ルーマニア歴史映画「ミハイ勇敢公」

  原題「MIHAI VITEAZUL」英語題名「Michael the Brave」、1971年ルーマニア、イタリア、フランス合作。

 第一部 CALUGARENI(1595年8月23日のカルガレニの戦いの事。
主演は「ダキア人」と「Columna」でデケバルス王を演じたAmza Pelleaさん。
 第一部では、カルガレニの戦いにいたる経過と、カルガニエの戦いが描かれる。
  第二部の中ほどでヴァラキア・モルダヴィア・トランシルヴァニアの統一公に就任するが、この就任式の場面までは、1985年頃、 テレビ東京で、お昼の時間 帯に放映されていました。本作は1973年に日本でも公開されていますが、日本語版vhsやdvdは無さそう。しかし、これは ルーマニアという国を理解す る為にも、是非日本語字幕版を出して欲しい作品です。今回は英語字幕があったので、大分内容が把握できました。素晴らしい作品だ と思います。トランシル ヴァニアとワラキアの複雑な駆け引きや、オスマンとハプスブルクという二大勢力の間で揺れ動く二公国の様子など、本で読んでもな かなか頭に入らない複雑な 情勢がイメージし易くなります。シギスムント・バートリーが悪く描かれすぎている気はするけど(奥さんのマリア・クリスチーナに まで、もっと他の事にエネ ルギーを使えばいいのに(騎士のトーナメントの時)とか、子供じみている、と言われてしまっている)。まあ、バートリーはハンガ リー人なのだからルーマニ ア側から描くと当然なのだけど。映像も、1970年の他の歴史映画と比べれば、驚くほどだ先進的だと思います。まったくの私見で すが、このレベルの史劇映 像が登場するのは1980年代後半だと思っています。勝手なことを言うようですが、在日ルーマニア大使館のホームページに、日本 語字幕版を有料(一回の視 聴500円くらいで)で提供することはできないものでしょうか。


 第一部では、カルガレニの戦いにいたる経過と、カルガニエの戦いが描かれる。冒頭で、

  1593年ムラト三世がシナン・パシャを司令官とした軍団をヨーロッパとオスマンを分けていす最後の障壁であるヴィーンへ向けて 侵攻させたが、それまでの 数百年間そうであったように、とるに足らない3つの公国に直面しなければならなかった。すなわち、ワラキア、トランシルヴァニ ア、モルダヴィアである。こ の三つの国は戦闘において需要な役割を果たした。Patrascuの息子は、あるときは戦闘に勝利し、あるときは逃走し、そして 死んだが、公 (prince)になった。

 という解説が入った後、タイトルが出る。

 ワラキア公アレクダンドルが、オスマンの高官セリム・パシャとワラキア公国の高官達と昼食を取りながら、反乱者を串刺しの刑に している場面から始まる。公はセリム・パシャに2つの戦車分の黄金と、2つの荷馬車分の小姓と贈るからスルタンによしなに、と言 う。

  続いて、教会を訪れ、礼拝中の妻と会う。息子ニコライはどこにいる、と問うミハイに、「あなたは家族から何もかも奪った。息子は あなたさえ手が出せないと ころにいる」と拒む。そこにアレクサンダル公配下の者がミハイを捕らえに教会に入ってくる。この時、ミハイは 「Craiova(ルーマニアの都市)の将 軍」と呼ばれている。剣を抜くミハイ。

 そこで場面は変わり、オスマン高官セリム・パシャが、アレクサンダルからもらいうけた荷馬車二つ 分の少年を輸送中ルーマニアのある村に通りかかると、村の騎士(Buzesti3兄弟)と司教ら4人が立ちふさがる。気がつく と、村人も総出で出てきてい る。一触即発になりかけるが、ミハイルが止めに入る。子供達を置いていけば通してやる、という兄弟に、ミハイは、セリムは子供の 頃からの友人だ。彼がいな いとイスタンブールに行けない。子供入りで通してやってくれ、と説得する。セリム・パシャは元々ワラキア人なのかも知れない。一 部始終を見ていたミハイの 母親が、「そんなにまでして王座が欲しいのか!Patrascuの息子は魂を売り渡したか!」と詰るのだった。

 子供達を連れたセリム・パシャ一行とともにイスタンブールへ向かうミハイ。途中の野営地で、セリムは子供達に殺し合いを命ず る。止めるミハイ。セリムの意図はよくわからいのだが、命じるままに動くよう、子供を洗脳することにあったと思われる。夜、ミハ イとセリムは語る。

 セリム 「お前のことが好きでなかったら、殺しているところだ」
 ミハイ 「何故シナン・パシャの軍に参加したのだ」
 セリム 「預言者のささやきがあったからだ。ある日俺は、偉大な宰相(Visir)になると」
 ミハイ 「君は夢を見ているんだ」
 セリム 「お前は変わらないな。ワラキアの公なんて意味が無い。今、世界の中心は我々なのだから、そこで出世する方が偉大なの だ」

 と語る。似たような会話が、映画ラスト近くでルドルフ2世とミハイの間で交わされることになる。

  イスタンブールへ到着したミハイは、セリムから、馬車二頭分の懸賞金をアレクサンダルが出したと告げ、ミハイはイスタンブール在 住の叔父に30万金貨を借 りる。叔父は、既に52万貸していて、利子を含めると54万3千にもなるのだぞ、と不安げ。ジェノヴァ人銀行家Di Ventiniを紹介するという叔父。そのCarlo Viventiniに会いに行くのだが、Viventiniに融資を断れる。しかしそこで、Viventiniの妹ロッサーナと出会うのだった(ミハイは countessinaと呼んでいたから、Viventini家は伯爵なのかも知れない)。もしViventiniから支援が得 られなかったらどうなる の?と尋ねるロッサーナに、「死だ」と答え、そして、「太陽を見ようと待ち続ける男のことを考えたことがおありか」と禅問答のよ うなことを聞く。
  後日、Viventini兄弟が叔父の家にやってくる。兄カロルは、「妹がオリエンタルな内装を見たいというものだから」とい い、ロッサーナは、「今日、 太陽を見ようとしたら。でも涙が出てきた駄目だった」という。そしてどういうわけか、支援してくれることになるのだった。

 叔父とともに 宰相シナン・パシャのところに向かうミハイ。不安げな叔父は、「もし、アレクサンダルが我々より多い額を渡していたら、文字通り 首が飛ぶんだぞ」とどこま でも腰が引けているのだった。シナン・パシャの家の玄関ではセリムが待っていて、シナンへの対応をアドバイスする。シナンに会っ て、お辞儀をすると、シナ ンは、笑って、「ここはローマではないぞ。跪いてスリッパにキスしなくてはならんのだぞ」と言う。ミハイはシナンに向かってやっ てみせ、シナンに気に入ら れるのだった、「アレクサンダルについてはいい噂を聞かない。彼は裏切りが多い」

 そしてスルタンとの会見。各国使節が見守る中、ワラキ ア公アレクサンダルはスルタン・ムラト(三世)のスリッパにキスをするが、ミハイは頭を下げるだけの礼しかしない。驚く各国大使 達と叔父。ところがムラト はヴァラキア公のアレクサンダルを罷免し、小首を下げて挨拶しただけの不敵なミハイが新ワラキア公に任命される。下記は使節群。 イスパニア風装束、イタリ ア風、黒人など、様々な国の使節がいる。手前がアレクサンドル。ひたすら緊張した空気。

 ムラトの足元にひれ伏すアレクサンダル。

  ミハイはムラトに気に入られたようで、その後宮殿内をムラトと会話しながら案内される。その途中、アレクサンダルが命乞いをし、 ムラトが手を振ったただけ で処刑される。ムラトは、小さく貧しい国などの公などやっていないで、ここに留まれば一軍を指揮させる。シナン・パシャも若い頃 はキリスト教徒だった、と 提案するが、ミハイはやんわりと断るのだった(これと同じ会話が、ラスト近くのルドルフ二世との会話でも繰り返される)。
 その後、ミハイはロッサーナに支援の礼をしにゆく。何故支援してくれた?と問うミハイに、ロッサーナは
  「支援を求めに来る他の人と違ったから。友人のハプスブルク家のグラーツ泊マリア・クリスチーナがトランシルヴァニア公ジグムン トに嫁ぐことになっている ので、今度トランシルヴァニアのアルバ・ユリアに行くわ。支援したお金がどう使われているか知るるためにね、いいえ、どんな国か 知る為に」と言うのだっ た。
 
 1594年12月ブカレスト

 ブカレストに赴任したミハイは、妻子(妻スタンツァと息子ニコライ)を迎える。し かし町中の人々はミハイの城館の前で「借金を支払え。公位を得る為に我々の金を使いやがって、この泥棒め!」と抗議行動を行って おり、妻子の馬車が門を入 る時も、雪球を投げ付けられたりしている。妻はミハイに告げる「公になったことは、命の危険に身を置いたということなのよ。その 価値があって?(次の場面 でも「セリムは「こんな貧しい国の支配者なんて価値があるのか」と出てくる。)

 ミハイの宮廷では家臣に金を要求するミハイ。家臣は「も う十分払った。一体我々が払った金はどこに行ったのだ」とここでも責められるミハイ。そこにセリム・パシャが入ってきて、貢納が 半年分滞っていると抗議 し、お前の護衛は給料を貰ってないそうじゃないか、シナン・パシャは困惑している」と抗議するが、ミハイは涼しい顔で、 Busesti兄弟の家に金は集め てある。今日支払う、と答えるのだった。その後、借金取りとセリムをBusesti兄弟の家に閉じ込め、火矢を放って借金取りを 処分してしまうのだった。 燃え上がる要の屋上から不適にもミハイに声をかけるセリム「昔に戻ったようだ。お前のことがまた好きになったよ」。「飛び降り ろ」と告げるミハイ。そして セリムは燃える藁の上に飛び降り、ミハイの前に傅く。ミハイはシナン・パシャへの伝言を告げる。ブカレスト市民の前で「眠りから 覚めるのだ!」と演説し、 喝采を浴びるミハイ(下記)。母にも「信頼していなくて済まなかった」と告げられ、ミハイは「国を売るとでも思ってたのか?」と 答えるのだった。


  ハプスブルクの会議。ルドルフ二世、ジェネラル・バスタシギスムント・・バートリー、司教アンドラーシュ・バートリー(シグムン トの従兄弟)らが出席して いる。ジグムントはモルダヴィア公アーロンはトランシルヴァニアに臣従するというメッセージを託した、ミハイは金で王座を買い、 しかも貸主を火あぶりにし たような信用できない男だ、文明圏を守るため、支配者のいないワラキアを戦場とすべきだ、と主張する。ところがワラキア軍は自力 で、Braila、 Cernavoda、Zimnicea、Ncopole、Vidin、Rusciukなどを攻略してしまうのだった (Ncopole、vidinはドナウ 南岸、現ブルガリア)。ミハイは、ラテン語のできるBusestiの末弟rをローマ教皇庁へ送り、直接教皇に支援依頼を行う。 Busestiが去った後、 教皇は、司教アンドラーシュに言うのだった。「お前の口からワラキアのことを聞いた事が無いぞ。今の話からすると、イスタンブー ルへ進撃するそうではない か。直ぐにルドルフに、バスタ軍を支援に送らせるように連絡せよ」

  屍累々の雪原。トルコ守備隊とワラキア軍との戦いが各都市・城塞で続いていた。

Stanesti、 Serpatesti、Giuroiu、Razgrad、Varna、Adorianopoleなどで攻城戦、包囲戦が行われ、 翌年夏、遂にミハイ軍は海 に到達する。歓声を上げる兵士達。一方オスマン軍営では、シナン・パシャの元へセリム・パシャがやってくる。シナンに「お前はミ ハイのことを良く知ってい るといったではないか。この嘘つきめ!」と殴られるが、セリムは、「全能なるスルタンは、私をペルシア戦役の司令官にお命じに なった」と言い、シナンの椅 子に座るのだった。

 翌1595年プラハ。錬金術の研究に余念の無い皇帝ルドルフ。バスタも司教アンドラーシュもルドルフに、ミハイの勝 利は有害な結果を招くと意見するが、ルドルフは「それでも驚くべきことをやってのけたのではないかね、いまやヨーロッパ中の話題 だ」と、ミハイ支援を促 す。錬金術の研究に没頭しながらも、政治的判断・支持はちゃんとできている模様である。海岸にいるミハイ軍へ司教アンドラーシュ を使者を出し、ミハイに勲 章を授ける。しかし、バスタ軍の到着は5ヶ月かかると告げられ、ミハイはイスタンブール進行を断念せざるを得ないのだった。

 舞台はプラハ。16世紀も終わりになって、本当に騎士のトーナメントが行われていたのか少し疑問だが、トランシルヴァニア公シ ギスムント・・バートリーに試合を申し込まれたミハイは兜もつけずに試合を行い、勝利する。

 下記はそれを見守るロッサーナ・ヴィヴェンティニ(向かって左側。右はシギスムント・・バートリー夫人(この時はまだ婚約者) のマリア・クリスチーナ)。

  その夜バートリーと話し合い、同盟を結ぶことが決まる(シギスムントが去った後、くだらない面子に拘るシギスムント・にミハイが 激怒する場面が出てくるに しても)、。下記はその同盟式。左がバートリー。跪いているのがミハイ。この同盟式では、シギスムントは、「神聖ローマの公、ト ランス・ワラキア、モルダ ヴィア、トランシルヴァニアとハンガリーの一部の支配者」と呼ばれ、ミハイは「ワラキアの代表者」と呼ばれる。同盟成立後、宴会 が開かれるが、嘘をつく友 より敵の方が増しだ、という古人の言葉は正しかった!と怒りを内に込め、ミハイ達は宴会に出席せず去るのだった。

 下記はロッサーナ(左。右はシギスムント夫人)。どうも目にとまる衣装が出てくると画面ショットを撮ってしまう。

 その頃オスマン軍は、シナン、セリム・パシャの元、雲霞の如く進撃していた。セリム・パシャいわく、ワラキア軍は16000 名、大砲20門。10名程の指揮官に次々を作戦を与えるシナン・パシャ。


  オスマン軍に備えて準備に余念の無いミハイに対して、ジグムント・バートリーは結婚式をしていて戦闘に参加せず、わずか500の 騎兵しか支援を寄越さない のであった。ただし派遣された500l騎士は決死の覚悟できているので士気は高いのだった(シグムントの拠点はアルバ・ユリア だったんですね)。

中世(騎士トーナメント)とバロック(舞踏会)が混在している奇妙な感じ。結婚式の舞踏会でも、「明日のトーナメントは楽しみに していてください」と妻に いい、妻からは「もっと他の事にエネルギーを使う暇はないの」と言われているのだった(マリア・クリスチーナがこの台詞を口にす るのは二度目である。ロッ サーナにも、「策略は美徳ですわ」なんて皮肉られているのだった(この真意は、勝てばシギスムントの手柄、負ければワラキアの自 損となる、という意味)。

  1595年8月23日。遂にカルガレニの戦いが始まる。この戦いの場面だけで20分。大規模なエキストラを使っての戦闘場面は迫 力があった。下記はシナ ン・パシャを探して見つけたミハイが、パシャを橋の上で剣を交え、叩き落すところ。そのシナン・パシャはセリム・パシャに交換条 件を飲まされて救われ、葦 の原を逃げるのだった。

泥まみれの戦いが続く。勝敗がよく分からないまま、第一部は終わる。泥人形のようになった兵士が、「勝利だ!」と叫んで両手を広 げて立ち上がった途端、一斉に弓を射られて殺害される場面で終わるのである。



第二部  UNIREA(統一)

 冒頭でルーマニア語の解説が入る。オスマンは皇帝ルドルフの動きを恐れていた。新たな十字軍の始まりとなるからだ。両軍は Karestesで対陣していた。そこに招かれたミハイはドナウ河沿いで様子をうかがっていた。

 巨大な十字架を燃やして祈るシギスムント・・バートリーの場面から始まる。

敵側の陣営は、オスマン軍。はセリム・パシャの陣営を訪ねるミハイ。シギスムント・はオスマンに臣従することになった。ミハイに 対してもセリムは言う、 「勝ち続けることはできない。オスマンに臣従することも悪いことではない」。Karestesでは対陣だけで終わり、バート リー・シギスムント・のオスマ ンへの臣従で終わった。ルドルフの宮廷では、バートリーの裏切りにルドルフは怒り、ジェネラル・バスタを司令官に任命していた。
 アンドラーシュ・バートリーの宮廷の宴会風景が映る。窓から反乱の煙が上がっているのが見える。ミハイが農民を見方につけ、焼 き討ちをして回っているのだ。それを視てTompaという男が「ミハイの怖さを知らない!」と叫ぶと、その場にいた全員が彼を絞 め殺すのだった。
 
  ミハイ軍が布陣している場面が出てくるが、その陣には修道士姿のシギスムント・・バートリーが来る。それを見て大笑いするミハ イ。シギスムント・は、ワラ キア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの間で結んだ条約を無視するのか。それは欧州各国で認められている、と言う。ミハイは、 「欧州なんて関係ない。 ルーマニアは先祖以来一つだ」と取り合わないのだった。そして戦いとなる。この戦いは、シギスムント・が、従兄のアンドラー シュ・バートリーにトランシル ヴァニア公を譲った後、再度トランシルヴァニア公を奪回した時の1599年10月28日の戦いである。またも大規模な戦闘場面と なる。この戦闘場面も10 分以上続いた。

 陣営のミハイ公。この俳優さん、ロバート・デ・ニーロに似ているんですよね。

  戦闘に勝利し、アンドラーシュは戦場で首を討ち取られる。斬首された後、しばらく胴体が跳ね回っていた映像には驚いた。そして凱 旋するミハイ軍。道の両側 を埋め、花びらを蒔いて大歓迎する町(トランシルヴァニア公の居城の城下町アルバ・ユリア)の人々。城では祝砲が撃たれる。そし て城に入り、王座に置かれ ている「神聖ローマ皇帝による、ワラキア、モラヴィア、トランシルヴァナ、セケイ人とハンガリーの一部」の王冠を手にしたところ で、アンドラーシの首を 持った傭兵がやってくる。彼らは、Tompaの部下だった。そして集まった人々の中に、Tompaを謀殺した人物を認め、「お前 も、お前も、お前もだ」と 指弾し、「俺達は吊るされるのか?放って置かれるのか」とミハイの意向を確認する。ミハイは彼らを去らせる。そしてこれまでの敵 対者達を許し、剣を返還さ せるのだった。

 続いて次の戦争へ向かうことになる。今度は修道士をやめて政治家に復帰したシギスムント・・バートリーが軍を率いてトラ ンシルヴァニア奪還に来たのだった。この時ジェネラル・バスタの軍も支援に来るが、ミハイは、バスタ軍を別の場所に誘導するの だった。続いてモルドヴィア 軍との対戦となるが、ミハイは、軍の前に出て、「モルドヴァの兄弟!」と呼びかけ続ける。モルドヴァ兵は、攻撃を放棄、双方配下 の兵士が駆け寄り、抱き 合って戦闘を放棄してしまい、ここにミハイのルーマニア統一が達成されたのだった。

教会で戴冠式に臨むミハイ。そこには皇帝の家臣ジェネラル・バスタの姿もあった。トランシルヴァニア、モルドヴィ、ロマニスカ (ワラキア)の公となったミ ハイ。ルーマニア正教会はビザンツ風。下記ミハイの母(右)、妻(左)の装束も後ろのついたてもビザンツ風(真ん中の青年は息子 ニコライ)。ハンガリーの 影響が強く、ハプスブルク(イスパニア)風装束のトランシルヴァニアとは随分な違いである。ロッサーナも教会の2階から一人見て いる。


 そこにセリム・パシャがスルタンの使節としてやってくる。ミハイの前に跪き、一瞬だけニヤリを笑うところがよかった。

  ムラトの親書を読み上げるセリム。そこにはモルドヴィ、ロマニシスカ、トランシルヴァニアの統治者として認める文言があった。親 書を読み上げた後、少しミ ハイに近づいて、「私の魂は祝福している」と告げるセリム。それを視ていたジェネラル・バスタは、「あのジェスチュアは、終わり の始まりだ」とつぶやく。

  早速、ルドルフにご注進に上がり、これまでの所業を詫び、許しを懇願するジグムント・バートリー。バートリーアは、ミハイをチン ギス・ハンやティムールに まで例えて危険人物だと中傷し、ようやくルドルフとの協定を再度提携することになるのだった。ルドルフはジェネラル・バスタを派 遣する。 

  遂にハプスブルクの支援を受けたジグムント・バートリーと開戦となるが、ミハイ軍に派遣されていたジェネラル・バスタ軍は裏切る ことになっていたのだっ た。更に悪い事に、イスタンブールでの蜂起で、セリム・パシャが死んだらしいとの報告も入ってくる。ロッサーナはミハイの妻に、 宮廷でつかんだバスタの裏 切を伝えに来るが、全ては遅かった。りミハイ軍は敗れてしまう。息子ニコライも戦死する。単身沼の中を逃げるミハイ。こうして絶 頂を極めたミハイは、一夜 にして転落してしまうのだった。一人放浪するミハイ。ある村で、水を飲んでいたところ、村人に同情され、食事を差し出されるミハ イ。

 その頃、シギスムント・・バートリーは、ジェネラル・バスタの寝込みを襲い逮捕する。ルドルフとの協約を破棄し、ワラキアとの 協約はまだ有効だ、オスマン側につく、と宣告する。本当によく裏切り続ける男・ジグムント・バートリー。

  ミハイは、ヴィーン、プラハと、皇帝を尋ねて旅をする。うらぶれた宿に宿泊し、宿の親父に「宿代を払ってくれと催促され、渡した 金も念入りにチェックされ る始末である。部屋に戻ると、ロッサーナの手紙が置いてあった(宿に戻る時に、ロッサリーナの乗った馬車とすれ違う場面があ る)。ロッサーナの手配かどう か不明だが、お陰でルドルフに面会することになったようである。手紙を読んでいる時に皇帝の使者が来てルドルフと面会することに なる。ジグムント・バート リーの裏切りに対する対応を行うことで、100万ターレルとシレジアの2つの公の地位と貴族の称号を提供する。しかしミハイは公 の申し出は断ってしまう。 ミハイの望みは、モルドヴィア、ロマニスカ(ワラキア)、トランシルヴァニアにあるのだった。皇帝は、ジェネラル・バスタを使っ ていい、という。ミハイが 去った後、皇帝は家臣に言う、彼の不幸は、ルーマニアに固執することだ、と。

 皇帝軍の支援を受けてシギスムント・・バートリーとまたも開戦することになった。バスタはバートリーを裏切る。

 そしてミハイはシギスムント・軍を破ることに成功する。泥の中を這い回って一人逃げるジグムント。単身追い詰めるミハイ。しか し仕留めずに見逃してしまうのだった。
  皇帝から新しい命令書を受けるジェネラル・バスタ。


1601年8月 TURDA

  ミハイの天幕に皇帝から使者が来る。そして皇帝の臣下達と勝利を祝う乾杯の席で暗殺されてしまうのだった。暗殺の理由ははっきり 分からなかったが、最後の ミハイの脳裏に、皇帝ルドルフや、その他これまで忠告してくれた人々の会話が出てくる。皇帝が、「100万ターレルとシレジアの 2つの公と貴族の称号、欧 州最強の軍隊の提供しよう」という言葉に、ミハイはロマネスカの土地、モルドヴェイの土地、トランシルヴァニーの土地こそ重要ん のだ」という言葉が脳裏に こだまするミハイ。オスマンとハプスブルクに挟まれたこの時期、ルーマニア統一に拘ったことが、彼の没落を招いたのだった。

〜終わり〜

 
  最後に。映画の中で、ミハイは、マリアタという尊称で呼ばれており、どういう意味か知りたかったのですが、マリアタは milordと書き(由来はmy loadかも知れない)、閣下、という意味なのだそうですね。シレジア公を貰って置けば、ハプスブルクの配下で生きながらえることができたのかも。現代の サラリーマンで言えば、現場に固執して出世を棒に振るどころか、力があるものだから、閑職に追いやられてるか、辞職させられてし まうパターンですかね。そ れでもミハイの統一への情熱は、数百年後ルーマニア独立の炎として人々の間に燃え上がる希望の火となったのでした。人生の目標に 向かってまい進した幸せな 人生だったのではないでしょうか。

IMDBの映画紹介はこちら
英語版dvdはこちら
ルーマニア歴史映画一覧表はこちら。
BACK