揚雄 「蜀王本紀」

 

 前漢時代の四川の学者揚雄作とされる「蜀王本紀」を翻訳してみました。戦国秦に征服される以前の古代蜀王国に関する文献は、前漢末の揚雄作とされる「蜀王本紀」と、西晋時代の常璩作「華陽国志」ぐらいしか無いようです。前者は、揚雄に仮託された、実は晋代の成立と考えられているそうです。どちらも概ね似たような内容なのですが、若干異なっている部分もあります。ネット上には、日本語で読める訳文が無いようなので、とりあえずここで訳してみました。素人の訳なので、間違いがあるものと思います。ご指摘いただけますと助かります。原文はこちらです。(これが、現在に残る全文かどうか、実は知らないのですが、ネット上では、皆同じ部分しか掲載されていないようであることと、読みたい部分は、秦に征服される前の古代蜀だったので、仮にこれ以上の部分が残っていたとしても、訳の対象は、古代だけになると思います。また、様々な文献に、逸文が散っているので、ここで参考にしたテキストとは異なる文章もあるようです(例えば末尾の注9を参照)。(これを作成した後、「中国古典小説選 1 漢・魏 (1) 」(明治書院:2007年7月)に「蜀王本紀」和訳が翻訳されていることを知りました。そのうち内容を照会してたいと思います)

 

 蜀王の名は、蚕丛といい、次の代の名は、柏濩といい、その後は鱼凫という。この三代は各々数百歳を生きて、皆神と化し、不死だった*9。その民は、いつも王が行くところに従った。鱼凫は湔山に狩猟に行き、仙人となった。現在廟は湔水にあって祭られていて、その時は蜀の人々は少なかった。その後、一人の男子がいた。その名を杜宇といい、天より落ちてきて朱提*10に留まった。また一人の女子がいて、その名は利といった。江源*11の井戸の中から出てきて,杜宇の妻に娶った。その後、自立して王となった。その称号を望帝と称した。汶山の小さい県を治め、そこは郫県と言われ、人々の往来が激しかった。

 

 望帝は年を重ねて百歳あまりとなった。荆州*12に一人の人がいた。その名は鳖霊といった,その死体は亡無くなってしまった。荆人はこれを探したが、見つけることができなかった。鳖霊の死体は江水*13に沿って上流へ向かい、郫に至った。遂にそこで生き返った。望帝に謁見し、望帝は、鳖霊を相とした。その頃、玉山で、まるで尧の時の洪水のような洪水があった。望帝は治めることができなかった。鳖霊を玉山へ派遣し、民は安寧を得ることができた。鳖霊が治水の為に出かけた後、望帝は、鳖霊の妻と密通した。帝はこれを深く後悔し、自ら德が薄く、鳖霊のようではないと知り、国を委ねて授け、去った。尭が舜に禅譲したように、鳖霊が即位した。開明帝と号した。帝は蘆保に生まれ,開明とも号した。

 *12 現湖北省 *13 長江

 望帝が去った時ホトトギスが鳴いた。よって蜀の人は、ホトトギスが望帝を思って鳴くのだと悲しんだ。望帝は杜宇のことである。天より堕ちた人である。

 

 開明帝から五代下った子孫に、開明尚がいた。彼は帝号を止め、再び王と称した。天は蜀王の為に五人の力士を生んだ。蜀の山を動かすことができ、王には五丁以上のものは無く、彼らは、大石を易々と立てることができ、長さが三メートル、重さ千鈞*1もある、石牛と言われたもので。千人では動かすことができず、1万人でもずらすことさえできなかった。   

*1 3トン

 秦惠王の時代に、蜀王が秦に降参しない為、秦は非道にも蜀に出兵し、蜀王は1万人以上を率いて東の褒国の谷に狩猟にでかけて、秦惠王にあった。秦王はひと篭の金を蜀王に与えた。蜀王は礼物を返礼に送ったが、礼物は、尽く土になった。秦王は大いに怒り、臣下は皆恐れおののいてかしこまった。賀は、「土は土地のことである。秦は蜀の地を得ることができた」と言った。

 

 「秦惠王本紀」*2では、次のような話を伝えている。秦惠王は蜀を討とうと考えていた。そこで石で5つの牛を作成した。その後ろに金を置いた。蜀の人はこれを見て、金の便をすることができる牛だと考え、牛の下には世話人もいた。このため、これは天牛であり、金の便を生むと考えられた。蜀王は,直ぐに即千人の兵士を派遣することを許可した。五人の力士を使って牛の為に道を整備させ、成都の三枚に至った*3。秦は道が通ることになった。石牛の力によって。その後、丞相張儀達は、石牛が作った道を通り蜀を討伐した。  

*2 司馬遷「史記」の秦惠王本紀だと思われる。

*3 三枚とは地名だと思われるが、他の訳が正しいのかも知れない。

 

 武都の人で善知という人がいた。蜀王は、その妻を蜀へ引っ越させた。蜀に居住した後、そこの風土に合わず、帰りたがった。蜀王は彼女を愛していたので、留め置いた。《伊鳴声》という六つの舞踊曲を作った。

 武都の夫は女となった。美しく山々の精と言われた。蜀王は彼女を娶って妻とした。風土習俗が合わず、病を得て帰りたがった。蜀王はこれを留め置いた。幾ばくもせずに帰らぬ人となった。蜀王は兵士を出して武都の土を持ってこさせ、成都の城内に埋葬した。大よそその地は、180平米*4、高さ7メートル*5、武担と言い、石で一枚の鏡を作ってその墓の表に置いた。鏡の幅は1メートル、高さは120cm程だった。

*4 1亩は60平米

*5 1尺=前漢22.5cm、後漢代23.04cm、三国時代=24.12 (ここでは、晋代成立と想定して、24.12cmを採用)、 1丈=10尺

 

 こうして、秦王は、蜀王が好色であることを知り、5人の美女を蜀王に送った。蜀王はこれを愛し、五人(の力士)を送って女達を迎えさせた。梓潼に達する前に,一匹の大蛇が山の穴に入っていった。力士の一人がその尾を引っ張ったが出て来なかった。五人の力士が一緒に引っ張った蛇ところ、山が崩れ、五人の力士は押しつぶされた。五人の力士は踏みとどまり大声を上げた。秦王の五人女とその迎送者は、皆山の上で石となった。蜀王は露台に上り望み見たが、美女達は来なかった。そこで、これに因んで「五婦侯台」と名付けた。蜀王自身で埋葬して塚を作り、皆そこに沢山の石を積んだので、それが墓の目印となった。

 

 秦惠王は張儀を使者に送り、司馬錯は蜀を討伐した。開明王は戦争を拒み、形勢が不利とあって武陽へと敗走し、捕らえられた。 張儀は蜀を討ち、蜀王開明は戦いに勝てず、張儀の為に滅亡することになった。秦王は蜀侯の惲を誅殺した。その後、埋葬する為に咸陽に迎えたが、三ヶ月の間雨が降って道が通じなかった。そうしたこともあり、成都に埋葬した。

 それ以来、蜀の人は雨を求める時、蜀侯に向かって祈願する祭祀を催すようになった。

 蜀王は鹦武舟と呼ばれる船を持っていた。

 秦は一万もの太白船*6を用意し、楚を攻めようとした。

*6 太白は、漢中の北にある、太白県のことかも知れない。太白県で作られたから太白船という名称なのかも知れない。

 秦は一万もの船を用意し、楚を攻めようとした。 秦の襄王の時、宕渠郡が、背の高い人を献上した。その高さは、7m48cmあった。

 

 禹は、もともとは、汶山郡広柔県の人であり,石纽という土地に生まれ、その地は痢儿畔という。禹の母はその滴を飲んで禹を身ごもった。腹を割いてその県に生まれた。涂山で妻を娶り、子を生んだ。启(啓)と名付けた。現涂山には、禹の廟があり、また、その母の為の廟も立っている。

 老子は、税関の役人*7である尹喜の為に書「道德経」を著した。別れにあたって言った。曰く、「あなたは千日後、道を行って、成都の青羊肆にいる私を尋ねるだろう」。現在の青牛観がこれにあたる。

*7 原文「司関」 (「周礼」に掲載されている、「地官」に分類される、周代の役職.。こちらを参照。函谷関という説もあるらしい)

 

 江水に水害があった為に,蜀守の李冰*8は、石で作った犀を五つ製作した。二つは府中にあり、一つは市の橋の下に置いた。水の精を追い払うために二つは水中に置いた。このことに因んで、石犀の里と言われるようになった。

*8 李冰についてはこちら

 李冰は秦の時代に蜀守となった。汶山といわれる山に、天彭闕という場所がある。天彭門とも言う。死者は、悉くその中で過ごし、鬼神の精霊が数多く見られる場所だった。。

 県政庁の前に、二つの石があり、それは闕のような形をしていたため、彭門と呼ばれた。

 宣帝地節年間(前69-66年)に、塩の井戸を数十所で開鑿をはじめた。

 

*9 この冒頭の部分は、「全漢文」という書籍の第53巻に引用されている「蜀王本紀」の逸文に、次のような一節があるとのこと。

 蜀之先称王者蚕叢,柏滴,魚島,開明,是時人萌椎髺左衽,不暁文字,末有礼楽。従開明以上至蚕叢積三万四千歳。

(蜀の先の王は、蚕叢,柏滴,魚島,開明といい、この時の人は、椎髺(,錘形の髪型。この時代の、南西民族の青銅器遺物の人物像によく登場している)をして、左前に服を着て(北方とは逆)、文字に通じず、礼儀や音楽といったものは無かった。開明からさか上って蚕叢に至るまで3万4千年だった)

*10  現雲南昭通

*11 現江源(成都の南)

□ 参考ー 三星堆遺跡・金沙遺跡の遺物の紹介はこちら

 

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