2015/Sep/28

明朝最盛期と清朝前半期の人口1億5千万-2億人説の由来(史料と推計値の算定根拠)


 2008年に、アンガス・マディソン著『Chinese Economic Performance in the Long Run 960-2030』の中 国語版(左URLで HTTP Error 404.0 - Not Found が表示された場合は、こ ちらかこちらをご 参照ください。それでもnot found になった場合は、タイトルを検索エンジンにて検索してみてください)を入手し、付録表D1(pdfの170頁目)にある漢代紀元2年、宋代960年、元代 1300年、及び明代1380年以降2000年までの10年毎の人口統計値が掲載されている中国史上の人口統計表を見て、その情 報がネット上になさそうだったため、こちらの「明代以降、 1380年から2000年までの630年間の10 年単位の中国の 人口」という記事を作成しました。その時は、明 代の最盛期人口の1億6000万人という数値に関し て、史書に記載されている最盛期6300万という値と比べると、倍以上大きな点が若干引っかかったものの、清代以降の人口成長曲 線の方により強い印象を受けたこともあり、明代人口の方はあまり追求する気にはなりませんでした。清代以降の人口爆発と比べれ ば、明代の増減幅はあまり大したことではなさそうに思えてしまったからです。しかし、その後も折に触れ、明代・清代前期の人口推 計 を行なった研究書や論文などの文献に出くわす毎に、購入したり複写したりして、資料を集めてきました。今回、明代の研究数値がど のように生成されてきたのか、数値の由来に関する情報がある程度揃ったようなので、まとめてみました。なお、記事の目的は、数字 の由来を突き止めることで、どの程度の人口推計が妥当なのかを追求したものではありません。

【1】 明代人口 史料の数値
【2】 各研究の数値(1)アンガス・マディソンの数値の由来
【3】 各研究の数値(2)Perkins(1969年)以前の数値
【4】 その他の研究と、各種研究の値の比較
【5】 全体所感
【6】 付録表1.康熙20年 (1681年)jから嘉慶5年(1800年)
【7】 付録表2.永不加賦滋生人丁の把握政策導入後の課税対象成年男性の人口と割合
 


【1】明代人口 史 料の数 値

 史料上に残る人口については、『中国歴代戸口、田 地、田賦統計』(梁方仲著、上海人民出版社1980年)にまとめられています。同書によると、1402年か ら1520年までは毎年の人口数と農地面積が掲載されており、1402年以前は、1381年と1391年、1520年以 降は、1522年、1532年、1542年、1552年、1562年、1567-1571年の各年、1602年、 1620-21年、1623年、1625-26年の値(合計139年分)が掲載されています。出典はいずれも『明 実録』です。最小値は 1506年の4680万、最大値は1479年の7185万人ですが、5-6000万台以外の数値が登場しているのはこの 2箇所だけであり、史料の記載ミスである可能性があります。というのも、1506年の前後の年、1505年は5992 万、1507年 は5991万なので、1506年の4680万は、5680万の誤りという可能性があります。1479年の値についても、 1478年6183万、1480年6246万となっていて、1479年の7185万は、6185万の誤りという可能性が あります。しかし一方、連年の値の差が1000人前後という年も多く(数十名という年もある)、本当に毎年調査した値な のか、単に前年と同じ値を報告している地域が殆どなのではないか?、と疑問を持たざるを得ない数値が並んでいることか ら、寧ろ突出した値の方が実情を表しているのではないか?などという印象も受けてしまう数値となっています。恐らく、数 値の増減があまりになさ過ぎ不自然な印象を与えることが、明代の史書の数値自体が信用ならないものと考え、1億6000 万などという推定が発生する背景にあるのではないかと思われますが、この点含めて、研究者たちはどのように評価してき たのか、などについても以下調べてみました。


【2】各研究の数値 (1) アンガス・マディソンの数値の由来

 実は、アンガス・マディソンは、pdfのp159頁の表C.2と、p170 頁のD.1の表の二つの人口統計を掲載しています。表C.2と表D.1では、掲載されている数値の年度に大きな 相違があります。表C.2に掲載されている数値は、紀元1年、960年 、1300年、1500年、1600年、1700年、1820年、1850年、1870年、1890年、1890年、1913年、 1929年、1930-38年、1950-52年、2003年、2030年のものだけです。表D.1では、紀元 1年、960年、1280年、および1380年以降10 年毎の数値が1890年まで掲載され、その後は1952年まで数年毎、1953年以降2008年までは毎年の数値が掲載されています。

 表C.2と表D.1共通に掲載されている年代で、異なっているの以下の2点です。

1.元代の人口推計値
 紀元1280年がC.2のみ、紀元1300年がD.1のみに記載されているが、いずれも1億人なので、これは 同一の値を採用しているだけだと思われる

2.1500年の推計値
 表C.2では1億3000万、表D.1では、1億300万人となっています。表D.1の前後の数値を参照する と、誤植ではなさそうです。C.2の値は、アンガス氏が独自に求めた値かも知れません。

以上の点を除けば、その他の値は同一であるため、1870年以前の値の出典は同一の研究だと思われます。C.2 の出典 は、1870年以前については、Maddison (1998, 2001 and 2003)となっていて、今回これらの資料を参照することはできませんでした。D.1の出典は、Liu-Huangと書かれていて、巻末 資料一覧表を見ると、Liu,P.K.C and K.S.Hwang(1979) "Population change and Economics Development in Mainland China since 1400" という、Hou,C.M and T.S. Yu(1979年)著"Modern Chinese Economic History,Academia Sinica"に収録され ている論文であることがわかりました。そこで、この論文を参照しますと、この論文はたったの34頁しかなく、し か も論文末尾に添付 された付録資料に、1380年以降1930年までの10年毎の推計値が掲載されているだけで、1380 年以降の、10年毎の数値は、Liu,P.K.CとK.S.Hwang(劉 克智・黄国枢)が、Dwight H. Perkins (1969年)"Agricultural Development in China 1368-1968"の研究が出しているいくつかの数値に、内挿 (interpolate)しているだけ、の値だということがわかりました(論文の末 尾 に解説を寄せているDwight H. Perkinsは、この数値が”モデル”であと 明確に記載しています)。たった34頁しかない論文ですから、10年毎の数値をどのように算出した のか、 について、各年毎にその論拠ひとつひとつを記載しているわけではない。とい う、驚くべ きこと がわかりました。この10年毎の推計値は、日本の経済史家杉原薫氏の論説「東アジアにおける勤勉革命経路の成立 (『大阪大学経済学』54号、p339 図2中国の人口と耕地面積の推移、1500-1800年、2004年12月)」にグラフが掲載され、更にこのグラフが、2008年に出版された山川出版社 の世界史リブレット『グローバ ル・ヒストリー入門』(2010年2月)のp33に転載され、日本の一般読者にま で影響を与えている点で、結構重要です。

 話をLiu,P.K.C と K.S.Hwangの論文に戻しますと、この論文は、主に以下の4点について、参考になりました。

1.人口と農地の10年毎の値を出すにあたって、典拠とした数値は、Dwight H. Perkins (1969年)"Agricultural Development in China 1368-1968"が推計している数値であること。

2.清代の数値は史料上の人口数値を元に推計していて、明代の数値は、明国内の田地の大きさの推計を元に人口推 計を行っていること

3.論文の冒頭に、明清代人口研究史が若干触れられていること

4.この論文の目的は、田地や人口推計自身にあるのではなく、既存の研究で得られた数値に内挿した10年毎の田 地・人口推計値を元に、 1400年から1950年に至る一人当たりの平均年間消費カロリーや出生率/死亡率を算出し、これらの変遷グラ フを出して推移を検討することにある、ということ

上記2点目については、p64にある以下の表2グラフで明らかです。下記4つのグラフ線のうち点線(右側一番 下)は、史料に残 る全国総農地面積(Recorded Acreage)、(その上の)太い実線(Ajusted Acreage)は、 Perkins(1750-1911年については、Wang Yeh-chien, Land Taxation in Imperial Cina , 1750-1911,Harvard University Press, Cambridge , Mass.1973も利用)の推計値に基づく全国総農地面積推計値、細線は、史料に残る人口(Recorded Population)、破線部(Ajusted Population)は、Perkinsに基づく人口推計値。

 このグラフのもっとも重要なポイントは、1700年以前の人口推計値は、全国総田地推計値に連動 し、1700年以降の人口推計値は、史料の人口数に連動している、という点です。




 
 さて、続いてPerkinsの"Agricultural Development in China 1368-1968"を参照しますと、Perkinsが行なっている人口推計値(同書216頁掲載)は、1800年以前のものは、以下のものだけで、しか も幅があることがわかります。

 1393年 6500-8000万、1600年 1億2000万-2億、1650年 1億−1億5000万、 1750年 2億-2億5000万

 Liu,P.K.C と K.S.Hwangの上記年代に相当する値は、1600年1億6000万、1750年は2億6000万となっていて、1600年の値は、Perkinsの 値の中間値、1750年は、上限値を若干上回る値となっています。そうして、(見落としかも知れませんが)、 Perkinsの書籍で論じられている人口推計に関する部分は、元代の史料に残る人口と、明初の人口の比較検討 だけで、上記推計値が、どのようなロジックで構成されているかについては、論じられておらず、突然 推計値だけが掲載されています



【3】 各研究 の数値(2)Perkins(1969年)以前の数値

 Perkinsの数値はどこから出てきたのか。可能性として、彼が 基準とした数値は、それ以前の研究にあるはずで す。そこで、Liu,P.K.C と K.S.Hwangが、論文の冒頭で紹介している書籍を参照してみました。

1)Ta Chen(陳達) "Population in Modern China" ,American Journal of Sociology , Vol 1. LII. No1,July 1946
2) Taylor, K.W., "Some Aspects of Population History" om K.J. Spengler and O.P.Duncan(ed), Demographic Analysys,Selected Reading, The Free Press,Glencoe, Illinoi,1956
3)Ho ,Ping-ti ,Studies on the Population of China, 1368-1953.Cambridge,Mass.1959(中 国語訳 何炳棣『1368-1953中国人口研究』上海古籍出版社1989年)
4)Elvin,Mark, The pattern of the Chinese Past. Stanford,1973

 4)のMark Elvinは、1969年のPerkinsの研究より後なので、とりあえずSkipし、1959年のHo Ping-tiから、年代を遡って参照してみました。

1)Ho ,Ping-ti ,Studies on the Population of China, 1368-1953(何炳棣『1368-1953中国人口研究』)1959年

 Ho Ping-tiは中国人(何炳棣1917-2012年)で、1959年に英語書籍で発表した論文が、1981年に中国語訳されています。これは、1850 年 以来100年ぶり*1となる1953年の中国全土の人口調査の数字を受けて、1368年から1953年までの人口 推計を行った書籍で、明代の人口調査は、洪武帝の時代の調査は信頼できる数字であるものの、16世紀に なると、史料に残る”丁”は、人口でも納税者数でもなく、資産評価の単位だということを、明代地方誌に 残る戸や 丁、男女数などの統計値を各々検討することで明らかにした、今もって名著の誉れ高い研究とのことです。 この研究の明代最盛期と清初人口推計の史料とロジックは以下の通りです。

*1 梁方仲著『中国歴代戸口、田 地、田賦統計』によると、「清実録」に残されている数字は1850年(太平天国の乱の前年)までで、王先謙「東華録」には1873年の数値まで記載されて いるが、Ho Ping-tiは、1851年以降の数値は信頼度が低いとしている。また、民国時代にも各省での時期も地域もまちまちの人口調査記録が残って いるが、全国一 斉調査がなされたわけではないため、民国時代の全国人口推計値も、信頼度が低いとしている。

1−1)明代最盛期の人口推計

1.一部文書が現存している1391年の人口調査(賦役黄冊)の前身である1371年の戸籍簿の記載内 容を分析し、これは、全人民の氏 名・家族 構成・年齢まで記載したもので、かなり信頼性が高い、と結論

2.一方年代が下ると共に、実人口と政府人口調査の結果の値に乖離が生じている。この点を、地方誌に残 る人口の値から論証。

3.史料に残る”丁”は、人口でも納税者数でもなく、資産評価の単位だということを論証*2

4.北直隷(現河北省)、河南、山西、山東、 陝西省の5省の1391-1541年の間の人口増加率(年0.34%)を全国に適用

5.
1930 年代の全国総農地の推計値に対する1602年の総農地面積の割合を明代人口推計 に加味

6.明代を通じた早熟米の拡大は、宋代におけるチャンパー米の導入により、宋代人口が1億となった ように、継続的人口拡大をもたらしたと推測

 まず1−3は、本論で詳細に論じているので、大変説得力がありますが、4−6は、
『結論』の章で、あまり細かい論証がなくさらりと記されている点が、いまひ とつという印象です。

*2 本書で提出された、”丁”は資産評価基準という説は、岩井茂樹『中 国中近世財政史の研究』(2004年,東洋史研究叢書64,京都大学出版 会)pp230-326でも扱われていて、現在では定説の模様

4.については、1393年と1542年の各省の史料に残る人口数の表を提示して、人口増減率を算 出し、人口が増加している北部5省と四川、雲南について検討して、
「北部5省の年人 口成長率0.34%を(北部全土に)適 用すると、1600年時の北部人口は2倍となる(p263)」としています。この部分について、四川(91.5%)と雲南(432%)の成長率は、 1391年時点では、内地化が進んでいなかったため正確な人口増加率の検討資料にならないとして除外し (p259末尾からp260初)、北部5省では、徴税の主眼が地租ではなく徭役にあったため、南部に比 べれば比較的正確な人口を反映している、と断じています(p260)。一方(1393年と1542年を 比較すると)南部諸州の人口は全て減少しているが、地方誌や当時の文人の著作を見ると、「人口が増加し ている」「実情を反映していない」「実際には登録人口の3倍の人口がいる(p260)」という情報が散 見され、実際は、徴税逃れのために登録逃れをしている人口が多く、南部では地主経営の割合が北部よりも 多く、更に生産性が高いことから北部よりも重税であり(この税率の違いは史料にも残っている)、地租の 納税が地主に任されていたことから、末端の小作人は登録逃れをしていた、としています。ここまでは割り と実証的ですが、ここから先の展開はいまいちです。1393年の戸籍人口は6055万人で、この数字は 比較的正確であると分析するものの、更に登録漏れがあったとして6500万と推定し(ただし、登録漏れ を500万とする論拠や説明は無し)、南部の方が北部よりも人口増加率が高い(p264)、とし、南部 が北部並の人口増加率であれば、6500万(1391年)の二倍で1600年頃には1億3000万、南 部の増加率が北部より高い場合は、1億5000万と、特に増加率の提示や根拠はなく、結果の数字を提示 しているのです。

 後者(1億5000万)の推計値を補強する論拠として半頁にも満たない分量で記載されているのが、 5.と6.です。5.は、民代の農地面積を分析した学者J.L.Buck教授の分析が突然登場し、 1602年の全土総農地面積は、1930年代の中国本土の農地総面積の最も低い見積もりの86%、最も 高い見積もりの75.8%に匹敵する(但し、それがなぜ1億5000万説の補強となるのか、具体的な記 載はない)、宋代1102年にチャンパー米の導入により宋代人口が 1億となり、金代元代の侵略がなければ、1600年以前に、もっと早く1億5000 万を突破していたかも知れない(p265)と記されて、明代最盛期の人口推計は終わっています。

1−2)清初の人口推計

 清初の人口推計は、更に数値の活用は減少し、状況証拠ばかりです。傍証として登場している事項は、清 初の戦乱(農民反乱の平定、残存明勢力の掃討)などは、既に人口成長の阻害要因とはなっていないという 指摘、盛世 滋生人丁制度の導入きっかけとなった康熙帝御幸時の人口増加の記載、官僚や文人の残した文書の記載内容に見られる18世 紀の永続的な米価上昇のトレンド、穀物輸出地であった湖北地方が四川から米を輸入するに至った、などの 傍証から、 「16世紀末に1億5千万人近辺であったと思われるとすると(中略)、重要な低地や低丘陵地における稲 作が、満遍なく行われたことは、18世紀初頭の10年間のうちに、人口が1億5000万を越えたことを 反映しているかも知れない」(p268)と記載されているだけです。

 全体的な印象としては、1億5000万という数字にもっていこうという印象がしないでもありません。 1億2000万くらいでもいいのではないでしょうか。なぜ1億5000万という値であるのか。もしかし たら、過去の研究にその数字が出ているのではないか。ということで、更に書籍 を遡って見たいと思います。清初の推計値に関しては、清代乾隆帝時代の人口調査史料から得られる数字 を、グラフ化して康熙帝時代に外挿してみると、1710年頃に1億5000万人となるのですが、Ho Ping-ti氏の脳裏に、この外挿値かあったのか、別の論拠の数値があったのかは、書籍に記載がない ため、不明です(グラフは、付 録表1.康熙20年(1681年)jから嘉慶5年(1800年).として本記事末尾に作成 しています)。

 
2)Taylor, K.W., "Some Aspects of Population History"(1956年)

 これは、ネット上で公開されています(こちら)。 13頁の論説で、人口推計というより、他の研究から数字を拾っ てきて、最後に↓のグラフを作成しているだけ、という感じ。明代最盛期の人口は、1億を少し上回ったと ころとされています。

 
 
3)Ta Chen(陳達) "Population in Modern China" ,American Journal of Sociology , Vol 1. LII. No1,July 1946年(中文訳、現代中国人口問題;廖宝 俊、廖宝ホ 翻訳,天津人 民出版社,1981年)

 Ta Chen(陳達、1892-1975年)は、中国人口学の創始者とされている人物とのこと です (この書籍は、英語版がネットにあがっているのですが、著作権違反である可能性があるので、リンクは 貼っておりません。本書の著作権が切れるのは、著者死没後50年の2025年)。この本は、民国時代 の、まさに出版された当時の「現代」の中国人口を扱っており、過去の王朝の人口については、第一章で 10頁程扱っている程度、上記2)のTaylor, K.W.の論説とあまり変わらない感じです。しかし、本章では、過去の研究文献を記載していて、その中に、Alexander Mollice Carr-Saundersという人が1650年に1億5000万という数字を挙げていることと、先行研究に、Willcoxの書籍(1931年)がある ことが わかりました(私が参照したのは中国語版で、p5にSaundersとWillcoxの記載がありま す)。そこで、WillcoxとA.M.のCarr-Saunders書籍を参照してみました。

4)Alexander Mollice Carr-Saunders World Population Past growth and present trends , Oxford clarendon press,1936年

 1650年の人口1億5000万の根拠は、Fitzgeraldという人物の中国都市人口密度の研究 で、現在(1936年)の人口密度の1/6、人口は1/3程度だろう(p41)、だから1億5000万 人ということになる、という、極めて大雑把な数値となっています。論証と言える程の内容ではありませ ん。

5)Walter.F.Willcox ed. International Migrations Vol2. Interpretations (New York, National Bureau of Economic Research , 1931) (こ ちらにpdf版が公開されています

 p52に、過去の各種1650年頃についての推計の一覧表がありました。以下の通りです(書籍では、 人口順に並 べてあありますが、ここでは、登場年代順に並べ替えています)。

1.Martiono Martini神父       5900万 又は2億、1655年, Amsterdam  "Novus Atlas Sinensis" p5
2.Samuel.Wells Williams  6000万,"The Middle Kingdom A Survey of the Geography, Government, Education, Social Life, Arts, Religion, Etc. of the Chinese Empire and Its Inhabitants(初版1848年)1907年版のVolI,p265
3.E.H.Parker 7700万,"Note on Some Statistics regarding China"(1899),pp150-156
4.T.Sacharoff 2100万,"Annual Report of the Smithsonian Institution for 1904(washington 1905 pp659-76)
5.William Woodville Rockhill 5500万,"Inquiry into the Population of China"p663 Smithsonian Institution 1905
6.H.H.Gowen  6900万,"Outline History of China(1913).Vol2.p15
7.Chang-Heng Chen(ajusted)      6600万
  Chang-Heng Chen                 1億  "Changes in the Growth of China's Population in the last 182. Years", Chinese Economic Journal (1927年)

 5500万から7700万という数字は、史書記載の数字から推測される値の範囲内(『清実 録』掲載の”丁”の意味するところは、資産評価額ですが、≒ほぼ成年男性の数でもある)なので、女性老 人子供の人口分を、記録の丁数に3倍することで得られる数に近い値であり、特に意外な値ではありませ ん。Sacharoffの 2100万という数字は、”丁”の人口をほぼそのま採用し、脱漏分を加算したのではないかと推測されます。興味深いの は、マルティニ神父の報告です。この部分は、本書p50に、ラテン語原文とともに、英訳が掲載されてい ます。

 「もし、我々が、それぞれの都市や場所にいる成年男性の数を、正確さに拘らず、注意深く扱わずに、そ れらの数字をそのまま数えるとすると、(皇室や行政官、宦官、彼らの迷信における司祭や聖職者、女性子 供を除外した場合)、中国に関するもっとも権威ある諸書物では、合計数を58,914,284人として いる。そうして、中国は、2億の男性がいるとしても、驚くべきことではない」

 
 男性2億はありえないとしても、5800万の男性の2倍の女性子供老人がいるとすると、総人口は2億 近くになります。Willcox氏も、「マルティニ神父は、別の一例でもhominesというラテン語 の単語をadult maleの意味 として使っているが、一ダースもの(多数の)事例ではpopulationの意味で利用している」と記しています。この場合、2億という値が出てきます。 もしかしたら、これが、1920年代か ら現在に至るまで、明代最盛期と清初の人口を1億5千万から2 億(2億の例は次の最後の節で扱います)に見積もろろうとする傾向の遺伝子のひとつなのかも知れませ ん。なんとなく、自分的に納得できたので、取り合えずアンガス・マディソンの推計値の由来の調査はここ で終わりたいと思います。最後に、各研究者の値を比較したグラフと、これまで紹介した研究以外の主な研 究について、記載して終わりたいと思います。


【4】その他の研究と、各種研究の値の比較

4−1)Perkins(1969年)以前の明代−民初までの推計値 グラフの比較

 以下のグラフは、Liu,P.K.C と K.S.Hwangの研究のp67に掲載されている表です。Perkins(1969年)では、Ho Ping-tiの見積もりに基づいたとは明記されていないようですが(読み落としかも知れません)、グ ラフを見てみると、PerkinsとClarkはHo Ping-tiの見積もり値に因んでいるように見えます。Durandだけ、独自路線という感じです(DurandとClarkの書籍は、今回参照してい ません)。




4−2)Perkins(1969)以後の諸研究のグラフ比較

 次の表は、Kent G. Deng氏の試論(Working Paper)「Fact or Fiction?
Re-examination of Chinese Premodern Population Statistics(2003年)
」のp5にある、Figure 1b. Current Situation of China’s Population Studies (in million), continued というグラフです。Perkins(1969)以降の各論者の1600年から1900年における推計値をグラフ化して比較していま す(以下は1800年以降をcutしています)。これを見ると、Mark Elvin(1973)以外は、基本的にPerkins(1969)の研究値をベースにしているのではないか、という印象を受けます。以下 のグラフのPerkinsの値は、Perkinsが提示している値の中間値(1600年は、1億2000-2億の中間の 1億6000万、1650年は、1億-1億5000万の中間の1億2500万、1750年の値は、2億-2億5000万 の中間値2億2500万)が採用されています。

 

4−3)明代清初人口1億5000万人推計の系譜関係

 今回調べた系譜関係を図式に整理してみました。太線は、推計値の出典が明記されているもの。破線は、明記されていない (見落としの可能性もある)が、参考文献に記載されていて、数字の形成に影響したと推測されるもの、細線は、推計値例の 一つとして引用されているもの。大体こういう経路を辿って、山川世界史ブックレットを介して一般読者にまで広く知られる ようになってしまった、ということのようです。



4−4)その他の研究

4−4−1)世界人口史ハンドブックとして便利な、Colin McEvedy とRichard Jonesの『Atlas of World Population』は、明代清初の人口推計について、Ho Ping-tiを出典としています。この著作から派生した研究までは調べていませんが、結構いろいろな資料で目にする著作なので、影響力は大きいものと思 います。

4−4−2)中国の人口史研究(Ho Pint-ti以降)

 (これ以外にもあるかも知れませんが)、1980年代以降の著名な中国人口史全体の研究書には、以下のものがある ようです(個別の時代や地域の著名な人口研究書は更に多数ある)。

中国歴代戸口、 田 地、田賦統計』(梁方仲(1908-1970)著、上海人民出版社1980年)
中国人口史』 1988年 趙文林(赵 文林),謝淑君(谢淑君)
中国人口』.1995 年 王育民 江蘇人民出版社
『中国人口通史』 2000年 路遇, 滕泽之(勝澤之)山東人民出版社(上下二巻)、
中国人口史』  1998 年〜2005年 葛剣雄主編復旦大学出版社、全6巻、
  
第一巻,先秦至魏晋南北朝時期
  第二巻,隋唐五代時期
  第三巻,宋遼金元時期
  第四巻,、明時期
  第五巻、清時期
  第六巻、清民国時期
 『中国人口通史』袁祖亮編全11巻予定(2015年9月現在以下の巻が刊行中)
 第二巻 秦    焦培民著  2007年2月
 第 三巻 西漢 袁祖亮著  2012年5月
 第四巻 東漢 袁延胜著 2007年4月
 第八巻 遼金  王孝俊著 2012年10月
 第九巻 元代  李莎著 2012年8月
 以下、総論(第1巻)、魏晋南北朝(第5巻)、唐代(第6巻)、宋代(第7巻)、明代(第10巻)、清代(第11巻) が刊行予定。

以下簡単な紹介です。

1)梁方仲著『中国歴代戸口、田 地、田賦統計』
 史料に現れる人口、戸数、田地など統計値総覧です。素人が利用するには、大変便利ですが、研究者の方が利用する場合 は、出典史料の索引集として利用すべきであり、本書に記載される出典史料の記載を直接確認すべし、とされているようで す。

2)趙文林,謝淑君『中国人口 史』
 国会図書館にも大学図書館にもなく、今回参照できなかったのですが、
葛剣雄編『中国人口史』に記載されている簡単な紹介によ ると、本記事でご紹介してきた一連の数量経済史の推計値を受けたものではなく、独自に研究したも のとのことで、明代最盛期は1億人程度と見積もられているようです。

3)王育民『中国人口史』
 これも、国会図書館にも大学図書館にもなく、実見できませんでした。

4)路遇、勝澤之『中国人口通史』
 上下2巻で合計1250頁くらいありますが、中途半端な気がします。明代に関しては、地方誌に掲載されている男女別人 口などを参照し、明朝最盛期総人口の推計を行っていますが、無理やり1億6千万という数字にもっていこうとしているよう な感じです。例えば、人口統計には軍戸は入っていないとして、軍戸200万戸、1戸辺り4名として人口800万とし、こ こまではよいのですが、「軍戸管轄下の一般農民」というあまり実証的でない社会的枠組みを持ち出して、これを含めて総軍 戸地域人口3千 数百万としたり(この時点で農戸人口6千数百万と合わせて人口1億)、嘉靖時代の 『逢窓日録』の「人口、5855万7738人、しかし、軍戸は分析されておらず、民間人口は、10人のうち6,7人 が戸籍不登録である」という記載を元に、嘉靖時代の総人口を1億4600万とし(5856万が人口の4割だとすると、総人口は1 億4640万となる)、更にそれでも1億6000万に足りないとみてか、最後は、西蔵や新疆などを含めた現在の 中華人民共和国の版図内の明代最盛期総人口が1億6000万となる、としています。

5)
葛剣雄編『中国人口史』
 
明代清代に関しては、正 史や「実録」「地方誌」だけではなく、墓誌や族譜も詳細に取り上げて検討しています。清代地方誌は3000 種(1県あたり2冊)、明代族譜は50余種あり、そこに20万人余の個別の人の生誕死亡時期、年齢情報が得 られ、膨大な史料を掲載していて非常に詳細です(墓誌は10万余とあった記憶がありますが、記憶違いかも知 れません)。全六巻で全4300頁、一巻平均700頁余で、明代と清代は各々1冊(清代は太平天国以前ま で)となっていて、史料の数値の紹介は膨大で便利な印象を受けましたが、史料上の数値から取り出した高い人 口増加率 を、情報のない他地域へ無作為に外挿してゆく様は、前述の路 遇、勝澤之『中国人口通史』以上のアグレッシヴさです。結果、明代最盛期の総人口は、1億9250万、明末清初 の戦乱による人口低下の底の時期は1億5250万とするなど、過去研究の推計値に比べ、更に増加してしいます。明代以外 でも、後漢末の戦乱と荒廃を受けた人口激減後の三国初年の人口を2300万、西晋の最盛期(300年)の人口を3500 万、宋代最盛期の人口を1億4000万とするなど、過去研究と比べ一段と高い値となっていますが、詳細で膨大な史料を紹 介し、論点を整理して議論しているわりには、最終的にどうしてこの値になったのかが明確ではなかったり、説得的ではな かったりします。近年発見されている多数の新史料 (族譜 や墓誌、地方誌など)記載の数値や論点などを知る書籍としては、貴重で有用かと思いますが、「人口推計」を行なっている部分 は、無理やり高い数字に持っていこうとしている、という印象があり、慎重に利用する必要がある書籍といえそうです。

6)袁祖亮編『中国人口通史』
 個人的に期待しているのが、本シリーズです。2007年から出版が始まり、2015年9月現在全11冊中5冊まで出て います。私は後漢を扱った第四巻のみ持っていて、これは比較的じっくり読んでいるのですが、現状これが一番良さそうに思 えます。明代の巻が出たら購入し、葛剣雄編『中国人口史』よりましなのかどうか、 確認したいと考えています。



【5】全体所感

 今回の記事を作成しながら、思ったことは2点あります。

 ひとつは、中国人口史研究における、主に計量経済史に軸足のある研究は、マルサス主義が前提にあるという印象を受けま し た。1953年に行なわれた中国の全国人口調査は、清朝時代の記録から想定される膨大な国内人口を正確に把握する必要性に迫 られてのことだと思われますし、結果明らかとなった、清代最盛期を遥かに上回る5億9千万という人口は、将来のマルサス 的破局を意識させるものがあったと推測されます。Ho Ping-ti氏の研究は1959年の発表で、1952年に明代以降の人口研究を開始しているそうですが、1953年の人口調査を取り込んだ研究となって います。Ho氏著書の「結論」の章の中盤でもマルサス理論関連の記載が出ています。1953年以降の中国における更なる 急 速な人口増大は、益々関係者にマルサル的展開を意識させるものとなったため、中国人口史研究者は、中国歴代王朝における マルサス的展開を先見的に見出すようなバイアスを潜在的にもってしまって いるのではないか、という気がします。

 Perkins氏は、Liu,P.K.C と K.S.Hwangの論文末尾の解説文で、Liu,P.K.C と K.S.Hwangの提示している分析データを「マルサス主義モデル」と指摘し、「マルサス主義モデルは、中国史の顕著な事実に適合している」と記載して いますし、もう一人解説を書いているChen Sun教授は、「歴史家は多くの事実から理論を作り出し、経済学者は諸事実を構築するために理論を使う」と書いています。これが、明代清初、特に明代の推 計値を規定してきた根底にある、という可能性は、非常に高そうです。

 もしかしたら、歴代王朝の中で唯一、史書史料上の数値にマルサス的破局の展開が見られない明代の数値についても、「マ ルサス 的展開に近づけるように新規史料を解釈する」という一方的な方向で走ってきて、今もって走り続けているのということなのではないでしょ うか。この傾向は、今後も、マルティニ神父が1655年の書籍で記載した明末清初の人口低下時期で2億のラインに近 づくまで、史料が探索され、構成され続けるのではないかと予感させられるものがあります。今後の研究において、明最盛期 の人口推計は、Mark Elvin(1973)の推計値である、2億5000万くらいまでいってもおかしくないかも知れません。

 現状確度が高いといえそうなのは、サツマイモやとうもろこしが主要食料として普及したのは18世紀中頃であること、全 国耕作地面積が明代最高値を越えたのは18世紀初頭であること、こ れら作物の普及は人口増加対策であったことから、特 に人口対策をうたなかった明代のありえそうな最大人口は、清代で新規作物の普及が奨励され始め、耕地面積が明代を上回っ た頃の人口程度(=1億 3000万人程度)、或いは、明代の 人口ピークにおいてマルサス的崩壊となる過剰が起こったとすれば、清代に新規作物が奨励されはじめた時期より若干高めの 値(1億5-6千万人程度)まで いっていたかも知れない、という、未だなおHo Ping-ti(1959)の研究の段階からそう遠いところまでは進めていない、という印象があります。しかもこの数字がマルサス理論通りの現象が明代に 起こっていたという仮定が前提の数値であるとするならば、これを否定する材料がでてくれば、数値はより下振れする可能性 はあり そうです。その一方、清代の丁が成年男性の人口数に近い資産評価単位であるのと同様、明代の後期の口数が丁と同じ意味を持ち、即ち口数6000万という数 字は成年男性だけを意味している可能性もあります。清代の盛世滋生人丁と同様に、明代後期においても、事実上政府歳入を 固定する方式となっていた(原額主義)という話です。その場合、マルティン神父の情報は、実は正確な情報であり、2億近 い 総人口がいたという可能性も残ります。明代初期には総人口数を示していた口数が、明代中期にどのように乖離していったの か、という具体的プロセスの証明が、現時点ではいまひとつなので、そこを地方誌などの情報で地道に詰めていく作業が必要 なのではないか、という印象もあります。

 記事を作成していて思った2点目は、明代清初の人口研究は、未だまったくの道半ばである、という点です。明代最盛期が 7000万くらいなのか、2億くらいなのか、その間のどこかなのか、材料が出揃った研究が落ち着くまであと50年、予見 やバイアスを拝した史料の配置が行なわれて、それが定説化するには、100年後くらいにならないと駄目なのではないか、 という印象を受けました。

 上田信氏は、『海 と帝国(講談社  中国の歴史9巻2005年)』p411において、「中国の歴史人口学は、十分に研究がす すんでいない。地域 や社会階層による差異、中国における避妊の有無、中国で「溺女」と呼ばれる嬰児殺害の頻度など、検討すべきテーマは多 い」と記載しています。更にp326では、「十六世紀までの中国では、農作物の端境期になると死亡率が上がる。ところ が、 十七世紀後半ごろから、この季節的な死亡率の変化が見られなくなり、一年間を通じて死亡率が平準になるという現象が見ら れた。十六世紀以前の中国社会は、慢性的な飢饉状態から脱することができず、豊作の年は乗り切ることができても、作物の 出来が悪い年には、栄養状態が悪化して疾病などを直接の原因として、あっけなく死去してしまう確率が高かったと考えられ る。それが、十七世紀後半以降に、社会が慢性的飢饉の状態から離脱したと考えられる」と記しています。後者の死亡率平準 化に関する論文は、今回見付けることができなかったのですが(実見した書籍の記載を見落とした可能性もあります)、こう した、様々な角度からの研究が多数出揃うことによって、今後、明代人口が絞り込めるようになるものと思われます。





【6】付録表1.康熙 20年 (1681年)jから嘉慶5年(1800年) 

 梁方仲著『中国歴代戸口、田地、田賦統計』p248-252に掲載されている年度別 人口数を用いて、1800年までの人口グラフを作成し、その人口増加線を、1681年-1740年の間に外挿して みました。1775年から1795年の間だけ、突出して人口が増えているので(これは登録簿作成方法の改革を受けて、人口把握の精度があがったものと考え られている)、この部分の人口増加線を青線、 1741-1774年の人口増加線を緑線、1681年-1711年の間の推定総人口を赤線で表示しました。赤線は、記録に残る”丁”(≒成人男性)を、成 人 男性人口数の実体と解釈し、これに女性子供老人の分として丁の2倍の人口を加えて総人口とした線です(つまり、赤線部分は、当時 の政府が概ね把握していた人口数ということになります)。



 結果は、1681年から1711年の間の、課税対象の成年男性数から算出される総人口は、概ね6000万から7600万 くらいで、康熙帝が、政府が把握できていない成年男性数に危機感を覚えて、税額を固定し、永不加賦滋生人丁をカウントし始めた頃 (1711年)は、1億3000万人くらいの総人口がいたと可能性があり、政府が把握している人口の2倍の成年男性が存在した可 能性 がありそうだ、という結果になりました。この外挿からは、政府把握人口と実体人口の乖離は、1665-1685年頃に発生し、清初の人口は 6000万人程度、明代の史書記 載人口数と同程度、ということになります(ただし、実際にどこが「底」なのかは、各種研究議論があり、6000万まで落ちたのかどうかも、現時点は断定で きないとことです)。

 なお、上記(2)で引用したKent G. Deng氏の試論(Working Paper)「Fact or Fiction?
Re-examination of Chinese Premodern Population Statistics(2003年)
」では、1741年以前の人口を、史書記載数値の3倍(人丁が全人口の31%を 占め、1戸あたりの人口を、歴代全王朝の1戸あたりの平均人数5.77人と算出)程度(上記表4の赤線とほぼ同じ)と見積もって い ます。Kent G. Dengは、清初の人口は、赤線付近で推移していて、18世紀中盤に突然急増した、という見解をとっています。その根拠は、梁方仲著『中国歴代戸口、田 地、田賦統計』では、1753年の人口として、清代人口を年度別に記載したp251で は1億8368万としているのに、歴代王朝のサマリだけ記載したp10では、1億275万という数字を採用している点にあります。この数値の出典は記載さ れておらず、注釈に言及されている文献は、『清通考』『清通典食貨』との記載があるだけで、明確に出典だ との記載はありません。Kent G. Deng氏は、1734年の総人口を人丁の約3倍の75,162,388人と見積もり、1753年については、1億275万を採用し、1740年代に急激 な人口上昇があったという結論としているわけです。1753年の人口数について、異なった値があること自体が、議論されてもよい ので はないかと思いますが、現時点での所感としては、『中国歴代戸口、田地、田賦統計』p251では、清実録と王先謙東華続録の二つの史料から引用され、かつ 前後各年度の値が整合性が取れる値となっていることから、現時点では、1753年の値は、1億8368万の可能性の方が高そうに 思えます。

【7】 付録表2.永不加賦滋生人丁の把握政策導入後の課税対象成年男性の人口と割合

 康熙帝が実施した課税丁男固定制度である盛世滋生人丁制度により把握を目指した非課税成年男性人数は、「永不加賦滋生人丁」と いう区分で史書に記録が 残っています。以下の表は、 『中国歴代戸口、田地、田賦統計』(梁方仲著、上海人民出版社1980年)のp250-251からの引用です(表内の太字は、次年度と同じ数字のもの。調 査が隔年、或いは数年毎に実施されたと思われる) 。

人丁
永不加賦 滋生人丁 出典1  清実録
出典2  王先謙東華録
康熙52年(1713年)
23,587,224
60,455
聖祖実録257巻 康熙92巻
53年(1714年) 24,622,524
110,022
同261巻 同94巻
54年(1715年) 24,622,524
173,563
同266巻 同96巻
55年(1716年) 24,722,524 199,022
同270巻
56年(1717年) 24,722,524 210,025
同276巻 同100巻
57年(1718年) 24,722,524 251,025
同282巻 同102巻
58年(1719年) 24,722,524 298,545
同286巻 同104巻
59年(1720年) 24,720,404
309,545
同290巻 同106巻
60年(1721年) 24,918,359
467,850
同295巻 同108巻
61年(1722年) 25,309,178
454,320
世宗2巻 雍正1巻
雍正元年(1723年)
25,326,307
408,557
同14巻 同3巻
2年(1724年) 25,510,115
601,838
同27巻 同5巻
3年(1725年) 25,565,131
547,283
同39巻
4年(1726年) 25,579,675
811,224
同51巻 同9巻
5年(1727年) 25,656,118
852,877
同64巻 同11巻
6年(1728年) 25,660,980
860,710
同66巻 同13巻
7年(1729年) 25,799,639
859,620
同89巻 同15巻
8年(1730年) 25,480,498
851,959
同101巻 同17巻
9年(1731年) 25,411,456
861,477
同113巻 同19巻
10年(1732年) 25,442,664
922,191
同126巻 同21巻
11年(1733年) 25,412,289
936,486
同138巻 同23巻
12年(1734年) 26,417,932
937,530
同150巻 同25巻

 オレンジの部分が永不加賦滋生人丁部分。従来から課税名簿に登録されていて、60歳になり、課税名簿から外れた時に、恐らく 60歳以上の人口がそのまま登録されているだけで、隠れた成年男性人 口を表に出す効果は殆ど無かった様子が見て取れます。

 



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