ディオ・カッシウス「ローマの歴史」に登場する
パルティア・サーサーン朝関連の記述
デシオ・カッシウス「ローマの歴史」(英
訳サイト)には、パルティアに関する記述が現れている。以下の記述は、セウェルス以降の記述中に関して、パルティアが登場す
る部分を以下に訳出し てみた。
□76章に、セウェルス帝(在193-211年)が、クテシフォンに侵攻した時の模様。
【訳】【その後、セウェルスはパルティアに対して戦端を開きました。彼が内戦に専念している間、パルティア人はこの機会を利用してメソポ
タミアを占領し、全力で
遠征を試みました。また、彼らはニシビスを略奪しようと、(ニシビスの)非常に近くまで来ることには成功しました。ラエタスは包囲された
ものの、そこを保持したことで、彼は、すばらしい名声を得ることになりました。彼は、公私双方において、第一級の人物であることを既に示
していましたが、戦争であろうと、 平和であろうと、同じように(第1級の人物であることを)示したのです。
セウェルスは、ニシビスに到達し、そこで巨大な雄豚を見つけました。それは突進し、自分の強さを誇っている騎士を殺し、更にそれを打ち
下ろそうとしました。それは多くの兵士をもってしても(捕獲にあたった兵士の数は30名)、取り押さえて、紐付けるのが困難でした。その
後、その豚はセウェルスのもとへと もたらされました。
パルティア人は、彼の到着を待たずに帰路についてしまったので(彼らの指導者はヴォロガゼスであり、彼の兄弟がセウェルスに付き添って
いた)、彼(セウェルス)はユーフラテスにて小船隊を編成し、一部は航行し、一部は川に沿って進軍しました。このようにして作られた小船
は きわめて高速でよく作られていました。それは、ユーフラテス沿いの森や、全体的にその地域が、潤沢な材木を提供したことにあります。
このような結果、彼は、迅速にセレウキアとバビロンを占領しましたが、その両者ともすでに打ち捨てられていた都市でした。その後、クテ
シフォンの占領にあたって、
彼は兵士に、町全体を略奪することを許可しました。そして膨大な数の人を殺し、10万人に達する捕虜を得ました。彼は、しかしヴォロガゼ
スを追跡せず、クテシフォンを占領さえしませんでした。しかし、彼の戦争の目的が、まるで略奪することにでもあったかのように、略奪をし
たのです。それは、一つには、その国の獲得物の不足 と、また一つには、支給した食料の不足にもよっていました。
彼は、(来たときとは)異なったルートで引き上げました。なぜなら、木とまぐさが、行軍中に消耗したからでした。一部の兵士は、ティグ
リスに沿って陸をゆき、一部は小船で戻りました。
セウェルスはメソポタミアを横切って、ハトラはそう遠くなかったので、ハトラに向かいました。しかし、何も得られませんでした。反対
に、彼の略奪の動力は燃え上がり、多くの兵士が死に、多くが傷つきました。】
※殆どパルティア側の事情や内情は述べられていないことがわかります。75章にも、オスロエス人とアディアバネ人達が、ニシビスを包囲し
たが、セウェルスに破られた、という記述がありますが、76章と同様、パルティア側の内情には何も触れていません。ただ一つ指摘できるこ
とは、クテシフォンに、捕獲した人が10万人もいたことでしょうか。普通に考えると、クテシフォンの人口は数十万人はいたように思えま
す。
□79章には、カラカラ帝のパルティア遠征についての記述があります。が、ここでもパルティアのことは、どうでもよさそうである。アントニウスとは、カラカラ帝の同時代名称。
【訳】【この後、アントニウスはパルティアに対して侵略を開始しました。口実としては、アントニウスが、アルタバヌスの娘の手に(求婚
を)訴えた時、アルタバヌスが、彼の娘を彼に与えることを拒否したということで。パルティア王は、彼皇帝が、彼女を求めているふりを装っ
ている一方で、実際には、パルティア王国を
事実上彼のものにしてしまおうと熱望している、ということを明確に理解していた。だから、アントニヌスは、いま、突然の侵攻でメディアの
国の大半を荒らし、多くの砦を略奪し、アルベラを占領して、パルティア人の王墓をあばき、骨をばらまいたのだった。パルティア人が、この
戦闘に参加しなかったため、この戦争は、彼にとっては楽勝となった。そうして、私には、この戦争が以下の小話を除いて、この戦争の事件に
ついて、特別に記録するような関心を引くものが何も無いということがわかったのでした。2人の兵士がワインの皮袋を略奪して、彼(カラカ
ラ帝)のもとにもってきました。お互いに、彼だけの略奪品であると主張していました。等しく分けるように、と命じられると、彼らは、刀を
抜いて、半分に皮袋を切り裂きました。なんとなく、そこにあるワインを半分にすることができるものと予想していたわけです。このように彼
らは、皇帝を殆ど敬っていなかったのは、つまりは、このようなことは、皇帝を煩わせれるだけだったし、皮袋とワイ
ンの両方を失うことになる、ということがわかるほどの知性もなかったからなのです。】
□その後、次のような記述が現れ、アルタバヌスは復讐戦を開始することになった。
【訳】【パルティア人とメディア人は、このように彼らがうけた扱いに大いに憤り、大きな軍隊を召集しはじめました。彼(皇帝)は、ひどい
恐怖に陥りました。】
□カラカラ帝死去後、マクリヌスが皇帝となり、パルティアへの遠征を行ったが、マクリヌスは軍人としては、物足りなかったようである。し
かし、パルティア側も遠征の負担に耐えられず、退却することで、決着がついた。
【訳】【マクリヌスは、アルタバヌスが非常に立腹しているということをわかっていた。それは彼が扱われた方法に原因がある。また、アルタ
バヌは巨大な軍隊でメソポタミアを侵略した、ということもわかっていた。最初に、マクリヌスは好意的なメッセージと捕虜をアルタバヌスに
送り、タラウタスの過去を非難し、平和を 受け入れるように促した。
しかし、アルタバヌスはこの提案を喜ばず、破壊された都市と砦を再建するように、メソポタミアを放棄するように、マクリヌスにより多く
の要求をつきつけた。そうして、他の損害に加えて王家の墓に行った損害を償いをするように命じた。彼は、彼が集めた巨大な軍事力と、価値
のない皇帝としてのマクリヌスへの軽視から、彼が望んでいることは、なんでもやってやるために、ローマ人の同意なしに、復讐を行う抑制を
取り払ったのだった。マクリヌスは熟考する機会さえ、まったくなかったが、彼がニシビスに接近したとき、彼に遭遇し、彼らがお互いに、反
対側に軍営地を(建設)するための水の供給をめぐる兵士の戦いによって、戦闘がはじまり、敗北したのだった。彼(マクリヌス)は軍営を失
うとことまできてしまったが、たまたまそこにいた鎧兜と荷物の運搬人がそれを救ったのだった。彼らの信頼のもとに、彼らは最初に蛮人へと
突進し、この予期しない反撃が、単なる救助者たちというよりも、武装した兵士があらわれたようにみせ、彼らを有利にしたの
だった。(ここから以下断片となる)しかし・・・・両方・・・夜・・・・軍勢・・・・ローマ人・・・・・敵、騒音・・・・・彼ら
に・・・・・疑問を抱い
た・・・・・かれらに・・・・・ローマ人・・・・蛮人の・・・・・・・マクリヌスの逃走と、多くの兵士による勝利によって、落胆し、征服
した・・・・結果
として・・・メソポタミア・・・・特に・・・・シリア・・・・これらはその時に起った出来事だった。そして、秋と冬に、マクリヌスとアベ
ントスが一緒にコンスルになっている間に、彼らはもはやお互いにささやきに来ることはもはやなかったが、しかし彼らが同意に達するまで、
使節と告知を互いに送り続けた。マクリヌスは、彼の臆病な性格と(彼は特別臆病であった)、兵士の規律不足の両方から、マクリヌスは戦争
に足を踏み入れなかったが、変わりに、莫大な贈り物とお金を費やしたのだった。彼はこれをアルタバヌスとその力のある側近へと送り、その
総額は2億セステルティウスに達した。
パルティア人はこの二つの理由のために、その条件については、気が進まないわけでもなかった。というのも彼の軍隊は、常に無い食料不足
に長い間さらされていたし、彼らの家から遠くにきて、いらついていたからである。彼らは、その土地からも、前もって用意してきた備蓄でさ
えも、不足していた。食料は破壊されるか、または他には砦の中にしかなかった。マクリヌスは、元老院への全調整事項の説明をすべて満たし
ていたわけではなかったが、勝利の犠牲は、彼に名誉を与え、パルティクスという名前が、彼に与えられました。しかし、これは、彼が打ち破
られた敵からの称号を取ることについては、羞恥を感じていたため、 彼は辞退しました。】
□その後、アンティオキアで会談がもたれたときの記載だと思われる個所。
【訳】【6月18日の敗北の後、マクリヌスは、アルタバヌスが征服したと主張し、そこを受け取るかもしれないと考えているアンティオキア
に入ったとき、エパガズスの任務に彼の息子を送り、パルティア王アルタバヌスへは、他の付添い人を送った。】
□80章の一部は、ササン朝アルダシール勃興期の記載が掲載されている。この記載は珍しくイラン国内の情勢に言及している。
【訳】
アルタクセルクセス(アルダシール)、ペルシャ人の彼は、3つの戦いでパルティア
を征服し、彼らの王、アルバヌスを殺した後で、ハトラへの戦端を開いた。それは、ローマ人を攻撃するための基地として、そこを使うための
戦略だった。彼は、城壁に裂け目を作ったものの、待ち伏せにあい、多くの兵士を失ってしまった。このため、彼はメディアの攻撃へと移っ
た。この国については、パルティア
のときのように、多くの場所を力づくで奪い、一部の場所は、威嚇によって奪った。その後、アルメニアへ向けて進軍した。ここで彼は、現地
人、メディア人、
アルタバヌスの息子達の反撃に悩まされ、あるもの曰く、何名かは逃亡したといい、ある者はより大きな遠征の準備のために、引き上げたと主
張している。
彼は、つまるところ、我々にとっての恐怖の源となった。彼は、メソポタミアだけでなく、シリアをも脅かすために大軍とともに軍営をつく
り、古代のペルシャ人が一度は持っていたものを全て取り返す、と豪語していた。ギリシャの海にいたるまでが、彼らの先祖からの正当な遺産
であると主張していた。危険は、
特に彼自身がもたらしたわけではなく、寧ろ、我々(ローマ側)の軍隊の一部が彼の軍に加わっていること、そして、他の者達は、自分達を守
ることを拒否している、という点にあった。
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