「ギリシャ思想とアラビア思想 -初期アッバース朝の翻訳運動」という書物によると、サ サン朝のイデオロギーとは、次のようなものであると考えられています。それはイランの神話と大きく関わっています。他の民族同様、イラン民族も神代に遡る 歴史をもっています。問題は、アケメネス朝という、世界を統一した国家が、祖先に実在したことが、彼らのイデオロギーに大きく影響しているのです。すなわ ち、
神代から連綿と続くイラン国は、アケメネ ス朝時代まで、全世界を支配していた。そこでは、全ての宗教はオルマズドを崇拝(すなわちゾロアスター教)、全ての知識はアヴェスターに記載さ れていた。アヴェスターとは、一冊の書物ではなく、 「人類の知恵」そのものなのである。しかし、イスカンダル(アレクサンドロス)の侵攻により、世界は分裂し、「人類の知恵」は散逸してしまった。
というものです。バベルの塔さながら、アケメ ネス朝の崩壊により、言語だけではなく、知恵も、世界中に散らばってしまったのです。これもアケメネス朝が、実際にほとんど世界を統一していた事実が、こ うしたイデオロギーが成立する基礎を、確実に強く後押ししていることは間違いありません。
こうした理由から、ギリシャ人はじめ他の民族の著作は、もとはペルシャ語で記載されていた、という理屈になるわけです。そこで、世界に散らばってしまっ た「アヴェスター」に収められていた「人類の知恵」を復元しなくてはな らない、という思想が生まれてくるのです。こうした思想が顕著に政策に反映されたのは、ホスロー1世の時代です。彼の時代、盛んに書物の翻 訳運動がなされた背景には、このような思想的原因があったと考えることができます。翻訳は、具体的には、ギリシャ語->シリア語->パフレ ヴィー語という過程を経て翻訳されたようです。(「時間、運動、空間、物質、出来事」あるいは、「医学、天文学、生成、消滅、変質、論理学」という言葉 が、当時の文献(「デーンカルド」)に残されていることから、アリストテレスをはじめとする古代ギリシャ著作がパフレヴィー語に翻訳されていたことは間違 いない、とされています。
それでは、何故ホスロー1世の時代なのでしょうか?
それは、ホスロー1世が、ササン朝の最大領土を獲得し、周囲のあらゆる国に対して、優位な立場を占めるに至ったことが、重要な理由ではないかと思われる のです。世界がササン朝に貢納し、ササン朝は、まさに「世界の帝王」だったわけです。彼の時代はビザンツ帝国でさえ、ホスローの下位に立っていたのです。 こう考えると、ホスロー1世の時代、文芸はじめ、知的活動が活発化したように思えますが、それは政府の事業として行っていただけで、一般の民衆や知識人に は、あまり関係が無かったものといえます。だからといって、集められた「知」が、政府から外に一切出なかった、とは言い切れませんが。。。
この頃ササン朝は、歴史の改竄かく行えりでも記載したように、神代から直結するイラン史というものを、政府が築き上げていた時代です。ホスローの政策は、このような神話イ デオロギーの完成の上に実施されたものであると考えることができます。
ホスローの前の時代、100年程は、イランはエフタルに苦しめられました。宗主権はエフタル側にあったのです。国内でもマズダック教による社会混乱が起 り、「世界の帝王」などと言っている場合ではなく、王は国防費をビザンツ皇帝に借金するほどで、事業を行う金銭的な余裕さえ無かったと言えます。また、こ の時代に国家存亡の危機に陥ったからこそ、「神代からのイラン史」を作成し、強力な国家統合のイデオロギーが生まれてきたのだと、言えるのではないでしょ うか。
さて、このイデオロギーは帝国内にあまねく広められたことでしょう。しかし、実際の「知恵」は、恐らく一部を除いて庶民には行き渡らなかったものと思い ます。識字率の問題や、文字の問題もありました。パフレヴィー文字は、ゾロアスターの司祭ですら、辞書なしには読み書きに困難を覚えるくらい、便利ではな い文字だったようなので、そのような文字では、一般人にダイレクトに知識が広まることは無かったでしょう。庶民は、政府が宣伝する「イデオロギー」だけを 覚えさせられたものと考えられます。これが、同じ「宗教国家」でありながら、後期ローマ帝国と、ササン朝帝国の行く末を分けたのではないかと思います。も ちろんビザンツ帝国支配化のシリア、エジプトなどは、そのままイスラム教に改宗し、そのままイスラム国家としての道を歩み続けました。しかし、スペイン や、オスマン朝に支配されたキリスト教国は、オスマン朝支配が緩やかだったことにも原因があるにしても、後世キリスト教国家として復活を遂げています。こ れに対して、ササン朝は、一部の地域に縮小しつつゾロアスター教国家として生き残る、ということが無く、一度征服されて、そのままとなってしまいました。 これは、何故なのでしょうか。これは、庶民の手元に、文化を維持できる
書物が存在しなかったためではないかと思われます。文字が難解であり、かつ庶民のもとに書物が存在しないため、イスラムに征服されたササン朝臣民は、パフ レヴィー語よりも簡易な、アラブ語の文字を学習してしまったのです。そうして、アラブ政府は、ホスローが行った政策を引き継いで、文字通り万国の書物をアラビア語に 翻訳してしまったのです。この結果古代のギリシャ人の著作が、アラビア語に翻訳され、インドから多数の物語が流入し、アラビアンナイトのよ うな、世界を舞台とした著作が成立したわけです。 ササン朝臣民は、アラブの文字を通じて書物に接し、また、彼らの歴史もアラビア文字の著作を通じて、学びなおすことになってしまいました。フィルダウシー の「王書」は、まさにササン朝のイデオロギーをなぞった書物であり、これが、アラビア文字で記載されたペルシャ語の書物として、普及することになりまし た。
とはいえ、アラビアンナイトのような書物は、ササン朝時代に無かったわけではありません。伝承では、アラビアンナイトは、「ハザール・アフサーナ」とい う名前で、パルティア時代に遡る、とされており、ササン朝時代にも、庶民には普及していなくても、政府の図書館には、書物として納められていた可能性があ ります。パルティ ア時代の文学でも書きましたが、パルティア時代は、ササン朝時代のように、国家の規制は 強くなかったので、物語文学が普及していたと推測することができます。ササン朝時代には、民間でこそ見られなくなったものの、これらの書物が、王家や有力 貴族の元では、読まれるか、語られるかした可能性はあるでしょう。
さて、本題に戻ります。このようにササン朝後期は、政府によって強力にイデオロギー政策が進められましたが、もう少し時代を遡って、イランが、エフタル に苦しめられる前の、周囲に国威を発揮していたシャープール2世時代はどうなのでしょうか? この頃のササン朝帝国は、西はローマに、南はアラビア半島 に、東はクシャン朝と交戦し、国威を発揮していた時代です。しかし国内的には、宗教的な締め付けが強まった時代です。エフタル期と比べると、イラン民族と しての民族的神話的イデオロギーとは若干異なり、より純粋に宗教的な締め付けだった点が異なります。これは、東に仏教、西にキリスト教、足元に、諸宗教を 折衷したマニ教が勢力を強めていたことが原因といえるでしょう。軍事的に国威を発揮したとはいえ、宗教的には防戦であった、と言えるかもしれません。この ため、ホスロー1世時代のような、世界の書物を集めて、「人類の知恵を復元する」という政策には至らなかったのかも知れません。この辺りの資料が少ないた め、もっと資料が出てきて欲しいと思います。
これまで記載してきた、イデオロギーのほかにも、イデオロギーと言っていいようなササン朝政府の方向性を、アンダルズ(教訓文学)などに見ることができ ます。アンダルズとは、教育のためのアネクドート、訓示とみなすと理解しやすいでしょう。例えば、アルダシールのアンダルズには、政府と宗教の関係を厳しく規定し、国がイデオロギー的な 分裂を極力起こさないように、との政策の基本方針が述べられています。王家と国家を維持することを至上命題とするアルダシールの考え方が明確に述べられて います。アルダシールには、格言もたくさん残されていて、その格言の一つに、
「国家を守るものは軍隊である。軍 隊を養うものは税金である。税金を支払うのは民衆である。国家の勤めは社会秩序を維持し、民衆から税金が滞りなく支払われるように勤めなくてはならない」
というものがあるとのことである。 武田信玄の「人 は石垣、人は城」という格言と一脈通じるものがあるような気もするが、これも秩序を維持する、というイデオロギーが根底にあり、その中心には、政府(王 家)の維持にあると言えるのではないだでしょうか。とどのつまりは、「皇帝は役人」「国王は国家の僕」などと言ったりする西洋思想と対置される、インドや 中国の君主論と共通した、東洋的専制君主国家のイデオロギーなのだと言えます。ただ、国王個人が国家そのものであると考えるようなタイプの王、例えばルイ 太陽王やサファヴィー朝のイスマーイール、アッバース1世に典型的に見られるような、タイプの、国家を私物化することは許されない、国王といえども法に従 わなくてはならない、<国王個人はあくまで「ササン朝」の僕>という考えもあるように思えます。