トラキア時代について
‐トラキア人はインド人についで、世界で2番目に大きな民族である
というヘロドトスの「歴史」に出てくる文言がソフィアにある歴史博物館のトラキア時代コーナーの壁
にでかでかと掲示されていました。
「歴史」のどこに出てくるのかまでは確認してはいませんし、ペルシャ人、スキタイ人、エジプト人、フェニキ
ア人を越えてトラキア人を2番目に持ってきた真意も
分かりませんが、その意外に長い歴史を見るとき、2番目と形容される可能性も人によってはあったのかも、と
も思えます。
トラキア人は紀元前12世紀頃から東南ヨーロッパで頭角をあらわし、前6世紀頃から社会に発展、強
力な部族、王により統合されていったらしい。
その有名なものには オドリュサイ族の王国があり、テレス(前5世紀前半)、シタルク1世(在前
440‐424)の時代から
コティス1世(在前393‐359)の時代が最盛期となるらしい。
マケドニアの勃興で衰えるが、 バルカン山脈とスレッドナ・ゴラ山脈の間の現在「バラの谷」とよば
れる地域を中心に
前320年代から300年頃セウテス3世が勢力を持ち、セウトポリスと呼ばれる都を造成し繁栄を誇った。
セウトポールの遺跡はカザンラック近くにあり、宮殿の柱の跡が残っており、まるで日本の古代遺跡みたいであ
る。しかし現在は湖に水没してしまったとのこと。
現在トラキア人の遺構はブルガリアに幾つか残っている。 もっとも有名なものはセウトポリス近郊、現カザンラック市郊外のトラキア貴族の墓であり、この壁画は世界文化遺産となっている。 他に南部のメゼック村郊外、 ラズグラッド東方スベシュタリ村(確かこれも世界文化遺産)、ポモーリエ近 郊などに墓の遺構が残る。 またプロブディフの現在19世紀の建築物街のあるネベト=テペや カビレの山の上には トラキア時代の砦 跡がある。
現在のブルガリアの都市は その起源をローマ‐ビザンツを通じてトラキア時代の集落に遡るものも多 い。
トラキアで一つ特色的なのは、オルフェウス教の存在である。黄泉の国神話で日本のイザナギ・イザナミ神話と共通点の多いオルフェウス神話に一つの象徴が見られるオルフェウス教は トラキア人の宗教社会の重要な構成要素である。 ブルガリア南部のロドピ地方は 独特のコーラスで有名であるが、 これは楽神オルフェウスの系譜を引くも のとされ、ロドピ山系中の盆地にあるスモーリャンはオルフェウスの里とされている(ま、町おこしのノリに近いものもあ るかも)。
トラキアは15年バルカン山脈北がまず ローマ支配化に入り属州モエシアとなり、 紀元46年、南のトラキア平原が属州トラキアとなった。 トラキア人はラテン語、あるいはギリシャ語を身につ け、ギリシャ人、次いでスラブ人の到来により スラブブ人に吸収されていったが、 スラブ到来でも山間部せ生活していた人々には スラブ化されず 現在に 至っている民族もある様である。