パルティアとササ ン朝の歴 史情報は非常にすくない。古代中国やギリシャ・ローマに比べると殆どないに等しい。場合によってはその時代誰が王であったのかもよく わからないくらい酷 い。当時、面積では世界の4分の1を占めて、人口でも1000万人以上は住んでいただろうと思われる地域の歴史が約800年にわたっ てよくわからない、と いうのは悲しいことである。
そんなよくわからない古代イランの歴史なので、なんとか細い糸を辿るように歴史の断片を寄せ集めるこ とにな る。 ササン朝時代の歴史はそれでもパルティア時代に比べればまだましな方でいくつか資料が残されている。どんな資料が残されている かというと、同時代資 料としては、貨幣、宮殿や寺院、要塞などの遺跡、レリーフ、ギリシャ人、アルメニア人の史書などが挙げられる。 残念なことに ササ ン朝自身が残した同時 代の文字資料は碑文以外は殆ど現時点では見つかっていない。しかし後世の学者が ササン朝時代に書かれたと思われる資料に基づいて書 いた史書は幾つか残っ ている。 それが フィルダウシーの「シャーナーメ(王書)」であり、アル・タバリーの「諸預言者と諸王の歴史」である(一次資料について)。 (「アル・タバリーの歴史」英訳本一覧表(全39巻))アル・タバリーは839年にタバリスターン(カスピ海の南岸地方)のアームルに生まれライ(イ ランのテ ヘラン西北の町)に学んで、後バグダードに赴き、続いてバスラ、クーファ、フスタート(現カイロ近郊に遺跡あり)に遊学してバグ ダードに戻り学究生活を 送った。923年に無くなるまでに神学、言語学、歴史学、法律学で業績をあげた。 彼の歴史書をサーマン朝のアル・マンスール (在961‐976)時代の 宰相であるバルアミーが近世ペルシャ語(題名「アル・タバリーの歴史の訳」)に訳出した。 タバリーの業績はイスラーム史上の最 高峰の一つとされるが、完 璧な写本は伝わってはおらず、19世紀になってから あちこちに散らばる断片を欧州の学者が寄せ集めてある程度の原型を復刻した。
このタバリーの史書の特徴は、他の分野の仕事と異なり、無批判に各種資料をまとめただけであ り、あい 異なる内容の文章が混在していることである。これはある意味彼が利用した資料がそのまま伝わっていると考えることも出来、恐らく 彼が参照した、ササン朝時 代に書かれた歴史資料の内容がある程度そのまま伝わっていると考えることも出来る。そのような資料の場合は、「Aの伝えたこと をBが伝え、更にそれをC が伝えて、Dの伝えるところによれば」という書き方となっている。しかし別の観点では、資料の出典などについてが記載されて いないことも多く、各矛盾する内容の資料の真偽性を説くことは彼の時代よりも遼に困難となっている点が挙げられる。しかしこの点も彼の時代はササン朝が滅 んで既に200年が経っていて、彼の時代でも既にどれが明らかな伝説なのか、分からなくなっていたかも知れない。
もちろんタバリーの史書がササン朝についての最も豊富な情報を提供している資料である ことは間違い はないが、だからと言って、他かの資料と比較せず、無批判に彼の記述を採用することは控えねば成らない、とされている(例えばイ スラム時代の人頭税ジズヤ はササン朝時代からあったという部分などは他の資料(イブン・アル・ムカファ)によって確認される)。タバリーの史書は天地創造から説き起こしてマホメットによるイスラームの創世をへて915年に 至る長大 な人類史とのことであるが、その史書の最初の一部がササン朝やイエメンなどのアラビア半島の諸地域に当てられている。ササン朝は 各王の事跡毎にまとめられ ている。このページではそのタバリーのササン朝の王に関する部分を掲載していくつもり。初期の王達、アルダシールやシャー プール1世、2世、及び末期 のホスロー2世 などの歴史は、これらの時代がローマと戦争状態にあったり、ローマ側に優れた歴史家が登場するなどの理由から 比 較的ササン朝に関する記述が現代にまで伝わっている。 しかしシャープール2世 以降ホスロー2世に至る歴史は 5世 紀はローマ帝国が極度に衰退していた時 期でもあり比較的知られて はいないということもあり、このHPでは5,6世紀の部分から掲載してゆくこと にしています。
ササン朝で「王書」が書かれたのはペーローズの時代あたりらしいでのですが、それを念頭に読んででみる と、なんとなくペーローズ息子のカワードの時代以降は情報が正確になってきているようにも思えます。それ以前のヤズダギルド2世 など23年も統治したのに 殆ど事跡が記載されていないし、その前のバフラーム・グールはイラン史上もっとも愛されている王ということもあり内容は豊富ですが、重大なおかしなところ が目に付きます。彼の時代当時 中央アジアから進入してきた民族と大戦争が勃発しているが、その民族とは実際に はエフタルでありにも関わらず、バフ ラーム・グールの記述では 「トルコ」とされているのである。次のヤズダギルド2世では「エフタル」となっ ているので、このあたりがタバリーが元ネタと したササン朝時代の史書が作成された時期、及び信憑性のある記事の分水嶺と言えるかも知れません。
以下はササン朝の王名の一覧です。タバリーの歴史は結局は物語に近いので、もう少し情報を整理 した歴史記述も合わせて別途掲載したいとは思っているのですが、当分は出来そうにもありません。
在位 生没年 登位の年齢 没年齢 アルダシール 226-240年 193?
32歳?
47歳?
シャープール1世 240‐272年
ホルミズド1世 272‐273年
バフラーム1世 273‐276年
バフラーム2世 276‐293年
バフラーム3世 293年
ナルセス 293‐302年
ホルミズド2世 302‐309年
シャプール2世 309‐379年 309‐379年 0歳 71歳 アルダシール2世 379-383年
シャプール3世 383-388年
バフラーム4世 388-399年
ヤズダギルド1世 399‐421年
バフラーム5世 421‐438年 401?‐438年 20歳? 38歳 ヤズダギルド2世 438‐457年
ホルミズド3世 457‐459年
ペーローズ1世 457‐484年
ヴァラーシュ 484‐488年
カワード1世 488‐531年
*496-98廃位449‐531年 39歳 82歳 ザマースプ 496‐498年
ホスロー1世 531‐579年 497?‐579年 34歳? 82歳 ホルミズド4世 579‐590年
ホスロー2世 590‐628年
カワード2世 628年
アルダシール3世 628‐29年
シャフルバラーズ 629年
ボーラーン 630‐631年
ジュスナス 631年
アーザルミードゥクト 631‐32年
クラザード・ホスロー 632年
ペーローズ2世 632年
ファルクザード・ホスロー 632年
ヤズダギルド3世 632‐651年 617?‐651年 15歳? 34歳
タバリーの歴史英
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