古代ローマと漢王朝の窓ガラス
ここ2年程、延々と歴史映画やドラマの紹介をしておりますが、私が執拗に画面ショット を取っている小道具のひと つに窓ガラスがあります。映画がそのまま 史実を描いているとはもちろん思っていませんが、史実を調べるきっかけとなります。一年中暖かい南方はともかく、冬が寒い地方では、 窓ガラスの有無は生活 風景に大変な影響を及ぼします。ガラスの歴史の本となると、基本的に碗や瓶、工芸品ばかりが扱われ、一体何時から板ガラスと窓ガラス が発生し、日常生活に 浸透していったのか、なかなかこの部分に焦点を当てた(日本語の)著作を見たことが無いので、どなたか書いてくれないだろうか、と 思っているところです (英語書籍までは調べてないので、ひょっとしらど真ん中な書籍があるのかも知れません)。
しかし、映画の小道具とはいえ、異なった作品 でもある程度似た構造の窓が登場するのであれば、そこには考古学や美術史的な根拠がある筈で、大量に映画を見ているだけでも、最近で は、なんとなくこうい うことなんだろうな、と窓ガラス発達史が思い描けるようになってきています。
ヒントとなった映像のひとつに、「神聖ローマ再現ドラマ・ ドイツ教育番組「DIE DEUTSCHEN(ドイツ史)」(1)カール,オットー,ハインリヒ4世」に登場したロンデル窓がありま す(↓)。カ ノッサの屈辱(1077年)の場面で、教皇グレゴリウス7世が窓から雪の中、裸足で立つ皇帝ハインリヒ4世を眺める場面。
恐らく本作以前でも、歴史映画で何度と無く、瓶の底を切って並べたような窓を目にしていたことがあってのことだと思うのですが、本作を見 てどうやら窓ガラ スの発展はステンドグラスだけではなく、寧ろ瓶底ガラスを並べたこの形式の方が重要な発展ルートのひとつだったのではないかと思い、少し 調べてみました。 そうしてこの形式の窓がロンデル窓(Rondel Windows)という形式であることを知ったのですが、ロンデル窓の歴史については、英語や日本語でも殆ど情報がありません(一番参考になったのは、日 本語のこちらのサイト「忘れへんうちに Avant d’oublier」というブログの「ヴェネツィアで見かけた窓ガラスに並ぶ丸いものはロンデル」という記事で す)。
ロンデル窓の存在を知ったことで、ガラス窓の歴史についての疑問は取りあえず氷解したような気持ちになっていたのですが、昨年視聴した3世紀のローマ時代 のシリアを扱った作品(シリアの古代ローマドラマ「ゼノビア」)の第11話で、以下のよう なステンドグラス が登場しているのを目にしました。
根拠の無い産物にしては凝った造作をしているのが気になり調べてみたところ、漸く古代ローマの板ガラスの遺物写真を見 つけました。以下 は、こちらの大英博物館のサイトから無断拝借したもの。これは1世紀、ヴェス ビオス火山の噴火 で埋まった都市ヘルクラネウム(現イタリア名エルコラーノ)近郊から発見されたものとのこと。
(実 は昨年「ゼノビア」視聴時に見つけた古代ローマのガラス画像はエジプトのアレキサンドリアで発見された遺物(だった)と記憶しているので すが、今記事を書 きながら保存しておいたURLを検索したところ、ドメインnot foundとなってしまいました。少し検索した限りでは古代ローマの板ガラスは大英博物館のこれしかヒットしないので記憶違いかも知れませんが、エジプト の遺物の板ガラス画像もそのサイトひとつだけしかネットに上がっていなかった可能性があります。いづれにしてもレア情報 過ぎてネット上か ら一切無くなって しまうのは大変残念なので、今回大英の写真を転載してしまった次第です)。
というわけで、古代ローマの板ガラスの遺物を漸く見ることが でき、物証があることで納得できました。上記大英博物館の記事によると、この板ガラスは、数枚の小片から構成されていて、色は青緑(つま り、昔のコカコー ラやラムネの瓶と同じ)で厚さは3mmとのこと。更に大プリニウス (AD 23/4-79)の記載するところには、前58年に建設された劇場の中層階の舞台がガラスで作られ、 空前絶後のことだと記しているそうです。
とは言うものの、ヘルクラネウムの遺物が窓ガラスとして利用されていたかのか、もしかしたらテーブルや内壁の装飾に利 用されていたので はないか、という疑問も出てきます。そこで、藤井慈子著「ガラスの中の古代ローマ」という書籍を確認してみたところ、p23に、古 代ローマの窓ガラ スに関する以下の5つの古代文献・遺物について紹介がありました。
・セネカ「道徳書簡集」(1991年東海大学出版)p369-370
・小プリニウス「書簡集」第二巻17章
・エジプトのオクシュリュンコス出土のパピルス
・ポンペイのユリウス・ポリビウスの家から出土した窓ガラス
・ヘルクラネウム出土の窓枠
手元の講談社学術文庫版「プリニウス書簡集」 によると、書簡集の第二巻17章は、文庫版の第二巻第十章ラウレントゥムの別荘の章に相当し(文庫版では第二巻14−16章は省かれてい る)、 p87,p88,p93にガラス戸とガラス窓の記載が登場しています。これによると、結構大きなサイズのガラス戸があるとされており、驚 きます。
p87 「柱廊はガラス窓と、かなり長く軒先の張り出した屋根に守られている」
p88 「食堂の周囲は、両開き戸か、または戸と同じ大きさのガラス戸で囲まれている」
p93 「床の間があります。これはガラス戸と引幕で、閉じられたり開かれたりしてその都度居間と繋がったり居間から独 立したりします」
せいぜい4,50cm四方の、小窓の嵌め込みガラスだろうというイメージがあったので、ガラス戸の記載には衝撃を受け ました。高名なラ テン語の専門家の翻訳なので信頼できるとは思うのですが、それでもにわかには信じられず、本当だろうかと、念のため当該部分の英訳(こちら)を確認してみたところ、
・ they are protected by glazed windows (ガラス窓)
・ windows that are quite as large as such doors(扉と同じ大きさの窓)->ガラス窓としか解釈できない。
・ glazed windows(ガラス窓) and curtains can either be thrown into the adjoining room or be cut off from it
となっていて、ガラス窓となっています。かなり感激しています。古代ローマすっげー。
ところで、藤井慈子氏の書籍「ガラスの中の古代ローマ」 は、古代ローマのガラスを解説した専著として貴重な書籍だと思うのですが、ネット上にレビューは無く、あまり売れていなさそうなのが残念 ですが、私もまだ 一部しか読んではいないのでした。それには理由があります。本書の主題は、金箔ガラスと景観カット付球状瓶という後期帝政ローマ時代のガ ラス工芸品であっ て、約350頁のうち、1/2が金箔ガラス、約100頁が景観カット付球状瓶の論文(併せて3/4)となっていて、古代ローマ時代のガラ ス製造に関する 様々な薀蓄(窓ガラスやランプ、レンズと読書、ガラス製品の価格、製造技術、ガラス工房の遺跡や原材料の所在地等)は冒頭の50頁くらい しかないから。本 書、冒頭部分に関して一冊読みたいと思っている段階にあって、いきなり金箔ガラスや景観カット付球状瓶に関する論述を読むのはハードルが 高すぎるのでし た(2016年5月追記:藤井慈子「窓ガラスの誕生と浴場―ローマ帝政初期の考古・文献資料の検討」( 『モノとヒトの 新史料学-古代地中海世界と前近代メディア』(2016年3月/勉誠出版)所収)に、古代ローマの浴場に設 置されていたガラス窓に関する論考が掲載されています)。
金箔ガラスも、ネットで検索しても情報は多くはなく、またしても、ロンデル窓のところで紹介した「忘れへんう ちに Avant d’oublier」さんのブログ「金箔入りガラスの最古は鋳造ガラスの碗」 の記事に、写真入りの詳しい紹介を見つけました。景観ガラス付球状瓶に至っては、画像検索をかけても、「ガラスの中の古代ローマ」の書籍 写真しかヒットし ないので、相当認知度が低そうです。英語でも適当な名称が無いようで、roman bottle glass、roman flask glassと画像検索すると出てきますが、「景観付球状瓶」を表す用語は見当たらない感じ。以下の左画像は、ニューヨーク州にあるコーニングガラス博物 館のサイ トに掲載されている写真。。紹介文には発掘地であるポインペイ近郊のPopuloniaの名を付けて、"The Populonia Bottle"とされています。右側は大英博物館のサイトから拝借してきた金箔ガラスの画像です。金箔ガラス は、日本語だと"金 彩ガラス+古代ローマ"、英語だと" roman glass gold medallion”で画像検索をかけると出てきます。
続いて古代中国の板ガラスの話。先日、漢代の中国でもガラスの生産が行われていたという話が記載されているのに大いに 興味を惹かれ、小 寺智津子著「ガラスが語る古代東アジア」という書籍を読みました。本書はアマゾンにレ ビューを書きまし た(こちら)ので、書籍全体の感想はここでは触れませんが、本書のp68には 漢代の窓ガラスと 思わしき以下の文献の記載が紹介されています。
・漢武故事
・西京雑記
当該部分の一文の翻訳は「ガラスで語る古代東アジア」に出ているのですが、当該文章の場所が記載されていなかったの で、念のため訳書を 確認してみました。
・漢武故事
以下の2つの翻訳があります。
-平凡社 中国古典文学大系 23巻 「漢・魏・六朝・唐・宋散文選」所 収 p94
-明治書院「中国古典小説選〈1〉穆天子伝・漢武故事・神異経・山海経他(漢・魏) 」 p387
平凡社版の訳文によると、「扉や屏風はすべて白い琉璃で、家の奥まで光が届いた」とあります。ただし、「漢武故事」の 著者は後漢代の班 固との説の他に、晋代の葛洪(283-343年)、南斉の王倹等多くの説があるとのことで、必ず しも漢代の話とは 限らないようです(平凡社版も、「六朝」の章に入っている。なお、Wikisouceの「漢武故事」は本日現在部分掲載で、ガラス窓の出て くる文章は掲載さ れていない)。
・西京雑記
-東方書店「訳注 西京雑記・独断」のp35-37にガラス窓の記載の原文と邦訳が 記載されていま す。
「窓の扉は多くの緑の琉璃で縁取られ、皆照り映えて一本の毛髪さえも映し出した(原文 窓扉多是緑琉璃」(p37)
とありますが、漢代の板ガラスの遺物が発見されている現在、"縁取り"では無く、「窓の扉(或いは窓と扉)は琉璃(ガラ ス)」という訳文 で問題ないと思います。ただ残念なことに、「西京雑記」もまた残念ながら、漢代の作品ではなく、前漢末期の劉歆(?-23年)撰・晋葛洪編纂とされているものの、葛洪よりも後代の 六朝時代以降の作 品と考えられているとのこと。
というわけで、漢代を描いた六朝時代(以降)の作品に板ガラスが登場していることは間違いありませんが、漢代の事実を描いているのかどう かまでは断定でき なさそうです。とはいえ、漢代に板ガラスがあったことは出土遺物があり、「ガラスが語る古代東アジア」p55にも写真が掲載されていま す。前漢代南越王か ら出土した板ガラスで、WikiのAncient Chinese Glassの項目に画像が上 がっています(以 下の画像は、Wiki掲載の画像の左半分を切り取ったものです)。
見た目、錆びた青銅にしか見えませんが、金メッキした銅枠に嵌め込んだ透明な緑のガラス(成分分析の結果、ガラスで確定)とのことです。 明確なサイズはわ かりませんが、こうした板ガラスをフレームに嵌め込めば、上記文献に登場している窓ガラスは出来るので、文献が六朝以降のものだったとし ても、文献記載の ような漢代の窓ガラスの存在は高いのではないかと思います。古代ローマの場合は公共建築や家臣の私邸、漢代の場合は王の宮殿という相違は あるものの、古代 ローマと漢代の板ガラスと窓ガラスの存在がほぼ確認できて満足。
−その他参考サイト・資料
・古代ローマの板ガラスの製造にチャレンジしているサイト。製法を再現して います。
・藤井慈子「窓ガラスの誕生と浴場―ローマ帝政初期の考古・文献資料の検討」 『モノとヒトの新史 料学-古代地中海世界と前近代メディア』(2016年3月/勉誠出版)