石寨山遺跡


紹介

 雲南には、古代?王国の遺跡が各地に残る。雲南博物館にあった遺跡地 図によると、全部せ20箇所あり、昆明の南に広がる、?池という東西10km、南北30km程の湖を中心に、ほぼ昆明近郊に広がっていて、もっとも遠いも のでは、大理でもある。訪問した時は、既に陽が暮れてしまっていて、あまり役立つ写真が撮影できなかった。石寨山は30m程の丘で、丘の上に古代の墓群が ある。石寨山の写真や、石寨山山頂から見た?池、石寨山遺跡の概要については、こちらのHPに 詳しい解説がある。

 遺跡は立ち入り禁止となっていて、左写真の手前に2mばかりの柵がある。写真は柵によじ登って内部を撮影したもので、白い門柱の向こうに墓群がある。右 写真は、同地点から、南東方面を撮影したもの。山の北西側斜面から西側に石寨山村がある*1。
「漢書」の「西南夷 両粤朝鮮伝第六十五」の記載によると、戦後末の楚の将軍、荘?(キョウ)に命じて、雲南地方を攻略させた。征服後、丁度秦が楚の巴地方を征服したため、楚 に帰国できなくなり、?の地で王となった、とある。この?の地が、?池付近であると考えられる。その後秦時代に征服され、役所が置かれたが、漢に入って放 棄され、巴蜀に関所を置いて交通を遮断したが、密貿易が行われた。武帝時代に至り、西域に使した張騫が、蜀の製品を西域の市場で目撃したことから、西南夷 から印度にいたる交易ルートがあると推測。調査員を送ったが、昆明国に塞がれて、印度へはたどり着けなかった。この時、?王が漢の使者に「漢とわが国とど ちらが大きいか」と聞き、現貴州にあった夜郎国の候も同じ質問をしたという。井の中の蛙と似た内容をもつ、「夜郎自大」の語源であるが、具体的な記載のあ る、?王の言葉ではなく、つけたしのように記載されている夜朗候(王になったのは、征服されてから)の言葉が、なぜか後世に残ることになった。元封2年 (前109年)漢に侵攻されたが、漢書の記載では、殺戮になる前に、漢に投降したとある。?王は、数ある小酋長達のうちの一人に過ぎなかったが、抵抗しな かったこともあり、漢から金印を授与されることになった。この金印が発掘されたのが、石寨山遺跡とのことである。
*1 こちらの書籍「中 国古代文明」には、公開になった、と記載があった。ひょっとしたら、もっと早い時間帯なら、付近の住民が管理人でもやっていて、見せてもらえたの かも知れない) 
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昆明駅北側の昆明汽 車站、中北汽車站、昆明火汽車站からは、晋城行きバスは出ていない。駅の南側にある、市客運南站のバス乗り場の隅からバスが出ている。チケットは、カウン ターで購入するのではなく、バスの車掌から直接購入する。8元。晋城まで約40分、距離30km程度。晋城の町から、更に10km程度西南方面にあり、田 畑の畦道のようなところを行くので、標識などはない。詳細な地図が無ければ、歩いていくのは非常に困難だと思われる。タクシー利用がお奨め。しかし、出土 物はすべて雲南博物館に移され、展示されていて、ここでは何の案内も無い。わざわざ出かける程の場所でもない、という印象。
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