2011/Aug/21 created
2017/Jul/22 last updated

チェコ王カレル四世自伝(神聖ローマ皇帝カール四世)*1


  中世チェコ歴史映画を探している時に、中世チェコ史学習の為、薩摩秀登氏の「王権と貴族」を読 みました。本書は、前半1/3が中世チェコの王権と貴族の関係と権力基盤の社会史的分析ですが、後半2/3は、チェコ土着王権プ シェミスル家断絶後に王と なったルクセンブルク家のヨハンの話です。ヨハンは、父親と息子が神聖ローマ皇帝で、本人だけ皇帝になれなかった人物です。「王 権と貴族」では、ヨハンと チェコ貴族との関係中心に分析がされ、両者のアイデンティティや世界観まで照射されます。そこで興味を持ったのが、息子カレルは どのようなアイデンティ ティを持っていたのか、という点です。ルクセンブルク家、チェコ王、神聖ローマ皇帝は、彼の中でどのような比重を占めているのか に興味が出ました。そこで 探してみると、自伝が残っていることが判明。Autobiography of Charles IV of Luxemburg, Holy Roman Emperor and King of Bohemia (Central European Mediaeval Texts)というタイトルで英訳本が出ています。早速購入しました(表紙カバー破れ、四隅擦 り切れのボロ本とのことで、送料含めて1790円でした)。とはいえまだ届いていないので、Wikisourceに掲載されてい るチェコ語とラテン語のテキストを翻訳機で英訳して読みました。

チェコ語版はこちら。
ラテン語版はこちら

  チェコ語版はGoogle Chomeで英訳したのですが、Google Chomeではラテン語に対応していないので、Google翻訳にコピーして英訳しました。なぜこんな面倒なことになったかというと、チェコ語でもラテン 語でも、翻訳機で対応していない単語が登場し、結構な頻度でラテン語単語、チェコ語単語が英文の中に登場する為です。しかも、ラ テン語からの翻訳の方が、 チェコ語からの訳文に比べて原語の残る比率が少なく、一見ほぼ英文に翻訳されているように見えるのですが、よくよく読むと、意味 の通らない箇所が結構ある ことが判明。それらの部分は、チェコ語からの訳文を見ると、ちゃんとした英文になっていたりします。おそらく、チェコの学者がラ テン語から翻訳する過程 で、わかりにくい慣用句などを、現代語に置き換える作業などを行ったのではないかと推測しています。しかも注釈はチェコ語版にし か掲載されておらず、結局 両方の英訳文を相互に参照しながら読み進めることになりました。チェコ語の英訳では、突然「China」という単語が登場したり する一方ラテン語訳では全 然違う訳になっていたりして(そもそも中国は何の関係も無い)、翻訳機の性能の考察にもなり有用でした。

 少し話はそれますが、最近、 Google翻訳を使って、デンマーク語のサイトをノルウェー語やスウェーデン語に設定して日本語に訳したり、スペイン語のサイ トをポルトガル語の設定で 訳したりして、「言語の近さ」を調べたりしています。昨年「北欧の言語」という書籍を読み、(著 者はスウェーデン人学者)、「アイスランド語、ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語はノルド語の方言である」との記載が あり、Google翻訳で 実験してみたところ、その通りなのに驚きました。もちろんGoogle翻訳でわかるのは、「現在の近さ」であって、歴史的な近さ ではありません。同じ外来 語の比率が増える程、どんな言語でも「近く」なりうるからです。Google翻訳の機能は、独立国家の文章語にしか対応していな いので、高地ドイツ語と オーストリア語、低地ドイツ語と中部ドイツ語など、結構大きな相違のある方言に対応していないのが残念ですが、口語方言対応翻訳 機があると、結構面白いこ とがわかりそうで、誰か作ってくれないかなーと思ったりするのでした(例えば北京語、上海語、広東語とか、ヒンドゥー語とクジャ ラート語、パンジャープ語 とか)。「オランダ語誌」という書籍には、オランダのドイツ国境の村と、ドイツのオランダ 国境の村では、お互いの国の標準語で手紙を書くと理解できないが、同じ方言を話している(p24)という記載がありました。同じ ような話をイタリアとフランスについても聞いたことがあります。一方、以前Yahoo知恵袋でヒンドゥー諸語の相互疎通について質問してみたところ、 識者の方に、「ロマンス諸語などよりも分岐の開始早く、ほぼ通じない」との回答を得ましたし、文革世代で、十分な教育を受けられ なかった中国人の知人、北 京と上海人の二人が、意思疎通の為に日本語を使っていました(上海人は北京語を理解できるが話せない。北京人は上海語を理解でき ないから、日本語での会話 が効率的だとのことでした)。そのうちラテン語とスペイン語やイタリア語などでもやってみようと思っています。翻訳機は翻訳以外 のことにも使えたりして結 構面白いですよね。



 本題に戻ります。

 カレル自伝はWikisource版は全部で20章あり、カレ ルが神聖ローマ皇帝となるところで終わっています。これが自伝の全部なのか、残存部全部なのか、Wiki掲載がまだ途中なのか は、 「Autobiography of Charles IV of Luxemburg, Holy Roman Emperor and King of Bohemia」が届かないとわからないのですが、Wikisource掲載のものは20章の、皇帝即位で終わっています。10ポイントの文字サイズで、 全部で25枚。量は多くありません。

1,2と11,12,13章は、神学的考察となっています。興味が無いので斜め読みして読み飛ばしま した。3章で家族構成と父親の兄弟姉妹の嫁ぎ先などが詳述され(カールの記憶だけではなく、年代記からの引用も多い)、当時の縁 戚関係の重要さを知ること が出来ます。シャルル四世の死後(1328年)二年間フィリップ六世の宮廷にいたことなどの情報がここから知ることができます。 フランスの話が多く、チェ コのことは殆ど出てこきません。4から7章は、父ヨハンのイタリア遠征の様子(1330-31)年が詳述されます。章によって量 は大分異なるのですが、 4-7章は、だいたい各章一枚程度。カレルもこのイタリア遠征に参加していたものの、カレルの話というより父ヨハンの話。
 
 8章は、兄 弟姉妹の結婚相手を通じた各国との政治的つながり。ポーランドとシレジアを巡る争いと、オーストリア公との、オーストリアのゴリ ツィア=チロル伯領やカラ ンタニア公国(Duchy of Carinthia)を巡る公位の行方と、カレルがチェコに定着することになったことの次第(カレルのチェコ入りは1333年からだから、ポーランドのカ ジミシェ王の即位と同じ年。両者はほぼ40年近く、お隣同士だったことになる)が記載されています。この辺を読んでいると、ルク センブルク家の家領が重要 だったことが良くわかります。

9章は、ティロル伯国・ケルンテン公国の相続を巡るバイエルン公との争い。カレルの弟ヨハン・ハインリヒは、1330年にティロ ル・ケルンテン伯の娘マル ガレーテと結婚したが、1335年にケルンテン・ティロル伯死去に伴いマルガレーテが相続。事実上ルクセンブルク家領となった が、バイエルンを支配する ヴィッテルスバハ家のルートビッヒ皇帝が介入し、ルクセンブルク家とヴィッテルスバハ家との対立が深まり、1336年ヨハンは、 ケルンテン公国を放棄する 代わりに、ティロルを手に入れたところまでが記載される。10章では、ヨハンがオランダ公ウィレムなどを率いてプロイセン辺境伯 領に赴きリトアニアと戦っ た話(一行だけ)から始まり、1335年以降のルクセンブルク家関連地域の動向が記されます。

 14章。ここから最終章まで、カレルは自 己を「モラヴィア総督」と記し、政策の多くは「王ヨハンとモラヴィア辺境伯カレルは」という感じで、父王と一緒の政策をとり、一 緒には行動していないまで も、一身同体のような記載となっているます。カレルは、自分の事を常に、「モラヴィア総督カレル」という具合に三人称を用いてい ます。この章からチェコの 話が増えてきます。本当かどうかわかりませんが、ハンガリーのカーロイ・ロベルトが1339年頃毒を盛られて病気になった、とい う話が出て来たりします (チェコ語・ラテン語双方の英訳で同じ)。面白いのが、皇帝ルートヴィヒの表記の仕方で、常に「ルートヴィヒ、皇帝を名乗る者」 というように、常にルート ヴィッヒが皇帝を自称しているだけのような書き方がされています(ルートヴィヒの英訳がLouisだったりLudwigだった り、カレルの表記も Charlesだったり、Karl、Karol だったりと一定しないので、たまにどのルイ?どのチャールズのことなのか判別し難かった。地名も、クラクフがCracowだったりKracowだったり (Wroclawもクラクフなのではないかと推測しています)。これはチェコ語ラテン語双方の英訳文で見られました。チェコ語、 ラテン語の原文自体に綴り 違いがあるのかも。そのうち調べてみる予定)。本章では1340年までの情勢が語られます。父王ヨハンは、チェコ国外での活動も 多いが、チェコでの活動も 記載されている。1339年にカレルの姉マルガレーテが嫁いだバイエルン公ハインリヒが死去したので、バイエルン相続問題も主題 となっています。チェコ王 国の記載が増えてきたものの、やはり視点はルクセンブルク家領のようです。

 15章。10行程の短い章。ラテン語とチェコ語の英訳が異な る部分が多いのですが、ヨハンがチェコ王国から税金を毟り取ってゆく話と、カレルがどうやらチェコ側に立って資産保全に勤めたく だりは一致している模様。 ラテン語からの訳では、カレルにより、ヨハンがフランスに追放された」と出てきたり、チエコ語からの訳では、ヨハンがチェコ軍と 二度戦った、と出てくるの で、本当のところはどうなのか、書籍版を確認する必要がありそうな箇所。

 16章 1344年にヨハンがチェコに戻ってきて、プロイセン 辺境伯カールとともにリトアニアを攻める話など(17章の記載では、カレルも一緒だったことになっている)。17章は、シレジア を巡るカレルとポーランド 王(クラクフ王と記載されることが殆ど。チェコは、殆どラテン語・チェコ語からの英訳ともボヘミアで、「チェコ」の用語は稀)) カジミシェの争い (1345年)。ライン川付近にいたヨハンも戻ってきて支援する。父王は本当にあちこち行き来していて忙しい。

 18章。皇帝を名乗る ルートヴィヒがオーストリア公、クラクフ王、ハンガリー王などを巻き込みルクセンブルク家に対する嫌がらせを行う。クラクフ王カ ジミシェがモラヴィア東北 のOpava公領に色々仕掛けてくる記載が出てきます。カジェミシェは西方領土に対する野心を捨てて、東方に専念したと思ってい たのでちょっと意外。最終 的にはカレルが銀1万マルクをカジェミシェに支払い平和を買うことで終わります。1枚以上ある長めの章で、チェコの銀山として有 名なクトナー・ホラなど各 地から兵を集め、ヨハンもチェコで戦うなど、カジェミシェの攻勢はかなりな事件だったことがわかる。この頃ヨハン王が完全に失明 したとのこと。

 19章。皇帝を名乗るルートヴィヒの策謀で、カレルの弟ティロル伯ヨハンはとうとう、ティロルを追放されてしまうが、見返りと してヨハンは若干の引き換え領土と銀2万マルクを得て、その資金をライン伯ヘンリックにばら撒いてしまったとのこと。

  20章。ヨハンが教皇ベネディクトに会いに行き、ルートヴィヒは正しい手続きで選ばれた皇帝ではないと主張し、それが受け入れら れ、カレルが正当なローマ 王に選出された、との記載で終わります。「ローマ王」としか記載が無いものの、その前に「バイエルンの皇帝ルイ」と出ているの で、カレルのローマ王選出は 皇帝ということになるようです。


 とまあ、だいたいこういう内容でした。チェコ語とラテン語からの英訳文が異なっていたり、どうにも文法的に意味不明な箇所も多 く、わからない部分が多かったのですが、ポイントは下記のように思えました。

・カレルの伝記というよりも、父ヨハンの伝記とルクセンブルク家領の動向の記載という印象が強い。
・カレルのアイデンティティがルクセンブルク家にあったのかどうかはよくわからない。父ヨハンは明らかにルクセンブルク家君主で あり、チェコ王としての意識は低そう。

  内容から受け取れるイメージはこのようなものなのですが、僅かながらカレルがチェコにアイデンティティを置くと思われる記載もあ りました(ラテン語とチェ コ語の英文で相違があるのではっきりわからないのだけれど)。チェコ語訳を作成したのはチェコの学者なのだから、そういう風に訳 したのかも知れませんが、 ティロル伯放棄の代償として得た2万マルクをライン伯に「ばらまく」という描写はチェコ語・ラテン語からの訳双方に共通してお り、カレルにとって無駄遣い とも取れる用語が使われています。

 あくまで印象ですが、父王のとった婚姻政策がルートヴィッヒとオーストリアのおかげで悉く覆されてゆ くのを見たのと、皇帝でもないのに、皇帝とはりあって、「皇帝的」な行動を取る父王を見ていて、カレルは、もう少し堅実な行動を 取るようになったのではな いか、という気がします。それくらい、カレル自伝に登場する父王ヨハンは、皇帝的に見えてしまうのでした。

 ところで、どこに記載があっ たのか忘れてしまったのですが、ヨハンは、クレシーの戦いでフランス側に立って参戦し戦死するのですが、その時ルートヴィヒはイ ングランド王エドワード側 に立っているくだりがあった気がします(別の時期かも知れませんが)。このあたりは全然詳しくないのですが、13世紀にフランス の影響力が強まり、教皇ま でフランスに持ってきてしまうくらいフランスが脅威だった(更に両シチリア王国もハンガリーもフランス王家の出)様子がわかる反 面、英仏百年戦争って、フ ランスのドイツとイタリアへの介入を排除する為の、ドイツ(開始時期の中心人物は皇帝ルートヴィヒ)の陽動作戦だったのでは?と いう気もしてしまいまし た。Wiki掲載のこちらの地図を見ていると、 カレル時代の神聖ローマ帝国が、ルクセンブルク家とハプスブルク家とヴィッテルスバハ家の三国時代だった様子がよくわかります。 それが次の世代となると、 ルクセンブルクとハプスブルクとヤギェウォ家の東欧三国時代に移行してゆき、16世紀にはオスマン、ハプスブルク、ポーランドの 東欧三国時代を迎えること になる。ルクセンブルク家とフランスの影響力の後退って足並みそろってる感じがします。フランスはその後復活するけど、東欧やイ タリアに影響力をもてなく なってしまうので、逆に百年戦争が無かったら、その後の東欧にフランスの進出が続いていたりして、と妄想してしまうのでした。

 それにし てもカレルはルートヴィヒは徹底的に嫌ってる印象を受けました。前々から、神聖ローマ皇帝選帝侯に、何故オーストリア公やバイエ ルン公が入っていないのか 不思議でしたが、カレル自伝からは、この二つの公(ポーランドもだけど)は常に敵であることがよくわかります。金印勅書にオース トリア公とバイエルン公が 入っていない点については、カレルの意識が良くわかった次第です。


 最後に。カレル四世が出ている映画・ドラマともに見つけるこ とが出来ませんでした。息子のシギシムントなんて、ポーランド、チェコ、ルーマニア映画など、主役でないくせに行動範囲が広いか らか、あちこちの国の映画 に登場しているのに(シギスムントが最も長く統治したハンガリーだけ、映画を見つけることができませんでした)、カレル四世を映 像で見られないのが残念で す(再現ドラマ仕立ての教育ドキュメンタリー番組「DIE DEUTSCHEN - Staffel II / Teil 4: Karl IV」があるようです。皇帝となって以後の話だけのようですが。ネットにもあがってるので見てみました。ご興味のあ る方は、こちらの記事、「神聖ローマ再 現ドラマ/ ドイツ教育番組"DIE DEUTSCHEN(ドイツ史)」(フリードリヒ一世、ヒルデガルド、カレル四世」を ご覧ください。どうでもいいことですが、カール一世がカール大帝のことだと最近気づきました。。。)。


追記(2011/Aug/30):自伝の英訳本を入手しました。所感を下記に追記します。

 神聖ローマ皇帝カレル四世(在1346-78年)自伝と、彼の書いたチェコの初期の王ヴァーツラフ一世(在921-929年) を中心とする簡単なチェコ王国の初期の歴史の歴史書のラテン語英語対訳本です。
 
  約300頁のハードカバー本ですが、自伝と史書の部分はそのうちの210ページ程(自伝180頁、史書30頁。しかも半分ラテン 語なので、英語だけ必要な 読者にとっては、正味155頁程度。各ページの分量も多くは無く、しかも簡単な英文なので、構えることなく気楽に、結構直ぐに読 める書籍と言えます。史書 は1346年の、カレルの皇帝即位までで終わっており、どちらかというと、父王ヨハンの自伝のような趣ですが、同時代に隣のポー ランドに君臨した名君カジ ミェシェ三世(在1330-70年)が悪役として登場したり、それなりにカレルの意識がつかめて有用です。

 細かい地名や都市名が頻出す るのですが、地名の殆どに注釈がついていて、有名な都市の場所だけ巻末の地図で調べて覚えてしまえば、そこを基点に「XXから南 東50km」などと注釈が ついているので、場所もわかり親切です。また、カレルは殆ど年号を記載していないのですが、これも注釈が細かく記載されているの で、この手の史料を読むと きの煩わしさがあまり無く、素人目には良書と言えるのではないかと思えます。

 カレルは自伝と史書(など公文書)はラテン語で記載してい るのですが、ラテン語を知らない方でも、「これはラテン語でなんというのだろう」と思った箇所の反対側を見れば、ラテン語原文が 載っているので、ちょっと したラテン語知識もついたりします。史書の部を読んでいて、1092年の年号のところのラテン語が、XVとかのローマ数字ではな く、「せんきゅうひゃく きゅうじゅうにねん」といようにラテン語の文章で書かれていたのは驚きでした。
 
 その他序文が30頁、参考資料一覧が9頁、地名のラテ ン語・英語の対照表(一部ドイツ語・イタリア語・ポーランド語・チェコ語・イタリア語・ハンガリー語・フランス語などがある(こ れだけでもカレルと父ヨハ ンの活動範囲の広さがわかります)もついていて、関係各家の系図もついています。

 このように、中央欧州の地理に詳しくない者に対しての配慮が行き届いているので、本書は研究者向けというより、素人向けなので はないかと思います。歴史ファンにお奨めの書籍かと思います。

追記2(2014/Feb):関連書籍と文献

 1) 小説「カールシュタイン城夜話」 フランティシェク・クプカ

  1371年、毒を盛られたカレル四世が、療養の為郊外のカールシュタイン城に滞在し、毎晩側近たちと交互に物語りを披露するとい う枠物語の形式をとった チェコの現代小説。「デカメロン」に似ていますが、物語の内容が、チェコの歴史やカレルの回想となっている点に特徴があります。

 2) 神聖ローマ皇帝カール 4 世の自叙伝 : 翻訳と註解
 筑波学院大学の小松進氏による、自伝の解説と翻訳(第1-6、11-13章(2017年7月時点・今後続訳予定)。翻訳のある 各章は、カレルの聖書解釈が述べら れ、カ レルの人生観・世界観の重要資料とのことです。  

*1 この記事では、通常カール四世、あるいはカレル1世と表記されるものを、カレル四世と表記しています。カールはドイツ語でカレルはチェコ語、カール四世は カール大帝を一世と見なして以降の中世ローマ帝国の皇帝の継承番号で、カール四世は四番目のカールを名乗る皇帝という意味です。 一方チェコ王としてのカレ ルは一世なので、通常カール四世/カレル一世と書き分けるのですが、この記事では個人的に、カレル四世と表記します。この理由 は、カール大帝の継承者(四 世)であり、かつチェコ人の側からの見方(カレル)の双方を成り立たせるためです。あくまで個人的にですが、カール四世と書いて しまうと、神聖ローマ皇帝 としてのカールという意味合いとなってしまい、同時にチェコ王でもあるカレルのアイデンティティが表現できない、逆にカレル一世 と書いてしまうと、チェコ 王としてのカレルという意味になってしまい、同時に神聖ローマ皇帝でもあるカールのアイデンティティを表現できないためです。神 聖ローマ皇帝兼チェコ王で あるカール/カレルの多重性を表現するために、カレル四世という表記を用いています(カレル四世はチェコでは”カレル四世”と呼ばれているそうです)。

追記3(2017年7月)

2016年はカレル四世生誕700周年記念で、チェコでは多くの行事が行なわれたようです。”カレル4世、生誕700年”で検索 すると、チェコ政府観光局の 700周年生誕行事の記事がいくつもヒットします。また、生誕700周年を記念して、カレル四世の自伝のドラマ『ローマ人の王の ための投票』が製作されました(紹 介・感想はこちら)。


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