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 後漢 王充『論衡』 宣漢篇 参考日本語訳

最盛期ローマの統治を称揚するアリステイデス『ローマ頌詞』に 対置できる、最盛期後漢王朝の頌詞、王充の『宣漢篇』の参考訳です(関連記事 「ア イリステイデス『ローマ頌詞』と王充『宣漢篇』の全体の構成」)。翻訳に用いた書籍は、陳蒲清校訂 『論衡』
(古 典名著普及文庫、岳麓書社、2006年湖南省長沙)p249-252を用いました(形式的には頌詞ではな く、評論なのですが、内容的には頌詞といえるので、ここでは頌詞扱いしています)。

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儒者は、五帝と三王※が天下を太平もたらしたが、漢朝が興って以来、未だ太平ではない、といっている。彼らは、五 帝と三王が太平をもたらし、漢朝が未だ太平ではない、というのは、五帝、三王を聖人と見て、聖人が太平をもたらすことが 出来る、といっているのである。漢朝が太平ではない、というのは、漢朝には聖帝がいないからであり、賢者の教えでは太平 をもたらすことはできないのである。

※三王とは伏羲・神農・女媧 、五帝とは黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜のこと

また、孔子が「鳳凰は飛来しなくなり、黄河からは図讖が出なくなり、私もすでにそうである」といったが、一方現在 は、鳳凰も《河図》※もなく、瑞祥は未だことごとく顕れておらず、よって未だ太平とはいえない。(しかし)これは妄言で ある。

※黄河の図讖

太平は治績が安定していることで効力を測るものであり、人民が安楽であることがその顕れである。孔子は「自己を修養する ことにより、人民を安寧にし、堯と舜ともになお多くの欠点があった!」といっている。人民の安定は、太平の顕れである。 治めるということは、人が主体であり、人民が安定して陰陽が調和し、陰陽が調和して万物が育ち、万物が育てば珍しい瑞祥 が現れるのである。今天下を見るに、安定しているのか?危機的状況にあるのか?安定とは平和ということであり、瑞祥が未 だ備わっていないとはいえ、災害はなく、平和である。それ故、王道は顕現をもって実情を確定し、その効果を以って実情を 評価する。顕現と効果が明らかでなければ、本当の実情を見ることはできず、時には実情がその通りだとしても、証拠が備 わっていないことがある。これゆえ、王道は実情をもって事実を定め、必ずしも顕現を必要としないのである。聖王の治世は 平和を願うものであり、瑞祥は必須ではないのである。

かつて太平の瑞祥は、なお聖王の容貌のようなものである。聖王の体格と容貌は必ずしも同じではなく、太平の瑞祥も同じで あることはあろうか?彼ら(儒者たち)は次のように聞いているのである。堯と舜の時代に鳳凰と景星※、《河図》や《洛 書》※※などが皆現れ、後の王が天下を治める時には、まさにこのような同じ物が顕れ、ゆえに太平となすのである、と。こ れらの如く心を用いると、堯は歯が密集していて、舜は八の字型の眉である、と言うことになるのである。

※聖人出現の前兆 
※※瑞祥(河 図洛書


帝王の聖なる容貌は、今も昔も同じではなく、古今の瑞祥も同じではないのである。今の王の時代では、鳳凰も《河 図》も無いから太平ではない、というのは妄言である。孔子が鳳凰や《河図》に言及したのは、以前の瑞祥を借りて表現した のであり、必ずしも世間に鳳凰や《河図》が再び登場するということを言っているわけではないのである。帝王の瑞祥とは、 種類が多く同じではなく、あるときは鳳凰や麒麟であり、あるときは《河図》や《洛書》であり、あるときは甘露や醴泉※で あり、或いは陰陽の調和や人民を安定した統治に顕れるのである。

※甘い泉

現在では瑞祥は、昔と同じではなく、かつての瑞祥は現在とは必ずしも同じである必要はなく、得られたところをもって(瑞 祥に)遭遇するのであり、必ずしも一致する必要なないのである。何を以ってこれを明らかにすれば良いのだろうか?帝王の 隆盛にあたっての、天命の援けは同じではないのである。周朝のときには、鳥や魚が、漢朝の場合は大蛇を斬ったのである。 唐虞※時代を推論するなら、周や漢と同じであろう。最初に王朝が始まり興隆し、事象は物質や精神を真似るが、同じものは 無く、太平の瑞祥が、なにゆえ等しく釣り合わなくてはならないのであろうか。既に顕れた瑞祥をもって、その効力が来る方 に応じるのは、切り株を守って小路で兎を待ったり、路で身を隠して(兎に)網を破られるようなものだ。

※唐は堯が封じられたところ。虞は舜の王朝名。

天下太平にあって、それぞれ異なった瑞祥が顕れるのは、家族は富を増やしても、その持ち物は異なるようなものなのであ る。(その家産とは)米殻を積んだり、蔵の布帛であったり、牛馬の畜産であったり、畑や邸宅の拡大であったり(様々であ る)。粟を蓄えるのを好み、布帛を愛さなかったり、牛馬を喜び、畑や邸宅を好まないのであれば、すなわちそれは、布帛よ りも粟が良いと言い、畑や邸宅よりも牛馬が勝る、と主張するようなものである。現在人民は安定していて、瑞祥の印が現れ ていても、いにしえの瑞祥である《河図》や鳳凰が現れていないと終いには言い出し、これでは未だ(世は)安定していな い、と言い出すのは、稲を食べている人が、稗を食べている地方へいって粟を見ない、稗は穀物ではない、といっているよう なものである。実際には、天下は既に太平となっているが、聖人が出現していないというのであれば、何を以ってここに至っ たというのであろうか? 鳳凰を見ないというのであれば、どうやって実情を測定するのか。聖人を見ない、と言う儒者に問 いたい。何をもってして、現在聖人がいないと知ることができるというのか?世の人で鳳凰を見たという人は、何をもってそ れが鳳凰だと知るのだろうか?既にこれを知る方法は無いというのに、どうやって現在鳳凰がいないと知ることができるとい うのだろうか? 実に、聖人がいるのかいないのか、を知ることが出来ないというのに、鳳凰が、鳳凰であるのか、そうでな いのかを区別することはできないのであり、現在が太平かそうでないのか、を定めることも、必ずしもできないのである。

孔子曰く、「もし王者が出現しても、仁が広まるには一世代(三十年)かかる」と述べた。三十年間天下は太平であり、漢朝 が興って文帝の代となって二十余年、賈誼は建議した。天下が安定したため、正朔と服の色、制度を改め、官名を定め、礼楽 を起こすべし、と。文帝の即位当初、謙遜していっても未だ余裕がなかった。賈誼の(時代となり彼が)建議した如く既に天 下は太平であった。漢朝が興って二十余年、孔子がいったように、「仁が広まるには一世代(三十年)かか」ったのである。 漢朝一代の年数は既に満ちて太平を立て、賈先生はこのことを知っていたのである。それから今に至るまで三百年、未だ太平 ならずというのは、これは誤りである。かつて孔子の時代は、人の一世代が三十年であったが、漢家は三百年であり、十人の 皇帝が徳を輝かせ、未だ平和ではないといかに言えるのであろうか?文帝時代では、既に平和が固まり、歴代の世は平和を維 持している。 平帝の時代に前の漢朝は滅び、光武が中興し、再び太平となったのである。
 問うて曰く、「文帝時代に瑞祥があり、太平と名づけることができるが、光武帝時代には瑞祥は無く、これを太平と いうのはどうであろうか?」 

 曰く、帝王の瑞祥は 前後で同じではないのである。物質的な瑞祥が無くとも、人民は安寧に集まり、気風が調和してい る。これもまた瑞祥なのである。何を持ってこれが明らかなのか?帝王は平和に治まっているときに、封禅の儀式で太山※に 上り、平安を報告するのである。秦の始皇帝は太山に上り封禅の儀式を行い、天候が雷雨に変るという事態に遭遇したのは、 治世は平和ではなく、気風は未だ調和していなかったからだ。光武帝も封禅の儀式を行ったが、空は晴天で雲ひとつなく、こ れは太平に応じたもので、安定した気風の治世に応じたものである。光武帝の時代、気風は調和し、人々は安らかであった。 物質的な瑞祥等が顕れ、人の気風も既に効果が現れているのに、論者はまだ疑っているのである。

※泰山のこと

宣帝の元康二年※1、鳳凰が大山に集まり、その後新平※2に集まった。元康四年、神雀が長楽宮※3に 集まり、また上林※4にも集まり、九真※5は麒麟を献上した。神雀二年※6(前60年)鳳凰と甘露が都(長 安)に降り集まった。神雀4年、鳳凰が杜陵と上林に降りた。五鳳3年(前55年)、帝は都の南郊外で祭祀を 行い、神秘な光が並行して見られ、谷から発して、祭祀を行う宮殿を光線が照らし、十余日間※8続いたのだっ た。翌年、大地神を祀った後、再び霊光が現れ、南郊外の時の如くであった。

※1 前64年
※2 四川省広漢市かも知れない(まだ確認しきれていません)
※3 長安にある宮殿の一つ。この時代は皇太后の宮殿。
※4 長安郊外の狩猟もできる広大な帝室庭園
※5 現ヴェトナムにあった漢の郡
※6 神雀は、神爵の誤りだと思われる
※7 陝西省にある杜陵県。宣帝の陵墓があった。
※8 十余日ではなく、十余刻(3時間ほど)かも知れない(一刻1約15分)。

甘露、神雀が延寿万歳宮に降り集まった。その年の三月、鸞鳳が長楽宮の東門の中の樹木の上に集まった。甘露元年 (前53年)、黄竜が現れ、新豊(長安近郊)で見られ、甘い泉が湧き出た。かの鳳凰は5,6回飛来したが、ある 時は同じ一羽が数回来たし、ある時は異なる鳥が毎回来た。麒麟、神雀、黄竜、鸞鳳、甘露、甘い泉などが、大地神 や天地の祭祀の時に神秘の霊光を輝かし、繁盛し、積み重なったといわれている。孝明帝の時代には鳳凰は来なかっ たが、また麒麟、甘露、甘い泉、神雀、白い雉、紫芝(霊芝)、嘉禾※が出現し、金が出土し、鼎が見出され、離れ た木がくっついた。五帝と三王の場合は、経書や伝えられた書籍に記載されている瑞祥は、孝明帝ほど盛んではな かった。もし瑞祥をもって太平かどうかを判定するのなら、宣帝、明帝の時代は、五帝と三王の倍であるといえよ う。このように、孝宣帝、考明帝時代は太平だということができるのである。

※珍しい穀物

太平をもたらすことができるのは聖人であるが、世の儒者はなにゆえ世に聖人がいない、というのであろうか?天の 気は、前世の者にとっては潤っていて、後世の者にとっては淡いのであろうか! 周朝は三人の聖人がいた。文王、 武王、周公は同じ時期に大勢で現れた。漢朝はまた一代であり、どうして周朝よりも少ないといえるであろうか。周 の聖王は、漢よりもどうして多いといえるのだろうか。漢の高祖、光武帝は、周の文王と武王に相当する。文帝と武 帝、宣帝と考明帝、及び今上陛下は、かつての周の成王、康王、宣王に勝っている。漢朝に生を受けた身でなけれ ば、ため息混じりで頌え、重ねて褒めることができ、媚を追求して称えるのであるが、事実と理屈の実情を考察した とところでは、説を判定した者は実情(をいっているの)であった。世俗の人々は、遠い昔を褒め称えることを好 み、瑞祥に言及すると、上代の世を美しいとし、治績を論じると、いにしえの王を賢者とするのである。今の世に珍 しいものを見ても、最終的には信用しないのである。堯と舜をもう一度生まれさせても、恐らく聖人という名は付か ないだろう。猟をする者は禽獣を捕まえ、観衆は猟を(見るのを)楽しみ、漁労を見ていない者は、その心は注意が 向かないのだ。ゆえに、斉国を見にゆくも魯国を楽しまず、楚国に遊ぼうとも、宋国は歓ばないのである。唐、虞、 夏、殷、これらは二尺四寸※の竹簡に書かれ、儒者は読み進め、朝夕習い講じているが、漢代の書籍は見ず、漢代は 劣っていてこうではない、というのは、これはまた狩猟を見て漁労を見ないことや、斉国や楚国に旅行して宋国や魯 国を愉しまないことと同じなのである。

※経典は二尺四寸の竹簡、一般書籍は一尺の竹簡が用いられた

漢朝に大いに文を有せしむる人をして、経書に漢の事情を伝えさせれば、すなわち、《尚書》、《春秋》となり、儒 者はこれを尊び、学者はこれを習い、六経を七経※1とし、今上陛下や遡っては高祖に至るまで皆聖帝となるであろ う。杜撫※2や班固たちを観るに《漢頌》を献上し、功徳を讃え、瑞祥を指摘し、(瑞祥は)大く多量で広くて深 く、無数に満ち溢れ、唐や虞※3を越えて皇※4の領域に入り、三代(夏殷周)は狭い路をくぼんだ湿地帯に阻まれ た。殷監は遠からず、夏后の世にあり※5。唐、虞、夏、殷及び近くは周の各家は、功徳の量を数えるのをやめてし まい、実際に優劣を数えてみても周は漢のようではない。

※1 『漢書』司馬相如伝(列伝57)に武帝の治世を称えて、「封禅の意義を正しく列記し、文章を修飾して、春 秋のごとき一経をつくり、従来の六経に一を加えて七経とし、これを永久に伝える」とある(小竹文夫・武夫訳)。
※2 後漢の官僚。生没年不詳。《後漢書·杜撫傳》
※3 堯の唐と舜の虞
※4 三王は、天皇、地皇、人皇ともいい、この皇のことと思われる。
※5 殷が鑑とする夏の世は遠くはない。夏を滅ぼした殷人が、夏の滅亡を反面教師とし、自らの統治を自戒するよ うに故事成語 出典《詩経·大雅の巻·蕩篇》

何をもって証とするのか?周王朝で天命を受けたのは、文王と武王であり、漢王朝では高祖と光武帝である。文王と 武王は天命が下ったのを怪しみ、この点で漢の高祖や蜂起した時の光武帝に及ばず、孝宣帝、孝明帝の瑞祥は、周朝 の成王、康王、宣王の如く美しい。孝宣帝、孝明帝の瑞祥は、唐・虞以来の隆盛ぶりだというべきである。今上陛下 は命じた。 物事の成就を奉って満たし、四海を統一し、天下を安寧に定め、物質的な瑞祥は既に極まり、人々はそ の隆盛を評議すべし、と。唐(堯)の時代、庶民は和やかであり、現在また天下は仁を修め、年々運気がよくなくて 穀物が実らないことがあっても、路を見れば道が絶えているところは無く、深く落ち着き、人々の集りには不忠者は いない。周の家は頻繁に白雉を献上したが、一方現在では、匈奴、鄯善、哀牢※が牛馬を献上してくる。周代ではわ ずか五千里※以内であったが、漢王朝は領土を拡大し、荒服※の外側までも領土とした。

※鄯善はタリム盆地東部、ロプノール付近、哀牢は現雲南省にあった国
※周漢代尺度にあまり違いはなく、どちらを用いても約2000キロメートル
※帝都を中心に、500里ごと甸服、侯服、绥服、要服、荒服、という五つの同心円地域で世界を認識していた(参 考畿 服)。

牛馬は白雉より珍しいなど、近隣に属している者や、遠隔地の物資とは異なっている。いにしえの戎狄は、現在では 中国となり、いにしえでは裸だった人は、今は朝服を着て、いにしえには露だった首は、今は礼帽子を冠っており、 いにしえにむき出しだった足は、今は靴を購入して履いている。巨大な石を肥沃な畑に変え、凶暴な人々を良民と し、でこぼこの土地をならし、服従しない人々を教化して領民とした。これが太平でないとすれば何なのであろう か?実際の徳化では、周が漢を越えることができず、瑞祥を論じれば、漢は周より栄えていて、領土の広さでは、周 は漢より狭く、漢はいったい周のごとくではないのではなかろうか?ある人が周には聖人が多いというが、太平に治 まったというのであろうか?儒者は聖人が太平の世を隆盛せしめたというが、聖人を卓越させても(治績の)跡は残 らない。治績もまた隆盛しているというが、太平を途絶させれば(隆盛は)続くことはないのである(了)※。

※最後の一文の原文は、以下の文言となっています。

「儒者称圣泰隆、使圣卓而无迹;称治亦泰盛,使太平绝而无续也。 」

この文は、前後二文から構成されていて、
「AはBと称し、Bをさせしめ、not Dであった。(Aは)CもまたBと称し、Cをさせしめ not Eあでった」という対称構造となっています。
一方、明治書院の新釈漢文大系シリーズ所 収の『論衡 (中)』 山 田勝美訳1979年)のp1243では、

「儒者称圣泰隆、使圣卓而无迹、称治亦泰盛,使太平绝而无续也。」 と、一文とされていて、訳は、

「もしも聖人がいくら卓越していても事跡が残っていないとすれば、政治上の治績をいくら盛んに誉めたところ で、泰平が途切れて続かないようにさせるであろう」 

となっていて、前半が後半に対する仮定文となっています。難解です。私は、この文は対称文として理解し、 「途絶させれば(隆盛は)」のように、(隆盛は)を補って訳しました。




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