楚国の上層階層の中の越族貴族集団 昭氏

 

 

 黄懿陸氏の論考「山海経」考古―夏朝起源と先越文化研究」に付録のように掲載されている論考の紹介。

 

 結論を先に記載すると、越人は現在の壮族の祖先であり(つまりタイ系)、戦国末期の楚国にいた昭氏とは、古代越語で、王や首長を意味する言葉だったとされ、前4世紀末の楚による越の併合は、楚国内に越人の支配秩序を丸ごと取り込んだ。昭氏という貴族集団は、その越人の領袖だった、とする主張。「昭」を古代越語で解釈する論述に、発音記号が記載されていないのが残念だが、南詔の「詔」とも通じるとの主張なので、「シャ」というような発音だったのかも知れない。これだと、古代ペルシアの「シャー」にも通づることになるなぁ、と茶化してみたくなるくらい、典拠が乏しくアイデアだけを展開する記述なので、最初はトンデモ本に近いと思っていたのだが、古代越人語がタイ系言語だったという、壮族の学者の韋慶穏が1981年に発表した「越人歌と壮語の関係試探」(「民族語論文集」所載「中国社会科学出版社)についてを知るに及び、トンデモとは言い切れないかも、と思うようになった(古代越語とタイ語の関係は、「越人歌」の記事にて紹介)。

 

 黄懿陸氏は、まず越人歌原音記載文中の、「王」という言葉に注目する。越人歌原音記載の2段目の「州」と4段目の「昭」は王の意味として翻訳・解釈されていることを指摘している。更に、「新唐書」の「南蛮上」に登場する南詔の「詔を王と為す」の「詔」と同じで、現代タイ語の姓にある、「召」や「刀」と同じと解釈し、百越(黄懿陸氏は、越は百越のひとつで、越語と百越語は同じだとしている)語の「昭」を継承していると考えるわけである。

 

 続いて、楚国が越を滅ぼした*1後、楚国内に昭氏が台頭したこと、「昭」の字が王や支配者、リーダーを意味していたとの論証を行っている。以下順を追って紹介する。

 

*1 史記・越世家や竹書紀年などから、前333年または334年と算出されている。一方「韓非子・内儲説下碌微」には、前306年と解釈できる記載があるとのこと。黄懿陸氏は、この説を引用し、越を滅ぼす戦争は、懐王の19年に開始され、23年(前306年)に終了したとしている。

 

1)昭氏台頭

 

昭陽

 

    大臣。懐王(前328-299年)時、官職は上柱国、爵位は執圭となる。前323年襄陵に魏を破り、8城を得、斉攻めに移る。

 

昭応

 

    将軍。懐王時、韓を攻め、一月かからず城を落とした。(戦国策・史記)

 

昭常

 

    大臣。前299年、懐王が秦の人質となっている時、斉に人質で送られていた太子が、楚の東の500里の領地と引き換えに楚に戻って頃襄王として即位した。約束は反故にされ、大司馬として、昭常が守りにあたった。(戦国策)

 

昭盖

 

    大臣。頃襄王の約束を履行するよう、斉から使者が来たとき、昭盖は、秦に出兵させて領土を保全した。(戦国策)

 

昭睢

 

    懐王時代、斉、秦に対抗し、韓を助けた。前299年、懐王が秦に人質となったとき、諸大臣が、庶子を王に立てる相談をしていたところ、斉に人質となっていた太子を立てるよう反対。王が死んだと偽って太子の期間を実現させた。秦軍を重丘(現南陽)で破った。、(戦国策・史記)

 

昭鼠

 

    将軍。懐王時代宛(現南陽)の尹となる。秦が楚に攻め込んだ時10万の軍を率いて漢中に駐屯した。

 

昭釐

 

    威王時代(前339-320)年の大臣(呂氏春秋)

 

昭奚恤

 

    宣王時代(前369-340年)に江(河南正陽)に封じられ、江君奚恤とも言われた。令尹(楚の宰相)として、宣王、威王、懐王に仕え、前353年、魏が邯鄲を破って、趙が支援を求めてきた時、王に、魏を支援するように勧めたとされる。前310年、魏の宰相、田需が死去した時、楚は、張儀、公孫衍、田文が相となることを恐れ、魏王に、太子を宰相とするように勧めた。

 

 

 以上、史記の「楚世家」を読んでいても、昭氏は、この時代以前には見られない。また、越を滅ぼす戦争は、懐王の19年に開始され、23年に終了したとされる。従って前306年を境に、多くの昭氏が楚史に登場してくることになったと見て取れる。

 

 

2)リーダーとしての「昭」

 

 

① 庄蹻

 

 戦国末の楚には庄蹻という人物が2人登場している。一人は滇の征服に赴き、秦が楚を攻めた折に帰れなくなり、留まって滇王となったとされる人物。もう一人が、人民蜂起の領袖とされる人物である。この蜂起は、頃襄王即位時に、斉に分け与えると約束した東方領土で引き起こされたと、本書の著者は仮定している。前出の昭常が、問題の東方領土を守りに赴任したことと、昭常と、庄蹻が同じ発音であることが、その論拠とのこと。もともとこの地は越人の土地で、斉への分割に反対だったことから、越人の不満が爆発して反乱となった。そのリーダー階層にいた昭常が派遣され、そのまま反乱のリーダーとなったという見解。因みに黄氏は、同一人物の確証は無いが、後年、滇に派遣された庄蹻は、反乱の指導者の庄蹻と同一人物で、当時東地にいた30万の越の軍人のうち、10万を従えて西南遠征に向かったとまで考えている模様*2。

 

 *2 本書の著者は2004年に、「滇国史」なる書籍を雲南人民出版社から出している。

 

 昭の字が越語で王を意味する可能性がある点は、越人歌の解釈から出てきたわけだが、「朱」の字がリーダーを意味し、昭と同音である、と推定して論を展開してゆく。

 

② 朱余

 

 「越絶書」に、「朱余、塩官也、越人謂塩為余」と出てくることから、塩=余 だから、官=朱 であり、本来、塩官=余朱 という語順にならなくてはならないところが、「朱余」と順番が逆転しているのは、後置修飾をとるタイ語系の特徴であり、「朱余」は越語の可能性がある。また、朱は古代音において、周、諸と音が近く、周や諸とは、越国の王や上層階層の人の名前として登場している。この点からも、朱余が「塩の監督官」という意味を持つことから、朱はリーダを示す言葉であり、朱余は越語として解釈できる、としている(修飾語が後置詞だというだけでタイ語と断じてしまうのはどうかと思うが可能性はゼロではない、程度には言えるかも知れません)。

 

③ 越国諸臣の姓

 

 続いて、周章*3(呉と越は同属とされていることから)、周繇、呉王諸樊、越王朱句、(州句)諸咎、勾践の家臣諸鞅、句町王弟周承、閩越王無諸(史記・東越列伝によれば、その姓は騶とされ、これも昭と同音とされている)など、呉越の王族に諸、朱、周が多いことが指摘され、呉越にあっては、リーダーを意味する同じ言葉だったと考えるわけである。

 

 *3 呉国第5代

 

④ 遺物の銘文

 

 湖北省江陵望山1号墓から出土した剣の銘文に、「越王鳩浅自作用剣」の文字があり、これを勾践のものだと仮定し、史記において、勾践が句践とも騶践とも書かれていることから、句=勾=騶=鳩 を同音と見なすことができる。

 

以上の昭氏台頭と昭音の分析合わせて5点及び越人歌を含め6点の根拠を元に、州=周=朱=昭=句=勾=騶=鳩=諸 は、同じ言葉であり、越語においては、王、王子、リーダー、役人などを意味する言葉である、との仮説を構築している*4。

 

*4 「大明山的記憶 -駱越古国 歴史文化研究 -」にも朝、趙、昭がリーダーの音だったとする論考が掲載されている。

 

 

参考資料

 《山海经》考古——夏朝起源与先越文化研究(黄懿陸著)民族出版社2007年8月

-「大明山的記憶 -駱越古国 歴史文化研究 - Research on the Historical and Cultural of Ancient LuoYue」(広西民族出版社)」

-「揚雄≪方言≫輿方言地理学研究(李恕豪著 巴蜀書社(四川師範大学文学院学術叢書)2003年)

 

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