2010/Mar/10 created
2019/Mar/01 updated
クシャン朝史料ラバータク碑文参考訳



   
 1993年にアフガニスタンのラバー タク(ラバタクともいう)で発見された碑文は、クシャン朝のカニシュカ王に関する大きな発見となったそうです。その碑文の翻訳 が、英語 版Wikipediaに英訳テキストがあり、ここではそれを和訳してみました。あくまで参考訳です。内容についての 解説が「バ クトリア文書の解 読」のサイトにあり、本訳でも参考にしました。なお、研究者によるちゃんとした全文の和訳は大 月氏 ―中央アジアに謎の民族を尋ねて―」小谷仲男 東方書店 2010年第2版)及び岩波書店世 界史史料〈2〉南アジア・イスラーム世界・アフリカ 」、宮本亮一氏の博士論文『バクトリア史研究』 でも掲載されていますので、そちらを ご参照ください(本訳では参照しておりません)。あくまでクシャン朝の王が、何をどのように語ったのか、手っ取り早くイメージをつ かむための参考訳です。

 

1-3行目

「カニシュカの第一年目は、偉大なる救世主、公正、正当であり万能者であり神であり、Nana*とすべての 神々からその王権を得た崇拝に値する神は、神々が喜ぶように第一年を定めた(つまり、打ち建てた)。

 

* Nanaとはアナーヒター女神の事。先頭のアナがバクトリア語ではNanaとなっていたものと思われる。

 

3-4行目

「そしてまたその年は、イオニア人の言葉の利用を定め(すなわち止めさせ)、そしてアーリア(または、アーリ ア語)人の言葉(すなわち、ギリシア語の使用をアーリアの、または、バクトリアの言語)に置き換えた」

 

4-6行目

 「その年に、それはインドに宣告された。 Koonadeano(Kaundinya<Kundina)を含む支配階級の領土の全土へ、Ozenoの都市 (Ozene、ウジャイン)、Zagedaの都市(Saketa)、Kozamboの都市(Kausambi:コーシャンビー)、 およびPalabotroの都市(パータリプトラ)にZiri-tambo(Sri-Champa)など、非常に長く(つまり遠 くの)都市へと宣告された。」*1

 

6-7行目

 「支配者や、偉大な家系の誰であれ、そこでは、王の意志に臣従し、すべてのインドが王の意志に臣 従した」。

 

7-9行目

「王カニシュカは、Shapara(Shaphar)、都市の主(あるじ*)にNanaと呼ばれる聖域を作る ように命じた、そこは、Kaeypaの平野の中では、これらの神々、すなわちZiri(Sir)、Pharo(Farrah)と Ommaにとって、外側の水(または地面の表面か、外郭部の水)と呼ばれており、(有用性があると知られているのである)」

 

* 都市の主とは都市長官。Shaparaは個人名。

 

9-9行目

 「導くのは、女神Nanaと女神Omma、アフラマズダ、Mazdooana、 Sroshardaであり、Sroshardaは…と呼ばれており、Komaro(Kumara)とも呼ばれており、 Maaseno(Mahasena)と呼ばれ、Bizago(Visakha)、Narasao、および Miro(Mihara)とも呼ばれている。

 

10-11行目

 「そして、彼は上に書かれたこれら神々の像を作る為に同じ順序を与えた(または同様にした)」。

 

11-14行目

 「そして、彼はこれらの王たちの像と肖像を作ることを指示した:王クジュラ・カドフィセース、曾 祖父のために、祖父であるヴィーマ・タクトゥ*2 のために、Soma sacrifierと王ヴィーマ・カドフィセース、父のために、王であるカニシュカ自身のために」

 

14-15行目

 「そして、諸王の王、神の子として、命じたように、Shaphara(7行目参照)はこの聖域を 作った」。

 

16-17行目

 「そして、都市の主(あるじ)、Shapara、およびNokonzoka*は、勅命に従い崇拝 することを導いた」。

 

* 氏 名。ヌクンズク。スフル・コタル碑文にも登場しているカニシカ王の家臣。

 

17-20行目

、「ここに書かれているこれらの神々は、諸王の王、クシャーナのカニシュカのために、永遠のあいだ健康なまま でいること、安全と勝利を確実にするだろう… また更に神々は神の子のために、第一年目から千年目と千年まで、インド全体で権威 をもち続けることも確実にするだろう」

 

20行目 「そして、聖域がその最初の年に設立された時までに、偉大なアーリア人の暦が流行していた時へ(時までに)」。

 

 

21行目

"...「勅命により、Abimo(皇帝にとって、親愛なるもの)は資本をPophishoに与えた。」

 

22行目

  「...大王は神々に与えた(つまり、崇拝を指示した)。」

 

23行目  「...」(不明)

*1 Wikipedia掲載のク シャン朝の地図は、本行の内容を反映した領土と、反映以前の領域を色分けしています。インドの中腹部へと拡大した根拠が 本行にあることがよくわかる図となっています。なお、地図ではタリム盆地も点線で領域に含まれていますが、こちらは仏典のカニシュカ がホータン出身説や、「後漢書」にある、大月氏副王謝のカシュガル攻撃など、タリム盆地への影響を考慮しているのかもしれません。

*2 Wikipedia掲載の英文訳を載せているMukherjee, B.N.という人は、カニシュカの祖父をヴィーマ・タクトゥとしてはおらず、Sadashkanaと読み、Wikipediaでは、シムズ・ウィリアムズ や J.Cribbとは別の読み方をし、Vima Taktoと は別に項目が立っている。こ のSadashkanaの項目に記載のある金の板に刻印された内容によると、クジュラ・カドフィセスの息子であるとのこ と(しかし、その刻文では王号を有してはないとのこと)。ラバータク碑文のカニシュカの祖父は、ヴィーマ・タクトゥが定説となったの だと思っていたのですが、まだ議論の余地があるということなのかも知れません(末尾追記参照)。

-原文

  英語 版WikipediaのRabatak inscription の英訳テキスト

-参考

 「バ クトリア文書の解読」のサイトに解説あり


※2019/Mar/01追記:
 碑文中のクジュラ・カドフィセスの息子の名前を修正。Wikipediaの記事には、バクトリア語原 文と、英語訳が掲載されており、なぜか英語訳では、バクトリア語原文で (
o)oηµo (τ)ακτoo ローマ字転写で、 o)oēmo (t)akto となってい る箇所が、なぜか英語訳では、Saddashkana となってしまっています。 これは、
Sadakaa  スワート(古ウディヤーナ)から出土した金製薄板に刻まれ た碑文に(宮本亮一『バクトリア史研究』(2014、p67)、


大王王中の王Kuyula KataphśaKujula Kadphises)の息子,Sadakaa,神の子」


とあり、クジュラ・カドフィセスの息子とのことです。ク ジュラ・カドフィセスの息子はヴィーマ・タクトゥとサダシュカナの二人いて、ラバータク碑文によれば、王位を継いだのは、 ヴィーマ・カドフィセス、ということになるようです。
ヴィーマ・カドフィセスが兄、もしくは嫡子で、サダシュカナが弟または非嫡子、とかだったのかも知れません。いろいろと想像を めぐらすことができます。

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