「ティアナのアポロニウスの生涯」という2世紀のギリシャ人による作品があります。この作品は、一応実在の人物とされる、2世紀の哲人、アポロニオス の生涯を扱った伝記小説です。アポロニオスが、ギリシャからパルティアを通過してインドへ向かうというもの。パル ティア時代のバビロン市の話などがでてきています。
ところで、「サマルカンド年代記」を書いたアーミン・マアモフの「光の園」という作 品があります。 3世紀のマニ教の創始者、マニの生涯を扱った伝記小説です。マニは聖書の偽典「トマス行伝」に触発されてインドへ赴いた、とされていて、マニ教についての 概説書などを調べてみても、これは事実のようです。そこで、「トマス行伝」も確認してみました。イエスの双子の兄弟とされ る、弟子のトマスが、イエスに命じられて、インドへ宣教に向かい、当時北西インドを治めていたパルティアの君主、ゴンドルファネス王にもとへ招かれるとい う話です。
6世紀のササン朝ホスロー1世時代の宰相とされる、ブルズグミフルも、理由は異なりますが、インドへ赴いています。
1世紀のトマス、2世紀のアポロニオス、3世紀のマニ、6世紀のブルズグミフル、と賢人がインドへ赴く、という史実と伝説の混在したモチーフが共通して見 られる点が面白いと思いました。賢者ではありませんが、サーサーン朝のバルラーム5世がインドへの旅した話がタバリーに出てきます(タバリーの訳「バフラーム・グール(2)」))。また、考えてみるに、インドへの旅の原型は、アレクサンドロスにあるのではないでしょうか。後世の人々は、意識的にせよ、無意識にせよ、アレクサンドロスをなぞっていたのではないでしょうか。更に考えてみるに、1979年のイラン革命とソヴェトのアフガニスタン侵攻前は、欧州から、トルコ・イラン・アフガニスタンを通過してインドまで旅するバックパッカーや青年旅行者達が多く見られました。今でも、イラン->パキスタン経由のルートが現役なのかも知れません。そういえば、思い出してみると、昔の私の上司は、1979年以前に、このルートでスイスからインドへ旅をしていたし(本人は、宗教施設の事前鍋などを当てにしたバックパッカーですらない、乞食旅行者、と言っていましたが。。。)、青年協力隊時代に知り合った同僚も、ロンドンから、このルートでインドまで旅してました。
そうして考えを進めてみると、大航海時代も、インドを目指したものでした。海のルートといえば、ローマ時代の「エリュトラー海案内記」も、ローマから、紅海を通ってインドへ直行する回路の話でした。大航海時代はイスラームが、ローマ時代は、パルティアがインドと欧州との間に障壁として横たわってした為、直接インドへのルートを開拓した、という点では、同じことが繰り返されているように思えます。そうして、現在のグローバリゼーションにおける、欧米とインドの関係も、この延長線上にあるのかも知れません。
ところで、ローマ時代のインドとは、インド中南部だけではなく、北インドを支配したクシャン朝とも深い交流をもち、クシャン朝の通貨は、ローマの通過と同じ基準(重さ、サイズ、金属含有量など)で作られているものがあるそうです。また、クシャン朝を滅ぼしたエフタルの遺跡からも、テオドシウス、マルキアヌス、レオ(457-474年)などの貨幣ば出土しているそうです。エフタルとローマとはなんらかの交流があった、ということなのかも知れません。そうなると、クシャン朝の時代はパルティアが、エフタルの時代はサーサーン朝が障壁だったわけで、ローマは数世紀にわたって同じことを行っていたことになります。
インドへの旅、インド航路というものは、アレクサンドロスの時代から現代まで、時代を超えて、何か西方の人をひきつけるものがあるのかも知れません。
参考資料
「新約聖書外典」 講談社 荒井献編集(含トマスの行伝)
「カリーラとディムナ」 東洋文庫(ブズルグミフル自伝)