晩期アルサケス朝
(105年-226年)



 
 
ヴォロガセス3世
(在位105-147年)
  ヴォロガゼス2世治世の前半はオスロエス1世との抗争期間であり、かれらはセレウキアの貨幣鋳造所を交互に支配し貨幣を発行した。トラヤヌス戦時はオスロエスと彼の息子のパルタマスパテスと甥の元アルメニア王サナトルケスが活躍した。しかしパルマスパテスとサナトルケスは仲たがいし そこをトラヤヌスに乗じられサナトルケスは殺された。サナトルケス子のヴォロガゼスはアルメニアを一部奪還した。パルマスパテスはトラヤヌスにより皇帝につけられたもののパルティア人の承諾はなく、やがてハドリアヌスによりオスロエネ王とされた。 ヴォロガゼスはトラヤヌス戦時アルメニアの一部を所有し西北イランにいたらしいが、136年頃アラン人と交戦している。アラン族はイベリア王ファラスマネスの導きでアトロパテネ、アルメニア、カッパドキアを蹂躪した。アディアバネ総督ラフバフトと将軍アルシャックはヴォロガゼスがクテシフォンで徴募した2万の兵を率いて防戦にたったが敗退した。しかしアラン族の本国が攻撃されたのでアラン族は引き上げた。ローマではカッパドキア知事アリアノスがアラン族を破った。 彼の時代イランでミトラダテス4世が貨幣を発行しているが彼について詳細は不明である。
 トラヤヌス戦後、バクトリアからハドリアヌスに使節が送られており、バクトリアは独立していた可能性が高い。

  120−130年頃、ユダヤ王ヒルカノスはパルティア人と結びアンティオキアを攻撃している。またヒルカノスの子ヤナエウスの時代にはエルサレムでパルティアの親善使節が迎えられている。

 
ヴォロガセス4世
(在位147-192年)
  148年5月最初の貨幣を発行しており、この頃即位したらしい。帝位継承は平穏裏に行われたらしい。153年頃ヒルカニアとバクトリアからローマに使節が送られており、これらの地はパルティアから独立していたと考えられる。161年にヴォロガゼスは戦端を開き、将軍オスロエスはセウェリアヌスを敗死せしめ、パルティア軍はシリアに侵入した。163年ローマ軍はアルメニアに侵攻しパコールース王は廃位されソハエムスが王位についた。ローマはセレウキアまで進軍し165年12月に占拠しこの町を焼き、クテシフォンも占領したが天然痘が発生し退却することとなった。パルティア軍はアルメニアを再占領し、ソハエムスはシリアに逃亡した。166年ローマ軍はメソポタミアに進軍しエデッサ、ニシビスなどを占拠した。191年ヴォロガゼス5世がセレウキアで貨幣の鋳造をはじめた。ヴォロガゼス4世の最後の貨幣は192年3月のものとされる。
 
ヴォロガセス5世
(在位191-208年)
  193年、ローマの内紛にパルティアはペスケンニウス=ニゲルを支持したが、ニゲル敗北によりパルティア軍もニシビスでセウェルスに破れた。195年セウェルスはユーフラテスを渡りニシビスに駐留した。196年セウェルスがガリアの叛乱鎮定に向かっている間、ヴォロガゼスは北メソポタミアやアルメニアを占領した模様だがニシビスは占領できなかった。こうしたローマ軍の侵入にパルティア国内でも叛乱が発生し、ヴォロガゼスはホラサーンで敵を破りカスピ海にまで追撃した。しかしこの間アディアバネ王ナルセスは東方遠征を拒否しローマ側に立つ風情があった為ヴォロガゼスはアディアバネを占領しナルセスを殺した。197年セウェルスが来寇しニシビスを包囲していたパルティア軍は退却した。198年にはセレウキアとバビロニアはパルティア軍が退却していたため簡単に占領され、クテシフォンも抵抗ののち占領された。しかし兵站が確保できず退却することになり、199年帰還途中でハトラを攻撃したが落とせなかった。
 
ヴォロガセス6世
(在位208-228年)
  213年頃、ヴォロガゼスとアルタバヌス兄弟の間で紛争が起こった。アルタバヌスはメディアとエクバタナを拠点とした。216年にはメソポタミアへ進出していた。カラカラはメディアに侵入しアルベラを攻略した。217年アルタバヌスはメソポタミア北部で反撃した。カラカラが死去し後を継いだマクリヌスは和約のためニシビス近郊でアルタバヌスと会見した。しかし小競り合いから戦端が開かれ、パルティア軍は騎兵隊とラクダ部隊で、ローマ軍は歩兵部隊で戦ったが、ローマ軍の撒きビシに悩まされたがやがてパルティアが優勢となった。この後218年にもマクリヌスはアンティオキア近くでパルティア軍に敗れた。
 220年頃叛乱が発生し全土に拡大した。メディア人、アディアバネのシャフラト、ケルフ=スフル(キルクーク)のドミティアヌス王がアルダシールと同盟を結んだ。1年後同盟軍はメソポタミアとベト=アラマヤに侵入し、ハトラ攻撃は失敗したもののベト=ザブタイ(ザブディケネ)を蹂躪してアルズン(アルザネネ)に侵入した。ヴォロガゼスは陣没した。アルタバヌスは224年オ−フルマズダカーンで破れて殺された。その後息子のアルタバスデスが数年間抵抗を続けたがやがてクテシフォンで処刑された。
   参考
    - 「パルティアの歴史」デベボイス 山川出版社 -
       - 「ペルシャ帝国」 講談社 足利惇氏


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