2010/Mar/10 created
2019/Mar/10 last updated
シャー プール1世のナグシェ・ロスタム碑文



    
 1.マヅダの崇拝者、君主シャープー ル、イランと非イランの諸王の王、神の子孫の家系、マズダを崇拝する神君アルダシール、イランの諸王の王の息子、神の子孫の家 系、パーパクの孫、イランシャフルの支配者は、下記の土地を有す:

ペルシス、パルティ、フージスタン、メセネ、アッシリア、アディアベネ、アラビ ア、アゼルバ イジャン、アルメニア、

 

2.ジョルジア(*グルジア)、 Segan(Makhelonia=Mingrelia)、アラン(アルバニア)、Balasakan、、コーカサス山脈山とア ルバニアの門まで、Pareshwarの山脈のすべて、メディア、グルガン、メルブ、ヘラート、Aparshahrのすべて、 ケルマーン、シースタン、ツーラーン、マクラーン、Paradene、ヒンドスタン(シンド)、ペシャワールまでのクシャンシャ フル、カシュガル、ソグディアナとタシュケントまでの山々、そして一方の海の側では、、オマーン。そして、我々はPeroz- Shapurという名をひ

とつの村の地区に与え、、シャープールの名の元にHormizd- Ardashsirを作った。

 

3. そして、これらの多くの土地、支配者達、および知事達、皆は、我々に貢納し、臣従することになった。我々が初めて帝国を建設したとき、カエサル ゴルディ アヌスは、ローマ帝国とゴート族とゲルマン人の土地のすべての力を上げて、我々に対し、イラン帝国に向かって、バビロニア (Asuristan*1))に進撃してきた。Misikheのバビロニアの境界では、大きな全面衝突の戦いが起こった。;カエ サル  ゴルディアヌスは


*1 
アスーリスタン:アッシリアのこと。当時はバビロニアをアッシリアと呼んでいたらしい


4 殺された。そして、ローマ軍は滅ぼされた。そして、ローマ人はフィリップをカ エサルとした。次に、カエサル フィリップは、協議のために我々の元にやってきて、彼らの人生を購うため、我らに50万デナリウ スを与え、我々に進貢するようになった。そして、この理由で、我々はMisikheをPeroz-Shapurと改名した。そし て、シーザーは、再び嘘をつき、アルメニアに悪事を為した。そして我々はローマ帝国を攻撃し、6万5のローマ軍団を Barbalissosで全滅させ、

 

5.シリアとシリアの近郊で、すべてを燃やし、破滅し、略奪した。 この1つの遠征で、我々はローマ帝国の砦と町を征服した:Anathaの町を攻囲し、 (Birtha of Arūpān ?)を攻囲し、Birtha of Asporakan、スラの町、Barbalissos, Manbuk [ヒエラポリス]、

 

6 アレッポ[ Berroia?]、Qennisrin(アパメア、 Apamea, Rhephania, Zeugma, Urima, Gindaros, Armenaza、セレウキア、アンティオキア、

 

7 Cyrrhe、もうひとつのセレウキア、アレクサンドレッタ、ニコポリス、 Sinzara、ハマ、Rastan、Dikhor、Dolikhe、デュラ、

 

8 Circusium、Germanicia、バトナ、Khanar、および カッパドキアのSatalaの町、Domana、Artangil、Suisa、Sinda、Phreata

 

9 合計37の町を取り囲んだ。3番目の遠征では、我々はCarrhae(カルラ エ)とUrhai(ウルファ(エデッサ))を攻撃して、Carrhaeとエデッサを包囲していたが、カエサル ヴァレリアヌスは我らに対して進撃してきた。 彼はゲルマン人、ラエティア(現スイス付近)、ノリクム(現オーストリア)、ダキア(現ルーマニア)、パンノニア(現ハンガリー)、モエシア(現ブルガリ ア)、イストリア(現クロアチア南部)、スペイン、アフリカ、トラキア(現ブルガリア東南部)、

 

10 ビテュニア(現トルコ西北部)、アシア(現トルコ西部)、パンフィリア(現 トルコ西南部)、Lycaonia、ガラティア(カッパロキアとアシアの間)、 Lycia(パンフィリアの近く),、キリキア(現トルコ南部)、カッパドキア(現トルコ中央部)、フリュギア(現トルコ北部)、シリア、ポエニア(フェ ニキア)、ジュダエ(ユダヤ)、アラビア、モーリタニア、ゲルマニア、ロードス(リディア)、オスロエネ

 

11 メソポタミアから集めた7万人の軍隊が彼と一緒だった。そして、我々には、 カルラエとエデッサを超えて、Valerianシーザーと大きな戦いがあった。 我々は、我々自身の手で、カエサル ヴァレリアヌスと他のもの達、その軍隊の隊長、近衛兵の長官、元老院議員を囚えた。 我々は、すべてを囚人とし、彼らをペルシスに強制送還した。そして、シリア、キリキア、およびカッパドキア

 

12 を我々は燃し、破滅し、略奪した。その遠征では、我々がローマ帝国を征服 し、即ち、サモサタ、Issusの上のアレキサンドリアの町、Katabolos、Aegaea、Mopsuestia、 Mallos、アダナ、タルソス、Augustinia

 

13  Zephyrion、Sebaste、Korykos、Anazarba(Agrippas)、Kastabala、Neronias、 Flavias、ニコポリス、Epiphaneia

 

14  Kelenderis、Anemurion、セリヌス、Mzdu-(Myonpolis)、アンティオキア、セレウキア、デメトリオポリス、Tyana、 (Meiakaririの)カエサレア、Komana

 

15  Kybistra、Sebasteia、Birtha、Rakundia、Laranda、イコニウム、全体でこれらのすべての都市と 我々が強制送還したローマ帝国の男、非イラン人の男が我々に包囲された。

 

16 我々は彼らをペルシスとパルティアとフーゼスタンと、バビロニアとその他の 地にあるイランの帝国に移住させた。そこには、我々の父と祖父と我々の先祖が支配を打ち立てた土地である。我々は他の征服するた めの多くの土地を捜し求めた、そして、先行者を除いて、我々がここに刻んでいなかった武勇のために名を上げた。我々は、後に来る 人々が知ることができるように、

 

17 我々のこの名声、武勇、および力を知ることができるように、それに書くよう 指示した。このように、これらの理由で、神が我々を彼らの後見人とし、神の援助で我々は土地を探し、多くの土地を獲得つまり、あ らゆる土地で、我々は多くのバフラーム火を設立し、多くのマギ達に聖職禄を与えたのだ。我々は神の文化を拡大した。そして、こ こに、この碑文で、我々は火

 

18 を設立した。我々の魂、名を末代に残す名のKhosro-Shapur、 我々の娘である、女王の女王たる、名を末代に残すAduranahidの魂の名によりKhosro-Aduranahidと呼ば れる火、名を末代に残す名我々の息子、アルメニアの大王たるHormizd-Ardashirの魂の名によってKhosro- Hormizd-Ardashirと呼ばれる火を、別の炎はホスロー・シャープールと呼ばれ、名を末代に残すメセネの息子シャー プール王の魂の名で呼ばれる火を、

 

19 名を末代まで残す、海の縁までと、ツーラーンとシースターンとシンドの王、 ナルセスの崇拝するマズダ、高貴な我らの息子の魂の名によって、Khosro-Narsehと呼ばれる火を設立した。そして、 我々がこれらの火に対して寄贈したもの、我々が習慣として設立したもの、それのすべてを我々は文書の上に書いた(保証するものと して)。我々の習慣を越えて、10000匹のラムをこれらの火に奉納し、我々は以下のごとく指示した。毎日20の我々の魂のため に一匹のラム、ひとつ半のパンと4つの量が測定されたワインを(奉納するようにと)。サーサーンの支配者パーパク王、パーパクの 息子王シャープール、諸王の王アルダシール、帝国の女王Khoranzim女王、女王中の女王 Aduranahid、女王 Dinak、ギーラーンの王バフラーム、メセンの王シャープール、アルメニアの大王ホルミズド・アルダシール、サカの王ナルセ フ、サカの

 

12 女王 Shapurdukhtak、サカ人の Narsehdukht夫人、およびĆašmak夫人; 王子ペーローズ、Mirdut( Myrrod)夫人、諸王の王シャープールの母、王子ナルセフ、王女Rud-dukhtak姫、Anošakの娘、Varazdukht [Gorazdukht]A、Khoranzimの娘、女王Stahyrad; Hormizdak、アルメニアの王の息子、 Hormizd、Hormizdak、Odabakht、Bahram、Shapur、Peroz、メセネ王の息子、 Shapurdukhtak、メセネの王の娘、そしてHormizddukhtak、サカの王の娘、

 

22 彼らの魂のために1頭の羊、計られた半分のパンと4つの量のワインを。そし て、残っている羊(ラム)(完全に使用されるために残っているのと同じくらい多く残っていた)は、我々が儀礼を指示した人々の魂 のための彼らの魂のためのものであり、毎日1頭の羊とひとつ半の計られたパンと4つの量のワインが文書の中に、彼らの名によって 書かれていることを見つけることができる。

Papak王の支配下で生きた人の間では、Sasan Ornekan、Farrakの息子のFarrak、Khurの息子のVartragnipat、Asporikの息子のAsporik、儀式の監督者の Zik、

 

23 マーディンの息子Pohrik、 Mihrožanの息子のシャープール、我らの息子のシャープール。諸王の王、アルダシールの支配下で生きた人の間では: AbrenakのSatarop王、メルブのアルダシール王、ケルマーンのアルダシール王、サカのアルダシール王、王パーパクの母ディナク、諸王の王アル ダシー ルの母Rodak、女王中の女王、パーパクの娘ディナク、Ardashir bidakhsh、Papak chiliarch(*1000人隊長), Dehin Varaz、 Sasan Suren, Andeganの君主サーサーン 、 Peroz Karen、  

 

24 Gok Karen、Abursam  'アルダシールの栄光'、デルベンドのGeliman、軍隊の長Abursam Rakhsh、書記の長Mard、儀礼の監督官パーパク、Pazihr Vaspurigan、Farrakの息子Vifard、Mihr-khwast Baresigan、エリート護衛(?)の長Khumafrat、兵器庫の長Diran、裁判官Chihrak、厩舎長Vardan、トサール (Tosar)息子のMihrak、Zik Zabrigan、狩猟の監督官Sagbus、執事の長Khudik、ワインの長Zayen。諸王の王シャープールの支配の下で生きる人: アディアベネの王アルダシール、ケルマーンの王アルダシール

 

25 シャープールのメセネ地区の女王ディナク(Dinak)、ジョルジア(グル ジア)の王Hamazasp、パーパクの息子 王子Valash。 王子ササン、彼はFarrak家に養子に出された王子ササン、彼はKiduk家に養子に出された、王子ナルセフ ペーローズの息子、王子ナルセフ シャー プールの息子、Shapur bidakhsh、パーパク chiliarch(*1000人隊長)、 騎兵の長ペーローズ、 Ardashir Varaz、Ardashir Suren、Andeganの君主ナルセフ

 

26 Ardashir Karen、Vahunam フラマダール(framadār)、 GundeshapurのFrīk サトラップ、Shahimustの息子Sritoy 、アルダシール 'アルダシールの喜び'、Pažihr ‘ シャープールの勇者’、クムのサトラップ アルダシール、‘シャープールの勇者' Chashmak、'Shapurの喜び' Vahunam、 Shahrkartの砦の長Tir-mihr 、儀礼の長Zik、デルベンドのArtaban、‘戦闘を求める者' Gondofarr Abgan、Shanbitの息子 Pabish ‘Perozshapur’、

 

27 イスファハンのサトラップVarzin、Kirdisro bidakhsh、Papak Vaspurigan、セレウコスの息子おValash、女王の相談役 Yazdbad、太刀持 ちのPapak、Rindのサトラップ ナルセフ、ハマダンのサトラップTiyanik、奉仕の長 Vardbad (Gulbad)、Rastakの息子Yoymard、Vifarの息子アルダシール、ハレム(大奥)の長Abursam-Shapur、Barrakの 息子ナルセフ、ナルセフの息子 シャープール、執事の長ナルセフ、

 

28 主席書記官ホルミズドの息子ホルミズド主席書記官、監獄の長Naduk、守 衛Papak、Pasfardの息子Pasfard、城の君主の息子Abdagash、祭司Kerdir(キルディール)、 Weh Ardashir(現フィルザバード。アルダシールの都)のサトラップRastak、bidakhshの息子Ardashir、会計官 Mihrkhwast、司令官シャープール、レイの補佐官Arshtat Mihran、ササンの息子、宦官のササン、市場の長Virod、Nerizのサトラップアルダシール、Vardapad (Gulbad)の息子のバグダッド、Kerdir Ardavan、Bandakの息子Zurvandad、

 

29  ササンの息子Vinnar、宦官Manzik、裁判官ササン、Nashbadの息子Vardan、雄豚の長Gurik(Vardik)、彼らには一頭の 羊と半分のパン、計られた4つのワインを毎日(与える)。 今、我々が熱意とともに神を崇め、奉仕しているように、我々は神の一 部であり、我々が神の援助でこれらの民族を捜し出して、彼らを支配して、勇気のために名を上げたので、また、だれが我々の後を 追って支配しても、彼は、熱意をもって神を崇め、奉仕し、神が彼を彼らを神の一部にするかもしれない。

 

(パルティア語版以下の記載がある、「これは私の手である書記官ホルミズドと彼の 息子、書記官Shirakによって書かれた)

 

訳文の引用元は、英訳THE INSCRIPTION OF SHAPUR I AT NAQSH-E RUSTAM IN FARS

ただし、上記サイトの引用元は、R. N. Frye著「The History of Ancient Iran. Handbuch der Altertumswissenschaft ; 3. Abt., T. 7 (1984)」


※2019/Mar/10 上記引用元がリンク切れとなっているため、同内容の英訳URLを以下に記載


 

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