アガシアスと同様アラビア語史料は アルダシール2世-シャープール2世の後継者-は彼の兄弟だと言っている。しかしこ れはほとんどありえなさそうである。 彼が非常に年上だったことから(シャープール2世は70歳という高齢で死去した)。何人かの学 者はシャープール2世が資料上シャープール3世と混同されているのだと考えている。それも起こりそうもないことだとしている。もう一 人のシャープールはシャープール2世であるかのように上述の様に ホルミズド2世の息子として ペルセポリスの中世ペルシャ語の碑文 に示されている。これは、サカとシンドとシースターン、トゥーラーン、海へ至るまでの王であるシャープールである(サーサーン帝国の 南東部を統治していたということ)。アルダシール2世が シャープール2世というよ り寧ろこのシャープールの息子か、少ない可能性であるが彼の兄弟であることはありえる。 同じ名前か、またはわずかな種類の名前で 多くの子供を呼ぶ風習が世界のほかの地域に存在するが、 しかしここ ではそれが歴史家をひどく混乱させている。 もし アルダシール2世がシャープール2世の息子でなく、彼の後継者シャープール3世の 息子だったとしたら、この時代の帝国における 貴族と聖職者間のいくつかの党派を仮定してみることが出来るかも知れない。 もし全て 平穏だったのであれば、一つは父から子への継承を予想することが出きる。 ターク・イ・ブスタンにあるアルダシール2世に帰される浮彫が北部イランの支配(政治的であれ宗教的であれ)を、初 期の王達が岩の洞窟に作ったファールス州にある浮彫に反 するものということを表現している と考えることは無駄である。これが宗教的な北と南の区分をほのめかしていると仮定することも保証 できない。シャープールとアルダシールの関係が何で有れ、彼の統治は短く、彼は貴族によって4年弱の統治の後廃された。理由はイスラ ム史料によれば、彼の貴族達への暴君的な振るまいにあったとされる。
アルダシール2世はシャープー ル3世によって継がれた。我々がターク・イ・ブスタンの前者の中世ペルシャ語の碑文 から知るように、彼はシャープール2世の息子である。 シャープール3世は383年から388年統治し、イスラム史料では称賛されている。穏健で貴族に好意的であったとして。 彼は殺されたか、彼の天幕が落ちてきて彼を殺した。シャープール3世の統治の間、アルメニアは再 度ローマとササン帝国間の競合の中軸となった。シャープール2世の後継者の時 代、アルメニア、グルジア、アルバニアは ササン帝国の封臣として残った。 遊牧民侵略者に対してコーカサス越しの通過口の防御 がササン人にとって絶対に必要だった。 これが彼らが北の辺境に敏感になる一つ の理由だった。時々彼らはローマ人とともに北とダルベンドの防御の経費を共有した。ローマ人は彼らのアナトリア属州への侵略を望 んでいなかった。 アルメニアの小さい部分はササン朝の影響下の外に残り、皇帝テオドシウスは明確にアルメニアにおけるローマの 支配の増大の機会を、383年か384年に東の辺境に軍隊を派遣することで窺っていた。 敵対行為はしかしながら起こらなかっ た。2国間を外交使節が行き来し、2つのアルメニアの国境を再度調整することで同意に達した。アルタシェス ‐ローマ人支配領域の統治者 ‐ は混乱のさなかに殺され、ローマ人は新しい支配者を新しい称号 ”コ メスアルメニア(アルメニア伯)として任命した。これはこのアルメニアの領域の 一部のローマ帝国への名目上の併合を確証するものだった。アルメニアのもっとも 大きい部分はアルサケス朝のアルメニア王治下に残された。しかし、428年までササン人の封臣としてあり、バフラーム5世の時、 アルメニア貴族の要請でヴラムシャプーの息子アルタクシャスを廃位した。
ビザンツのファウストスのアルメニア史に、興味深いことが記載されている。それは東方における クシャン人のペルシャ戦争についての この時代に関するものである。 彼はペルシャの王(シャープール3世かバフラーム4世)が クシャン人の大王でバルフに居住していたアルサケス家の王と戦ったと言ってお り、後者が勝利したと。これはシャープール2世の後継者が東方イランでクシャン人の大王と自称する支配者と戦ったことを指摘して いる。そして更にアルメニアのアルサケス朝と関係があると指摘しているのである。クシャンの語が一般的な用語として利用されたと いうことが他のアルメニア人の著述家から知られている。彼らは、後にフン人やエフタルとしてクシャンという呼称を用いているのである。この アルメニアのアルサケス朝の王とクシャン人支配者との関係は他のアルメニアの著述家にも言及されているが、アルメニア人以外の史料には出てこない。王家間の婚姻の可能性はしかしながら除外は出来ない。
ササン人の帝国は西方でローマと、東方ではクシャンその他と敵対するだけではな く、北のコーカサスとカスピ海東のゴルガーンの州も騒乱のもとだった。 ローマ人とペルシャ人はコーカサス北の遊牧部族をとりこむ必 要性に同意したが、時としてダルベンドの防衛は猛攻撃に耐えられなかった。395年にはフン人の一群がアルメニアに来寇し、殺戮と略 奪をしつつカッパドキアとシリアへと広まった。シリアとギリシャ史料はこの侵略につ いて語り、それは反撃されなかった、何故ならローマ軍は同年のテオドシウスの死去に帝国の西方に集中していたからだった。数年間フン 人は中東で行動したが、我々はササン帝国が攻撃されたという話をなにも聞かないのである。フン人はその弱さゆえにササン人の黙認のもとにローマ帝国を侵略した。しかし彼らはペルシャ人を破り、侵略中にササン帝国の西北部を荒廃させた。外交関係の情報がバフラーム4世の統治については不足している。彼は多分シャープール3世の息 子である。バフラームは ”ケルマーン王”の称号を持っていた。彼が王座につく前、ハムザ・ア ル・イスファハーニーは彼が暴虐で怠惰だったと報告しているが、アラビア史料で は彼は概して称賛されている。彼は矢によって殺されたが、彼の息子ヤズダギルドが399年支配者となった。
ヤズダギルド1世は、ペルシャの伝承によれば、後の著作者、アル・ジャーヒズな どによると、罪の人、つまり国に反して、人々に反して”ササン王朝の伝統を変えた人”とされていて、暴君的で破壊者だった。この悪し き評価は王のゾロアスター教の僧侶への迫害とキリスト教徒への同情心にあった。後者は恐らく誇張されたものであって、ヤズダギルドの 支配下の多くのキリスト教徒の殉教者の行動は彼がキリスト教徒に友好的だという光景を支持してはいない。恐らく彼の記されたマイフェカットの僧侶、マルサへの友情は - 彼はビザンツ皇帝アルカディ ウスがイランへの数次の使節で送った者である - ササン人支配者の政策を変え させた。ヤズダギルドはビザンツ帝国を攻撃しよう準備していたが、使節が平和の維持に貢献し、平和が409年の条約でもって調印 された。マルサの人生については多くの史料があり、それらは 彼は医者としての 能力で王に気に入られた、としている。他の部分ではササン帝国の多くのキリスト 教徒がマルサの影響の結果として待遇が改善されたと結んでいる。
ヤズダギルド1世の治世において、ササン帝国のキリスト教徒は410年にセレウキアに公会議を もった。この公会議はカズダギルド1世の保護を受けていて、僧侶達と帝国の他の聖職者達とから構成されていた。彼らは公式にはニケーアの公会議の監督を受けていた。325年におけるニケーアの公会議は ローマ帝国のコンスタンティノスがキリスト教を受け入れてから最初の大きな評議会であった。
公会議において、アリアニズム(アリウス派)の異教が宣告された。アレクサンドリアの聖職者で あるアリウスはキリストの神聖を受け入れず、父である神とキリストの同位性を否定した。ニケーネ 信条はキリスト信仰の声明となり、父であり、息子であることが本質の一つであると宣言された。 ササン帝国において、キリスト教 徒はニケーア公会議の決定を公式には受け取らず、その決定はイランにおける組織 と教会のルールと一致するものではなかった。セレウキアの公会議はこれを変え、意見の相違と喧嘩を止めさせ、組織化されたヒエラ ルキーとササン帝国下におけるキリスト教徒のためのルールを作成した。セレウキアの僧侶であるイサックはササン帝国の教会の長と なった(なってから長生きはしなかったが)。 他の作業段階には、教会を組織化 することがあった。ヤズダギルドの支配の終わりには キリスト教徒は火の寺院を 破壊し、ゾロアスター聖職者を攻撃することにあまりにも度が過ぎていて、ゾロアスター教司祭は死に至らしめられた。前の支配者と は比べるようもなく、ヤズダギルドは少数派の宗教に寛容だった。ヤズダギルドはresg galuthaの娘であるか、または ササン帝国のユダヤ人司祭の娘であるソスハンドゥクトと結婚したと言われている。このこと はササン帝国内におけるユダヤ人の地位を改善した。 バビロニア・タルムードの成立が4-6世紀と考えられ、ヤズダギルド時代のユダヤ教徒の状況は、タルムードの成立状況を知る上で の参考になるかもしれない。
ビザンツ帝国とササン帝国間での関係改善がヤズダギルド治世下で起こった。それはローマ皇帝ア ルカディウスの提案であり、ペルシャ人の支配者が息子であるテオドシウスの保護者として行動するというものだった。 この遺言は 単なるさして重要でもない政治的ジェスチャと考えられたが、多分この時は それは二人の君主と彼らの臣下にとってはより重要な意 味をもっていた。 ヤズダギルドは彼の役割を真面目に受けとめ、アルカディウスの死にはアンティオコスといわれる使者をたて若い 皇帝(テオドシウス)のための助言と世話のために送った。
ヤズダギルドの息子はしかしながら彼の死後、そう公平ではなかった。 彼の人生の間に、ある息 子 シャープールはアルメニアに王として送られ、アルメニアのアルサケス家の王 ヴラマシャプーが414年に死んだ後、彼にとっ て代わっていた。別の息子バフラームはヒーラのラハムのアラブ人の王アル・ムンディールのもとに送られていた。一方の史料では他の王子の存在ナルセス をほのめかしている。 ヤズダギルドの死において、彼 の息子シャープールはアルメニアからはせ参じ、王座を継承した。彼は非常に短期間統治し、殺された。傍系の一人のササン家の王子 -ホスローと呼ばれる- が貴族によって王位につけられた。 バフラームは ホスローを承認せず、アラブ軍とともにクテシフォ ンへいき、ホスローは退位しバフラーム5世が420年に王位についた。
バフラーム5世はゴール(これは”野驢馬”の意味)の渾名を持っているとイスラム史料は伝えている。これは彼の狩での能力に因んでおり、多くの逸話が残っている。彼の支 配の初期、バフラームは多くの時間を狩、飲酒、女、に熱中して過ごし、国事が悩まされたとされている。 彼はポロと音楽を愛し、 フィルダウシーによればlulisの楽団を連れてこさせた。彼らはジプシーの祖先であり、インドからイランへと人々を楽しませる ために連れてこられた。「野驢馬」は古い東方イランの、王か指導者を意味する単語にとって民俗的語源となっているかもしれない。 というのも バフラームは東方で彼の戦争に勝利し、ブハラの貨幣に少なくとも遺産を残しているからである。 バフラームのディル ハム貨は後のブハラのオアシスの貨幣のプロトタイプとして使われ、アッバース時代によく使われた地方貨幣に影響が顕れているとされる。 この事実は細かいことだが、バフラームの戦争が東方イランと中央 アジアにおいて重要であったことを示唆するのに十分である。別のケースでは、東方での戦争はバフラームの支配の終わりになされ、 その開始にあたり彼は西方で困難な状況にあった。
421年の彼の王位継承後、キリスト教徒への迫害が再開した。多分ゾロアスター司祭の扇動によ るものである。多くのキリスト教徒がビザンツ帝国へと逃亡し、バフラームは彼らの引渡しを要求した。しかしローマ皇帝テオドシウ スは拒否した。戦争が開始され、ビザンツは一連の戦いに勝利した。バフラームは422年に2帝国間での平和と敵対を求めた。キリ スト教徒はバフラームの支配下で礼拝の自由を得、ビザンツ人はコーカサスのダルバンド回廊の防御への資金提供に同意した。両者の いかなる町も陥落せず、国境線は変わらなかった。戦後 ササン帝国のキリスト教徒は自律とペルシャ人教会の西方教会からの分立を 宣言した。その西方教会はネストリウス派教会が異端とされる以前に(西方教会に)参加していたものである。
バフラームはアルメニア王にアルサケス家のヴラムシャプーの息子であるアルタシェスを任命する ことでアルメニアでの継続的な不満をそらそうとした。6,7年後アルメニア人貴族は彼らの支配に倦み、バフラームにアルタシェス を変えるように要求した。バフラームはこれに従い、428年にペルシャ人知事で王を置き換えた。 アルメニア人貴族 (nakharasと呼ばれる)は交替に満足した。彼ら自身により権力が与えられるようになったからだった。しかし司祭シャハク に率いられたアルメニア人聖職者はペルシャ人知事か総督(マルズバーン)の赴任に反対した。シャハクはペルシャ人に逮捕され、数 年間監禁され、聖職者の義務を再開するために解放された。 アルメニアの状況は解決されたが、後に改革が国を大きな苦痛をもたら すことになる。
バフラームは439年に彼の息子ヤズダギルド2世に継がれた。彼はただちにビザンツと会戦した が、テオドシウス2世は東方で問題を起こすことを望んでいなかった。彼は東方軍の司令官アナトリウスをヤズダギルドの兵営に派遣 し、平和が維持された。それはどちらも国境地区に新たな要塞を作らない、という条件などを盛り込んでいた。 平和は西方ではもた らされたものの、ヤズダギルドは東北辺境へと赴かなければならなかった。 とい うのもバフラームによって破られた部族が再びササン朝の覇権に挑戦してきたから だった。 これらの人々の種別は特定しられておらず、アルメニア人史家によれば彼らは 単純に時代錯誤にも「クシャン人」とか「フン人」(フン人もクシャン人と呼ばれていた)とかと呼んでいた。
「クシャン」の用語は東方の後続国家に用いられ、これはギリシヤ人が「スキティア人」と南ロシ アや中央アジアの遊牧民を呼ぶのと同じであり、もしくは 後のビザンツ人が全ての東方の遊牧民を「フン人」と呼んだのと同じであ る。 しかし、恐らくヤズダギルドが戦ったのはエフタルであり、あるアルメニア人史家は 彼の統治の12年間をクシャン人の王が 住んでいる「イタタカン」の地に侵攻した、としている。エフタルは中国の史書にも記載があり、彼 らはもともと中央アジアに居住していたとしている。5世紀、彼ら はバクトリアへ移動し、その地を支配するためにいくつかの地方の山岳居住民を含む様になった。彼らは土地の書き言葉を採用した、 それは、バクトリア語(時としてクシャン-バクトシア語と呼ばれる)であり、ギリシャ文字から発展したものだった。
ヤズダギルドはアルメニア人資料で ホラサーンのニシャプールで何年も過ごすため宮殿を建て、 それは東方の敵に対する戦争遂行にはより適していた。ササン軍は東方で勝利を収 め、彼の注意はアルメニアに向いた。そこは混乱状態にあった。
幸運にも我々はアルメニア人をゾロアスター信仰に変えようとしたヤズダギルドの試みについてア ルメニア人史料を介して詳細に 知ることが出来る。彼らによれば、この試みの背後にいる黒幕はミフル・ナルセスだった。彼はヤズダギルド1世、バフラーム5世、ヤズダギルド2世 時代の有名な宰相だった。彼はアルメニア人に改宗を呼びかける手紙を書いた。ミフル・ナルセスは失敗したばかりでなく、彼の政策 に反対する多くの人々を憤激させ、451年には貴族ヨセフによって集められたアルメニア人聖職者の議会と王子達が革命を起こし た。アルメニア人貴族の何人かはゾロアスター教を受け入れ、ペルシャ人側に立ったので、結果は単なるペルシャとアルメニア間の戦争以上の内戦となった。ビザンツへ の援助の依頼も無しのつぶてだった。天下分け目の決戦が 451年行われた。マミコニヤ ン家のヴァルダンという貴族によって率いられたキリスト教アルメニア人が全滅し、戦後多くのアルメニア人聖職者と貴族がイランに 捕虜として連れて行かれた。何名かの聖職者が殉教し、アルメニア人の土地はペルシャ人のマルズバーン(地方総督)によって支配さ れた。アヴァライアー(アヴァライル)の戦い(アルタズ(今日のイランのマークー近郊))はアルメニア史上の画期となる大 事件となり、今日で もアルメニア人により感情的に思い 出されるものとなっている。
アルメニア人以外の帝国内のキリスト教徒は迫害と課税に悩んでいた。シャープール2世時代の ような全面的な攻撃がなかったにしても。何人かのシリア人殉教者がヤズダギルドによるユダヤ人の迫害について言及している。王の 最後の数年間はカスピ海東方の遊牧民とエフタルとの戦いに専念させられた。ヤズダギルドは457年に死去し、東方辺境に平和をも たらさないままに、王座を争う二人の息子を残して世を去った。
- Cambridge History of Iran Vol3(1) Iran under the sasaniansの章から -
2013/Mar/24 Updated 誤字・脱字・文意不明な箇所の修正