【1】 ペルセポリスとゾロアスター教徒の発見(15−17世紀) @ ペルセポリスと楔形文字の発見
近世欧州の知識人における古代イランへの関心は、ゾロアスターや聖典アヴェスターへの関心から始まっ たようです。 ゾロアスターや聖典アヴェスターへの関心の高まりの背景には、一方にはルネッサンスや宗教改革、啓蒙主義な ど、中世カトリック的な知への相 対化があり、他方には、相対化する為の外部知の導入という下地がありました。今回は、古代イランに関する外部知の最初のきっ かけとなったペルセポリス遺跡 と楔形文字碑文がヨーロッパで知られていった経緯を辿ってみたいと思います。 近世において、ペルセポリスの遺跡が最初に欧州人に知られるようになったのは、ヴェネツィア大使ジオサファト・バルバロ(1413–1494年)が残し、16世紀後半に刊行 されたペルシア旅行記によるとのことです。その経緯は以下のような展開を辿りました。 1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国の手に落ちると、オスマン朝の矛先はエーゲ海のヴェネツィアの領土に向か い、ヴェネツィアはオスマン帝 国を背後から牽制する諸勢力と同盟を模索するようになりました。1463年に最初のペルシア使節Lazzaro Queriniが、当時ペルシアを支配していた白羊朝のウズン・ハサンの元に送られましたが、同盟はならなかったものの、ウズン・ハ サンは答礼使節をヴェネツィアに派遣し、外交チャネルが保持されることになりました。1470年にネグロポンテ専制公国が 征服されると、ヴェネツィア・教皇・ナポリ王国・キプロス王国・ロードス騎士団国は対オスマン同盟を結び、翌1471年に Queriniがウズン・ハサン の使節ムラトを従えてヴェネツィアに帰国した為、再度白羊朝と同盟を結ぶ為、ウズン・ハサンの妻の姪を妻としている Caterino Zenoを使節として白羊朝へ送りました。こうして1471年と1473年に白羊朝はエルジンジャン近郊でオスマン朝と戦ったものの、欧州諸国の同時攻撃 は行なわれず、1473年8月に大敗を 喫することになります。ジオサファト・バルバロは同盟諸国へオスマン挟撃を促し、海軍を編成し、ウズン・ハサンに再度のオス マン挟撃を促す為にペルシアに 派遣されたのですが、オスマン朝の妨害や同盟先各国の情勢変化などで旅程がなかなか進まないうちにオスマン朝への大敗に動揺 した白羊朝では叛乱が頻発し、 1474年4月にムスリムに変装したバルバロが漸く到着した時には、白羊朝ではオスマン朝攻撃どころでは無くなっていまし た。 バルバロはトルコ語が話せた為か、ウズン・ハサンに気に入られ、長期間滞在することになり、次にやってきたヴェネツィア使 節Ambrogio Contarini (1429–99 年)に報告書を託して先に帰し、1478年のウズン・ハサン死去まで滞在、その間ヤズド・シーラーズ・ペルセポリス・カ シャーンなどの各地を訪れることに なりました。帰国後、彼は豊富な経験を旅行記として書きとめました。この本は1543年に”Fiaggi falti da Fenezia alla Tana in Persi”という書名でアルドゥス・マヌティウスの 息子により出版され、後の欧州人旅行者がペルセポリス遺跡を訪問する契機となったそうです。ただし、彼はチルミナル遺跡(ペ ルシア語で40の尖塔を意味す る。現名称はペルセポリス)はユダヤ起源、キュロス大王墓であるムルガーブ遺跡(現名称パサルガダエ)はソロモン王の母親の 墓だと考えていたようです。 ペルセポリスにある楔形文字碑文の情報をもたらしたのはスペイン王フェリペ3世の使節のアントニオ・デ・グヴェア(1575年頃–1628年)で、1602年にペル セポリスを訪問し、1606年に旅行記が出版され、同じくスペイン使節ドン・ガルシア・シルヴァ・フィグヴェロア(1550-1624 年)は、 1617-19年ペルシアに滞在し、シーラーズ・イスファハーン・コムなど国内を旅行して廻り、ペルセポリス見学の折は、古 代ギリシアのディオドロスが記 載するペルセポリスの記述(17章70-72節)のペルセポリスとチルミナル遺跡が同一の物であると考え、ペルセポリスの詳 細な描写を同僚外交官Alfonso de la Cueva (1572–1655年)に書き送ったところ、手紙の内容がラテン語、英語等に翻訳され、ヨーロッパの知識人の間にアレクサンドロス大王が滅ぼした都の遺 跡としての存在が知れ渡ることになりました。以降、1621年にイタリア人旅行家ピエトロ・デ・ラ・ヴァッレ(1586–1652年) 、1628年に英国人旅行家トーマス・ハーバート(1606-1682年)、フランス人商人タヴェルニエ(1605–89年)、ジャン・シャルダン(1643-1713年)等が次々と訪問して遺跡や碑文の 情報をヨーロッパにもたらすことで、文字の解読や遺跡の発掘へと展開していったのでした。 なお、ペルセポリスの遺跡が全てアケメネス朝時代のものだと考証したのは、1704年にペルセポリスを訪問して詳細なス ケッチを描いてアムステルダムで出版したオランダ人画家のコルネリウス・ド・ブロイン(1652–1726/7年)とのことです。 ヨーロッパでのペルセポリス遺跡の知名度の上昇と比べると、この頃のエピソードにメソポタミアの遺跡は出てきていませんが、 これは、イル汗国からサファ ヴィー朝初期までのペルシアの都がタブリースにあり、当時の旅行路がコンスタンティノープルからアルメニアを経由してタブ リースに向かい、タブリースから インドに出るにはシーラーズを経由してホルムズ海峡に出るルートとなっていたからとのこと。ペルセポリスはシーラーズ近郊に あったことが、知名度があがる ことになった理由のひとつのようです。 A イランにおけるゾロアスター教徒の発見 一方、ポルトガル軍人のユダヤ人Pedro Teixeira*1(ペ ドロ・テイクセイラ)が1604年、インドからの帰路ヤズドで「太陽と火に仕える人びと」に遭遇したのが、ヨーロッパ人がペ ルシアのゾロアスター教につい て知った最初の報告事例とされているそうです。その後前出のピエトロ・デ・ラ・ヴァッレはイスファハーン郊外のゴーリスタン に住むゾロアスター教徒(ガウ ル)*2のコミュニティを訪ね、宗教習慣・行事・儀式について多くの情報をもたらしまし、フランス人商人タヴェルニエが21巻から構成されていた聖典「アヴェスター」についての情報 をもたらし、更にシャルダンが続くことになるのでした(シャルダンについては以前こ ちらにまとめたものがあります)。 *1 同時代のアマゾン川を探検したペドロ・テイクセイラ(こちら)と同一人物かは不明。なお、テイクセイラの著作「ペルシアへの旅」は オンラインでpdfで公開されている(こちら) *2 ガウル(Gabr)は当時は異教徒を意味するペルシア語で、アラム語の”人” を意味する単語(gabrā/GBR)に遡るらしい。古代ペルシアにおいては聖職者マグの同意語で、13世紀頃から異教徒の 意味に転じてゆき、トルコ語にも導入され、キリスト教徒含めた異教徒を意味するトルコ語Giaour(ジャウア)となっていったとのこと。 B この時期収集された情報による古代ゾロアスター教に関する著作 シャルダンの著作は1686年に英訳が出版され、これに触発された英国人牧師で東洋学者のトーマス・ハイド(1636– 1703年)は、ラテン語・ギリシア語の古典著作だけではなく、イスラーム史家やシャルダン等がもたらしたペルシアの情報を利用して1700年にラテン語 で「古代ペルシアの宗教」を著しました(ラテン語版がオンラインで公開されています)。 「dualism(二元論)」という言葉を最初に使ったのはこの著作だという説もあるようです。オックスフォードで学んだ トーマス・ハイド氏は古代ペルシ アだけを研究していたわけではなく、トルコ語、アラビア語、シリア語、ペルシア語、ヘブライ語、マレー語、中国語ができたと のこと。中国語は、中国の経典 などを持ってヨーロッパに渡った沈福宗(1657-92年)から直接教わったとのことです。 ■参考資料 『宗祖ゾロアスター』 前田耕作 ちくま新書 1997年 『楔形文字入門』 杉勇 講談社学術文庫 2006年 記事中リンク先の当該人物の記事など 【2】 東方の聖典の探求(18−19世紀前
半)
今回は18世紀におけるアヴェスターの翻訳と中世パフレヴィー語の解読の話で
す。西欧とペルシアの関わりは、当初(15世紀)は軍事・外交、17世紀は商業、18世紀以降文化・研究という順番
を辿っていったようです(以下more)。
17世紀に、フランス人商人タヴェルニエやシャルダン達 が、訪問したペルセポリス等の遺跡の挿絵入り著作を出版し、聖典アヴェスターや、現存ゾロアスター教徒の存在、及び その宗教を紹介したことで、近代精神の 萌芽にあって啓蒙思想によるカトリックの相対化を推進していたフランスの知識人を刺激したそうです。1715年にサ ファヴィー朝の使節がヴェルサイユ宮殿 に訪れたことから、フランス上流階級にペルシアブームが起こり、この流れの中でモンテスキューは「ペルシア人の手 紙」(1721年)を書き、ヴォルテール は「歴史哲学」(1765年)でゾロアスターとその宗教について論じ、「百科全書」(1751-1772年/全28巻)の「ペルシア人」の 項目において体系的なイスラーム以前の古代イラン史の記載がなされたとのこと。フランスでの古代イランへの関心との 関連は不明ですが、1765年に米国で最初に書かれて上演された演劇「The Prince of Parthia」(Amazonでも出ています)は、パルティアに題材をとっています。 これら知識人の関心の高まりを背景に、実証的研究が開始されました。その嚆矢は、フランス人アブラアム・アンクティル・デュペロン(Abraham Hyacinthe Anquetil Duperron(1731―1805年)で、当初宗教的要請からヘブライ語を学び、オリエントの言語への関心が高まってきた時にアヴェスターの一部であ る「ヴェンディダード」が書かれた4枚の写本を実見し、未知の言語(アヴェスター語(当時はゼンド語と称された)) を学ぶ為にインドに赴きました。 1755–1761年の約6年間の滞在中に、現地のゾロアスター教徒であるパールシーからペルシア語やパフラヴィー 語を学び、ヴェンディダードやアヴェス ター、ヴェーダを含む約180点の写本を入手し帰国。1763年フランス学士院碑文・美文アカデミー会員となり、1771年アヴェス ターはじめヴェンディダートやブンダヒシュン等のゾロアスター教基本文献やパールシーの慣習等の記載を含むフランス 語訳「ゼンド・アヴェスター」を出版しました。この翻訳は、印欧語研究の創始者として名高い英国人ウィリアム・ジョーンズ(1746-1794 年)はじめロンドンの王立協会からテキストの真贋と誤訳を疑われ、インドで、パールシーが彼の為にペルシア語に翻訳 したアヴェスターをフランス語に翻訳し て出版したものではないかとか、デュペロンが訳した原書は原典ではなく、原典は別の言語(サンスクリット語等)では ないかなどと批判されたとのことです。 1826年にデンマークの言語学者ラスムス・ラスク(1787-1832 年)がアヴェスター語の研究を出すまでデュペロンが利用した原文テキストは疑われ続けたそうですが、英語版Wiki のデュペロンの記事には、現在でも It is probably not true that he mastered the Avestan languageと書かれていて(この一文はフランス語版の記事にはありません)、英国側では現在でもデュペロンの翻訳は、インド滞在中にパールシーが近 世ペルシア語に訳したものをフランス語に翻訳したのだ、という認識のようです。 デュペロンはその後、インドから持ち帰ったインド関係 (ウパニシャッド翻訳やテルグ語、マラヤーラムの辞書)の仕事が中心となり、一方デュペロンを批判したウィリアム・ ジョーンズは1783年にインドへ赴任 し、サンスクリット語、ギリシア語、ラテン語、ケルト語、ゴート語、古代ペルシア語を比較し、これら諸語の共通の起 源を想定し、後の印欧語研究の先駆者と なりました。 デュペロンが持ち帰った写本を用いて最初に科学的な研究を行なったのはフランス人ビュルヌフ(Eugène Burnouf/1801‐52 年)で、彼はデュペロンがフランスに持ち帰ったフランス国会図書館にある写本のリトグラフ化を1829-1843年 にかけて行い、ヤスナの章のサンスク リット訳に基づいて複数の写本を比較して定本を作成し、1833から1835年にかけて「Commentaire sur le Yaçna, l'un des livres liturgiques des Parses」を出版しました。 アヴェスターなど文献を用いた古代イラン研究の中心は、その後デンマークとドイツに移っていきます。二人のデン マーク人、前述のラスクが1820-23(または16-23年)に、ヴェスターガールド(1815-78年/Niels Ludvig Westergaard) が 1841-44年にインドとイランを旅行し、多くのアヴェスター関連文献や中世パフレヴィー語写本を購入して持ち帰りました。これらの写本は現在デンマー クのコペンハーゲン大学所蔵されています。 ヴェスターガールドは、1852-54年にアヴェスター経典の完本 「Avesta text: Zendavesta or the Religious Books of the Zoroastrians, edited and translated, with a Dictionary, Grammar & c Vol I. The Zend Texts」を刊行しました。更に、ドイツ人マルティン・ハウク(Martin Haug/1827–76年)は、1859-66年インド在住し、パフラヴィー語写本を持ち帰り、これらはミュンヘン大学に所蔵されました。ハウクは、ゼ ンド語−パフラヴィー語の用語集、古代ペルシア語−パーザンド語の用語集を作成し、アヴェスター中のガーサー部分の 言語が、アヴェスターの他の部分の言語 と異なっており、ゾロアスターが編纂した部分であると指摘するなど、古代イラン学の基礎を作ったとされています。次 の世代となるドイツ人Karl Friedrich Geldner(1852-1929 年)は、ヴェーダとアヴェスタの韻律比較などを行い、1886-95年にはヴェスターガールドの完本を修正しまし た。英訳は、フランス人ジャーム・ダルメステテール(1849-94年)と米国出身の英国の 研究者ローレンス・ヘイワース・ミルズ (1837–1918年)によって東方聖典叢書(全50巻)のうちの「アヴェスター全三巻 (4,23,31巻-1880-87年)として出版され、更にこれが1921年(大正10年)に、日本で「世界聖典全集」の第8・9巻の「アヱ゛スタ經」として刊行されること になりました。 こ のように、ゾロアスター教と中世パフラヴィー語研究は、当初はフランス人デュペロンの手で創始され、19世紀に入る とデンマーク・ドイツ人中心に翻訳や研 究が継続・発展させられてゆくこととなりました。これらの写本コレクションは、コペンハーゲン・コレクション、ミュ ンヘン・コレクションとして、現在でも ゾロアスター教・中世パフラヴィー語の研究拠点となっているとのことです。 一方、中世パフレヴィー語の解読は以下の経緯で行なわれました。 デンマーク王フレデリク五世(在1746-1766年)の命により中東探検(1760-67年)に派遣されたドイ ツ人測量士カールステン・ニーブール(1733-1815年)は1764年にペ ルセポリス碑文を写し、帰国後1778年に出版しました。当時フランス貨幣関連審議を行なう最高法院(Cour des monnaies)で勤務しながらセム諸語を研究 していたシルベストル・ド・サシ(Antoine-Isaac Silvestre de Sacy/1758-1838 年) は、ニーブールの書籍に記載されていた三言語碑文(ペルセポリス北方4kmにあるナクシェ・ロスタムに刻まれているアルダシールの2つの三言語碑文(パル ティア語・中世パフラヴィー語・ギリシア語))やデュペロンの書籍によるアヴェスター語やギリシア語碑文の知識を元 に、1787-91年の間にパフラ ヴィー語碑文を解読し、1793年に「Mémoires sur diverses antiquités de la Perse: et sur les médailles des rois de la dynastie des Sassanides; suivis de l'histoire de cette dynastie (ペルシアの古代の多様な遺物の記憶、及びサーサーン朝の諸王のメダル、その王朝の歴史)」を発表しました。 解読のきっかけとなったの は、「XX,大王、王の王」と、「王」を意味する文字が繰り返し登場する、古代イラン独特の碑文形式にあり、これを ギリシア語やアヴェスター語から類推し てパフラヴィー語の「王」「大王」という文字を突き止め、やがて全体の解読に到達したそうです(解読のきっかけと なった碑文はKa'ba-ye Zartosht(ゾロアスターのカアバ神殿)の 側面に刻まれたシャープール1世戦勝碑文(パルティア語・パフラヴィー語・ギリシア語)のことではないかと思われま す)。 サシの1793年の著作の題名に「サーサーン朝(Sassanides)」という言葉が登場しています。出典の書籍 は確認できていないのですが、「サー サーン朝」という言葉は、もう少し前の1779年に初めてラテン語の Sassanidae/Sassanids(サーサーン朝)という用語が利用されたそ うです(引用元)。サシの場合、貨幣関連の役所に勤めたことが、サーサーン朝 時代の貨幣に接し、研究に役立つ環境を提供していたのかも知れません(この点東インド会社に勤務した技師がブラー フーミー文字やカロシュティー文字を解読した点と似ています)。 サシがパフレヴィー文字の解読を行なったことで、その後、19世紀に入ると、前述のデンマーク人ラスク、ヴェスター ガールド、ドイツ人ハウクなどにより中 世パフラヴィー語とその文献の研究が進み、パルティア碑文・サーサーン朝碑文が解読され、パルティア・サーサーン朝 の研究が花開くことになってゆきます。 サシはその後は役所を辞め、1795年にパリ近郊に設立された東洋語学院で最初のアラビア語専任教師となり、アラビ ア語やアラビア文学、ドゥルーズ派の研 究に向かい、古代エジプトのヒエログリフの研究も若干行なったそうで、ヒエログリフ解読者のシャンポリオンの教師 だったこともあるそうです。1822年に アジア協会(Société Asiatique)の共同設立者となり、1832 年にはフランス学士院碑文・美文アカデミー会員の常任理事となるなど、フラ ンスにおける東洋学の立ち上げに大きく貢献しました。 18世紀における欧州の古代イラン史像は、英国軍人John Malcolm(ジョ ン・マルカム(1769-1833年))のイラン通史書籍「ペルシア史(1812年)」から覗うことができます。マ ルカムは12歳の時に東インド会社に士 官候補生として入社してインドのマドラスに赴任し、当時のインドの行政語であるペルシア語と現地の(賄賂の習慣など を含めた)儀礼を習得したことで、通訳 として条約締結や外交使節に参加し、第三次マイソール戦争やマラータ戦争で功績を挙げて出世していった人物です。 1799年から1801年頃テヘラン駐箚 全権公使として派遣されて以降ペルシアとの交渉に携り、ジャガイモ栽培をイランに紹介したりました。マルカムは学者 ではなく、東インド会社の軍人・行政官 だった為、学問的研究ではなく、行政や外交を行なうにあたっての歴史知識の必要性から、ペルシアやインドに関する著 作を著したと考えられ、その著作は 1857年セポイの反乱まで東インド会社の軍人・外交官に利用されたようです。 彼の「ペルシア史」における古代の記載は、ヘロドトス、 クセノフォン、アリアノス、マルケリヌス、プロコピオスなど、古代ギリシア・ローマ・初期ビザンツの著作物に記載さ れたペルシア史の知識の範囲を出ておら ず、「アルサケス朝」「サーサーン朝」という用語は登場しているものの、「アケメネス朝」という用語は登場していな い段階でした。アケメネス朝の同時代史 料(碑文や遺跡・遺物)を通じた研究は19世紀に入ってから着手されることになります。彼の著作を実見できてはいな いのですが、1875年出版のジョー ジ・ローリンソン(次回扱います)のサーサーン朝の著作で、一部の出典としてマルカムの著作が登場していることか ら、ギリシア・ラテン語史料以外の記載 (恐らくペルシア語資料)がマルカム氏著作に掲載されている可能性があり、その情報は、マルカム氏が現地でペルシア 語経由で取得した情報である可能性があ りそうです。マルカム氏の「ペルシア史」の内容は、1880年日本の外務省の使節としてペルシアを訪問した吉田正春 (1852 -1921年)の旅行記 「 回疆探検 ペルシャの旅 (中公文庫) 」に概要が引用されてい て、内容の大枠知ることが出来ます。 この時期の古代ペルシアへの研究動向は、取り組んだ西欧各国で若干姿勢が異なっていて、ペルシアに関する英国人の興 味は、ペルシア語がインドの殆どの部分 の行政語だったという事実に推されたもので、ドイツ人学者はアーリア文明の仲間としてのイラン人への人種的関連性に 魅力を感じており、フランスは、啓蒙主 義知識人の価値観相対化の道具として取り組んだという側面が指摘されているそうです。 ■参考資料 「宗祖ゾロアスター」(ちくま新書) 前田 耕作 (1997/5) 「ゾロアスター教ズルヴァーン主義研究: ペルシア語文献『ウラマー・イェ・イスラーム』写本の蒐集と校訂」青木健 刀水書房 (2012/8/28) 「パフラヴィー 語: その文学と文法 」Zale Amuzgar, Ahmad Tafazzoli, 山内和也 シルクロード研究所(1997/4) 吉田正春 (1852 -1921年)の旅行記 「 回疆探検 ペルシャの旅 (中公文庫) 」 記載に登場している各人のWikiやEncycropaedia Iranicaの記事など |