パコールースの死で30人もの息子達のなかから選ばれた後継者はフラアテス4世だった。彼は父親を暗殺し兄弟を殺した。10万人の兵を率いたアントニウス(軍団6万人、イベリアとケルト人騎兵1万、同盟軍3万でこれにはアルメニア騎兵と歩兵が含まれていた)はメディア=アトロパテネの都プラアスパを攻囲したが輜重隊をパルテイア軍に破壊され、アルメニア王アルタバスデスは逃亡、27日かけてメディアとアルメニア国境アラクセス川に辿り着いた。これで3万5千人を失っていた。
フラアテースはメディア王と戦利品を巡って争い、アントニヌスに同盟を申し出た。逆にアレクサンドリアのセクストゥス=ポンペイウスがパルティアに使節を送ったがこれはうまくいかなかった。アントニヌスはアルメニアに進軍しアルタバスデスを殺した長子のアルタクセスはフラアテスのもとに逃亡し、アントニヌスと同盟したメディア王アルタヴァスデスと戦って破れた。しかしこの後アルタバスデスも破られローマへ逃亡した。結果アルメニアはアルタクシアスのものとなり、メディアはフラアテスのものと なった。ローマとの戦闘が終了したことで、早速パルティア内で内紛が発生した。31年に将軍ティリダテスが叛乱をおこし、フラアテスはスキタイの地に逃亡した。29年頃スキタイ人とフラアテスがティリダテスを追放しティリダテスはシリアへ逃亡した。26年ティリダテスが再度来寇したが恐らく破れてイスパニアに逃亡したが25年再度セレウキアで貨幣を発行したとのことである。
フラアテスには4人の妃がいた。オレンニレイエ、クレオパトラ、バセイルタ、ビステイバナプスという。アルタバヌス3世
ヨセフスによると前12‐前9年のどこかでミトラダテスというものが権力を握りフラアテスに対抗した。前6年バビロンのユダヤ人で地主で封建貴族のザマリスが100人の親族と500人の武装騎兵とともにアンティオキアに逃亡した。ミトラダテス支持者であったためと考えられる。前2年ムーサはフラアテスを毒殺し、息子のフラータケスを王位につけた。フラターケスはアルメニア問題に介入しようとしローマと紛争が起こそうになった。ガイウスが派遣されユーフラテス側で会見し協定が結ばれ、パルティアはアルメニアから手を引くことになった。AD2年、フラターケスはムーサと結婚したが 4年、殺されたが追放された。貴族はオロデス3世を王位につけたが、残忍であるため6年暗殺された。その後パルティアからローマへ使節が送られ、フラアテス4世の4人の息子のうちヴォノネス1世を返還するように依頼した。しかし彼は狩猟や祝宴を好まず、ローマ風の風習を持ちこんだのでアトロパテネ王アルタバヌス3世が貴族達に支持され、一度は破れたものの2度目は勝利し12年頃皇帝を宣言した。この頃ゲルマニクスはメセネへ使節を派遣しており、このことからメセネが自立していたと推測される。またヨセフスによると北バビロニアにアニラエウスとアシナエウス兄弟が泥棒王国を築いており、パルティア人総督を倒してしまった。皇帝は彼らを正式な統治者として承認した。これらはパルティア中央政府の弱体化を物語るものとされる。しかし王自身は有能で貴族達に対して権力を持っていた。王はアルメニア王ゼノの死後、息子のアルサケスをアルメニアに送りこみ、アルメニアに対する支配強化はアルメニア人の反発を招き、ローマの介入を依頼した。ローマはフラアテスの子ティリダテスを派遣した。アルサケスは暗殺され、イベリア王ファラマネスはアルメニアを占領したため、アルタバヌスは息子のオロデスを派遣したが、彼はファラマネスとの一騎討ちに破れた。36年アルタバヌスはイベリア征伐に出向こうとしたが、アラン族がローマの手引きでパルティア国内に進出していた。アルタバヌスはローマの将軍ウィテリウスが国内に扇動した不満に東部へ逃亡した。その後ローマ軍とともにフラアテスの子ティリダテスが到着した。しかしスシアナ総督フラアテスと貴族ヒエロはアルタバヌスと同盟を結ぶことにした。アルタバヌスはヒルカニアで襤褸をまとい弓だけを持って生活していたが、召喚されダハエ族とサカエ族から軍隊を得て帰還した。ほとんど戦闘が行われることなくティリダテス軍は散りじりになった。36年ローマのシリア知事ウィテリウスとの間に和約が結ばれた。ほどなく貴族達の不満にアルタバヌスは退位し親族1000人とともにアディアバネに逃亡し、アルタバヌスに育てられたキンムナスが王位についた。アディアバネ王イザテス2世はキンムナスに書簡を送りキンムナスは自発的に退位し、アルタバヌスが復位した。復位後ほどなく死去した。
セレウキアでは伝統的にユダヤ人とバビロニア人対ギリシャ人の党派争いが展開されてきたが、やがてギリシャ人がバビロニア人を引き離してユダヤ人を虐殺した。更に37年商業者達は叛乱を起こし独立を宣言した。
ヒルカニア出身でギューの息子とされるゴタルゼス2世が即位した。彼は兄弟であるアルタバノスの一家を殺しバルダネスは逃亡したものの1年後に貴族達の要請でバルダネスは560キロを2日で帰還し、ゴダルゼスはダハエ族のもとに逃れた。ヴァルダネスは叛乱し独立中のセレウキアを包囲した。39年ゴダルゼスはダハエ族とヒルカニアで軍を集め、ヴァルダネスはバクトリアに進軍したが、貴族達の陰謀に兄弟は同盟を結びゴダルゼスはヒルカニアにとどまることとなった。アディアバネはゴダルゼスの支配下にあった。この時セレウキアでヴァルダネスの勝利を祝う貨幣が発行されている。42年ヴァルダネスはセルキアまで進軍し、セレウキアは投降した。36年から続いたセレウキアの叛乱はこうして終了した。ヴァルダネスはアルメニア内紛に介入しようとしたが、援軍を拒否したアディアバネ王イサデス2世と開戦するに至った。43年貴族達はゴダルゼスに左担しヒルカニアのエリンデス河(古名カリンダス)にて会戦しヴァルダネスが勝利した。その後ヴァルダネスは各地をようちょうしインダス河まで平定した。45年末、3度ゴダルゼスとヴァルダネスは開戦し、47年まで闘争は続いたがヴァルダネスが狩猟中に暗殺されたことで決着を見た。こうしてゴダルゼスが帝位を確保したが、貴族達の一部はヴォノネス1世の子ローマに送られていたメヘルダテスを帝位につけようとし、彼はローマ軍、カーレーン家軍とともに侵攻したが、コルマ河付近の戦いでカーレーン家長が戦没しメヘルダテスはゴダルゼスに虜にされ両耳をそがれた。この勝利を記念して王はベヒストゥーンに碑文を刻んだ。ゴダルゼス死後メディア王ヴォノネスが数ヶ月帝位にあっただけで、ギリシャ人妾の子ヴォロガゼス1世が帝位についた。 ゴタルゼス2世とヴァルダネスの1世抗争
(38-51年)
ヴォロガセス1世
(51-78年)
ヴォロガゼス1世は弟のパコールースをアトロパテネ王とし、更にティリダテスをアルメニア王とするためにアルメニアに侵攻しアルタクサタを占領したが冬を迎え軍を引いた。ラダミストゥスはアルメニアに帰還したが統治が残忍だったのでアルメニア人は蜂起したため追放されティリダテスが王位についた。このアルメニア事件はローマ軍将軍グナエウス=コルブロが派遣された。この頃息子のヴァルダネスが叛乱したが直ぐに鎮圧されている。一方アディアバネの貴族の要請でイサデス2世とアディアバネとメディアの境界にある大ザブ川の岸でヴォロガゼスと対陣したが、カスピ東岸部族の侵攻の報にヴォロガゼスは撤退した。58年ローマ軍はアルメニアに侵攻し、イベリア王ファラマネスもアルメニアを攻めた。アルタクサタは占領され、ティリダテスは逃亡した。当時ヴォロガゼスはヒルカニアの叛乱鎮圧に出ていたが、結局ヒルカニアはパルティアから最終的な独立を獲得した。59年春ティグラノケルタが陥落した。61年アルメニアの新王ティグラネスはアディアバネへ侵攻してきた。アディアバネ王モノバズスはローマに降伏しそうになったが、貴族モナエセスの援軍を受け、モナエセスはティグラノケルタを包囲したが和議が結ばれた。63年パルティアの使節がローマに送られ交渉が行われたが不調に終わった。その後再び戦端が開かれ、63年暮最終的な和議が結ばれた。ティリダテスはローマで戴冠することになり66年ローマに向かった。3000人の騎兵と王妃、息子、モノバズスの子と二人の兄の息子とともに陸路でローマに至った。王妃は布の変わりに兜をかぶっていたという。
ヴォロガゼス1世の貨幣にはじめて祭壇が登場し、アヴェスタの結集が命じられ、貨幣にはパフレヴィ語が登場した。この時代にヘレニズム的風潮に変わりイラン化が進行しはじめたようである。 また彼の時代ヴォロゼソケルタが建設され、セレウキアに変わって商業的中心地となりまたクテシフォンの地位も向上した。セレウキアは衰退していった。69年ヴェスパシアヌスがアレクサンドリアで皇帝宣言を行った際、ヴォロガゼスは使節を送っている、曰く「諸王の王アルサケスよりフラヴィウス=ヴェスパシアヌスへ」との書き出しで始まる書簡が送られ、更に71年にはユダヤ人叛乱を鎮圧したティトスへ使節が送られた。72年コマンゲネ王国(首都サモサタ)がローマに攻められ併合された。同じ頃アラン族の侵入がはじまりヒルカニア王と同盟を結び、コーカサスの鉄門経由でアトロパテネへ侵攻し、パコールース王は逃亡した。更にアルメニアも敗れたが戦利品に満足して引き上げた。75年アラン族と戦うためにヴォロガゼスはローマに援軍を求めた。
ヴォロバゼス1世がまだ貨幣を鋳造している時に、パコールース2世はセレウキア=クテシフォンで貨幣の発行を開始している。このことから王位継承は平穏ではなかったものと推測される。80年にはアルタバヌス4世がセレウキアで貨幣発行を開始しているが、83年頃にはパコールースは競争者を退けていたようである。しかし88‐93年、97‐105年に貨幣を発行していないことから治世が安定していたかどうか疑わしい。105年には対立皇帝ヴォロガゼス2世が、109年にはオスロエスが貨幣を鋳造しはじめている。88年と101年にパルティア王満屈復が獅子を送ってきたと中国の史書にあり、これはパコールースのこととされている。ダキア王デゲバルスとも使節のやりとりがあったらしい。パコールース2世
(在位78-105年)
参考
- 「パルティアの歴史」デベボイス 山川出版社 -
- 「ペルシャ帝国」 講談社 足利惇氏 ‐