2015/Dec/8 created

スペイン・メキシコ歴史映画『Yo, la peor de todas(ソル・フアナ・ イネスの伝記映画)』(1990年)

 1990年アルゼンチン製作。17世紀メキシコの女性詩人、ソ ル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス(1651-1695年)の伝記映画です。日本では知名度は非常に低い方で すが、欧米では有名な方のようで、Wikipediaのスペイン語の記事は11万バイト、英語記事も2万2000バイトあり ます(2015年9月現在日本語の記事はない)。11万バイトという記事のサイズは、松坂大輔(9万3000バイト)や、田 中将大(8万4000バイト)の日本語記事を上回っており、フアナの知名度を推し量ることができるかと思います。フアナは、 スペイン人貴族の出身とか、富裕な地主の出身というわけではなく、スペイン人将校と現地クリオーリョの間に生まれた私生児 だった、とされているとのこと。独学で知識を身につけ、近世スペイン文学黄金時代の一端に名を連ねる存在となったようです。 一応日本でも著作の翻訳や伝記著作は出版されていて、以下の2冊が出ています。

・ソル・フアナ・イネ ス・デ・ラ・クルスの生涯―信仰の罠、オクタビオ・パス著,2006年,土曜美術社出版販売
・知への賛歌――修 道 女フアナの手紙 (光文社古典新訳文庫) ソル・フアナ著、2007年、光文社

 映画では、貴族の娘でもない女性が学問を身につけ、更に学問を深めようようとすれば、修道女になるしかなく、しかしそこで も、男性女性双方の教会人から様々な圧力を受け続けなければならなかった、という様子が描かれています。

 映画の題名の「Yo, la peor de todas」はスペイン語で、英語題名は、「I,the worst of all(この私、世界で最悪の者)」、著作の内容が反宗教的だと教会に批判され、遂に屈し、告解状に自らの血で書かせられた 言葉です。この結果、フアナは、その著作、所有する書籍、研究用具など、全てを取り上げられ、失意のまま歿してゆくことにな ります。

 このように、全体的に暗い内容です。殆ど室内だけで進行し、窓から入る逆光の場面が多いのも、全体の暗さを強調していま す。唯一の救いは、スペイン本国から赴任してきた総督夫妻がフアナの理解者で、フアナの活動を弁護し、保護してくれた時期で す。フアナの人生で最良の日々だったといえるかも知れません。しかし、総督の本国帰任により、よき日々は終わります(映画の 中では名前は登場しませんが、総督は、Tomás de la Cerda, 3rd Marquis of la Laguna(1638-1692年:総督在 任1680−86年)、夫人はMaría Luisa Manrique de Lara y Gonzaga(1649-1729年)です)。

〜あらすじ〜

 アメリカ大陸のスペイン領(ニュー・スペイン)のメキシコ市に新しく赴任してきた総督は、同時に新任であるメキシコ市の大 司教と会談し、さりげなく、皇帝(世俗)と教権(宗教)の協力が必要不可欠だ、と強調する。

 メキシコ市にある聖ヒエロニムス女子修道院では、新総督からの手紙が全修道女の前で読まれる。新総督とその夫人が近々訪問 するとのこと。ついては、”十番目のムーサー(ギリシア神話の楽芸の女神)”と称されるフアナ・イネス・デ・ラ・クルスに会 いたく、更にフアナ演出の修道女達による演劇も見てみたいと記されていた。

 修道院を訪問し、観劇し、劇に感動した総督夫妻は、フアナの才能と美貌を褒めるが、一緒に見学に来ていた大司教は、「ここ は修道院ではなく売春宿だ」とおかんむり。下左の右側が舞台で、劇が終了し、フアナが舞台の先頭に進み出て観客に挨拶する様 子。下右は総督夫妻(右が総督、左が夫人)。



 新任の挨拶に修道院にやってきた大司教は、面会した修道院の院長らに、修道女が顔を出すことも、規則違反だととがめる。そ して、新任大司教の方針として、綱紀粛正を言い渡すのだった。ヴェールをおろした修道女は、まるで現代イスラームの一部の民 間で今なお用いられているブルカの様である。



 現在の修道院長が寛容なのを知った大司教は、現院長任期終了を利用して、ウルス ラという、フアナに敵意を持っている厳格派の修道女を新院長にしようと画策する。現院長は、フアナに立候補するよう 促すが、詩を書いていられれば満足だとフアナは断る。

 総督夫人はが面会に来る。以下のように、面会室は鉄柵で区切られ、まるで刑務所の面会室のようである。



 フアナは、3歳の時から本を読み、20歳で修道院に入ったことなどを話 す。総督夫人は、規則に縛られている修道女のフアナと、儀礼に縛られている自らの境遇を重ね合わせ、フアナ に共感する。

 外部の世俗の人間は、面会室でしか修道女と会えないことになっているが、総督夫人は、密かに直接フアナの 部屋を訪れてくるようになる。以下は図書室。殆どフアナ個人の蔵書のようになっている。カトリックで禁書と されている本も沢山ある(映画の中では、総督夫人が、「人びとは新大陸最大の蔵書と言っている」と言ってい る)。禁書を見て、異端審問を心配する総督夫人。



 総督夫人は、異 端審問(アウト・デ・フェ)をマドリッドで目にしており、その様子−浮浪者、売春婦、狂人、ユダヤ人た ちが生きながら焼かれた−をフアナに語り、本気で心配しているのだった。

  総督夫人は、これまで3度子供を失っていて(流産か死産か幼年で子供を失っていたのかは不明)していて、子供が いないことを悲しんでいる。子供がいないことはさびしくないの?と問いかける総督夫人に対し、フアナは、自ら製作し た望遠鏡、日時計、天球儀、自動人形、未来と過去を見る黒曜石の鏡、竪琴、自分の著作などを見せて、これらが私の子 供ですから、寂しくなんかありません、と返す。下左は、書斎で著作に励むフアナ。右は、知識人の男性たちと面会室で 鉄柵越しに歓談するところ。フアナも男性人も、紅茶と思われるものを飲んでいる。




 さて、次期修道院長には、賄賂、陰謀等の手段を通じた結果、全修道女の投票が行なわれ、フアナに敵意を持っているウルスラ が新院長に選出される。新院長は、早速修道女達の無駄な所有物を供出させる。フアナのところにも供出を指示しにやってくる が、丁度フアナの部屋に総督夫人いて、反論してくれたおかげで、所有物を没収されずに済んだ。以下は、天体観測をするファ ナ。



 (しばらく後)総督夫人に男の子が誕生。修道院をあげて喜ぶ。フアナもうれし泣き。総督夫人が赤子を連れて遊びに来た時、 フアナは、大学入学を拒否された時のことを語る。試験では、イエズス会の聖イグナティウス・ロヨラの『霊操』について ロヨ ラはいつ書いたのかを訪ねられ、ロヨラが書いた頃は、イエズス会はな く、彼は聖人でもなく、そもそも名前もイグナティウスではなく、イニゴでした。書きはじめたのは1532年です。と答える。並み居る博 士たちは拍手して感心する。回文について質問された時は、"able was I ere I saw Elba"と答え、サベリウス主義について回答した時は、盛大な喝采を受けた(この回文は、ナポレオンの逸話とされているらしいので、実際には時代錯誤と なる)。



 そしてロマンスもあったことを回想するのだった。

 修道女一同ホールで聖歌を歌っている時、ウルスラの命令を受けた数名の修道女が、フアナの書斎に忍び込み、フアナが作成し た詩を写し、大司教に渡す。大司教とその配下の聖職者達は内容を議論し、フアナの告解担当者であるミランダ司祭は、単なる詩 だとフアナをかばうが、他の司祭は淫らで官能的だと否定的で、結局図書室が鉄の棒で封印されてしまう。フアナはショックで寝 込んでしまうが、今回は総督の 命令で封印は解かれる。その代りに、全ての図書が検閲され、パスした本には検閲済みの印鑑がおされ、駄目な本は没収となる。「本がなければ、生きていられ ない」訪れた総督夫人に、フアナはそう告げる。

 下左は、総督の息子。城を形作る積み木で遊んでいる。右は総督夫人と息子がボール投げをして遊んでいるところ。そこに総督 がやってきて、総督を解任され、マドリッドに召還されることを告げる。



 総督はフアナのもとに離任の挨拶に来て、妻がフアナの著作をマドリッドで出版したい旨許可を申し出る。総督は言 う。「あなたの著作を出版する名誉をいただけないだろうか」「あなたが行くところは、妬みが生まれる、どうか気をつ けて」



 フアナは著作の一部を柩に詰めて総督夫人に贈る。一方、検閲却下となった書籍は焚書されるのだった。

 ある日、チマルワカンから、母危篤との通知が来る。実家に戻り、寝込んだ母親の元で、子供の頃の回想をするファ ナ。母とはあまり仲はよくないようである。9歳の頃、男装していて母親に怒られた記憶がよみがえる。以下は、将来大 学にいくためと称して男装した9歳のフアナ。画像は暗くてわかりにくいが、笑顔が印象的。


 フアナは父親の名を知らなかったようで、母親は多数の男と浮名を流したようで、 誰が父親なのかわかっていなかったらしい。本当の父親の名を母に問いただすも、母親はそのままなくなってしまう。葬 儀に立ち会うフアナ。

 修道院に戻ったフアナには大問題が降りかかってきた。シスターFilotea de la Cruzという偽名で、フアナの出版されるはずのない著述が出版されたのだ。その内容は神学について語っており、フアナが書いたことは関係者であれば直ぐ わかるものだった。フアナと懇意にしていた筈の司教サンタ・クルズが、フアナとわかるような匿名で出版したのだっ た。

 大司教とサンタ・クルズ、ミランダが面会にやってくる。弁明書を提出するフアナ。しかし受け取ってももらえない。 「神は哲学するために女を創造したのではない」「私生児の世迷言を聞きに来たのでは無い!」とまで言われ、「女が書 いたのでなければ、問題ないわけね?」「いったいどんな啓示が、女を知識から締め出すことをあなたに許可したの?」 と遂にフアナは切れて、大司教の襟首を締め上げるのだった。あんたにとって女は悪魔なのよね。でもあんたの心の中に も悪魔がいるのよ!



 前代の修道院長が死去。これで修道院内でもフアナの味方はいなくなってしまった。

 ところで、これまで何度も登場しつつ影の薄かった人物に、シグェンサ(Sigüenza y Góngora(1645-1700年))という人物がいます。ヒッピー風の怪しいメガネという外 見もしょぼすぎるので架空の人物だと思っていたところ、Wikipediaに結構長文の記事がある人物だということ がわかりました。彼はメキシコのクリオーリョの出の文人・博学者で、フアナが大学を受験した時にも立ち会っていた、 それ以来のフアナの友人です。しかし、権力や政治力も金力も何もなく、教会からも、イエズス会を追放された駄目な人 物と軽んじられ、フアナの力になることは何もできなかったのですが、最後に総督夫人が出版したフアナの著書を、マド リッドで元総督夫人(既に元総督は死去していて、未亡人)から直接受け取り、フアナに届ける役割を果たします。



 シグェンサがメキシコ市に戻った時、市では疫病が蔓延していた。本を届けたシグェンサに、フアナは告げる。「本を 出版するのが望みだった。でももう遅い。総督は亡くなり、いつも友人は死んでしまう。ここは疫病が蔓延しているから 離れた方がいい。さようなら。最愛の友」 こうして最後の友人も去り、フアナはまったくの孤独になってしまう。

 疫病や周囲の理解者の死去などにより精神的に追い詰められてゆくフアナ。そこに付け込むかのように、かつての告解 師ミランダ司教が現われ、これまでのフアナの全てを否定するように誘導してゆく。ついにフアナは、貧者のためにすべ てを処分するようにいわれ、著作、本も、数々の器具も、彼女が子供たち思っていた著作も、大事にしていたメダル(映 画では特に説明はなかったが、ちらりと男性の肖像のようなものが見えたので、若い頃の恋人の肖像かも知れない)も処 分させられ る。十字架以外何もなくなった部屋を見回すフアナ。

 更に修道院のホールで、ミランダ司祭、ウルスラ修道院長、及び一部の修道女達の前で懺悔することになる。苦しげに 懺悔文を読み上げるフアナ。ひとことひとこと読み上げるごとに、彼女の中の何かが失われてゆくように見える。題名の  Yo, la peor de todas(I, the worst of all) とは、懺悔の最後に、自らの血を使って書かされた一文である。



何もない自室で魂が抜けたように呆然と座り込むフアナ。「本がないと生きてはいけない」そう語っていたフアナの人生 は、終わってしまったのだった。最後にテロップが出る。

 「シスター・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス。疫病の後、程なく死去。今日、彼女はスペイン学芸黄金時代のもっと も偉大な詩人の一人だと考えられている」

〜Fin〜

 暗い作品でした。生きる希望を失い、廃人のようになってしまったラストはとても画面ショットを撮る気にはなりませんでし た。フアナが、少女の修道女達への最後の授業で、「目を開いて、耳をそばだてて、全てを知覚して!そして、私のことを忘れな いで」といった台詞が最後まで印象に残りました。

IMDbの映画紹介はこ ちら
Amazonのdvdは こちら(英語字幕あり)

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