ザッハークの出身地はアラビアである。 単純に考えると、 7世紀におけるアラブによるイラン征服を象徴しているようにも思える。 そうして、10世紀フィルダウシーの時代 アラブ人は既にイランの直接の支配者ではなくなっていた。9世紀に成立したブハラを都とするサーマン朝(874-999年)やブワイフ朝は 事実上アラブ人の帝国の首都バグダードから半ば独立し、アラブ人の帝国の役人という肩書きながら世襲王朝を形成しはじめていたのである。では こうした地方政権王朝がイランを解放した、という史実を フェリドゥーン伝説は象徴しているのであろうか? サーマン朝やブワイフ朝は フィルダウシーにとっては同時代の存在である。 伝説となるには近すぎる。 わざわざ英雄の形に象徴させなくてはならないような言語統制が当時あったというわけでもない。 フィルダウシーの時代はペルシャ文学の興隆期で彼の作品は当時のイランの支配層にも受け入れられているのである。
アラブ以前、イランが征服されたのは2度あるとされる。1度目はアレクサンダー大王とその後継者によるギリシャ人の支配、2度目は同じイラン系民族のパルティア人による征服である。
ササン朝時代には伝説が成立していたと思われる。ササン朝時代に書かれた歴史書がフィルダウシーの時代くらいまでは残っていて、アラブの歴史家がそれを元に歴史書を残しているからである。 そのイランの歴史はこのササン朝時代に「作られた」と考えることが出来るのである。 ササン朝は王朝開始時期から国粋主義的政策をとっており 「古事記」「日本書紀」が 当時の政府にとって必要な内容に 歴史的事実を歪曲しているのと同様に ササン朝もかなり政策的にササン朝以前の歴史を歪曲しているのである。 それはイランの歴史的伝統や政策はササン朝、あるいはパルティアの前に始まる として前王朝のパルティアを異民族の簒奪王朝として そのイラン民族への貢献を 極めて否定的に扱ったのである。ギリシャ人の支配から イランを解放したのは 事実はパルティア王朝である。ササン朝ではない。 ヘレニズム的風潮を払拭し、 イラン的伝統を復活したのも実はパルティア王朝である。 パルティアは初期の頃こそ ヘレニズム的特徴を強く持っていたが、 次第にイラン的色彩を強め 末期にはすっかりイラン世界にたち返っていたのである。
ササン朝は そのパルティアを否定して王朝を建設したのだから パルティアの民族的貢献は隠蔽したいのである。その為事実は400年近くにわたってイランを支配したパルティア時代を ササン朝は150年にちじめてしまった のである。
ササン朝に徹底的に否定された為、フィルダウシーの「王書」でもパルティア時代はわずか1ページでかたずけられてしまっているらしい。「王書」はパルティア時代以前に3/5をあて、ササン朝時代に2/5をあてているのだそうである。そしてパルティア以前の歴史は殆どフィクションとなってしまっていて、そこにはセレウコス朝もアケメネス朝も登場しないのである。 フィルダウシー「王書」に見られる イランにおける伝説は このように 「パルティア以前」 をほとんど完全に覆ってしまっているのである。