資料はどちらが年長の兄弟であったかについて同意してはいないけれども、多分ホ ルミズドが兄であったろう。彼はとにかく支配者になった。ペーローズ−彼の兄弟−はエフタルの援助を確保した。そして王のもと へと進軍した。戦 闘においてペーロー ズは勝利者となり支配者となった。二人の兄弟の間の戦闘の間、アルバニアのトランスコーカサスエリアはイランからの独立を宣言した。 だからペーローズの王座奪還後の最初の行動の一つは叛乱地域の再征服にあった。彼は何人かのアルメニア貴族を解放し、彼らは彼の父によって捕虜の身となっていた人々 だった。そして以前の支配の残忍な統治はいま終わりを告げた。 ペーローズはもともと、シースタンの総督だったらしい。
厳しい旱魃によって引き起こされた飢饉がササン朝国家の新たな問題の原因となった。エフタルの新しい 憎悪がペーローズへと災害をもたらした。ビザンツ帝国はヨーロッパ地域においてフン人に占領され、一方ペルシャは中央アジアからの 人々の同 時におこった移住に直 面しなくてはならなかった。ペーローズは469年にエフタルに敗北し虜になった。ここではエフタルとキダーラ・フンの名称の間の史料上の混乱がある。彼らが同一かどうかは判断するのが難しい。しかし、両者の名称がペー ローズの時代に現れており、一つは彼らが一方よりも同時代的だとする ものであり、さもなくば他方は時代錯誤とするものである。キオニテという言葉はシリア人の年代記ではフンと同義語とされており、東における状況の我々の見 方を混乱させている。 ササン人君主は重苦しい平和に同意しなくてはならなかった。彼の息子カワードはペルシャ人が莫大な金を支払うまで人質として残され た。ササン人のイランは長年エフタルに貢納を支払わなくてはならなかった。ペーローズは彼の東での敗北から帰還し、ヴァハン・マミコ ニヤンに率いられた叛乱中のアルメニ アに向かった。隣人のグルジアでもキリス ト教徒とペルシャ人の間で騒乱が発生し、最初にキリスト教貴族の勝利をもたらした。後にキリ スト教徒だと宣言したアルメニア人の王、サハク・バグラトゥニはグ ルジア王ヴァクタングが彼のアルメニア人同盟の敵と平和を結 ぶことによる裏切りの後、ペ ルシャ人との戦闘で殺され た。ヴァハンはしかしながらササン軍の大半がカスピ海東への侵攻でぺーローズを支援するために482年にアルメニア国から去った後アル メニア人を奮い立たせることが出来た。2年後ササン人軍隊はエフタルに全滅させられ、ぺーロ−ズは殺された。
483年には、Beth Rapat(グンデシャープール)で宗教会議が行われ、その後の会議の含めて論争が行われ、他の宗派ともども、ネストリウス派は 単性派に破られることに なった(単性派は451年のカルケドン公会議で排斥され、正教派に破れている。またネストリウス派は、それより先の431年のエフェソス宗教会議で西方教 会から排除されていた)
ササン帝国の官僚組織は5世紀にほぼ発展した。我々は宰相であるミフル・ナルセスの重要な政府 の役割に言及した。彼は後のイスラム期の大臣のプロトタイプである。3つの国家の高官が少なくとも理論的には3階級と一致してい る、すなわ ち聖職者、戦士、書記であ る。モーバダーンモーバッドはゾロアスター教会の長であり、ハザールバッド、またはchiliarchの称号はアルメニア人資料 によればミフルナルセスに 与えられた。その地位はブルズルグ・フラマダール(偉大な指揮官)として知られている。3番目はダランダルズバッド、これは王廷の評議会長か官僚の長 だった。多様な史料に付されていることで保存された莫大な数の押印から、我々は アンダルズバッドの階級が州と地区にあったことを 推測することができる。ア ンダルズバッドは多分行政の長と同様に判事であり、イランでは法の重要性についての証人であった。ササン帝国の行政は他の章で議 論されている。しかしササン人のイランにおける称号の増殖は官僚制の複雑さを指摘している。
ササン帝国におけるキリスト教の発展は他の章で扱われているが、ペーローズの支配の終わりにはネストリウ ス派が帝国のキリスト教の支配的な教義となった。これはペルシャ人教会を作り、ビザンツ教会に反対の立場をとっていた。484年の春に首都で持たれた教会 会議で宣言された。この重要性はイランでのキリスト教の広まりの可能性であり、ビザンツの敵の信仰としてではなかった。ネストリ ウス派の反君主的信条はペ ルシャ教会において騒乱をもたらし、しかしながらササン朝国家にほとんど関係なかった。
ゾロアスター教の内的騒乱はしかしながら国家に関係していたが、それらが宗教と国家の間の強調 に深刻な 挑戦となっていたかどうかは疑わしい。マズダック運動が以下に言及される前までは。ミフルナルセスとヤズダギルド2世によるズルワーン思想(時間を第一存在とする一元論)に対する信仰は いくばくかの厳格な2元論者の聖職者からは反対され、我々はササン人イランのいかなる政治史にもその影響を認められない。 後の マズダック教徒の危機とい 事実は早い段階の背景として指摘されている。ゾロアスター教だけではなく、帝国の社会の構成を不確実に、混乱に陥れる背景として。
ペーローズの兄−バラーシュ 或いはヴァルガーシュと呼ばれる−が貴族に王として推戴さ れた。彼は常に彼らに弱い支配者の顔で彼らに影響を示すか、或いはペーローズに禍を振りかけるような災害となった。平和がエフタルとの間に結ばれ、重い貢 納がペルシャ人に架された。平和はヴァルハンに率いられたアルメニア人との間にもなされた。アルメニアに存在している火の寺院は破壊 されることが同意され、もはや建設 されることもなく、アルメニア人はキリスト教を自由に信仰でき、ゾロアスター教への改宗の畏れもなくなった。アルメニアはササン朝王 に 直接統治されるようになった、代官をつうじてではなく。アルメニア人はバラーシュを支援し、王位につけるように支援した。 ペーローズの兄弟や、ザ レールと呼ばれるペーローズの息子ではなく。 この援助とともに叛乱は破られ、後者は捕虜となり、殺され、アルメニア人貴族の貢献はバラーシュに評価され、高い地位につい た。ペーローズの支配の終わりに、またはバラーシュの治世の始めにネストリウス派はササン帝国の中でキリスト教の独立した宗派の地位 を確立した。バラー シュは彼の良き意思にも関わらず、貴族の陰謀の犠牲となり、488年にペーローズの息子カワードのために貴族は彼を廃した。
カワードは捕虜か人質としてエフタルの中で生活していた。彼らは彼が王座につ くのを支 援した可能性は高い。彼の支配の初期、宰相のザルミフル(ソクラ)はバラーシュを廃することに貢献した。彼はカワードの扇動によって 殺された。これは有力な貴族達の何人かを憤慨させ、カワードの地位は一貫して弱くなった。シリアの年代記によれば、アラブ、アルメニ ア、その他が、彼の最初の支配の間カワードのための騒 乱となった。しかし帝国にとって一番の問題はマズダック教徒たちであり彼らについて多くが書かれている。彼の政策によると、マズダックはマニ教の教義を踏襲していて、彼はゾロアスター教の儀礼も採用 してい る。我々はマズダックの生涯については殆ど知らない。しかし彼はゾロアスター教の司祭であり、マニ教の同調者だった。公言されたマニ教か異教として、彼は 彼が行なった影響を持つことが出来た。彼の暴力に対する戒めと他の人々への損害とは、原始的共産主義である所有物の共有というこ と で隣り合わせのものだっ た。我々はマズダックがどこまで遠くに行ったかは知らない。妻の共有を弁護することで彼を非難する中傷者にとって、それはありえ ないことである。何故王がマズダック主義を採用したのか、好意を寄せたのか、は知られていないが多くの学者は王が貴族階級への対抗勢力を探してい たと思索している。マズダキズムにとってカワードの同調は、普通の人々の状態の 改善を願うことが一つの役割を演じたということが殆ど疑いを得ないだろう。どの場合でも カワードのマズダック主義への傾倒の騒 乱の結果が貴族の陰謀を呼び起こした。我々はアルメニア人とアラブ人の間の叛乱に言及した。そしてビ ザンツ帝国がダルベンドの 防衛の資金を送ることを拒否したことにも。これらのことはその状態を悪化させた。カワードは廃位され、監獄に送られ、彼の兄弟の ザマースプが496年支配者となった。
多くの物語がカワードの牢獄からの脱出とエフタル王の王廷への逃走について語っている。数年後 彼はエフタル軍を率いてイランに帰還し、ザーマースプは逃げることな くカワードへ王座を明渡した。このことは498年の終わりか 499年の初頭に置かれてい る。そして多分ザーマースプは通常のケースのように殺されなかった。カワードは彼に対して陰謀をたくらんだ貴族を除去したが、概 して彼は寛大さでもって彼の地位を固めた。ビザンツ皇帝がカワードに金を送るこ とを拒んだことが−この資金援助は表向きはダルベンドの防衛のための寄付としての ものだったが−両者を敵対 行為へと導いた。カワードはエフタルとの同盟のための資金を必要としていた。彼は502年に彼の帝国の西北部で敵対行為を開始し た。テオドシオポリス−現 在のトルコのエルズルムはペルシャ人によって捕獲され、その後カワードは南に向かいアミダを襲った。精悍な防衛の後、503年1月に陥落 した。ビザンツ人たちは何度も東方へ軍隊を送り、戦争はどちらの側にも決定的な勝利がないままに一進一退となった。503年カ ワードはトランスコーカサスの彼の領土への侵入者に対処するために戦闘を打ち切らなければならなかった。504年にビザンツ人は アミダを再占領できなかったが、優位となった、506 年平和がもたらされ、カ ワードはビザンツからいくばくかの金を得た。2つの帝国の間の長期的合意の代わりに、ダラの町のビザンツ要塞の代償として。しか しカワードはアミダとそのほかの征服を断念した。 条約は7年間続くはずだったが、実際には延長された。
内政問題がカワードを彼の支配の終わりまで占有した。ビザンツに新しい皇帝ユスティノスが即位 し、 最初に2つの国家の間の関係に緊張をもたらした。マズダック教徒は繁栄を続けたが、彼らのやりすぎは正統派司祭や貴族の チェックを受け、貴族や司祭たちは現実に全ての反対に対抗しようとするカワードの手腕を強化 していた。後継者の問題がカワードを心配させていた、カワードは彼が自分で後継者を指 名したいと考えており、貴 族による選定を残したくなかった。彼は3人の息子を持っていた。そのうちもっとも若いホスローを彼は後継者として引きたてた。彼 の王座への継承を確かに する為に カワードはユスティヌスに ホスローを養子とするよう提案し、イランの支配者としてホスローを支持する責任を受け入れ るよう提案した。しかしビザンツ皇帝はカワードが提案したように養子を受け入れるつもりは無く、結果として2国の関係は凍結し た。
カワードの支配の終わりに内政的にはマズダックと彼の支持者の一掃を見た。一方外政的にはビザ ンチンと の戦争が再開された。王子ホスローはマズダックの虐殺の扇動者であり、これについては幾つもの話が語られている。マズダックの死後、正統派のゾロアスター 司祭に異端とされたものは、迫害され、その運動は地下に潜っていった。彼らの名はしかし時々社会改革を企図したものとして 資料に現れた。マズダック 教徒達の衝撃は偉大でなくてはならなかった。彼らの名は忘れられず、彼らは未来に遺産を残した。イスラム時代にいたってさえ。
この時代に、部族国家がアラビアにうちたてられた。それはキンダ族によるものであり、その指導者ハーリス・ ブン・アムルはラハム朝の王ムンディール3世を破り、その都ヒーラを略奪した。キンダー朝のヒーラ占領は恐らく数年続き、多分 525‐8年のことたっだ。 しかしキンダー朝のアラブ人達は506年イラクの一部を継承していた。グルジアでの事件がカワードの2度目の治世においてペルシャ人を忙殺させた。グル ジア王グルゲネスは彼の貴族達と戦い、貴族達はお互いを廃せない場合には王権を制限しようとした。ペルシャ人がこの不一致を利用 し、 523年に軍隊をもって貴族を支援した。王は隣国グルジアの北西の黒海岸のラジカに逃亡し、ペルシャ人はグルジアの都を占領した。マルズバーン(辺境総 督)が国を統治 し、ササン人が主となる町 (それはムツケタであり、現在のティフリスである)とその他の町々を建設した。
ペルシャ人のトランスコーカサスにおける成功はメソポタミアでのビザンツ軍の敗北と一致してい る。そこでは有名な将軍ベリ サリウスが指揮していた。527年にユスティヌスは彼の甥であるユスティニアヌ スへと政府の支配を譲ったが、ラジカ とメソポタミアの辺境での 戦争は続けられた。とりとめもなく。ベリサリウスはビザンツ軍東方指揮官にあり、辺境での要塞の建設を指揮した。彼はペルシャ軍に破られたが、ユスティニ アヌスは彼を指揮官から外すかわりに、ベリサリウスを東方の将軍に任命した。彼は再びダラの城壁外でペルシャ軍に遭遇し、彼らを 破った。コーカサス地域で もササン人は幾つかの逆転に悩まされた。カワードはアラブ人同盟者のラハムのムンディールをシリアへの襲撃において支援した。ローマ人 の要塞と ベリサリウスの側面をつき、アンティオキアを占領し、略奪する為に。ベリサリオスはしかし驚かずに新たな脅威に対処した。531年カリニクムの戦闘におい て、ベリサリウスは破られ、退却したが、ササン人の軍隊もあまりにも損失が重かったので彼らも逃走した。カワードはもう一軍を新 たな指揮官とともに軍隊を構成 し、ローマ支配下のメソポタミアに送った。成功の希望とともに。ベリサリウスはユスティニアヌスに召還され、彼を北アフリカの ヴァンダルへと送った。何 も達成されず、しかしカワードの死が敵対行為に終止符をうった。新たな支配者ホスローはササン人支配者のなかでもっとも輝かしく なり、サファヴィー朝時代 のシャー・アッバースと比肩される。
ホスロー
1世
(在位531-579年)
ホスロー1世またはアヌーシールワーン(”不死の魂の”)の統治は彼の兄と不満 を持つ貴 族達の反逆とともに開始された。しかし新支配者はそれを抑止し貴族と宗教の長達を彼の背後に統合することが出来た。彼はマズダック教徒運動による傷ついた 社会へのダメージを建てなおし、532年にビザンティンと平和を結びんだ。ラジカにおける幾つかの要塞をペルシャ人が撤退すること と、ビザンティン人が コーカサス防衛を維持するためにコスローに資金を支払うことという条件で。税制と国内統治の改革は数年間新しい統治者を忙殺させることになっ た。
マズダック騒動は税の収拾だけでなく、土地の権利をも破壊した。改革の必要はしかし長期にわたり、マ ズダック 教徒によりもたらされた社会の激動は既に古びたシステムを改善していた。カワードは土地を測量し、調査することで改革を開始していたが、彼の死に至るまで 達成することが出来なかった。土地台帳がホスローにより作成されたが、国土はより測量された。パーム、オリーブは数えられ、税を目的 と して評価された。最終的に個人は人頭税のために数えられた。古い国土の生産に基 づく税評額システムは古いだけでなく、ふさわしくなく 、それらは収穫の上で 評価され、集められ た。これは もう民は税の収集官が収穫物に着手するまで待たなくてはならず、時とし て遅延のために台無しになってしまう(腐ってしまう)ことを 意味した。カワードの 時代に税評価は、収穫が集められた後に行われるようになったようである。それは一つの改善点だった。ホスローの新しいシステムでは常 に年毎の評価額があり、数年の平均収穫高に基づいた固定税に代わった。これは大きな進歩であり、計画が、知られている税の今後の基礎 となった(固定税となるということは、不作の年の国家備蓄による食料供給や、備蓄を行っている大商人から貨幣により前年までの収穫 物を購入して不作の期間を凌ぐという、貨幣経済の発達を想 定することもできる)。人頭税は上流階級、聖職者、騎 士、書記には適応されなかった。しかし20から50歳の普通の男には適応された。税制改革後は物で はなく、貨幣で集められた。支払いは年 3回に分けられた。新税制の重要性は後世カリフ国のモデルとして利用されるまで過 小評価されなかった。ホスローの 税制改革はローマ皇帝ディオクレチアヌスによるユガティオ・カピタティオ(人頭税)についてのローマ人のindictio(15年紀ごとの徴税)との類似 性が数名の学者達によって指摘されている。ホスローの税制改革の結果は支配者が彼の財源を毎年固定することを意味した。イラクの 低地では、アケメ ネス朝時代から、ササン朝 においては土地税を共有して支払った。税制改革と並んで重要な改革は軍隊の改革だった。以前貴族達は大貴族から小貴族まで彼ら自身と従者は自弁自装備の義 務があり、軍隊へ支払いなしに奉仕した。ホスローは貧乏貴族、良い騎士と呼ばれる階層に装備と、軍隊での給与を与えた。 このように支配者は軍隊の直 接の支援を保持し、個人で軍隊を所有する大貴族の力は激減した。本質的に新しい社会が養成され、 土地貴族と新貴族が生み 出された。これはデフカー ン(dehkan)層の繁栄の時代であり、彼らは村を所有する騎士だった。デフカーンはイラン社会の背骨となった。アラブ人は征服後にそれを見い出したよ うに。ホスローは防衛を任務とする家族を辺境へ移住させ、危険な時期に国境を守らせた。このシステムを後期ビザンティン帝国 のテマ制度が基礎にしたの かどうかは確かではないが、これはありえないだろう。
王は帝国を4つに分割し、スパーフパッドか将軍をそれぞれに置いた。ホラーサーンの将軍 と西のイ ラクの将軍は東の遊牧民族と西のローマ帝国にあい対する辺境を防衛しなくてはならないことでは等しい重要性を担っていた。アラブは後年イラン国内に軍隊は 空であり、兵士は辺境に集中していることを発見したのだった。ひとたび辺境軍が敗北すると、国内はまったくオープンとなった。疑 いも無く我々が情報を持っていないような他の軍隊組織についての改革はホスローによって着手された。最終結果としてより効率的な 軍隊、それはビザンティン に対して使うようにおかれ たものだった。幸運にも我々はプロコピウスにおいてビザンティンに対するホスローの戦争の詳細な資料を持っている。それはアンミ アヌス=マルケリヌスが シャープール2世の戦争を記録しているように。2つの帝国の平和の期間の後の敵対行為の休戦は多様だった。イタリアの東 ゴートの使節の教唆−それは ユスティニアヌスに脅されたものだったが−がホスローに敵対行為を開始させる決 定に重要な役割を果たした。彼は西方において ローマ帝国が再建された後のビザンティンからの未来の攻撃を畏れていたのかも知れない。いつものようにアルメニア人とラハムのアラブ人がビザンティン人に 対して不満を持った。交戦の口実はたやすく手に入った。最初にユスティニアヌスがホスローに戦争を思いとどまらせようとしたが失 敗した。ホスローは540年にビザンティン帝国領に略奪品の調査のために侵入した。彼はシリアに向い、下メソポタミアのビザン ティンの防衛を南側から攻撃した。短い時間のうちにペルシャ軍はアンティオキ アの城壁の前に立っていた。市の攻囲は数日間続いたが、数年前の地震のため、敵に持ちこたえる準備はできていなかっ た。市は略奪され破壊され、それはただ ちにユスティニアヌスに平和を探させることになった。西方での彼の主力軍とともにビザンティン皇帝はペルシャ人の敵対者から平和を買わなくてはならなかっ た。休戦協定がアンティオキアで結ば れたが、ホスローは彼の国にゆっくりと戻った。それはユスティニアヌスが5000ポン ドの金を戦争の賠償金とし て、更に500ポンドをコーカサスの辺境の防衛のための寄付として毎年支払うことに同意することを待つためであった。ホスローはエデッサやダラのようなビ ザンティンの都市から莫大な額を毟り取りった、平和の条件として。後者の場所では、住民が、彼らが煩わされない状態に残されるた めに、ホスローに莫大な額を支払うまで町を攻囲しつづけた。これらの行動の結果 として、ユスティニアヌスは休戦を訴え、ベリサリウス−彼の西方における戦勝将 軍−をペルシャ人に対して送る 準備をした。
ホスローはイラクへの帰還途上彼の首都の近くに新しい都市を建設した。それはアンティオキアを モデルと しており、それはヴェーウ・アンティオク・ホスロー(ホスローが作ったアンティオキアよりよい)と呼ばれ、アンティオキアで獲得 した捕虜をそこに移住させ た。この町は首都の複合体の一つをなしてきてルーマガーン(ギリシャ人の町)と地元では呼ばれた。アラビア語ではアル・ルー ミーヤと呼ばれた。ホスロー は続く年にトランスコーカサスの黒海沿岸でのラジカにおける敵対行為を開始した。ペルシャ人がペトラ-海岸のビザンティン要塞- を占領し、国中に防衛基地 を建設した。それらは前はビザンティン支配下にあったものである。南方においてベリサリウスは幾つか地方戦で勝利を収めていたが、ニシビスやそのた要塞 化した町を獲得するに十分な軍隊と装備をもってはいなかった。続く数年ペストが両軍にとって行動の妨げとなった。ベリサリウスは ユスティニアヌスによって イタリアへと召還された。ローマ軍は543年にアルメリアでの敗北を喫した。戦勝の見こみによって熱くなったホスローは544 年にエデッサを攻囲しトランスユーフラテスを全て彼の帝国に組み入れる希望をもった。エデッサの防御はプロコピウスによって詳細 に記載されている。エデッサ市の人々の偉大な防御の 後、5年間の休戦協定が結ばれ、ホスローは、ビザンツから2000ポンドの金をもらうことになった。
休戦協定は、その4年目にビザンツ側から破られることとなった。ラジカ(イベリア地方、現グル ジア中部)にてペルシア人が追放されたためである。ビザンツ-ラジカ同盟軍は、ペトラを包囲したが、ササン朝軍によって死守され た。 後、2つのペルシア軍が送られ、強力に防衛されたものの、551年に奪取された。帝国間で再び休戦協定が結ばれたが、ラジカは協定に含まれていなかったた め、敵対行為は続行した。最終的に556年に、恒久的な宣言がなされ、561年に50年間の平和条約が結ばれ、ササン側はラジカ を獲得し、毎年金の貢納を受 けることになった。条約文書の印章となる宣言は、メナンデル・プロテクター(歴史家でもある)によって記載され、この時代の外交文書の様式を今に伝えるこ とになっている。
ホスローが西方における平和を必要としていた 理由は、東方での、エフタル問題にあった。557年、突厥河汗シウジボロス(シンジブ)と協力してエフタルを滅ぼし、その領土を 分割した。ホスローは、オクソス川以南を取り、突厥はその北を領有した。 569〜70年 頃には、オクソスの北へと勢力を拡張したと推測されるが、インド方面への領土拡張は、おそらくありえなかったものと推測される。 カブールとその東方は、せ いぜいあったとしても一時的に支配された程度で、恒久的にササン朝支配下にはなかったと思われる。東方では、エフタル諸侯をまとめあげる中央権力は存在し ていなかったと思われる。
彼の支配の末期には、南アラビアへの最初の軍事活動が行われた。ローマ帝国は、エチオピアと南アラビアに経済的関心を持ってい た。というのは、その地域 は、インドと下紅海地方の貿易をコントロールしていたからである。エチオピアと南アラビアにキリスト教が拡大していて、ユスティ ニアヌスとホスローの勢力 伸張は、アラビアを混乱に巻き込まないわけがなかった。エチオピアは、国家宗教として、単性派を採用しており、522年、ヒムヤル人によって迫害されてい る同宗派の人々を助けるために、軍隊を派遣したのだった。ヒムヤル人は、当時の南アラビアの支配的勢力だった。ビザンツの支援の もと、南アラビアのキリス ト教徒とエチオピア人は奮戦した。ユースフ・デュ・ヌワースはユダヤ教を信奉していたが、南アラビアにおける多数派である非キ リスト教徒の指導者とな り、エチオピア人を追放した。彼はエチオピア人と南アラブのキリスト教徒に対抗するには支援が必要であることを認識しており、サ サン朝とその臣属国である ヒーラのラハム王国に赴いた。しかしビザンツの外交政策はイランからの支援を妨害し、一方では、船を送ってエチオピア人を支援し た。525年に、ネグス (エチオピア王の称号)自身が軍隊を率いて南アラビアへの2度目の侵攻を行った。エチオピア人は勝利を収め、ユースフは殺され た。ヒムヤル人の新しい王 が、エチオピア人の監督下に即位した。531年にユスティニアヌスは、エチオピアとヒムヤル王に使者を派遣した。使者はエチオピア王 に、イン ドとの貿易を直接取り仕切るように提案した。特に絹貿易を。エチオピア人は、利益の上がる貿易からペルシア人を締め出した。使者 はまた、ヒムヤル王には、 中央アラビアの遊牧部族と同盟し、ササン朝の支配を攻めるようにと提案した。結局ユスティニアヌスとホスローは平和を維持するこ とにしたので、この2つの 希望は満たされなかった。この時期は、北アラビアのキンダ王国が没落し、ラハム王国が興隆していく時期に相当している。
532年と535年に、エチオピアの将軍アブラハはヒムヤル王から権力を奪取し、南アラビアに 独立国を 築き、少しずつ拡張していった。アブラハは、エチオピアからの独立も宣言し、すべての反対者を粉砕し、ビザンツからの使者を迎え た。アブラハの反対者はホスローに支援するよう働きかけたが、この時は特に動きは無かった。アブラハは569年か70年に死ん だ。
572年アブラハの息子の一人、マディカーリブは、他の兄弟の元から抜け出し、南アラビアの支 配者と なった。ホスローは、反ビザンツ派に支援することとし、南アラビアのキリスト教単性派は、親ビザンツから反対派へと鞍替えした。 565年に即位したユスティヌス2世は、5,6年間の沈黙の後、単性派の弾圧を開始した。575年、ホスローは、現アデン近郊へ と、アッブー・ムッラの息子のサイフとともに、 ヴァフリーズと呼ばれる指揮官の元、小軍を派遣した。南アラビアの首都サーナで勝利を収め、占領した。サイフは王となった。こう して南アラビアは、ササン 朝支配下に入った。しかし、南アラビアの、アラビア半島の地域への影響力は低下していた。時代は既に、イスラムへの道をたどりだ していたのだが、ササン朝 は、古来からのインドと極東地域へのビザンツの貿易を支配することに関心があった。598年、新規で大規模な遠征軍が別のヴァフ リーズによって送られ、ヒムヤル王国は、再度、ペルシア人の権威を認めることとなった。ペルシア人は勝利し、王は殺され、南アラ ビアは、ヴァフリーズを知事とする属州となった。
2帝国間の和平は、ユスティヌスからのアラブ首長達への資金援助を終わらせることになり、アラ ブの首長達は、臣属国に戻ることに同意した。ユスティヌスは、コーカサスのスヴァネティアの領有をもくろんでおり、そこは50年 平和条約 でビザンツに所属すること になったラディカの一部だと主張をしていた(条約には明記されていなかった)。都での交渉によって、皇帝は、アラブの首長が、一 度ビザンツ領を襲撃すると 決めたら、取り扱いが困難になることを示した。568年、バルカンのアヴァールとペルシアという共通の敵に対する同盟の可能性を 探るための使者が568 年、コンスタンティノープルに到来した。
アルメニアは、564年にスーレン家の知事が任命され、ゾロアスター教をアルメニアに広めよう とした。 彼はドヴィン(現在のイェレバン近郊。現在もドヴィンという町がある)に火の寺院を建設し、マミコニアン家の者を処刑した。その 結果アルメニア全土が蜂起 し、スーレンと彼の護衛は571年に虐殺された。アルメニア人蜂起は、ユスティヌス2世の計画に幸いした。彼は、ペルシアへ送っ ていたコーカサスの(対北部防衛資金)を停止し、帝国の臣下として蜂起を歓迎し た。軍隊が送られ、ニシビスを572年に包囲したが、司令官への嫉妬により 命令が変更され、陥落させることはできなかった。一方ペルシア軍は、背走するビザンツ軍を追って、彼らが避難しているダラに侵攻した。5ヶ月の包囲の後、 ペルシア軍はシリアを蹂躙 し、ユスティヌスは和平を訴えた。
ユスティヌス2世は、精神の病に悩まされていて、統治に困難をきたしたため、高官のティベリウ スが 574年に共同統治者となった。1年間の和平が結ばれ、ビザンツは多大な資金を支払うこととなった。しかしアルメニアは休戦協定から除外され、575 年、ホスローはアルメニアに侵攻した。ビザンツ帝国の東半分が、敵の手中に落ちるかと思われたが、ビザンツ軍はホスローを撃破す ることでき、ペルシアの辺境を荒らしまわった。続いて、辺境の人々、アルメニア人などは、今やペルシア人よりも、ビザンツ人に悩 まされるようになった。ササン人は576年に和平交渉の意思をもっていたが、ビザンツ軍の大勝利が交渉の余地を無くさせた。ペル シア側は、ダラの返還は拒否し、アルメニア人難民は 引き返すことを主張した。 いづれもビザンツ側は拒絶した。
578年ビザンツの司令官、マウリキオスがペルシアの幾つかの砦を落とした。一方アルメニア人 は、蜂起を終わらせ、ホスローの大赦に預かり、ササン人の支配下に戻ったのだった。2国間に平和が戻った。579年、48年の統 治の後、ホスロー死んだ。
ホスローが支配した帝国は栄光にあったが、既に市民の間ではペシミズムとデカダンスの精神の腐 食を示し ていた。固い階級構造はマズダック教徒によって破壊され、ホスローによって強力な宗教的制裁とともに再建された。大家族の権力は抑制され、階級間の障壁は インドのカースト制度に似ていた。ホスローは後世の支配者にとって、賢者の原型と なり、アラビア人著作者にとって、彼の 名前はイスラム以前のササン朝王の普通名称になった。このように「キスラー」(アラビア語で彼の名を現した場合)はカエサルの後裔としてヨーロッパにおけるカイザーやツァーの称号と 同じ経路を辿った。今日のペルシャでさえ、名も無き農夫は古い廃墟をキスラ・アヌーシールヴァーンに結びつける。彼はキャラバン サ ライ、橋、道、町を作り、 彼の統治下で帝国はかつて無き統合をもった。ゴルガン平原にある一連の砦と長城はホスローに帰せられている。これはトルコ族に 備えて作られた。彼はダル ベンドの防御と城壁も再建したと想定されている。ゴルガン、マーザンダラーン(現サリー近郊の海から山の地帯)、イラク、ダルベ ンドにおける壁と要塞は4 つの辺境地帯の4人の軍指揮官の間での帝国における軍事指揮についてのホスローの政策によく適合している。
帝国の富の基礎は土地と農作生産物にあった。人口の殆どが農民であり、その数はホスロー治下で 増大し た。我々はフーゼスタンの考古学調査とバグダード北東のディヤーラ川の調査がササン朝時代の間の農作地と灌漑の莫大な拡大を示していることに気付いてい る。 それは政府に莫大な農業からの利益があったことを示している。 ひとつの大きなイラクにおける灌漑事業が大ナフラワーン運河シス テムであり、これはイラク の農地の大きな領域へと水を供給した。イラクにおける調査の後、耕作地の拡大における国家的投資事業があったことは明白である。ホスローは国中のトンネルと運河の掘削 の複雑な計画を開発し、それはかつてないものだった。世界のこの部分では、収穫を得られる大きな土地 があった。農業は集約的 といよりは広大な地域で行われた。もちろん、ゾロアスター教は奨励すべき行動として、支配者の厳格な義務が架されないならば、魂の収穫の促進に関係した。
ホスローは、彼の政策に反対する者を80名処刑しているが、内50名は、書記階層の者だった。
ホスローは宗教には寛容な君主だった。彼の統治下には、組織的な宗教弾圧は無かった。529年 にユス ティニアヌスがアテネの学院を閉鎖しているが、このためにペルシアにやってきた学者を彼は受け入れたし、その後彼らがホームシックになったときには、2帝 国間の条約の一つとして、彼らを故国へと戻している。とはいえ、一般にギリシア人は王宮に居続けてギリシア理論の医学学校や、原 始的な大学が、グンデ シャープールに建設され、それはイスラム期にまで続いていた。ギリシア語だけではなく、サンスクリットからの翻訳もなされた。ブ ルゾーエは、多数の著作をサンスクリットから翻訳した。パンチャタントラから、「カリーラとディムナ」が翻訳されている。ブルゾーエはブルジュミフルの略称である。また、9世紀の パフレヴィー語の、正統アヴェスター教義が記載されている書籍は、ホスロー1世時代に内容が固まったと推測されている。
- Cambridge History of Iran Vol3(1) Iran under the sasaniansの章から -
2013/Mar/24 Updated 誤字・脱字・文意不明な箇所の修正