バフラーム5世グール(2)



 
  バフラームは20歳の時に王位についた。同じ日にバフラー ムは彼の臣下に祝日と祝祭を祝うように指示した。彼は公衆の前に全ての人々の為に7日間座り、彼の慈悲の誓いを彼らに与え、彼に 対する服従と神の恐れを彼らに架した。しかし彼が王になった時、彼は彼自身の娯楽に専心し、他の全てを省みなかった。彼の臣下が 彼のこの振るまいについて彼を非難し、近隣の君主が彼の土地を征服し、彼の王国を略奪しようという望みを持つまで。

 バフラームのライヴァルとして自身を位置付けた最初の 支配者は カガン、トルコの王だった。彼は25万の軍隊でバフラームに攻撃をしかけてきた。カガンの強力な軍隊による彼らの土地への侵 攻の知らせはペルシャ人のもとに届いた。それは大破局のようであり、彼らを 震え上がらせた。ペルシャの有力者の一群は彼らの強固な裁定と人々の多くのための気遣い によって知られる人々は、バフラームの前に行って言った。「突然敵の災厄が現れました、これはあなたを あなたがはまり込ん でいる娯楽や憂かれ騒ぎから奮い立たせるのに十分です。それに立ち向かう準備をしてください。我々はあなたにとって恥であ り、悪口となるものによって悩まされているのです」 バフラームは答えて、「神よ、我々の主人は強力で我々は彼の加護の元に いる」 彼はますます娯楽と浮かれ騒ぎに没頭するのだった。しかし彼はアゼルバイジャン遠征隊を組織し出発した。そこでの火の寺院への礼拝の為に。そ してアルメニアは狩りのためのゲームを探すために、彼自身途中で楽しむ為 に。 彼は 国の有力者と貴族の7つのグループと彼の護衛として300人の 強く勇気ある 男たちを伴っていた。彼は彼の兄弟の一人国に残してきた。その名をナルセス といい、その王国の知事として行動するために残してきたのだった。

 人々がバフラームの遠征隊と彼の兄を王国の統治代理と して任命したと知った時、彼らは彼の敵を恐れて、王国を放棄する挙動という風に感じた。彼らは集まって協議し、カガンへと使 者を派遣することにし、貢納を支払うことにした。金による解決によって服従を示さなくては、カガンが彼らの土地を侵略し彼ら の軍隊を全滅ささる恐れがあるからだった。カガンはペルシャ人が同意したこ とについて聞いた。それは彼らが彼に服従の態度を示すことであり、そして彼は安全を保障し、彼の軍隊を引き上げる様に指示し た。バフラームはしかし カガンの意図や行動についての情報を集めるためのスパイを放っていた。そこで彼に伴う軍隊とともに進軍した。夜 までに彼を敗させ、の手 でカガンを殺し、カガンの軍に虐殺を広げる為に。 殺戮から逃れたもの達は背中を見せて背走した。彼らは背後の軍営や妻子た ち、彼らの荷物もそのままに背走した。バフラームは彼らを狩り、殺し、奪った略奪品を集めて妻子を奴隷とし、彼の軍隊はその ままの状態で帰還した。バフラームはカガンの王冠とディディマ(王冠の一種)を奪い、トルコ人の土地を征服した。彼は征服した領域にマルズバーン*12(辺境伯のワーデンを任命し銀の王座を彼に送った。彼が征服したトルコ人の土地との境界に住む人々の一群がバフラームのもとにやってきて彼 に服従することを提案した。バフラームは彼と彼らの領土との境界について重複しないよう境界線を引くことを提案した。彼らの 辺境領域は明確にしきられ、高くて細い塔の建設が提案された。この塔はヤズデギルド2世 の子 ぺーローズが再建することを命じた塔である。それはトルコ人の土地の辺境領域の 先の地点に立てられた。バフラームは彼の軍隊の司令官の一人をトルコ人の土地のトランスオクシアナへ送り、そこの人々と戦う ように命じた。彼は戦争をしかけ、酷い虐殺を行った。彼らがバフラームへの服従を誓い、貢納を支払うと誓うまで。

 バフラームはアゼルバイジャンへ行き、その後イラクの サワードの彼の居城へと戻った。彼はカガンのディディマにあるルビーその他の宝石がアゼルバイジャンの拝火寺院に飾られるべ きだと命じ、実行したあと、クテシフォンへと戻った。そこの行政官庁で彼の任務をこなした。彼は彼の軍隊と州知事にが どうカガンを殺し、彼とペルシャ人軍隊がなしたことを手紙にしたためた。そう しては兄弟のナルセスをホラサーンの知事に任じ、彼の方法で統治するよう に指示し、バルフに彼の居城を作り、が必要なものは何でも彼に注文した。

 人生の最後にあたり、バフラームは狩にメディア*6へ と赴いた。ある日彼が野生の驢馬を追い、近くへと追い詰めた。しかし彼は穴に落ち、底の泥の中へと沈んで行った。彼の母が事 故を聞きつけて来た時、莫大なお金を持って池へと急いで駆けつけてきた。彼女は池のほとりに残り、金が穴からバフラームを救 い出すものには誰にでも支払われると命じた。彼らは巨大な穴を掘り、池から泥が山となるまで掻き出した。しかしバフラームの 死体は見つからなかった。

 バフラームがトルコの遠征から戻ったとき、7日間連続で彼の王国の人々を集め、彼らの服従を維持するように彼の演説に付き従わ せ、彼の意思は彼らの生活が快適な環境になり、よい人生をもたらすものであるということにあ ることを知らせようとした。もし彼らが正義の道から逸れようものなら、彼らが彼の父の元で経験したものより辛いものとり、彼らの扱いに悩むだろう。後者(バフラームの こと)は寛大と公平をもって統治を開始した。しかし彼らは、少なくとも彼らの一部はその政策を拒否し、王へ召使か奴隷として 実際には服従を示すべきであるようには服従しなかった。このことは彼(バフラーム)を 厳格な政策へと追いこんだ。彼は人々を打ち、血を流させた。

 バフラームの遠征からの旅の帰還はアゼルバイジャン経 由だった*14。彼はシーズの火の寺院にカガンのディディマのものだった ルビーと宝石を寄贈し、真珠と 宝石で飾られている剣を奉納し、他の多くの貴い装飾品を納めた。彼はカートゥーンにカガンの妻を与え、そこで寺院の召使とし た。彼は彼の遠征の成功を期して人々に3年の間税を免除し、お金が不足して いる貧乏人 と2000万ディルハムの資産を持つ金持ちと貴族を分割した。彼は遠い土地へ カガンの取り扱いについての報告を手紙で知らせ、その中でカガンが 侵略してきたことがどう彼に報告がなされたか、どう彼が神に祈り、完全に防いだか、どう彼が 彼個人の警護兵のなかの選りす ぐりの戦士からなる300名の 騎兵と7人の貴族の警護兵とともにカガンに対し アゼルバイジャンとコーカサスを経由しホラズムの荒地と砂漠に達するまで進 軍したのか、そしてどう神が戦闘で彼を試したと ういことを成功裏に終わった結果とともに言及していた。彼はどう租税が免除されたかについても言及していた。彼のこの情報が記載された手紙は雄弁であり分かり 易かった。
 
 バフラームが最初に王座についた頃、前年からの土地税の 滞納と支払い者が嘘をついていることについても 無効とするように命じた。彼はこれらの滞納が7000万ディルハムとなると 知らされたが免除を命じた。彼は土地税の3分の1を彼が王位を継いだ年の間免除した。
 
 バフラーム・グールがトルコの土地の遠征からクテシフォ ンに戻ったとき、彼は兄弟のナルセスをホラサーンの知事に任命し、首都としてバルフを指定し た。彼は彼の大臣としてボラーゼの息子、ミフル・ナルセスを任命し、彼を親友の一人とし、ブズルフラマダール*5(宰相)の 候補とした。バフラームはインドへ赴くと宣言した。かの地の情報を得るため に。そうして彼の国の租税をいくらかで も軽減するために、かの地を彼の領域に加えることが適しているかどうかを調べるために。彼はミフル・ナルセに必要となるすべ てのものを揃えるように、彼の帰還のときまで摂政として彼を任命した。彼が変装してインドへ到達するまで彼の旅を準備するよ うに任じた。彼は彼の状況や彼について尋ねる人々が誰もいない地方の状態考慮する時間が残っていた。彼の騎馬能力、彼の野生の獣を殺す力、彼のハンサム容貌、彼の概観など、彼について彼らが見ること で印象づけられる、ということ以外。

 彼は彼らの土地の支配地に象がいると聞くまで進軍を続 けた。象は旅行者にとって道を危険にし、多くの人々を殺していた。彼は土地の人の一人に彼が殺したい獣のいる方向にを示すよ うに尋ねた。この行動が王(インド王のこと)の耳に入ってきた。彼はバフラームを呼び出し、彼について調査する使者を派遣した。使者は戻ってバフラームの行動を報告した。バフ ラームとその使者が象のいる密林のジャングルへと達したとき、使者はバフ ラームがやりたいことを見るために木によじ登った。 彼は象に向かっていき、囮を使い、叫んだ。象は彼の方に向かってきた。 激怒し、大きな音を立てながら、恐ろしい形相で。近くに来たとき、バフラームは丁度の 間に矢を射た。矢は獣の頭に消えてしまい、が音を上げるまで雨あられと矢 を打ちこんだ。彼は廻りこんで側面をとり、象がひざを屈するまで下方へ力を加えた。上手を取るまで続けて、その頭を切った。 頭を後方へ巻いて、道端の方へ運んだ。(インドの)王の使者はその全てを見ていた。

 使者が戻ったとき、王へ向けてバフラームがしていることの全体の筋に彼は関係していた。王はバフラームの力 と大胆さを訝っており、彼に贈り物を与え、彼の背景と彼自身についての質問をした。 バフラームはに彼は ペルシャでもっとも有力人物の一人であり、確固たる理由によってペルシャ王の怒りを買った。だからインド王の保護下へと逃げ 出したのだ(と答えた)。さて後者の君主 は彼の王国を奪おうとした敵を持っており、彼は大きな軍隊を率いて進軍した。その王、バフラームの保護者は敵に怯えた、何故 なら彼は敵の力を知っており、後者がの服従と貢納の支払いに依存している ことを知っているからである。バフラームの保護者(である王)は敵の要求に応ずるように傾いていたが、バ フラームは 思いとどまり、やるべきことは満足すべき結論にもってゆくことであるということを彼に保証してみせたのだった。王の心はバフ ラームの言葉を信頼し、平静になった。そうして、バフラームは戦争の準備を行った。

 2つの軍隊がそれぞれにぶつかったとき、バフラームは インド人騎兵に「私の後ろを守れ」と言い、敵への突撃を導いた。彼は彼らの頭を打ちはじめ、口まで頭を割り、また体の中心ま で割った。要するに彼は真っ二つに引き裂いたのだった。象のところへゆき、 その胴を分断し、騎乗者をふり落とした。インド人はあまりが上手くはな く、彼らの殆どは馬に乗らず、徒歩で戦っていた。一方バフラームが敵の一人に矢を射った時、そのは彼をとおりこして右へ抜けて行った。敵が何が起こったかを見た時には、向きをか え何かをすることもできずに逃げ出していった。バフラームの保護者が敵の軍営で 全てのものを略奪し、バフラームとともに喜び勇んで帰還した。バフラームの 努力のための報酬として、王は彼に彼の結婚している娘を与え、彼にアル・ダイブール、マクラーンとシンド*8の付近の一部を 与えた。彼はこれらの開発特許を彼に書き与え、これらの領域がその税金とともにペルシャに加えられるように命じた*13。バ フラームは喜びとともに帰還した。
 
 この後バフラームはミフル・ナルセスボラーザの息子−をローマ人の土地に対する遠征に4万人の戦士の長とともに送っ た。彼は彼らの最高の支配者の為になすことを命じ、貢納の疑問について彼と論じ、ミフル・ナルセスの能力だけが従事できる仕 事について論じる様に命じた。ミフル・ナルセスは彼の軍隊と装備とともに進軍し、コンスタンティノープルに入った。彼はそこ で注目すべき役割を演じたローマの最高統治者は彼と休戦をした*10。彼 はバフラームが望んだ全てのことを達成して帰還した。バフラームは彼にかつてない名誉を与えた。
 彼の名前は時々ナルセス、と簡単に記載される。時々人々 はミフル・ナルセスという。

  彼はミフル・ナルセス、ウィシュタースパの息子のイ スカン ダールの息子のバフラームの息子のダーラー(ダリウス)の息子のダーラーの息子のカイ・アシャクの息子のシースタナーブルの 息子のシースファッドの息子のクーラバードの息子のファルルークザッドの息子であるボラーゼの息子である*3。ミフル・ナル セはペルシャの全ての王によって高い地位を持っていた。それらは彼の高い教育、礼儀作法、優れた判断力、多くの人々の従順さ と満足に因っていた。彼は数人の息子達を持っていた。息子達は、富でナルセに 近づくものもあれば、その重要性と地位によって彼独自の役目である君主への 多様な役目を満たすものもいた。中でも驚くべき地位に達した3人の息子がい た。一人はズルーワーンダード、ミフル・ナルセが宗教と宗教法の為に望ん だ者である。バフラーム・グールは彼をモーバッドの長に近い地位のヘールバッドの長に彼を任命し、彼は(宗教界において)指 導的地位を占めていた。2番目の息子はマージュスナスと言いバフラーム・グールの治世を通じて財務庁役人にあった。ペルシャ語での彼の地位の 名称はワストラー・イ・ウースバーン・サラールといった。3番目の息子は カールダール軍の最高司令官であり、ペルシャでの地位の名称はラサシュ ターラーン・サーラールといい、この地位はスハーフパッド*11よりも高く、アルガバード*7に近いものであった。
 
 ミフル・ナルセス自身の称号はペルシャ語でブーズルフラ マンダー*5 といい、その意味はアラビア語で「最高の大臣」(ワジール・アル・ウザラー)又は「最高の重鎮」(ライース・アル・ルーア サー)といった。彼はアルダシー ル・クラー州にあるダシュト・イ・バーリーン(バーリーン台地)*1の田舎にあるアブルワーンと呼ばれる町の出身といわれて いる。彼はそことサーブール州のジリーに建築を行った。何故ならそことダシュト・イ・バーリーンは隣接していたからである。 彼は彼自身の為に火の寺院を建設した。その寺院は今もなお 燃えつづける火とともに今日まだ存在している*2。それはミフル・ナルシヤーンと呼ばれている。アブルワーンの近辺に彼は4つの村を建設し、それぞれの村に火の寺院を作った。それらの一つは彼自身のための もので、火のための偉大な崇拝の念とともにファラーズ・マラー・アーワル・クダーラーと呼ばれ (アラビア語で「我らが神よ来れ」)ている。2番目のものはザラーワンダー ドのための意味で、ザラーワンダーダーンと呼んだ。3番目のものはカールダールのためのもので彼はそれをカールダーダーンと 呼んだ。最後のものはマージュシャナスのためのもので彼はそれをマージュスナスファーンと呼んだ。この地域 には3つの庭園があった。それらの一つに彼は1万2千の椰子を植え、他の庭園には1万2千のオリーブを植え、3番目の庭園に は1万2千の糸杉を植えた。これらの火の寺院と庭園を持つ村は彼の子孫達へと伝えられ、今日までよく知られている。そしてこ れらば最高の状態で今日でも残されているといわれている。
 
 世に言われていることには、彼の死後、カガンとローマ人 の王とともに バフラームがイエメンを支配している黒人の土地へと進み、陥落させ、虐殺を行い、国へ戻る前に多数のものを捕虜としたとのこ とである*9。彼の死に続いて我 々が記載した。彼の在位年については諸説ある。いくつかは18年10ヶ月20日といい、別のものは23年10ヶ月、20日と いう。 


 - 「アルタバリーの歴史」第5巻 「パーパクの子アルダシール 後の王権の所 有者達」の章p93からp106(通番863頁から871頁「バフラーム5世」の節の後半)より - 

*0 「トルコ」という名称はまったくの時代錯誤だと考えられる。著者のタバリーの時代(9世紀)は トルコ族がイラン北方にいたが、当時はまだトルコ人はイランに侵攻してきてはいなかった。トルコ族だった可能性もあるが、タバリーよりも後の時代の情勢を反映してい る可能性がある。タバリーでは、エフタルの名称は、次王ヤズダギルド二世に時代に登場していて、明確に本章のトルコ族と分けられてい る為、本章のトルコ族は、エフタルでは無いと思われる。可能性としてはフンやクシャーン朝などが考えられるが明確には わかっていない。

*1 南西ファールスにある
*2 この「今日」がいつかは明確ではない。
*3 彼はアルサケス朝の末裔であり、アケメネス朝のダリウスとと もに最初のアルサケス朝に関連つけられている。
*4 彼について 人々が知らない土地とその状況を考慮した、という意味だと思われる
*5 フラマンダーはもともと王家の家宰の意味だったが、王家の財 産管理人となり、ササン朝時代になって、文官の総理大臣となった。後期ササン朝になってブーズル(偉 大な、という意味)を冠するようになった。ブーズル・フラマンダール(大 宰相)。
*6 バフラームはメディア周辺を気に入っていて、ハマダーンに砦 と、ハルワーン近くにマーダルースターンに素晴らしい宮殿を持っていたといわれている。

*7 城砦司令官
*8 シンドは 現インダス河流域。マクラーンは現在のパキスタン・イラン国境付近地方
*9 イエメンへの遠征は6世紀の史実と混同された伝説と考えられる
*10 ミフル・ナルセスのコンスタンティノープルへの使はバフ ラーム即位直後のビザンツとの戦争休戦である。もともとテオドシウス1世とシャプール3世との間に384年に結 ばれた条約があったが、バフラーム即位直後のキリスト教徒への弾圧が即位直後の戦争の背景にあ る。ビザンツ帝国はシリア砂漠のアラブ人との連携を守るためにキリスト教徒を利用しようとし、まこ うした辺境キリスト教への防衛緩衝地へと転換してペ ルシャの支配の防衛に利用しようとしていた。 421年のこの平和条約により、ペルシャ領内でのキリスト教徒の自由とビザンツ領内でのゾロアスター教徒の自由を保証しすることに なった。あるアラブ部族が蜂起した場合、別の同盟しているアラブ部族守るという利 益があった。ビザンツ側は毎年ペルシア国に貢納し、ペルシア国は貢納金を、コーカサ スを越えて進入してくる異民族に対するデルベンドの要塞防衛費に利用した。両国の境界に変更はなかった。

*11 スハーフパッドはアケメネス朝時代からの役職で、「軍隊の長」を意味していた。ササン朝時代に軍事大臣、あるいは最高司令官 との意味になった。最初は一人だけ置かれたが、ホスロー1世時代に全 土を四州に分割した時、4ヶ所に配置された。
*12 
マルズバーンは(辺境侯)4世 紀から上メソポタミア、コラサーン、ベース・アラマーイェに置かれた。   
*13 当時シンドとマクラーンを領域に含み、領土を割譲するこ とのできる権力を持ったインドの王はグプタ朝のクマーラグプタ1世(414 年頃-455年頃)だと考えられる。バフラームの インドへの秘密のミッションについて登場する王はシュブルマー王(クマーラグプタ1世)と いうことになる。

*14 ”トルコ”軍への進軍はアゼルバイジャンからカスピ海沿 いのタバリ スターンを東に進んで、メルブオアシス近郊の村クシュマヤーンで戦いが行われた、とされる。


バフラーム 5世一般史編
 

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