ロシア歴史映画「三つの海の彼方の旅行記」

   モスクワ大公国時代の都市トヴェーリの商人で、1466−69年にインドへ旅したアファナーシ・ニキーチンの 旅行記「三つの海の彼方の旅行記」の映画化。1958年ソ連。英題「Pardesi(ヒンディー語の”外国人”の音表記の模 様)」原題「Хождение за три моря」。恐らく、インドが戦後社会主義政策を採っていたことから、インドとの合作ネタが探されて、ニキーチンの旅行記の映画化となったのだと思われま す。この映画がなかったら、一生ニキーチンについて知ることはなかったかも。ロシアでは記念硬貨が発行されていたり、銅像が立つ 程著名人なようです。三つ の海とは、カスピ海、アラビア海、黒海を指しているとのこと。そのルートは、「Секретная миссия Афанасия Никитина(アファナーシ・ニキーチンの秘密任務)」サイトから拝借した地図によると、行きは、ヴォルガ川を下ってカスピ海からホラズムに至り、帰 りは現ソマリアのマスカットを訪問してから現トルコの黒海岸トラブゾンに出て黒海を横断し、クリミア半島のフェオドシヤに出てド ン川を遡ったようです。故 郷近くの町で息絶えたとのこと。

旅行中日誌を書きとめ、彼の旅行記は訪問した当時中部インドで栄えていたイスラーム王朝のバフマニー朝(1347–1527年)の史料としても有用なようです。ムガル帝国 以前にこんなにインドの南までイスラーム王朝があったことも本作で初めて知りました。全体としては、インドの史跡紹介映像という 感じです。


第一部

 1472年、ロシアに戻ってきたニキーチンは僧院に宿を取る。夜部屋の中でインドの小像を取り出して机の上に起き、旅行日誌を 取り出してめくりだし、回想に入る。

  一面の雪。1466年、ニキーチンは病気で家で寝ていた。母親と妹達が看病している。富裕そうではないが、当時としては結構広い 家である。下記はニキーチ ンの部屋のドア。扉の高さが1mくらいしか無く、他のロシア映画でもこんな感じの屋内映像が登場しているので、当時の民家はこん な感じだったのでしょう。

 友人ニコライがインドへの隊商の情報をニキーチンのもとに持ってくる。そして隊商はイヴァン3世へ支援の申請にモスクワに向か うのだった。左下がモスクワの遠景。右下がイヴァン三世の宮殿の入り口。左手に申請に向かう隊商が、右手に衛兵と宮殿の柱が見え ている。

左はイヴァンの宮廷。屋根が低い。右はイヴァン三世。ベリキ・クニャージ・イヴェン・ワシーリヴィッチ(大公ワシーリの息子イ ヴァン)と呼ばれていました。

 大公の支援を受けられることになり、家に戻って家族にインドへの隊商に加わることを知らせると、母親と姉妹達は大いに悲しむの だった。

 春、隊商の船は出発し、ヴォルガ川を下る。途中アゼルバイジャンにあったシルヴァンシャー(今でもアゼルバイジャンの首都バクーにこんな15世紀の宮殿が残っているようです。サファヴィー朝の先祖の一人ジュナイ ドを暗殺したことで有名。当時の君主はファルーク・ヤサール)国の使節の船とすれ違う。この時相手の船の使節代表はハッ サン・ベク。ニキーチン一行は「ホラサンに出てインドへ向かう」と告げると、ハッサン・ベクは「なんとインドへか!それは冒険 だ!」と驚く。下記右がハッサン・ベクと使節達。

こ のようにペルシア使節とは友好的に挨拶をしてすれ違ったが、途中でタタールの襲撃にあい、乗組員は四散してしまう。友人のミハイ ルとニキーチンの二人だけ で砂漠を流離うことになるのだった(恐らくイランの砂漠だと思われる)。ミハイルは人はついに砂嵐の砂漠で寝こんでしまい、死去 してしまう。ニキーチンは 一人で砂漠を流離うが、アラブ風の駱駝20頭程を抱えた中規模のキャラバンに遭遇し、荷物担ぎをすることで隊商に加えてもらう。 しばらく旅を続けると、ま た一人、遭難者が助けを求めてくる。男はニコライという名のロシア人で、ニキーチンは通訳をする。野営地で日記をつけるニキーチ ン。ところが、救助したロ シア人は盗人だった。寝ているニキーチンの懐から金を奪い、隊商の駱駝に積んだ水を入れた革袋全てに穴をあけ、一頭の駱駝に乗っ て夜のうちに逃げてしま う。

 翌朝事件が発覚し、同じロシア人のニキーチンが責められる。ニキーチンは母親が出発時にくれた首飾りを隊商長に渡し、駱駝を一 頭得 て、盗人の後を追うのだった。ペルシア湾岸の港町ホルムズで馬ごと船に乗り入れるニキーチン。なんとその船には例の盗人も乗船し ていたのだった。盗人はニ キーチンに気づいて身を隠すが、不自然に身を隠す男が船客・船員皆に不審がられ、遂にニキーチンも気づく。盗人は甲板に出てナイ フを取り出し、ニキーチン と戦いとなるが、荒い高波に盗人は海に飲まれてしまうのだった。

 船はインドの港に到着する。その港町にはこんな遺跡が。

ニキーチンは髭伸び放題。ルーシーから来たということは一応現地人に通じているようだ。港町で、倒れた娘の病気を嘆く母親に手持 ちの薬を処方する。そして気づいたら馬を盗まれていたのだった。現地有力者に合うが、まったく取り合ってくれない。

 現地の路上楽師に厄介になり、一緒に野宿をして過ごすのだった。さて、ニキーチンはスルタンのいる都まで出て、スルタンの行列 の前に飛び出して直訴する。これがその都。1648年建設のデリーのラール・キラー(赤い城)なのだった。

 警護の衛兵。

が、 その行列に食わわていたペルシア使節は、なんと以前ヴォルガ川ですれ違ったハッサン・ベクだった。ハッサン・ベクは直ぐにニキー チンだとわかる。ニキーチ ンが使節のリーダーだったハッサン・ベクを認識したのはわかるけど、ハッサン・ベクの方が、ロシア隊商のうちの中の一人に過ぎな いニキーチンの顔を覚えて いるのは少しご都合主義的な感じだったけど、旅行記が元ネタなのだから、実際にそういうこともあったのかも知れない。お陰でニ キーチンは馬を取り戻すこと ができたのだった。

 雨季となりスコールが来る。病気で助けた娘チャンパーの家を訪ねるニキーチン。一緒に食事して笑う。そして娘の家に 長期間滞在することになり、そこで旅行記をしたためる。娘のチャンパーは、ニキーチンから、困難に満ちたインドまでの旅行の話を 聞き、ニキーチンのいない 時に近所の娘たちを集めて、ニキーチンの服を来て、ニキーチンの旅行の様子を芝居語りするのだった。非常に熱の籠った演技で、一 同思わず見入ってしまう。

  ニキーチンの前では奥ゆかしくおとなしいだけのチャンパーが、実にいきいきと、大立ち回りを演じる場面は結構感動的。しかしニ キーチンが戻ってきて覗く と、他の娘たちもチャンパーも恥ずかしがって出て行ってしまうのだった。続いてインド映画ではお馴染みのインド風ミュージカル場 面となり、続いて、インド 民衆の雨季の生産活動が色々出てくる。下記左は陶器を製作している村民。右は杵で脱穀している場面。

 ニキーチンは雪のロシアを橇にチャンパーを載せて案内する夢を見る。チャンパー!と絶叫して目が覚める。旅立つ感じの旅装のニ キーチン。部屋に隠れて見送りに出てこないチャンパー。両親が呼びかけるが出てこない
。去ったニキーチンを思って歌うチャンパー。そこに歌声が。行列も静止して聞き入る。

 ニキーチンはインド国内を旅して、下記のようなドームのある町を通過してゆく。ここで第一部終了。


第二部

  第二部の冒頭では下記ヒンドゥー寺院が登場する。バフマニー朝南のヒンドゥー王朝ヴィジャナガガル王国は、バフマニー朝から近い ので、ヴィジャヤナガルの 史跡ということなのかもしれない。映画の中ではニディンという名で呼ばれていた。寺院の前を行列がゆく。お祭りのようだ。

 そのニディン史跡(といっても現役で使われている)を地元有力者に案内してもらうニキーチン。巨大な柱や彫像に感心するニキー チン。やがて広間では踊り子のダンスが始まる。インドの歴史と文化をソ連に紹介している場面。

 ニディンを去り、イスラーム風の町に来たニキーチン。スルタンの宮殿を訪問する。そこで突然姫に接待される。

 更に天文台と日時計を訪問し、説明を受ける。この頃のイスラーム・インドの文明度の高さを紹介している風な映像。ジャイプルのジャンタル・マンタルの史跡かと思ったが、どうやらウジャインのジャンタルマンタルの史跡(1728年建設)の模様。。

 夜、突然ニキーチンは連行される。これがそのスルタンの広間。

  スルタンはマフムード・ガランという名前。ニキーチンが訪問した時のバフマニー朝スルタンはMohammed Shah III Lashkari(在位1463–1482年)という名前なので、このスルタンは地方君主か、あるいはバフマニー朝以外の君主な のかもしれない。

  スルタンから贈り物をもらう。スルタンとの面会の後、姫に別れを告げに行く。姫はどうやら、ニキーチンを好きになってしまったよ うで、愛の歌と踊りでニ キーチンを引きとめようとする。オリエンタリズム100%なアラビアンナイトな世界。しかしニキーチンは去ってしまう。扉が閉ま る音に姫は失望するのだっ た。

 ニキーチンは第一部ラストで出てきたドームの町を元に戻ってくる。牛車に乗っている。どうやら、最初に上陸した港町を目指して いるようである。そしてとうとう戻ってきた。

 スコールの中、チャンパーの村についたところで歌声が聞こえてきたので窓から覗くと、ゆりかごの中の赤子をあやしているチャン パーがいるのだった。

見ると、夫らしき人物はおらず、元気のない両親が部屋の奥に見える。家は活気があまりなく、以前より貧乏そうに見える。ニキーチ ンは金の入った袋を窓辺に置いて去るのだった。

。。。。 これはどう見ても、子供はニキーチンの子供。金袋を置いていったりすると、チャンパー一家にニキーチンが寄ったのだと悟られはし ないだろうか。望郷の念に 駆られていたのは理解できるが、ちょっと納得できない場面だった。そもそも、連れてゆくか、現地に永住するかしないのであれば、 素人の女性に手を出すなと 思ってしまう。

 港町で以前にもあった路上楽師が病気で寝ているのに会う。ニキーチンは一文無しになっていたので、病気にもかからわず楽 師が路上で音楽を奏でて稼いでくれ、集めてくれて、ニキーチンの船賃を稼いでくれるのだった。自分で雇われ労働者にでもなって稼 げばいいのに。現地人のお 世話になりっぱなしな感じ。そして、現地の人々に盛大な見送りをされて出港でほぼ映画は終わる。

 最後の2分で、ほぼ身ひとつでロシアに戻った(恐らくドニエプル川を越えた)ニキーチンが、十字を切り、大地に伏した場面で終 わる。

〜終わり〜

チャ ンパーの描かれ方がひどいと思ったのですが、調べてみると、本作はインド人ハドジャ・アフマド・アッバス(Khwaja Ahmad Abbas)監督とロシア人監督の共同監督で、ハドジャ・アフマド・アッバス氏がそもそも映画化の発案であり、脚本も担当しているようなのですね。

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