前期アル サケス朝
(前141年-38年)




フラアテス2世
(在前138‐128年)

 王が幼少である為、母親であるリインヌが摂政となった。シリアのアンティオコス7世は兄 デメトリオス奪還の為に軍を起こし、3度パルティア軍を破り、パルティア将軍イダテスを破り、バビロニア知事エニウスもセレウキアの住民に殺された。スー サでは権力を奪取して支配していたティグライオスが前137年から133年に貨幣を発行している。アンティオコスはメディアを占領し、人々から「大王」と 呼ばれはじめていた。前130年アンティオコはスバビロニアの支配者になった。しかし、セレウコス朝の支配は現地住民に圧力をかけ不評だった。 この時点 で 和平交渉がもたれたが アンティオコス側は
 
  ・デメトリオスの解放
  ・パルティアが奪った、パルティア本土以外の全ての領土の返還
  ・セレウコス朝への貢納
 
 という条件に交渉は決裂した。しかし、フラアテースはデメトリオスを返還した。 前129年春、メディアの諸 都市はセレウコス軍の重圧に抵抗する態度を見せ始めた。フラアテースの間者達は、市民の蜂起を促した。アンティオコスはシリア本土の軍を招聘したが、王の 前に現れたのはパルティア軍だった。アンティオコスは戦没した。3000人が殺されたとされるが、残りは捕虜となった。彼らの中にアンティオコスの子がい た。彼はパルティア宮廷で王子として育てられ、また、デメトリオスの娘が王家のハーレムにいた。アンティオコスの遺体は丁重に扱われ、銀の棺桶に入れられ てシリアへ返還された。 また、ヒルカニア人ヒメロスをバビロニア総督とした。

 アンティオコスを破ったもフラアテスはシリア侵攻を計画していたが、サカ族侵入の報に東方へ出撃した。 実はアンティオコスとの戦闘における軍中に 既にサカ族の人名が見えていた。 が、彼らが到着が遅れたため、想定していた賃金を貰えないことがわかり、彼 らは他の軍隊に参加することにも、賃金を貰えないことも拒否し、パルティア領内を荒しまわる挙に出、彼らの一部はメソポタミアにまで達した。 前128年 の戦闘ではアンティオコスとの戦闘で捕虜としたギリシャ人部隊をサカ族への戦闘に差し向けたが、彼らはパルティア側の押されている状況を見て、サカ族側に ついてしまった。フラアテスは戦死した。

 
 ところで、前129年アラブ人ヒスパネシオスがカラケネ王国を作り、バビロニア総督ヒメロスは敗北した。ヒス パネシオスは一時バビロンとセレウキアを手にしたが、やがてヒメロスに奪還された。ヒメロスは「偉大な王、アルサケス=ニケフォロス」と名乗った。
ア ルタバーヌス1世
(在前128‐123年)

 アルタバーヌスは即位後、遊牧民との戦闘に直面した。今回はトハラ族であり、彼らはフラアテースとサカ 族との戦闘中、サカ族の背後を突いたこととして知られている。この時彼らはオクソス河(アム河)の北にいたと考えられ、アルタバーヌスと連絡をとることは 困難だった。王はトハラ族との戦闘において腕に毒矢を受けて戦没した。この結果サカ族はドランギアナ北方に移住し、この一帯はサカスターン(シースター ン)と呼ばれるようになった。

ミトリダテ ス2世
(在前123‐91年)

 前121年ミトリダテス カラケネ王国を奪還した。しかし ヒスパネシオスは排除されたわけではなく、 そのまま総督或いは国王として貨幣を発行しつづけた。カラケネ王国は116年トラヤヌス侵攻時まで南メソポタミアを支配し続けた。メソポタミア北部ではミ トラダテス=シナケスが総督についていた。ミトラダテス治下のパルティアは多数の封建諸国を抱えた封建王朝であり、他にもベヒストゥーン碑文に「諸総督の 総督」を名乗るゴダルゼス(前91‐80/95-90?)の名前が見えていることから、91年以降バビロニア・メディア一帯を ゴルダゼスなる王が支配し ていたと考えられている。ゴダルゼス1世はバビロニア天文日誌によれば、ミトラダテス2世の息子らしい。この頃、ヘカトンピュロスやセレウキア、クテシ フォン間を王宮が移動するという習慣は廃れたようである。これは、ヘカトンピュロス滞在中にセレウキアなどで王位僭称者が度々出現したことによる。ヘパト ンピュロスが王宮として利用されたのはオロデス2世の頃までとされる。ミトリダテス2世の頃までには、夏の王宮としてエクバタナが整備されたようである。 また、メアリーボイスによると、アルタクセルクセスへ遡る系図が作られたのも、ミトラダテス2世の時代のことらしい。

 前92年スラとオロバズスの会談が行われた。ローマとパルティアの正式な公式会談だったと思われる。 が、この時対等な内容の条約が結ばれた為、オロバズスはこの条約の責任をとって処刑された。 

 一方ミトラダテスはセレウコス朝のサトラップであったアルメニアのアルタクシアス朝アルタバデスに戦争 をしかけ、アルメニアから領土を獲得し、後の大王、王子のティグラネス(前95‐55)を人質にした。後にミトラダテスはティグラネス大王の娘のアウトマ と呼ばれたアリヤザテを妻としたとされる。ミトリダテスには他にもアシアバトゥムという帝妃がいたとされる。

 東方領土では シースタンをスーレン家が領有するようになったのは ミトリダテス2世の頃からとされ る。

 ミトラダテスは バシレウス・バシレイオン「諸王の王」を名乗った。これは アケメネス朝の クシャヤ シーヤ・クシャヤシーナム(諸王の王)のギリシャ語直訳表現である。
 

オロデス1 世とシナトルケス
(前80‐70年頃)

  ミトラダテス死後ティグラネスはメディアのアディアバネとゴルディエネを手に入れ、エクバタナ西方の アドラパナの王宮を焼いた。更にメソポタミア全土を占領し、「諸王の王」を名乗った。

 前87‐75年の間にパルティアはマルギアナ、トランスオクシアナ、アリアを奪回している。しかし、前 88‐57年(前64を除く)パルティアでは「諸王の王」の称号が使われなかった。これはインドが独立していたからではないのか?という説があるようだ が、バビロニアのゴダルゼスなど ミトラダテス生前から王位を競う存在が存在したためかも知れないし、更に アルメニアのティグラネスがこの時期「諸王の 王」を名乗っていた。 これも理由の一つかも知れない。 前80年オロデス(‐70)が出現し、ゴダルゼスの単独支配は終わった。オロデスは前76、75 年にはパルティア王姉妹のイスブバルザを妻としていた可能性がある。この王が誰だか不明。シナトケルス王(前77‐70)のことかも知れない。シナトルケ スはサカ族のもとにいて その影響のもとに王座についた時80歳になっていた。シナトルケスはパルティア王家の王子だという理由以外、その高齢にも関わら ず王位につけた理由は見当たらない。しかしシナトルケス時代にパルティア領内は安定に向かったようである。 彼は71頃にポントス王ミトラダテスに援助を 依頼され、それを断ってもいる。
 


フラアテス3世
(在前70‐57年)
ポンペイウスの東方遠征

  
 フラアテスの時代、ローマの将軍ルクルスがポントス王ミトラダテスを破り、ミトラダテスは義理の息子にあたる アルメニアのティグラネスに援助を求めてきた。ルクルスはミトラダテスを追ってアナトリア奥地へ入り、ティグリスとユーフラテスを渡り、前69年アルメニ ア首都ティグラノケルタを攻囲した。 
 ルクルスVsミトラダテス&ティグラネスの抗争時フラアテスはどちらともつかない態度をとっていた。両者から の使節をのらりくらりかわしていた。ルクルス更迭後ポンペイウスと協定を結んだが、ティグラネス大王へ反抗した息子のティグラネスの要請でアルメニアに侵 入した。しかし小ティグラネスは敗退しポンペイウスに救いを求めた。結果ティグラネス大王はポンペイウスに降伏した。ポンペイウスはメディア−アトロパテ ネ王ダリウスを攻撃し、フラアテスはゴルディエネを占領した。ポンペイウスはゴルディエネを奪還しこの地はアルメニアの大王に与えられることになった。こ の後フラアテスはアディアバネを、ティグラネスはゴルディエネとニシビスを確保した。57年フラアテスは息子のオロデスとミトラダテスに殺された。


オロデス2世
(在位前57-38年)
カルラエの戦い

 
   ミトラダテスはしかし貴族に嫌われローマに逃亡し将軍ガビニウスに庇護を求めたが、ガビニ ウスはプトレマイオス11世の買収に乗り、結局軍隊を派遣しなかった。ミトリダテスは内戦を開始しバビロンとセレウキアを占領した。継いでスレーンに率い られたバビロンを支配していた弟オロデスの軍隊がセレウキアを奪還した。バビロンは長期攻囲の後降伏し、ミトリダテスは降伏して殺された。ミトリダテスは 僅か4年の治世(前57‐54)だった。
 55年11月13日シリア知事に任命されたクラサスがローマを出発した。54年メソポタミアに侵入し総督シラ ケスを破り、征服した町々に守備隊を残して冬シリアに帰還した。53年春、オロデスは使者をだして以下のように言ったとされる。

 「 我々パルティア人は、この戦いがローマ人の承諾なしにおこなわれていると聞いている。もしそうであ れば、我々は慈悲を示してクラッススが老齢であることを考慮する。しかしもしこの攻撃が正式のものであれば、休戦や和議のない戦いになるであろう」

 クラサス軍は34000の歩兵と4000の騎兵、4000の軽装備兵であり、スーレーン軍は騎兵1万と 1千のラクダだったとされる。補佐官は総督のシラケスだった。うち騎兵1000はスレーンの護衛であり、馬車200台分の妾が随伴していた。初日の戦いで 歩兵部隊は蹴散らされ、クラサスの息子プリスクスは戦死し、大勢は決した。翌日は明け方から虐殺が行われ、それが終わった後クラサスと残存部隊が非難して いたカルラエの町を包囲した。ローマ軍は夜間アルメニアへの逃亡を図ったがパルティア軍に追撃され、和平会談がもたれ一時は合意するところであったが、さ さいないき違いから戦闘になりクラサスほか将兵は殺され、2万のローマ人が殺され1万は捕虜となりメルブへ送られた。

 アルメニア王アルタバスデス娘とオロデス子パコールースの婚姻祝典でエウリピデスの「バッカイ」が演じ られているとき、クラサスの首がもたらされた。52年にはパルティアはシリアを攻撃した。スーレーンはオロデスに畏れられて殺された。
 

 
パコールース
(在位39年)
シリア征服
  51年8月パコールースは補佐官オサケスとともにユーフラテス川に到着した。9月、アンティオキアを略奪し アンティゴネア近郊でカッシウス軍によりオサケスが陣没した。キリキア知事キケロは軍団を率いてパルティア軍の侵攻に備えていたが、50年春、パルティア は軍を返した。45年軍団とともにあったポンペイ人バッススがシリア知事にアパメア攻囲される事件がおきた。この時バッススはパルティア人に支援をもと め、パコールスが助けにきた。冬が近かったのでパルティア軍は引き上げた。44年カエサルは16軍団と騎兵1万を用いてパルティア戦の準備をしていたが暗 殺された。41年ローマ騎兵隊がパルミラを襲撃し住民はパルティアに逃亡した。40年パルティアがローマに侵攻した。この時共和主義者のクイントゥス=ラ ビエヌスがパルティア軍に加わっていた。春ユーフラテス川を渡り、アパメアを占領、ラビエヌスは小アジアに侵攻しほとんどの都市を制圧した。パコールース はティレ以外のシリア全土を征服した。ハスモン家のアンティゴノスはパルティア軍に荷担することとし、パルティア−ユダヤ連合軍はエルサレムに侵攻した。 当時ハスモン家は実権を失いヘロデとファイサル兄弟の手中にあった。アンティゴノスはパルティアを利用してファイサルを自殺に追い込みヘロデをマサダの砦 へと逃亡させ王位についた。
 40年ローマは執政官プブリウス=ウェンティディウス=バッススを送り、39年ラビエヌスもパルティアから援 軍を得たが打ち破られ殺された。こうしてキリキアが奪回され、パルティア将軍ファルナパテスを破ってシリアへ突入した。39年末、シリアが奪回され、パ コールースはシリアから撤収した。38年春パコールースが再度シリアに侵攻してきた。バッススはパルティアのスパイに誤情報を流し、決戦の場を自軍の都合 の良い場所に設定した。アーフリン川のギンダルス近くの戦闘でパコールースは戦死した。

 

    参考    
    - 「パルティアの歴史」デベボイス 山川出版社 -
    - 「ペルシャ帝国」 講談社 足利惇氏
       -  「ゾロアスター教3500年」 筑摩書房 メアリーボイス
    ‐ Cambridge History of Iran Vol3(1) The expansion of Arsacid powerの章


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