セルジューク朝について
オスマントルコの影に隠れてあまり脚光を浴びることは無い様に思えますが、ちょっと検索してみました。と言っても日本のサイトだけだけど。
Gooの場合、 トルコで29690件、 オスマンで2367件、セルジュークで92件だった。InfoSeekではどうかとやってみた結果は、トルコ 39,863件、オスマン 1,811件、 セルジューク 251件 だった(2000/6/3)。 一応名前だけはあちこちに登場しているみたい。 それではセルジュークをメインに扱っているサイトがあるのかなとマリク=シャ-で検索してみたところ、44件、アルプ=アルスラーンでは5件だった。そのうち人物紹介に役に立ちそうなサイトがありましたのでリンクしておきます。他のセルジューク朝の系図に関してはこのサイトが便利です。セルジューク朝自体の知名度はまあまあありそうですが、正面切って扱われているサイトはざっと見たところでは見つけられませんでした(日本だけの話)。
扱われているとしても大体1071年のマンジケルト関連やコンヤのメブラーナ教団関連。セルジューク朝全体に関して主体に扱うサイトは殆ど無い様な気がします。
だからと言ってこのページで詳しく紹介する余裕も知識も無いのですが、高校世界史でセルジューク朝を扱う場合大体以下のキーワード関係では ないでしょうか?
10世紀半ばのイスラム世界はシーア派が勢力が優勢であった。中央アジアのジェンドを基点に勢力を伸ばしてきたトルコのオグズ族の一族である首長セルジューク(-1009)に率いられた一族がスンナ派に改宗し、その孫にあたるトゥグリル=ベク(在100 7-63)はまず1040年ガズニ朝をダナンダカーンの戦いで破って西トルキスタンの覇権を握り、続いて当時イラン中心に勢力を持っていたシーア派のブワイフ朝破り、セルジューク族が西アジアの覇権を握るとともにスンナ派の優勢を決定づけた。 |
という感じで最初の3代のスルタンと宰相ニザーム、オマルの「ルバイヤート」を覚えておけば試験はなんとかなる、という(少なくとも私の場合は)感じでした。通常の世界史の世界ではマンジケルトが切っ掛けとなってアレクシオスが西欧に援軍を要請し、これが教皇ウルバヌスの演説を引き出しひいてはフリードリッヒ=バルバロッサが小アジアのセレウキア付近で川に落ちて溺死する事件に 結びつきその報復の為に800年後に3B政策でドイツ帝国が西アジアへ進出する切っ掛けとなったとまでは言わないまでも、 通常の世界史でのセルジューク朝の役割は十字軍を引き出したことでおしまいとなってその後の状態はあまり扱われないのではないかと思います。そこで上記以外のセルジューク朝の側面を少し扱ってみました。
トルコ族、大々的な西アジアへの進出
セルジューク以前はトルコ系部族に限らずほぼすべての東方から移住してきた民族はイランへ侵入することは殆どなく、 カスピ海の北を通過して東欧へ進出するか、インドへ行くかどちらかのパターンだったと思います。 サカ族、月氏、アラン族、フン族、アヴァール族、ブルガール族、ハザール族、突厥などみな西トルキスタンからイランへの侵入は失敗し、
たまにコーカサスから西アジアに侵入することがあっても、最終的に撃退されてきたということになってます。。
ところがセルジューク朝は、西アジアにイラン民族の覇権が確立して以来、西トルキスタンから大規模に進入し、征服した最初の非イラン系部族といえるのではないでしょうか。
進入できなかった理由はイランにはアケメネス朝以来の強力な帝国が東方から移動してくる部族の進入を阻み、 インドかあるいはカスピ海の北に追いやってしまってきたことと7世紀以降はアラブの進出により進入どころか逆に攻勢に出られてしまった ことにあるのでしょう。 アラブとイランの力がやっと弱まった10世紀に西アジアについに進入したなどというとちょっとセルジューク朝は気を悪くするかも知れませんがゲルマン民族だって匈奴だってローマと漢が弱まるまでは征服できなかったわけだし。
山の老人とオマルハイヤーム
シーア派の一派暗殺教団を率いた「山の老人」ハッサン サッバーハ(-1124)とニザームとオマル ハイヤーム(1040-1123) は若い頃から知り合いだったとかいう話を どっかで読んだ記憶があります。有名人や偉人の 逸話にありがちな話ということだと思うのだけど、たとえフィクションだとしても面白い組み合わせだと思う。 イル汗朝の宰相ラーシド ウッディーンの「集史」では3人は ニシャプールのメドレセで学友だったと されているらしい。 実際にはオマルとサバーハは年代的にも思想的にも近いものがあるらしいし、サッバーハとニーザームは世代は違うが政敵だったらしく、ニザームがサッバーハを失脚させ 政府から追ったとか。
山の老人とは暗殺者のボスの通称で、暗殺教団を創設したサッバーハ以降代々の教団長が「山の老人」と呼ばれたらしい。
山の老人とよばれたわけは、暗殺教団のアジトが峻厳な山奥にあり難攻不落の要塞であったためとか。暗殺教団ではこうした山奥の人気ないアジトに青年と美女を隔離し、青年を一時的に眠らせて美女のオアシスへ連れ込み麻薬と美女の接待をして手なずけていたとのこと。接待が終わると青年をもう一度眠らせて外へ連れ出し、青年が目覚めてから「はて、あれは夢だったのだろうか、おとぎの国だろうか」と天国の様なひと時を振り返っていると 山の老人がやってきて 「またあそこに行きたかっただこいつを暗殺して来い」 と命じ、 青年達は言うがままに暗殺へ向かったということらしい。こうして各地の有力者を震え上がらせ、暗殺というカードをちらつかせて政治的影響力を振るってきた暗殺教団も、考え方自体が異なるモンゴル人には通用せず、「そんなにめんどうで危険なやつらは元からたってしまえ」 とイランへ侵入してきたチンギス汗の孫フラグに徹底的に叩かれ滅んでしまった。 暗殺教団の拠点は各地に複数あったらしいが、そのうちの一つのアラムート(鷲の巣城)と呼ばれた 遺構はイランのエルブルズ山中にあり、テヘランから1箔2日くらいで いけるらしい。
ルーム=セルジューク朝
小アジアからからアム川までを本家の統制下にあった時代は一瞬で去り、マリク=シャー死後強力に統一されることは無くなり内訌の時代を迎える。
もともとセルジューク族は集権的国家を構成していたわけではなく、アム川を越える以前から 支配形態には封建的傾向が見られた。 セルジューク族がアナトリアへ移住を前提に進出をはじめた1072年以降、アナトリア進出の尖兵となった武将・総督は半独立国家を形成し、本家の宗主権に属す形態をとっていた。マリク=シャー以降の時代は統一より内訌が目立ち始めたということに過ぎない と思える。分裂したセルジューク朝は各地に、特にシリアから小アジアにかけて多くの王朝を打ち立てたが、そのうちもっとも成功した王朝はルーム=セルジューク朝らしい。
小アジアのセルジューク進出は既にマンジケルト以前1048年から行われており、マンジケルト後ニケーア、スミルナ、カイセリなどを中心とする小王朝が成立していたが(サルトゥク候国、マンギュチ候国、ダニュシメンド候国など)、やがてアナトリア・セルジューク国の クルチ=アルスラーン(在1092-1107)が次第に頭角をあらわしてきた。 十字軍が侵攻してきたばかりの最初の段階では敗北を喫し後退したものの、1101年には十字軍を破り、セルジューク本家とも対抗するに至った。 もっとも本家セルジューク朝には敗北し、この結果小アジアのセルジューク朝はコンヤを中心とした小アジア王朝としての基礎作りに腐心することになる。アルスラーンの孫マスウード(在1116-55)は第2回十字軍のフリードリヒ3世とルイ7世を破り、アルメニア、ビザンツ、他の小アジアセルジューク朝に対しぬきんでた形になったが、その子クルチ・アルスラーン2世(在1155-92)は1176年迄に小アジアのセルジューク勢力を統合した。おかげでビザンツ皇帝マヌエルの野望の実現にとって小アジア方面の大きな壁となってしまったのだった(1167年 ミリケファロンにてマヌエル軍を撃破)。 アルスラーン2世の死後ルム=セルジューク朝は分裂するが、幸いにビザンツも混乱期を迎え、ギャースッディーン・カイホスロー(1205-11)が再統一、その子カイカーウス1世( 在1211-1220)はキリキアのアルメニア王国を破りアレッポまで進撃、その弟のカイクバート(在1220-1237)は1190年来十字軍に奪われていたコンヤを奪回し、エルズルム、エデッサまで進出し、モンゴルに追われたホラズムのジェラール ウッディーンをエルジンジャンにて撃破し、ホラズムの小アジア進入を断念させた。 この時代、ルーム=セルジューク朝の最盛期とみなされているらしい。 コンヤを中心に栄えたメブラーナ教団が出来たのもこの頃であったとのこと。メブラーナ教団とは ジェラルディン=ルーミー(1207-77 バルフ出身のペルシャ人らしい)を 教祖とする神秘主義集団で 独特の舞踊で知られているらしい。 本当は宗教的瞑想の為の舞踊なのだが今では公開コンサートみたいなこともやっていて、運が良ければ旅行者でも目にする機会があるらしい。ビデオまで発売されているのでそのうち見たいと思ってます。
モンゴルの到来
ブルガリアと同様ルム=セルジューク朝にも1241年にモンゴルが到来しエルズルムを占領され1243年にはビザンツ・アルメニア・フランク人とセルジューク連合軍がモンゴル軍に敗北。 以後ルム朝はモンゴルのコントロール下に置かれることになってしまう。その後ルム朝は内紛を重ね1308年最後のスルタンの死とともにルムセルジューク朝の命運も尽きたのだった。
本家セルジューク朝の方はマリク=シャーの子供の世代にシリア、イラクと中央アジアに分裂し、中央アジアの本家は1157年にマリクシャーの息子、サンジャル(在1117-57)をもって途絶え、イラクの方も1194年にマリク=シャーの玄孫トゥグリル3世を最後に断絶してしまった。 サンジャルの治世は前半はセルジューク一族の宗家として帝国を統合したが、後半西遷してきたカラキタイに破られマーワランナフルを失った。 サンジャル死後はホラズム総督ホラズムシャーがイランを征服した。 というように、モンゴル進入以前に自壊してしまった形なのだから西アジアを席巻したわりにはあっけなかったような印象をもってしまう。 しかし マリク-シャー以後のセルジューク本家の歴史に関する記述も 簡単には見つからない。どーせモンゴルが来てきれいに洗いながされちゃうから どーでもいいってことだろうか。こういう空白部分は気分悪いので そのうち調べる予定。
(「世界の教科書トルコ(ポルプ出版)第1巻」にマリクシャー以後の時代に関し若干情報が記載されていた)。
セルジューク朝に関するちょっとした疑問
ところで調べが足りなくてわからないことがいくつか。まず「ルム=セルジューク」って言葉は何なのだろう。当時この勢力を人々は「ルム=セルジューク」とか呼んだのだろうか。それとも「ビザンツ」と同じ歴史用語なのだろうか?国号というものは特になかったかも知れないし、西アジアのセルジュークは「セルジュック」とか「セルジュキッド」とか呼ばれたのかも知れないが、小アジアのセルジュークも「ルムセルジュック」と呼ばれたと考えていいのだろうか。 イブン=クトゥルミシュは「ルーム・スルターン」と自称したらしいし、クルジ=アルスラーンは「バシレオス」と称したらしい。 また、ルム=セルジューク朝のスルタンはムスリムなのにルム=セルジューク朝のスルタンの名がイランの伝説王たちの名前になっているのはなんで???
「カイホスロー」とか「カイ・クバート」とか。イランを支配していた本家筋はイスラムっぽい名前(ムハンマドとか)なのに。またルム=セルジュック朝は建築関係では歴史的に非凡な建築物を残しているが、これはどういう形成過程を経たものなのだろうか? どんな才能と技術が融合してなされたものなのだろうか?たとえば建築技術の一つの源はアルメニアの建築技術から来ているのかもしれないが、単純にイスラムとアルメニア技術の融合ということではないでしょう。そのうち調べてみよう。