2016/Apr/24 created
中国公案小説(中国推理小説)の起源かも知れない
古代の犯罪事件事例文書張家山漢簡《奏讞書》案例二十二』

 中国には公 案小説という、明代末に成立した事件裁判小説というジャンルがあります。この公案小説は、推理小説ではないものの、 推理小説にも分類可能な小説群です。有名なものでは宋代の名判事とされる包拯(999-1062 年)を主人公とした作者不詳の明末口語短編小説集『包 公案』(約100篇を収める)があり、こ れらは遡ると包拯を主人公とする元代の雑劇を起原としていて、現在包拯を主人公とする元代雑劇は11種類が伝わっているそう です。包 拯以外の元代公案雑劇も7種伝わっているとのことです。また、公案小説の直接の起源ではありませんが、起 原のひとつと考えられる分野の書籍が伝わっています。それは、南宋時代の役人桂万栄が 編纂した裁判説話集『棠陰 比事』(1211年刊/岩波文庫,1985年)という短い裁判事例を集めた説話集成です。

 この説話集の各説話は、それぞれ1-2頁の短い内容で、末尾に編者の簡単な解説・批評が記されていて、全部で144編が収録さ れています。出典は様々ですが、基本的に史書(歴代正史(『宋史』や『南史』『唐書』が多い)や過去の文献(後漢代応劭の『風 俗通義』など多数)や 、同時代(南宋代)の文献(司馬光撰『速水紀聞』 や魏泰の『東軒筆録』など多数)、墓誌の記載内容(これも多い)もあれば、他の同時代の知識人(蘇東坡とか)から直接聞いた話な どです。安易な判決や捜査を戒め、教訓とする内容で、末尾に編纂者の評が添えられています。中には犯罪を隠蔽しようとする犯罪者 の工夫など、推理小説的な部分もありますが、基本は犯罪事例集であって、捜査や推理の過程を楽しむ推理小説とは大分趣が異なりま す。また、直接同時代の裁判文書や捜査文書から起こしたものはありません。

 では、この『棠陰比事』の犯 罪・事件の出典となった文献のもととなった犯罪捜査や裁判事例はどこから得られたのでしょうか?推測するに、それは究極的に は恐らく末端の役所の文書そのものに由来する筈です。しかし、その文書は無味乾燥な役所の業務記録文書であるとも推測されま す。ところが、昨年、古代中国史の貨幣経済を専門とする柿沼陽平氏の『中国古代の貨幣-お金 をめぐる人びとと暮らし』(吉川弘文館,2015年)を読んでいて、秦代の出土文書に記された事件記録『張 家山漢簡《奏讞》案例二十二』の概略を読み、これはまさに推理小説展 開だと興味が出たので、原文と解釈文全体を掲載している、飯島和俊氏の「市 に集まる人々 −張家山漢簡「奏讞」案例二二 事件から浮かび上がる咸陽の地域 社会」(『ア ジア史における法と国家』(中央大学科学研究所研究叢書23,中央大学出版会,2000年)を読んでみ ました。役所の事件文書が「無味乾燥な役所の業務文書である」、という先入観は覆され ました。文書は、事件を解決した役人を上級職に推薦する文書なので、特殊な文書だったのかも知れませんが、事件解決の業績を 説明するため、文書は単なる記録だけではなく、犯罪捜査の方法、犯人の隠蔽工作とそれを見抜いた過程、段階的に捜査の範囲を 広げる、など、現代の推理小説や犯罪小説に登場するポイントが記されています。しかも、捜査が進展せず、その範囲を広げる過 程で役人が交代し、交代した役人(これが文書で昇進を推薦されている人物)が、まるで現代小説の捜査上手な 警部のように核心に迫ってゆく様子など、推理小説的な興奮を味わえる内容となっています。最後に、犯罪者の手口や、解決に至ったポイント が評され、他の捜査への教訓も述べられるど、無味乾燥な業務記録ではなく、『棠陰比事』の同様、今後の世の事件解決力の向上も目的 とした文書であることがわかります。もし、こうした文書が全ての事件についてではないにしても、それなりの数が生産されてい たのだとすると、役人たちの間で廻し読みされた可能性もあるし、これを読んだ役人たちは、単に優れた業務事例集として読むだ けではなく、いつしか推理小説的な面白さを認識するようになっていったのではないでしょうか?そうした中で、後の公案小説を 受け入れる文化的土壌が徐々に生成されていったのではないでしょうか?この観点から、公案小説の起源の直接の起源ではないも のの、後の公案小説に結びつく中国史上の文化的土壌が、秦代に既に確立されていた可能性のある文書として、本作を「中国公案 小説の起源かも知れない古代の犯罪事件事例集」と位置づけてみた次第です。

 前置きが長くなりましたが、以下、あらすじを紹介したいと思います。
原文は40行程度で、邦訳文でも数ページ程度の短い内容です。

【事件の発端】

前241年6月27日、婢という秦の都咸陽治下の里に住む女性が、咸陽の市場で物資を売却し、1200銭を得て帰宅する途中背中 を刺され、所持金を強奪される。

【初動捜査】

初動捜査にあたった獄吏は被害の状況を検証し、被害者が犯人を目撃していないか、被害に会う前不審な人物を見かけなかったか、な どを確認したものの、特に犯人らしき人物は浮かび上がらなかったため、次の段階として、被害者を取り巻く人間関係、身近な血縁・ 地縁関係者、雇い人など、特に貧窮者に捜査を拡大する。しかし犯人は浮かび上がらなかった。

【証拠物件の検討と目撃者】

凶器の刃物と現場に落ちていた売買契約書であるの半券である半荊券を検討する が、成果は出ない。犯行現場を見渡せる家の女性や、被害者の「泥棒!」との叫びを聞いて自宅から飛び出してきた者も犯人や不審者 は目撃していないと証言。

【獄吏學閼*の登場】

ここで、別の役人獄吏學閼が登場し、証拠物件の券が、買人が利用する「繪中券」で はないかと推測し、調査の結果、銭1980銭相当の繪中 券」の半券だと特定する。残されていたのは右半券であったから、左半券の所有者が犯人かそれに近い者である可 能性がある。左半券を捜索するが発見できない。半券は偽造だという可能性も出てきて、そうなると、市場に熟知した者の犯行という 可能性も出てくる。

*この閼という文字は、門の中に、「旅」に似た文字が入っていて、日本の辞書に掲載されてい ないようである。秦代特有の文字かも知れないので、『説文解字』を参照したが、掲載されていなかった。仕方がないので、似た 文字閼で代用することにした。

【捜査対象の拡大】

すると、市場に出入りしている人々の中に犯人がいる可能性があることになる。こうして虱潰しに市に出入りしている、可能性があり そうな人物をリストアップし、個別に面談し、犯罪を犯しそうな生活状況にないかどうかなどを調査するローラー作戦を展開する。地 道な現代警察の捜査に通じるところがある。

【更なる捜査対象の拡大】

獄吏の學閼は、配下の刑徒(当時は刑徒を部下に活用していたらしい)司寇裘たちを動員する。 刑徒は犯罪者であるから、犯罪やその世界に詳しい。彼らは、生活実態にそぐわない豪勢な飲食をしている者、商売が途切れがち であり、貧窮していて盗にを犯すしそうな者たちを洗い出し、言動、行動、居住状況など身辺調査を徹底する。す ると、士伍武という、本来兵卒という公務につくべき者であるにも関わらず、役務を逃れて市中で遊蕩している人物が浮かび上がって きた。士伍武を取り調べたところ、彼自身は犯人ではないものの、公士孔という人物不審者についての情報を得ることができた。公士 孔は、何度か市場で立ちすくんでいたとか、普段刀を吊り下げる黒帯を最近締めなくなった、最近目付きや様子もおかしい、といった 有力な情報を得ることができた。

【容疑者の言い逃れと追及】

取り調べで公士孔は、容疑を否定する。一度も盗みも帯刀したこともない、という。そこで獄吏學 閼は、公士孔から最近金品を得たものを出頭するよう、咸陽市の人々に通達を出す。走馬僕という者が出頭してき て、刀の鞘を公士孔から貰ったとして提出する。公士孔は否定するが、その鞘は、現場で押収した刀とぴたりと整合した。公士孔は刀 は盗まれたと主張するも、帯刀したことがないとの前言と矛盾することから、容疑が固まり、拷問すると脅して自白を引き出すことに なる。

【自供】

公士孔の自白によると、貧窮であるにも関わらず仕事をせずに毎日市場でぶらぶらしていたところ、商人が買券で取引をしているのを 見て、当初はそれを盗もうと考えたが、その後偽造し、強盗実行時にそれを落としておけば、捜査の目をごまかせると考えた、時に農 作物を守るための蝗追いで市中の多くの人々が郊外に出ていて市場が閑散としている時を狙い犯行に及んだ、とのことであった。

【論評】

最後に、犯罪の経過と手口など特徴を述べ、このような知能犯を放置しては、市場の信用が落ちて市場を利用する人がいなくなってし まう。獄吏學閼は、犯罪をあばき、このような狡猾な犯罪が成り立たないことで、今後の犯罪を 抑止する成果を出した。

このようにまとめて本事例は終わる。

いかがでしょうか。私の文章力では、あまり伝わらないかも知れませんが、私は犯罪小説を読むような興奮を味わいま した。出土簡牘には、こうした事例が他にもあるかも知れないと思うと、是非それらを読んでみたいと思う次第です。実は、新書なが ら、甘粛省出土の居延漢簡にみる漢代辺境生活を研究した『漢帝国と辺境社会―長城の風 景-』(籾山明著,中公新書,1999年)でも、訴訟事例が掲載されていて、犯罪ものではないものの、著者が、「こ の訴訟の両者の言い分には、一見もっともらしいが、それぞれ裏がありそうである」と述べていて、犯罪の匂いを嗅ぎ取っています。 これを読んだ時から、出土訴訟記録には、犯罪小説を感じさせるものがあるのではないか、と思っていたところ、今回ようやく、そう した実例を読むことができました。

漢代簡牘は近年結構大量に出土しているので、こうした犯罪録を中心とした書籍(中国書籍でもよいので)が出て欲しいと思う次第で す。

なお、『棠陰比事』のような体裁 で、六朝時代から民代までの公案短編や、それに類する小説・裁判記録を、各々2頁で73篇をまとめた(前後二 回のものも多いので実際には60篇程度)中国推理小説史簡介書というべき、井波律子『中国ミステリー探訪−千年の 事件簿から』 (2003年)は、中国推理小説史・中国公案小説入門書として便利です。

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