2005/Oct/10 created
2019/Mar/23 updated
安息国その後



   パルティアはアルダシールにより滅ぼされたとされています。しかし、王家や民族は完全に滅んでしまったのでしょうか?アルダシール によってイラン本国から追 い払われはしたけれども、イラン以外の場所で存続しつづけた可能性は無いのでしょうか?後年イスラムに滅ぼされたササン朝の王と遺 臣が中央アジアでしばらく勢 力を保ちつづけたように安息国もどこかで生き延びていたのではないだろうか。

 そのように妄想していたところ、最近漢籍を見ていて、そのような記述を見つけたので、まずは漢籍上の安息国の記述をたどってみ ま した。

史記

漢書

後漢書
木鹿城(ムル=メルブ)を小安息という、との記述あり
三国志
かつては条支が安息より強いと言われていたが、今は逆で安息 が条支を服属させている、
という記載がある。
晋書
特に記載なし
魏書
パミールの西、蔚捜城を都とし、北は康居、西は波斯に接し大月氏の北西にある
周書
魏書と同じ記載。ただ、天和2年(555年)来朝したとの記述がある。エフタルに服属して いるとの記載。
北史 周書と同じ記載。しかし安国の記事に、安国は漢代の安息、とあり、今は康居の王の一族(昭 武氏)が国王であるとされている。北史に は、「安息」と「安国」の記事が同居しているのである。安国の都は那密水の南にあり、風俗は康居と同じとしなが らも、姉妹を妻とし、 母子相姦をしている点のみ異なっている、とある。これは康居についての記述には無く、ゾロアスター教の習慣であ ることは間違いない。因みに康居はもと祁連 山の北の昭武城にいて、匈奴に破られ、パミールの西に走った、とある。
隋書
北史と同じ記載。
旧唐書
記載なし。
新唐書
記載なし。


上述の記載によれば、安息はイラン全域ではなく、ホラサーンとヒルカニアの周辺を示しているようにも思えます。「三国志」に、か つ ては条支に服属していた が、今ではその逆、という記載があることから、条支とはイラクとシリアの辺りを示し、安息はその東、メディア地方からホラサーン 地方ということになるように思えます。また、波斯の故地は条支といっていることから(『北史』西域伝波斯条)、波斯はイラク、シ リア、ファールス地方の辺 りを示すと思われます。3〜4世紀 の記述が抜け落ちている(※3-4世紀の史料は末尾に追記) 為、明確には判断できませんが、パルティアはササン朝に破られてからも、漢籍の記述に従う限りでは、アム川周辺で勢力を保ったよう に見えます。恐らくササン朝 に臣属していたのではないでしょうか。それが昭武氏の西遷により、康居が
昭武氏に 征服され、安息の安国も康居支配下となり、ついには突厥支配下で完全に消えていったということなのではないでしょうか(※2019年Mar追記 この説 は、明治からあったそうです(羽渓了諦・内田吟風氏などの説とのことです)。


クシャン朝その後

・「後漢書」にクジュラ-カドフィセスとヴィーマ-カドフィセスの記載があり、クシャン朝の発展期について記載されていて、班超 の項で副王謝がカシュガル に班超を包囲した、との記載がある。また、 「後漢書」天竺国の条には、インドからの使者が、和帝時代以降は、西域の騒乱で、使者がこれなくなり、159 年になって、日南経由でやってきた、との記載がある。つまり、105年から159年の間、西域は騒乱に状況にあり、この状況にカ ニシカ王が関与している可 能性が高いと見られる。「三国志」の諸外国につい ての列伝には大夏、ガン ダーラ、カブール、天竺が支配されているとあるのみである。
別項で波調が229 年に朝貢したとの記載がある。「晋書」に大月氏の記載が無い。

・大月氏について再び記載があるのは「魏書」「北史」である。いわく、プルシャプラの西にある都城にいて、北はゼンゼンと接して いるが、数回侵攻され、 プルシャプラから2100里のトハラ城へと走る。キダーラ王は勇武であり、帰越大山を越え北インドへ進入しガンダーラより北部を 臣 属させた。
世祖太武帝(拓跋Z、在位423-452年)の時、その国の人が来朝し、ガラスの 製造法を伝えたため、中国でガラスは珍しくなくなった。キダーラが匈奴に追われて西に走ったあ と、キダーラの王子がプルシャプラで王となり小月氏と号した。「隋書」には見えないことから、中国史書には特に記載が無いが、エ フタルがインドに侵入して いる事実から、エフタルに滅ぼされた可能性が高い。


※2019年3月23日
追 記

(1)安息国 その後

安息国のその後について調べた論説を発見しました。
国際仏教学大学院大学の斉 藤達也氏のものです。

@
魏晋南北朝時代の安息国と 安息系仏教僧(PDF) 国際仏教学大学院大学研究紀要/1998-03-31
A
安息国・安国とソグド人 (PDF)       研究紀要/2007-03-31

<1>史料に登場する4−6世紀の安息国

@の前半では、魏晋南北朝時代の漢籍や漢訳仏典を駆使して、後漢の『漢書』までは安息=パル ティアだったものが、3,4,5,6世紀成立の同時代史料に登場する安息の用語を精査することで、4世紀くらいまではイランのパ ルティアを現していたものが、6世紀になると波斯と併記されるようになってゆく様子を分析しています。本論説の登場史料と論旨の 一部を、史料の「安息」(=アルシャク朝)「波斯」(=ササン朝)という用語の性質別に以下の表にまとめました。表の○は、安息 についてです。
波斯は備考の項目で記載しています。地 名にも国名にもとれる記載など、重複した性質を持つ記載は、それぞれ重複して○がつけてあります。

史料名
史料記載時期
地名
国名
民族名
備考
『魏略』西戎伝(三国志巻30)
280年代



条支(シリア)は安息の属国、海を西にゆくと、大秦に至る、との記載
太清金液神丹経(道教文献)下巻に引用される
『南州異物志』
下巻6-7世紀、
『南州・・』は三国呉



漢書とほぼ同内容。ただし文面は引き写しではない、独自の文面かも知れない。
鳩摩羅什漢訳『成実論』
原典250-350年



近親婚批判
鳩摩羅什漢訳『十住毘婆沙論』
2-3世紀



西方の安息国のごとく、という文章。
鳩摩羅什漢訳『十誦律』
1世紀



波羅が併記されている。波羅斯(ペルシア)との関係は不明
鳩摩羅什漢訳『大智度論』
2-3世紀?



各国の名前の中に列挙(安息、大秦国等)
『阿毘達磨大毘婆沙論』
150年頃



安息は登場していないが西方の人の近親婚が非難されている。
チベット語訳『業施設論』
『問毘・・』以前



安息は登場していないがマガという西方の婆羅門の近親婚が批判されている
(ゾロアスターの祭司マギだと思われる)
『倶舎論』
5世紀



安息はなく、サンスクリット原典にpārasī(ペルシア人)、真諦漢訳「波戸国人」、玄奘漢訳「波刺」として近親婚批判
玄奘漢訳『阿毘達磨順正理論』 5世紀



「波刺斯」人(パールシー)として近親婚批判
タットヴァサングラハ 8世紀



pārasī(ペルシア人)の近親婚批判
『水経注』
515-524年



西流河水(アム河と推定さる)が安息国の南を流れる、との記載(位置的に はこの安息はブハラの可能性有り)
『水経注』『梁職貢図』引用文献『釈氏西域記』
4世紀



安息国の西に波羅斯国(パールス=ペルシア)がある、との記載
『水経注』引用文献『竺枝扶南記』
5世紀頃



スリランカ国から二万里
『水経注』引用文献『漢書』
1世紀




『魏書』西戎伝
554年、636年



後世唐代成立の『周書』(636年)、『北史』(659年)により補われている。安息国 と忸怩(ブハラ)の記載は554年成立部分に含まれる。554年記載の部分には安息は大月氏の西北aにあ る、とある。
忸密国(ブハラ)が始めて漢籍に登場する。
『魏書』嚈噠国伝 573年



西は波斯に接す(周書異域伝下安息国から補填)、とある。

『北史』西域伝に補填された『魏書』原文部分 554年



また、現行『魏書』にはないが『北史』西域伝の原文と推定される
文が『魏書』にあったとされ、そこには、、条支国は安息の西にありb、西海をゆくと大秦に至りc、安息等30数カ 国が嚈噠国(エフタル)に服属しているdという文がある(ただし、于闐(ホータン)安息の二つの国 は、『周書』異域伝の文章の混入が指摘されているとのこと(魏書から周書が補填した説もあるとのこと)。
『周書』武帝紀
636年



567年に北周に安息の使者到来a。異域伝では、朝貢使節は当時(北周) の記録に基づいて編集した、と記載しているため、北周時代の記録として信憑性は高い、とのこと。
『周書』異域伝 636年



于闐・安息等20カ余国がエフタルに服属b(嚈噠国条)。安息国の 西に波斯があるc(安息国条)。
『周書』の安息までの距離




『隋書』の安国(ブハラ)-敦煌間の距離7100-7200里、『周書』の安息-敦煌間 の距離7050里。これは周書の安息は、ブハラであることを傍証する

6世紀に入り、『水経注』『魏書』では、安息の記載に『漢書』等古い文献の記載を典拠とする文章が混入しているため、
「『魏書」の安息国は当時実在のものとほとんど認められず、明らかに当時のササン朝でもブハラでもない」(p127) 「『魏書」初撰時の安息の記述はほとんど、先行の史書にある過去のパルティア帝国の記述の踏襲にすぎず、初撰部分の安息国は当時 実在のものとは考えられない」(p128)、との指摘していますが、北周に到来した安息の使節は実在しており、これはブハラだと しています。つまり、北魏時代の文献の安息は漢書等古文献の流用で、北周時代の安息はブハラとなった6 世紀中頃にブハラを安息と見なす習慣が一般化した、との見解です(斉藤氏は、エフタルに服属している 20/30カ国のくだりの安息は、ササン朝東部であり、ブハラではない、との説を採用していますが、私はこの20/30カ国もブ ハラであっても問題ないと思いますが、なぜこの部分を「別の安息」とするのか、理由がよくわかりませんでした(北魏時代の、同時 代史料ではない、ということなのでしょうか。白鳥庫吉のブハラorメルブ説は否定できないように思えます)。

結論としては、安国=安息国との記載は、歴史的事実ではなく、ブハラ出身ソグド人が安息との系譜を 僭称してい た、という解釈をし、それゆえ記録を残した魏晋南北朝時代(と唐初)の中国の記録は、安息と安国の混同が見られ るようになたった、と解釈しています。つまり、安国と安息は直接は関係がない、という結論です(その後唐代の買耽の『古 今郡国県道四夷述』(801年)にて「従来の西域志で安国を安息と為していたのは、 今回康居のことだと改める」とある そうです「安息国・安国とソグド人」 (2004年)p13。しかし、唐代ではブハラを含む地域に安息州が 置かれ、この習慣の根強さを表している、とする(p16))。

が、ここまで読んでも(そして上のように表を作成して斉 藤氏の論旨を整理しても)、個人的には、安息の残存勢力が、中国の編集者の混乱になんらかの影響を与えているわけでもない、と断 定することもまたできないように思えます。いくつかポイントを列挙します(以下1から3は私の考えです)。

1.バフラーム五世がブハラ遠征を行い、その後ブハラを間接的に支配した可能性

・タバリーの『歴史』のバフラーム五世の記載に、トルコ遠征(エフタル)が記録されていること(こちら) (
An historical atlas of Central Asia / by Yuri Bregelのp13の地図でもバフラームがブハラ遠征を行ったことになっています(この地図帳の紹介短 文はこちら)。

 2003年に出版された中・ブハラでは4世紀までヘレニズム式の模擬貨幣を鋳造していたが、5世紀半ばからバハラーム五世の模 擬貨幣(銀貨、銅貨)を大量に製造するようになった(「古代・初期中世トランスオクシアナにおける貨幣流通−独自の硬貨製造をめ ぐって−」(『西南アジア研究』50号、1999年 E.V.ルトヴェラーゼ(久保一之訳)p54)

・バハラーム五世は、アルメニア王にアルサケス家を任命している。ササン朝支配下に入ったアルメニアでは、ゾロアスター教化政策 が強化されている。

以上の状況証拠から、バハラーム五世が、遠征後、アルサケス系の支配者やその一族、移民等をアムダリヤ北岸支配の拠点としてブハ ラにも送り込み、ゾロアスター教とその習俗をブハラにも強化した可能性が考えられます。

2.
『北史』西域伝の安国(ブハラ)の記載

唐初に成立した『北史』巻 97西域伝の安国(ブハラ)では、ゾロアスター習俗について言及されています。これは他の康居配下の諸王国の記載に は見られない風俗です。

3.
『北史』西域伝の旧安息国の諸国

『北史』西域伝では、昔は安息の地だったところにある国 が紹介されています(同じ内容が『隋書』(636年成立)にも記載されていてこの部分は、
斉藤氏「安息国・安国とソグ ド人で も論じられている。『隋書』成立の頃には安国と安息国の同一化が既に一般化していたため、地理認識とは関係なく、ブハラが安息と 結び付けられた、としています。しかしそれだと安国だけにゾロアスター習俗が記載されていることが説明できない気がします)。

国名
記載
場所
王の名
備考
烏那遏國 舊安息之地也 烏滸水西、安国南西400里 昭武
穆國 安息之故地 烏滸河之西、安国南西500里 昭武

いずれも烏滸河(アムダリア)の南にあることが特徴です。『北史』の編者は、アムダリアの西 側 が、安息の故地だと認識していたと考えられます。これは、かなり正確な地理認識です。確かに『北史』西域伝の他 の箇所では、前2世紀から後2世紀まで西アジアを支配したパルティア王国のことだと思える「安息」の記載も混入 しているのですが、事実度が高い内容も混在していて、単純に6−7世紀の中国史書が、安息と安国を混同してい る、とばかりは決め付けられない気がします。ブハラ出身者が、安息国との結びつきを主張した原因には、やはりブ ハラと安息(アルサケス朝勢力)とのなんらかの関係がある可能性は残る気がします。


<1−2>史料に登場する 4−6世紀の安息系仏僧

斉藤論説Aの後半は、漢籍で安息系とさ れている四名の仏僧(安法欽、安法賢、曇諦、吉蔵)を検討しています。

氏名
史料
成立年
生存年代
安息との関係 備考
安法欽 歴代三宝記
597年
西晋
安息国出身
実在性疑問
安法賢 歴代三宝記 597年 三国魏
姓から安息出身と推定
実在性疑問
曇諦 高僧伝
518年
三国魏
安息国出身
254/5年に洛陽到来
吉蔵 続高僧伝(道宣)
645年
549-623年
元安息人との記載
先祖が交趾と広州の間に居住。(ソグド人が南海交易に従事していたのはソグド語銘文付銀 器が由来とのこと)。
吉蔵 中論疎記(日本、安澄) 801-6年
安世高の子孫 先祖が交趾と広州の間に居住。
父は颯末健国(サマルカンド)大臣の子という異説(『述義』という著作)は否定。「嘉 祥碑文」という墓誌? を参照
吉蔵 中論疎述義(日本、智光)



現存せず。上の『述義』のこと。
吉蔵 『浄名玄論略述(智光)


颯末健国大臣の子説。姓は胡氏。

最初の三名は何も検討せず、 吉蔵を詳細に検討しています。前章の結論から、6世紀の中国の認識では、安息をブハラと解釈しているため、彼はブハラ出身であ り、かつソグド人であると結論しています(サマルカンド出自説が出ていたのは、ソグド人であったため、とする)。


<1−3> 安息国・ 安国とソグド人

A「安 息国・安国とソグド人」 (2004年)では、「安息」の領域がソグディアナに及んでいたかどうか、について以下のように史料を精査しています。結論は前 論説「晋南北朝時代の安息国と安息系仏教僧」と 同じで、今回は、精査した史料で傍証を行ったことになります。

1−3−1)安息の地理

論説「魏晋南北朝時代の安息国と 安息系仏教僧」以外の史料を精査し、安国と安息の同一視は6世紀中盤に出現することを確認している。

『史記』巻123大宛列伝、ソグドの記載なし
『漢書』巻96西域伝、ソグドの記載なし
『後漢書』巻88西域伝、粟弋(ソグド)の記載あり。康居に服属。
『隋書』巻15志10「音楽」と『玉海』巻106に引く『太楽令壁記』に「安国伎」「安国楽」が登場。『隋書』の安国伎到来の記 載は、北魏の「北燕平定及び西域通行」の文章に続いていることから、これを北燕滅亡の436年頃の内容としており、
『太楽令壁記』は周武帝が安国之楽を有していた、とし、ブハラと安息の名称混同 は、6世紀中盤との傍証となる、としている。

『隋書』(636年)巻83西域伝(典拠は
隋代の同時代史料裴矩『西域図記』、韋節 『西蕃記』)、「安国」登場(『北史』も同じ。『周書』には安国はない)。

1−3−2)「安」姓の登場

『梁職貢図』の末国使の条に、国王王「安末粢盤」とでてくる
『梁書』巻54諸夷伝(『梁職貢図』も典拠としている)では国王名は「安末深盤」。編者が「安」をつけた理由は、メルブが安息の 領域内にあったからだ、とし、『隋書』の「安=ブハラ」とは異なるとする。以下の表にその他の安氏についての斉藤氏の論旨を整理し ました。

氏名
史料
年代
安息、安国との関係
備考
安諾槃陁
『周書』巻50突厥
545年
諾槃陁はソグド語人名比定可能 安姓のソグド人はブハラ出身者以外は確認されていないた め、彼もブハラ出身と推定可能。皇帝の命で酒泉(河西回廊)に使者
安吐根
『北史』巻92恩幸伝
534年
本文に「安息胡人」とある
先祖が北魏に到来し、吐根は酒泉出身。安吐根は蠕蠕への使者となった。その後北斉でも有力者。ソグド出身という直接の証拠はない。経 歴等が安諾槃陁と似ているため、彼もブ ハラ出身と推定
武威安氏
唐代族譜『元和姓簒』巻4
5世紀後半
安息の王子の子孫と主張(安世高と思われる)。 安息王子涼州到来。出自安国。北魏安難陁の代以来涼州の薩宝 (ソグド集落の統括役職)。薩宝を名乗ったのはブハラ出身者以外の事例がないため、この一族はブハラ出身 だと思われる。
安同
『魏書』巻30安同伝
-429年
先祖安世高
父安屈が遼東慕容氏に仕えた。安世高子孫は偽作であろうが、先 祖が安息からの移民である可能性、ブハラ出身のソグド人の可能性も残る
安拠
『晋書』巻122呂簒戴記
399年
涼州胡人
墓盗掘で誅殺される。出身未確定





(2)クシャン朝その後

【1】後期クシャン朝

英語版wikipediaクシャン朝王の記事では、末尾に王の一覧表があり、233年以降ササン朝の支配下となってから は、クシャノ・ササン朝とは別に、以下の王統が北西インドで続いていることになっています(例えばこちらのフヴィ シュカの記事の末尾)。コメントはWikipediaのものなので、信頼性には留保が必要です。年代や順序 がどのように確定されているのかも不明です。

Kanishka II (c. 230 – 240) 金貨が発見されている。
Vashishka (c. 240 – 250) 金貨が発見されている。
Kanishka III (c. 250 – 275) パンジャブ州で発見された碑文に”41年”の年号がある。”カエサル(Kaisara )”の称号
Vasudeva II (c. 275 – 310) 金貨
Vasudeva III 存在が議論中 
Vasudeva IV カンダハールの支配者
Vasudeva V カブールの支配者
Chhu (c. 310? – 325) 貨幣
Shaka I (c. 325 – 345) 金貨
Kipunada (c. 345 – 375) 金貨


【2】ササン朝がクシャン朝を征服した年

バクトリア語文書研究の近況と課題』吉田豊、『内陸アジア言語 の研究』、大阪大学、2013年9月(PDF) によりますと、パキスタンのTochi(トチ)渓谷で発見されたバクトリア語とサンスクリットの二言語碑文、 及びサンスクリット語とアラビア語の二言語碑文に記載された年号(9世紀)を比較して、バクトリア語碑文の元年を232/3年と 解読し、これがサーサーン朝によるクシャン朝征服の年を紀年したものである、と解釈されていましたが、吉田氏によると、2007 年以降では、223年と改められたそうです。223年とは、アルダシールがパルティア王アルダワーンを破って「諸王の王」を宣言 した年(224年)に近い年です(タバリーのアルダシールの章に諸王の王宣言の記載があります(「戦闘の日に アルダシールは” 大王”の称号を受けた」(こちら))。 驚きです。

【3】 キダーラ・クシャン朝のその後

 「キダーラ・クシャーンについ て」 山田 明爾 著、『印度学仏教学研究』      印度学仏教学研究 11(2), 1963-03(日本印度学仏教学会)があります。論説は、CiNiiからリンクが貼られてい ないのですが、こちらにPDFが あります。キダーラ研究の史料、学説、復元される編年が整理されて記載されていて有用です。

キダーラの史料である『北史』の当該箇所(巻九十)が掲載されていて、登場する地名が現在の場所 に比定されています。キダーラの史料は、ギリシア・ローマ側の史料(5世紀のプリスクス)にも以下の記載があるそうです。

1)456年にキダーラのフンがササン朝と戦っていた。2)ササン朝のペーローズ王がキダーラ・ クシャーンと戦い続けた 3)クシャーナとササン朝の境は、ゴルガという場所(カスピ海東南のゴルガンに比定される)だったが、 468年にクシャーナの都はペーローズに占領される

どうやら、第二クシャン朝というべきキダーラ朝は、もともとバクトリアを拠点としていたが、エフ タルに追われて主力はバクトリアを去り、ゴルガン付近でササン朝と戦い、468年にササン朝ペーローズに滅ぼされた、ということ のようです(ガンダーラ地方は、キダーラ王の 息子が統治し続け、『北史』では小月氏と呼ばれている、6世紀『宋雲行記』によると470-520年の間にエフタルに滅ぼさ れた)

バクトリアを支配した歴代勢力(アレクサンドロス、バクトリア王国、大月氏、サカ、クシャン朝、 エ フタル、モンゴル帝国、ムガール朝等)は、カブールからガンダーラ方面へ抜けるのがほとんどで、西方に向かった勢力は珍しいので はないかと思います。

初期のキダーラについては、法顕の旅行記も、若干の情報を与えてくれるとのことです(402年に この地方を訪れた法顕に記載がないのだから、まだキダーラは勃興してなかったのだろう、とする説)。

また、サーサーン式銅貨がタキシラで数多く出土しているとのことなので、キダーラ滅亡後の西パン ジャブ地方は、サーサーン朝支配下に入ったとみるべき、としています。これは大変興味深い説です。


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