローマより低くなることは確実です。問題は、ロー マ帝国の数字の出し方が、先に生活費から全体の平均値を出し、その平均値から労働者の分を差し引いて、エリート層の所得を求め る、という方法をとっている点です。生活費は以下の算出です(詳細はこちらの記事の 2016/Feb/07修正の部分)。

ローマ
 食費 生活費全体の52.6%、税金・投資等、8%、食費以外の出費 39.5%
漢王朝
 食費 生活費全体の60%、税金 10%、食費以外の出費 30%

(宇都宮清吉の方法をローマに適用すると、ローマの都市化率は39.5%となる)

漢王朝の方が7.4%エンゲル係数が多いので、GDPもローマの570ドルより7.4%低いと見なして、528ドルとし、エリー トの数値インパクトが低いことから、漢王朝の平均約528ドルとすると、本記事の項目1と2の値(517ドルと544ドル)の中 間に収まります。なお、漢王朝とローマ帝国、およびパルティアの生活費分析をより詳細に検討したオランダの大学の論文もあります (こちらの記事の9)最低生活費比較研究に概要とPDFのリンクを書いておき ました)。この論文では、漢王朝の所得の方がローマより1.5倍くらい多いことになってます。なお、アンガスが対象としている、 漢王朝の総人口記録の残る紀元2年は、王朝の人口がマルサス的限界に達し、人口過剰で一人当たりのGDPが、余裕のあった時代に 比べて減少していたことが指摘されている(『漢書』食貨志 ちくま文庫第二巻p447「百姓の資富は文帝・景帝のときに及ばな かったものの、しかし天下の戸口は隆盛を極めた」とある)ので、最盛期と比べれば減少していての450ドル、と見なすことも出来 ます。


【4】まとめ


ローマ帝国のエリート層は、基本的に商人や経営者、大農場所有者だったので、これに対応する漢王朝のエリート層の人数を捕捉でき ないのは残念です。ローマ帝国は、漢王朝に比べると小さな政府とされていますが、これは中央政府の規模を比較した場合の話で、地 方行政組織を含めると、ローマ帝国の方が倍近く大きくなります。ただし、地方行政の担い手は実業も営んでいて、棒給を消費するだ けの役人からなる漢王朝の地方行政組織とは異なります。この意味で地方行政費用も漢王朝より小さいといえるかも知れません。

一方、漢王朝は事業家や豪族層の人数を捕捉できないため、一人当たりのGDPのあり方がローマ帝国に比べると推定しにくい部分が ありま す。しかし、天下の6/10の富が関中に集まった、という『史記』の記載が誇大だとしても、その数値だと、ローマ帝国以上に富裕 層が多く格差があった可能性も考えられます。

以上の点から少なくとも、アンガス・マディソンが想定したような、ローマ帝国の一人当たりGDP570ドルに対して、漢王朝の 450ドルというのは、最低限のケース(エリート層が役人しかいない想定で、かつ一般農民の生産性が低い仮定)だということは一 応 指摘できるのではないかと思います。

漢王朝とローマ帝国のGDPの比較をするためには、

穀物生産量や播種率、開墾率、各地の都市化率、非農民人口率、土壌 や気候による生産性の相違、土壌改良技術、農耕用具技術、建築物等の技術力や耐用年数とメンテナンス費用等々

など、より多様な指標を用いてより深い研究が必要だということは確かなようです。
アンガス・マディソンの推計結果だけが一人歩きすること、推計値を鵜呑みにすることなく、どのような史料とロジックで推計値が出 されたのかを常に考慮して数字を見てゆく必要があると考える次第です。

□参考資料
アンガス・マディソン『Chinese Economic Performance in the Long Run 960-2030』 (2007年)
フローニンゲン大学掲載アンガス・マディソン氏作成のxls表
Statistics on World Population, GDP and Per Capita GDP, 1-2008 AD (最終更新2010年)
アンガス・マディソン『世 界経済史概観―紀元1年-2030年』(岩波書店)
明石茂生『古代帝 国における国家と市場の制度的補完性について(2):漢帝国』(2011年)
宇都宮清吉『漢 代社会経済史研究』(1955年,弘文堂)
中 国人口通史(4):東漢巻-中国人口通史叢書 袁延勝 著 人民出版社 2007年4月
佐藤武敏 「前漢時代の戸口集計」について 『東洋史研究』43巻1984年6月 pp118-141
山田勝芳『秦漢財政収入の研究』1993年
(『漢書』食貨志(ちくま文庫)、『史記平準書・漢書食貨志』(岩波文庫)、『史記』貨殖列伝(ちくま文庫)、
『漢 書』地理志
『通 典』 第36巻

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