城村遺跡(閔越王城遺跡)

 


紹介

  戦国時代に、閔越貴族は、越王勾践の子孫と称していた。越国は、前334年に楚に滅ぼされるが、支配層は逃亡南下し、越人の地に入り、現地化していったと 推測することもできる。そこで、「閔越」と称するようになったとされる。前222年に秦の将軍王翦が楚を攻めたとき、呉 越を占領し、会稽郡をおいたとされるが、実際には服属してはおらず、前214年、桂林、南海、象郡を設置したときに正式 に秦朝の治めるところとなったとされる。秦は、福建、江西、逝江省境に、「閔中郡」を置いたとされる。秦滅亡時の反乱 に、閔越王無渚、越東海王揺が加わり、その後漢朝の成立に協力した。前202年、無渚は閔越王に封じられた。その後平和 が続いたが、東甌国が呉楚七国の乱に加わり、呉王と太子が東甌に逃亡してきた時、東甌王は呉王を殺した。太子は閔越に逃 れた。前138年に、呉太子の策謀により、閔越国は東甌国に攻め入り、135年には、閔越王郢は南越国に侵攻した。南越 は、漢の介入を要請し漢が出兵。閔越国内は分裂し、漢の調停により、閔越王余善が、東甌国になることで一時的に小康を 保った。

前111年前、余善は、漢軍をそそのかし、閔越を攻撃させ、、混乱に乗じて自立して帝を名 乗ったが、閔越国は余善に大して反乱を起こした。漢が出兵し、110年、閔越国は滅びた。城村村の遺跡は、この、前 202年から110年の、92年の間に利用された王宮、または離宮と見られている。

 閔越国は、福建省の中央を流れる閔江(南東から北西に向かって流れる)とその支流沿いに 広がっていた。川沿いに住む人々中心の国だったと考えられている。福建省武夷山市興田鎮城村村に離宮と推測される遺跡あ る(武夷山市ができる前は、城村村は、崇安県にあった)。城村村は、南平市付近で閔江に合流する支流、建渓(南平から武 夷山に向けて南北に流れる)の更に支流である、崇陽渓沿いの山中に位置する(最下段の地形図参照)。史書にも、王宮の名 は記載されていない為、当時、この施設が何であったのかは不明である。福建省省都の福州に遺跡が発見されていることか ら、通常の政治的中心地は福州にあり、城村の方は離宮だったとの仮説がある。

 遺跡は、右図のように(右が北、真上が西です)、1q四方の広さを持ち、地形を利用した 城壁で囲まれていた(灰色の破線部分)。遺跡の入り口は、下写真のような、赤い壁の城門があるが、これは完全なレプリカ で、もともとここに城門があったわけではない(が、目印になる)。この城門をくぐって80m程先にある、下段真ん中の写 真が、実際の東門遺跡。しかし、この赤レンガあもレプリカで、下段右写真のような状況である(城門の内側部分)。実際に 残っている当時のレンガは、更にその下の段の、ガラス窓の奥に入っているオレンジ色のものである。

 

  さて、東城門を抜けて城壁沿いに西に行くと、東水門遺跡に出る。その水門部 分にかかっている橋が右の写真。あちこち腐っていて、半分崩壊している。水門を通過し、西に向かうと、南城壁に出る(2 段上の右写真)。

展望台から宮殿遺跡を見下ろしたものが、下記パノラマ写真。写真左側が西、真ん中が北、写 真右が東方向で、宮殿遺跡の平面プランが木の左側に写っている。 扉写真は、展望台から撮影した宮殿遺跡。木 の右側の平地は、水田であったと思われる湿地。その先に東水門がある。

 

 ここからは、宮殿遺跡。宮殿は高台になっていて、 左写真は中央階段の左側。階段をはさんで左右対称の構造である。上がると、主殿の周囲を、幾つかの建物が取り囲む構造を している。福州にある福建博物館には、復元模型があり(下記)、かなり立派な建築物だったと推測されている。右写真は主 殿の土台。ブロックはレプリカ。本物の当時のブロックは、ガラスで保護されている(左下写真)。が、本物もレプリカもあ まり変わらない。当時から、かなり規格が一定したそれなりの品質のものだったようである。写真左下は、主殿の右側奥に、 小さく回廊で囲まれている部分があるが、そこにあるプール。ブロックはレプリカ。その下段左写真は、回廊部分にあった小 部屋跡。

旅行情報

 

 

 福建省省都福州から南平までバスで3時間ほど。そこから建陽までバス で2時間。更に建陽から1時間ほどの山の中にある。建陽から興田行きか、武夷山行き。或いは反対に、武夷山から興田鎮行 きか、建陽行きバスに乗る。興田鎮は、武夷山から38q、建陽とのほぼ中間にある。遺跡のある城村は、興田鎮から北北東 に9q地点にあり、武夷山からの直行バスや、建陽からのバスが出ている。私は知らずに、建陽行きバスに乗り、途中下車し たが、武夷山か建陽で、城村行きバスに乗車すると行きやすい。武夷山から1時間程度の地点で街道から、城村行きの道路に 入り、車で10分。歩いて30分。

 右図の下の灰色の線が、武夷山と建陽間の街道。この街道から北に伸び る道路とのT字路部分に、閔越王城入り口があり、写真最上段左写真の看板がバス停横にある。ここから30分程北上し、右 図中の最初の分岐店の手前300m程の地点に、最上段右写真の看板がある。

 上右写真は、主殿の裏側。階段を下りた先にある小屋のような ものは井戸。屋根囲いは現在のものだが、中に当時の井戸が残されている。その井戸の写真が上の写真。四角い囲いの部分 は、現代のものだが、中の丸い穴は古代の井戸。

 

 

 

 

 

 

 

旅行日記
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