2016/Nov/last updated
古代地中海世界(ローマ帝国)の暦について
【1】紀年法
その住民がどの暦を使用して生活しているかは、その住民の世界観を知る上で重要であり、また同じ暦を使用している社会は同じ世界に住んで
いると考えても差し支えないと思われます。
古代地中海世界では主に以下の暦が利用されていたようです。
□オリンピアド暦 ギリシャ圏で利用された。西暦紀元前776年の第1回オリンピアド開催を紀元とする。
後世ローマ時代でも引き続いて用いられたようである。(4年で1年となる。193年がアウグストゥスの42年に相当す
る)
□ローマ建国紀元 西暦紀元前753年のロムルスによるローマ市建国を紀元とする。
□執政官暦表(
Fasti consularesま
たは、
Consular datingと呼ぶ) ローマ市では、任期1年の執政官
2名の名前を表記する方法で年を表した。541年まで使われた。コンスルの廃止とともに廃止。
□シリア暦 セレウコス朝で利用され、西暦前312年を紀元1年とする暦法。ローマ帝国領土シリア地方やパルティア・サーサーン朝のイラク
地方で主に6世紀頃まで用いられた(シリア教会では10世紀頃まで用いられた)。
□ディオクレティアヌス紀元 284年を元年とする。コプト教会で現在も用いられている(現在はコプト暦と呼ぶ)。
ディオクレティアヌス紀元以降、15年毎の課税査定更新年を「1インディクティオ」と呼び、前のインディクティオn年、今のイン
ディクティオm年、などと年号を表現した。
□この他に「皇帝の第何年」と呼ぶ方法なども使われていました(どこ皇帝から利用されはじめたのかについては、まだ調べられておりません。ハ
ドリアヌス帝については、エジプト出土のパピルス文書に記されているので、遅くとも彼の時代には利用されていました)
□属州暦
ローマ帝国の属州では、属州独自の暦が使われていることもありました。現在のモロッコにあたるマウレタニアは紀元40年、ローマに併合さ
れた年を紀年とした暦が
利用されていたとのことです。「属州暦251年」=西暦291年 と書かれた碑文などが発見されているそうです(大清水裕『ディオクレティア
ヌス時代のローマ帝国』2012年、p188)。
イベリア半島でも属州暦が利用されていました。セビーリャのイシドールス(560頃ー636年)の著作や、8世紀の『モサラベ年代記』で
利用されており、西暦前38年を紀年とし、アウグストゥスによる戸口調査が起源であると古代末期には考えられていた。
これに対して、キリスト教が拡大してゆく過程で、キリスト教の暦が考案されてゆきました。このキリスト教の暦は教会指導者
エウセビオス(263頃-339年)によって概ね確定され、アウグスティヌス(354-430年)によって修正、補強されました。
この暦は、聖書の記述とギリシャ・ローマ、エジプト、アッシリアなどの歴史を元に作成され、エウセビオスは西暦紀元前5201年を世界創世に
置き、アウグスティヌスは紀元前5351年を世界創世に置く創世紀元です。従って、最初から紀元前という考え方が存在しない暦でしたが、実際
には古代ローマが没落するまでは利用されず、主にビザンツ帝国及び中世の正教圏で利用されるようになりました。西方ではディオニュシウス・エ
クシグウスによって6世紀に考案された西暦が普及しました。
【2】月日の数え方
ローマにおいて、七曜が普及したのは東方天文学による影響のもと、紀元前1世紀頃から広まったようで、キリスト教の普及に拠ったものではない
そうです。それ以前は、8日間の 「Nundinal Cycle」が利用されていました。Nundinal
Cycleとは、市場の立つ日を基準に8日間を一週としたもの。更に、月の中の日にちの数え方は、月の最初の日を「カレンダエ」、月の5日目または七日目
を「ノナエ」、13または15日目を「イドゥス」と呼び、それらから何日前、何日後、という具体に日にちを表現しました。Nundinal
は、イドゥスとノナエの間の8日間を示しています(Nundinal
の語源は、ラテン語のnovem(9)が由来との説があり、その理由は、イドゥスとノナエの間をカウントする場合、イドゥスとノナエの双方の日も含んで数
えるため、9日間、となるとのこと。こうした数え方を
Inclusive countingと呼ぶとのこと)。
Nundinal Cycleと七曜は平行して用いられ、321年に公式に七曜が採用された後、Nundinal
Cycleは廃れていきました。
【3】ユリウス暦の浸透
前46年にカエサルが暦の改革を行い、ユリウス暦を導入したことは有名です。しかし、カエサル改
革直後に、ユリウス暦が全ローマ支配領域で一斉に用いられたわけではなさそうです。これについて『
古代地中海世界のダイナミズム
―空間・ネットワーク・文化の交錯-桜井-万里子編』(2010年、山川出版社)所収、志内一興著「イガエディアニ人に
贈られた日時計」という興味深い論考があります。
史料としては、紀元238年にケンソリヌスの残した『誕生日について』という短著、前1世紀から後1世紀にかけて製作されたユリウ
ス暦を利用したカレンダーの碑文が40点程残っているそうです。それらによると、概ねイタリア半島諸都市にはユリウス暦は比較的速や
かに浸透したようです。
ユリウス暦の属州への拡大については、直接的な史料が無いものの、時計・日時計の奉納碑文や贈呈碑文や、月を擬人化したモザイク遺
構などは、ローマの暦(ユリウス暦)の浸透を意味していると解釈する説があるそうです。前1世紀から後3世紀の時計・日時計に関して
記載したラテン碑文が24点(7点がイタリア半島、17点が西方属州)、月の擬人化モザイクは26点残っているそうです。東方属州に
ついては、エジプトでは前30年プトレマイオス朝征服時にユリウス暦が導入(切り替えではなく並行利用)、小アジアでは碑文
OGIS458(前9年)にユリウス暦に連動する暦の導入決議が記載されているとのことです。
しかし、属州では、ローマのユリウス暦を完全に取り入れたわけではなく、地元従来の暦に合わせた導入だったようです。
【東方属州】
ユリウス暦を導入したエジプトや小アジアでは、元の現地暦の正朔(元日)を、ユリウス暦の正朔としたそうです。エジプトでは8
月29日(トト朔日)、小アジアではシリア(セレウコス)暦の元旦である9月23日(秋分の日)をユリウス暦の正朔としたそうです。
チュニジアで発見された月の擬人化モザイクの最初が三月であり、現地暦の元日を意味しているとの解釈もあるとのこと。また、モザイク
の多数が2世紀後半以降、特に3世紀のものであることから、ユリウス暦の浸透に200年以上かかったとの解釈もあるそうです(一方、
モザイクカレンダーが単にこの時期流行しただけ、という解釈もあるそうです)。しかし、帝政期に遡る(4−5世紀のパピルス文書の断
片、9世紀の写本文献)地方暦とユリウス暦の月日対照表(Hemerologion)が残されており、東方大都市(アンティオキア、
シドン、テュロス、バールベック、アレクサンドリア、ガザ)と諸州(アシア、ビテュニア、クレタ、アラビア)などの暦とユリウス暦の
対照表(メッシュマップ)が掲載されていて、これによると、閏日や正朔など細かいところで地方独自の部分があるものの、凡そはユリウ
ス暦と一致しているとのことです。
【西方属州】
フランス・リヨン郊外コリニー出土の太陰太陽暦記載の碑文(2世紀)で、ラテン文字・ローマ数字が用いられているが、言語はガリア語で、
62ヶ月の月日がガリア語の注記とともに刻まれていて、現地暦の利用が続いていたとの解釈があるそうです。
このように、本論の前半は、数十年間でのローマ帝国全土へのユリウス暦の浸透が見てとれ、特に意外でもない内容なのですが、面白いのは最後
の章です。
354年にローマ在住のキリスト教徒ウァレンティニアヌスに贈られた「フィロカルスのカレンダー」/「354年の年代記」という冊子本の写
本が現存しているそうです。この文書内には、355年の、七曜、Nundinal
Cycle(8日周期)、太陰暦、太陽暦(ユリウス暦)対照表が掲載されていて、4世紀に至っても、ユリウス暦以前の暦が日常的にローマ市でさえ用いられ
ていた重要な史料とのことです(論説には写本の対照表の写真が掲載されていて有用です)。
【4】世界史観
古代ギリシャ・ローマ人に限らず、歴史と神話は民族内では繋がっている傾向があります。最初に神々の時代があり、
半神半人の時代があり、人間の時代に至る。この傾向は世界共通であるようです。しかし、自民族内の神話に繋がる
歴史とは別に、他民族との接触によって、他民族の持つ神話と歴史を知ることで、自民族の歴史に他民族の
歴史とり入れ、あるいは統合するようになります。
古代地中海世界で自民族の歴史を記述してきた民族は、エジプト人、バビロニア人、ギリシャ・ローマ人、ユダヤ人
などです。ギリシャ人・ローマ人、ユダヤ人が歴史を記述する以前にはるかに先行する長大な歴史を
持っていたのがエジプト人やバビロニア人です。ギリシャ・ローマ人やユダヤ人は エジプト・バビロニアの歴史を
どのように受容したのでしょうか。
ギリシャ・ローマ時代に作成された他民族の歴史書として以下のものがあるとのことです。
「バビロニア誌」 前3世紀 バビロンの神官ベロッソス作
215万年前の世界創世から説き起こし、ノアの洪水伝説の下敷きとなった話などがある。明らかに
聖書の洪水伝説と共通の素材に拠ったものと考えられる。
「ペルシカ」 前5世紀 ギリシャ人医師クテシアス作
アケメネス朝王朝自体が記載していた歴史書「
バシリカイ・ディプテライ(王の書)」な
どに
拠って記載されたとされる。
「エジプト誌」 前3世紀 ヒエロポリス神殿の高官 マネト作
エジプト人だがギリシャ語で記載した。神々と半神半人時代が2万5千年程続き、その後王朝時代に
入り、31の王朝が興亡したとする。現在のエジプト王朝区分はこの史書に拠っている。
王朝時代は合計5268年続いたとする。
「旧約聖書」 天地創造からノアの洪水までを1656年とし、概ねイエス誕生まで6000年とする。
特に前166年に書かれた「ダニエル書」は世界を4つの帝国の興亡として描いている。
すなわち、カルデア(新バビロニア)、メディア、ペルシャ、アレクサンドロス帝国である。
ギリシャローマ人にもっとも影響を与えた他民族はペルシャ人であったと考えられます。原因はペルシャ戦争であり、
その大戦争を通じてペルシャ人の、ひいてはペルシャに先行する歴史に興味が波及していったと
思われるます。その結果、ギリシャ・ローマ人は以下のような世界史認識に到達したようです。
最初の世界帝国はアッシリアであり、ニノス王により建国され、イラン、エジプトを征服した。
ニノスの死後、妻の
セ
ミラミスがインドを征服しバビロンを建設した。このアッシリア帝国は
ほぼ1300年間続いた。
アッシリアを滅ぼしたのはメディアであり、298年間存続し、他の国はその属国だった。
そのメディアを滅ぼしたのはペルシャであり、ペルシャを滅ぼしたのはギリシャ人であり、最終的に
世界の一方はローマに、他方はパルティアに統合された。
エウセビオスやアウグスティヌスの歴史は基本的には聖書の歴史とギリシャ・ローマ人の歴史を統合した
ものとのことです。聖書とギリシャ・ローマ人の世界史認識の相違点の一つはアッシリアについての認識だった
ようです。すなわち、ギリシャ・ローマ人にとってのアッシリアとは、事実としてのアッシリアの歴史とは大分
かけ離れたものとなっていますが、聖書に登場するアッシリアは、前8世紀のティグラト-ピレセル王の時代以降
比較的事実に即して語られているとのことです。 これに対してエウセビオス、アウグスティヌスは キリスト教を
ギリシャ・ローマ人に受容してもらうため、「世界帝国」としての聖書に登場する新バビロニア(カルデア)の
を、アッシリアに従属する国とし、ギリシャ・ローマ人にとっての「アッシリア」を世界史に組み入れたのです。
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更新履歴 2016/Nov/ユリウス暦の浸透について
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