1993年にアフガニスタンのラバー タク(ラバタクともいう)で発見された碑文は、クシャン朝のカニシュカ王に関する大きな発見となったそうです。その碑文の翻訳 が、英語 版Wikipediaに英訳テキストがあり、ここではそれを和訳してみました。あくまで参考訳です。内容についての 解説が「バ クトリア文書の解 読」のサイトにあり、本訳でも参考にしました。なお、研究者によるちゃんとした全文の和訳は「大 月氏 ―中央アジアに謎の民族を尋ねて―」(小谷仲男 東方書店 2010年第2版)及び岩波書店「世 界史史料〈2〉南アジア・イスラーム世界・アフリカ 」、宮本亮一氏の博士論文『バクトリア史研究』 でも掲載されていますので、そちらを ご参照ください(本訳では参照しておりません)。あくまでクシャン朝の王が、何をどのように語ったのか、手っ取り早くイメージをつ かむための参考訳です。
1-3行目
「カニシュカの第一年目は、偉大なる救世主、公正、正当であり万能者であり神であり、Nana*とすべての 神々からその王権を得た崇拝に値する神は、神々が喜ぶように第一年を定めた(つまり、打ち建てた)。
* Nanaとはアナーヒター女神の事。先頭のアナがバクトリア語ではNanaとなっていたものと思われる。
3-4行目
「そしてまたその年は、イオニア人の言葉の利用を定め(すなわち止めさせ)、そしてアーリア(または、アーリ ア語)人の言葉(すなわち、ギリシア語の使用をアーリアの、または、バクトリアの言語)に置き換えた」
4-6行目
「その年に、それはインドに宣告された。 Koonadeano(Kaundinya<Kundina)を含む支配階級の領土の全土へ、Ozenoの都市 (Ozene、ウジャイン)、Zagedaの都市(Saketa)、Kozamboの都市(Kausambi:コーシャンビー)、 およびPalabotroの都市(パータリプトラ)にZiri-tambo(Sri-Champa)など、非常に長く(つまり遠 くの)都市へと宣告された。」*1
6-7行目
「支配者や、偉大な家系の誰であれ、そこでは、王の意志に臣従し、すべてのインドが王の意志に臣 従した」。
7-9行目
「王カニシュカは、Shapara(Shaphar)、都市の主(あるじ*)にNanaと呼ばれる聖域を作る ように命じた、そこは、Kaeypaの平野の中では、これらの神々、すなわちZiri(Sir)、Pharo(Farrah)と Ommaにとって、外側の水(または地面の表面か、外郭部の水)と呼ばれており、(有用性があると知られているのである)」
* 都市の主とは都市長官。Shaparaは個人名。
9-9行目
「導くのは、女神Nanaと女神Omma、アフラマズダ、Mazdooana、 Sroshardaであり、Sroshardaは…と呼ばれており、Komaro(Kumara)とも呼ばれており、 Maaseno(Mahasena)と呼ばれ、Bizago(Visakha)、Narasao、および Miro(Mihara)とも呼ばれている。
10-11行目
「そして、彼は上に書かれたこれら神々の像を作る為に同じ順序を与えた(または同様にした)」。
11-14行目
「そして、彼はこれらの王たちの像と肖像を作ることを指示した:王クジュラ・カドフィセース、曾 祖父のために、祖父であるヴィーマ・タクトゥ*2 のために、Soma sacrifierと王ヴィーマ・カドフィセース、父のために、王であるカニシュカ自身のために」
14-15行目
「そして、諸王の王、神の子として、命じたように、Shaphara(7行目参照)はこの聖域を 作った」。
16-17行目
「そして、都市の主(あるじ)、Shapara、およびNokonzoka*は、勅命に従い崇拝 することを導いた」。
* 氏 名。ヌクンズク。スフル・コタル碑文にも登場しているカニシカ王の家臣。
17-20行目
、「ここに書かれているこれらの神々は、諸王の王、クシャーナのカニシュカのために、永遠のあいだ健康なまま でいること、安全と勝利を確実にするだろう… また更に神々は神の子のために、第一年目から千年目と千年まで、インド全体で権威 をもち続けることも確実にするだろう」
20行目 「そして、聖域がその最初の年に設立された時までに、偉大なアーリア人の暦が流行していた時へ(時までに)」。
21行目
"...「勅命により、Abimo(皇帝にとって、親愛なるもの)は資本をPophishoに与えた。」
22行目
「...大王は神々に与えた(つまり、崇拝を指示した)。」
23行目 「...」(不明)
*1 Wikipedia掲載のク シャン朝の地図は、本行の内容を反映した領土と、反映以前の領域を色分けしています。インドの中腹部へと拡大した根拠が 本行にあることがよくわかる図となっています。なお、地図ではタリム盆地も点線で領域に含まれていますが、こちらは仏典のカニシュカ がホータン出身説や、「後漢書」にある、大月氏副王謝のカシュガル攻撃など、タリム盆地への影響を考慮しているのかもしれません。
*2 Wikipedia掲載の英文訳を載せているMukherjee, B.N.という人は、カニシュカの祖父をヴィーマ・タクトゥとしてはおらず、Sadashkanaと読み、Wikipediaでは、シムズ・ウィリアムズ や J.Cribbとは別の読み方をし、Vima Taktoと は別に項目が立っている。こ のSadashkanaの項目に記載のある金の板に刻印された内容によると、クジュラ・カドフィセスの息子であるとのこ と(しかし、その刻文では王号を有してはないとのこと)。ラバータク碑文のカニシュカの祖父は、ヴィーマ・タクトゥが定説となったの だと思っていたのですが、まだ議論の余地があるということなのかも知れません(末尾追記参照)。
-原文
英語 版WikipediaのRabatak inscription の英訳テキスト
-参考
「バ クトリア文書の解読」のサイトに解説あり
※2019/Mar/01追記:
碑文中のクジュラ・カドフィセスの息子の名前を修正。Wikipediaの記事には、バクトリア語原 文と、英語訳が掲載されており、なぜか英語訳では、バクトリア語原文で (o)oηµo (τ)ακτoo ローマ字転写で、 o)oēmo (t)akto となってい る箇所が、なぜか英語訳では、Saddashkana となってしまっています。 これは、
Sadaṣkaṇa スワート(古ウディヤーナ)から出土した金製薄板に刻まれ た碑文に(宮本亮一『バクトリア史研究』(2014、p67)、
「大王,王中の王,Kuyula Kataphśa(Kujula Kadphises)の息子,Sadaṣkaṇa,神の子」
とあり、クジュラ・カドフィセスの息子とのことです。ク ジュラ・カドフィセスの息子はヴィーマ・タクトゥとサダシュカナの二人いて、ラバータク碑文によれば、王位を継いだのは、 ヴィーマ・カドフィセス、ということになるようです。
ヴィーマ・カドフィセスが兄、もしくは嫡子で、サダシュカナが弟または非嫡子、とかだったのかも知れません。いろいろと想像を めぐらすことができます。