中世ルーマニア歴史映画「ヴラド・ツェペシュ」第一部

  1982年ルーマニア製作・中世末期ルーマニアの英雄ヴラド3世の絶頂期 (1456-1462年)を描いた「ヴラド・ツェペシュ」。

  この作品は結構大変でした。映像はルーマニア語で字幕が無かったのですが、英語字幕のsrtファイルがネットにあったので、それ を参照することで台詞はだ いたい理解できたのですが、台詞はわかっても内容は殆ど理解できないのでした。細かい地名と、当時の重要な経済・商業的な政争と いう背景が理解できていな かった為です。そこで、ヴラド三世の伝記本「ドラキュラ伯爵 −ルーマニアにおける正しい史伝」 ニコラエ・ストイチェスク(鈴木四郎・鈴木学訳・中公文庫)を購入したのですが、これが思いのほかしっかりした内容の濃い史伝 で、映画で描かれている 1456-62年の部分を読むだけでもかなり時間がかかりました。ひとつわかったことは、ヴラドの治世を理解するのは、外国人 が、戦国時代後半の政治・経 済概説本を読まずに、いきなり織田信長の伝記を読むようなものなのかも。と思いました。映画に描かれている内容は、ルーマニア人 なら、地名や人名の予備知 識があるので普通に理解できるのだと推測します。今回の記事は、映画で描かれている内容の意味を解説する注釈をだいぶ入れました が、恐らくそれでも説明不 足なのではないかと思います。

 取りあえず頻出する地名をGoogle Mapから持ってきました。下記地図は、クリックすると、720x590ビクセルに拡大できます。赤線の引いてある地名が頻出する地名です(地図は Google Mapから)。

下 記は1301-1437年のトランシルヴァニア地図。青い部分がセーケイ人(トランシルヴァニアのハンガリー人)が支配的な県。 ピンクの土地はドイツ人が 支配的な県。その他がルーマニア人の県(ハンガリーの「TŐRTÉNELMI VILÁGATLASZ」(歴史アトラス)KALTOGRÁFIAI VÁLLALAT(ワールドビジネス地図出版社 1991年、ブダペスト」p111より)。

 映画冒頭の部分で、ヴラドの称号が披露されます。それは、

「タタールの領域の山々を越える領域の全Ungro-ワラキア*1のミルチャの公、Severin のバーナート地方の公、ドナウ河の両岸から巨大な海(黒海のこと)に至る地域とAmalas(アムラシュ)とFaragas(ファガラシュ)の王子、そし て、Dirstor城の単独支配者」

 という称号です。*1のUngro-ワラキアとは、現在のルーマニアのドナウ北岸地方の、所謂通常 のワラキア地方のことで、現ギリシアにあるテッサロニキ−ワラキア公国と分けて認識する為に、ウンガロ-ワラキア(ハンガリーの ワラキア)と称したようで す。Severinとは、地図右下の、赤い点線に囲まれた部分に相当する、ルーマニアの現Caraș-Severin州のこと。地図左下のドナウ河が北に向けて突き出てい る部分(地図上のストレハイア)の付近に、古代都市Severin(ローマ皇帝トラヤヌスが橋をかけたトゥルヌ・セヴリン)が あった)。

 バーナート地方とは、現在のルーマニアのセヴリン州とハンガリー南部のセゲド、セルビア東北にまたがる広域地方名。中世ハンガ リー王国、およびハプスブルク治下のハンガリーが常に南下しようとした地方。

 ドナウの両岸と言っているのは、14世紀末にオスマン帝国に征服されたブルガリアを含むという意味であり、Faragasは地 図中央付近にあるファラガシュ。Amalasは、その西にある現在のメディアシュ付近。Dirstor城は調べがつきませんでし た。

 上記地図の左上の赤線地点、現サラウは、トランシルヴァニア諸侯の中のフニヤディ派の首領ミハイ・シラージの拠点であるシラージ(映画ではシラギと聞こえる)の拠点地域(現サラージュ県)。オスマンの使節と国境について争点となるGiurgiu(ジュルジュ)は、ブルガリアのドナウ河に面した都市・現ルセの対 岸の都市で、現在はルセとの間に橋がかかっているルーマニアのドナウ南岸の都市。

 東方のブライラは、映画の終わりの方でオスマン朝に攻め落とされ、ヴラドがワラキア公を降りることになる事件の舞台となった場 所。中央南のトゥルゴヴィシュテは近世ワラキア公国の都(1396年から1714年)だった重 要地点。そして映画冒頭では、ヴラドはトランシルヴァニアにいて、トゥルゴヴィシュテに入れない状況で、ブラショフはワラキアの 支配下には無かったとされています。

 以下あらすじの紹介です。




 ハンガリー史上の英雄ヤーノシュ・フニアディ侯の死後、ミルチア老公の子孫達と有力貴族たちは権力争い に陥り弱体化し、侵略者の餌食になりやすい状況となっていた。

  冒頭、山麓の山の斜面を行くヴラド一行を騎士が呼び止める。「タルゴヴィシュテから来た。われわれはヤーノシュ・フニヤディのと ころへゆく。彼の支援が必 要なのだ」というヴラド一行。騎士は「Ivancu(ヤーノシュ)の司令官の元に案内する、彼が決めるだろう」と答える。そして ヤンコ(ヤーノシュ)が死 んだことを知る(1456年)。その騎士はヴラドに協力を約束し、トランシルヴァニアの兵を集めると約束する。3000人のルー マニア人で十分だ、とヴラ ドは答える。

 そして進撃するヴラド軍を背景にオープニングクレジットとなる。

 ヴラド軍が突撃したのは、ワラキア貴族 達の連合軍だった。しかし迎撃は形だけで、ヴラドに本気で抵抗しようとしていたのは貴族の一人だけ。その一人を、別の貴族が背後 から殺す。そこで抵抗は終 わり、ヴラドは敵陣営に到達する。そこでヴラドは訊く。彼を殺したのは誰だ?そして名乗り出た貴族を逮捕する。「何故だ、俺がや らなくてもお前がやったろ うに」、と問う貴族に、ヴラドは答えるのだった。

 「私は彼に忠誠を誓っていたわけではない」

そして全軍槍を突き上げ歓呼のもと、ヴラドへの忠誠を誓うのだった。山々にこだまする鬨の声。

宮廷に入るヴラド。「ミルチャ以来、何人がこの椅子に座ってきたのかな」と宮廷に集まった諸侯達に尋ねかけるヴラド。 6,7,8、10と諸侯の答えはバラバラ。

ハンガリーに臣従して以来50年、そして今はメフメトに貢納し、二人の支配者(ハンガリーとオスマン)の召使となっている。お前 らの無思慮な行動の結果がこのざまだ。ミルチャの後、お前らが支配し、お前らが公を変えてきた!

ワラキア公の椅子に腰掛けたヴラドは宣言する。

・死を宣告されたものは取り消され、逮捕されたものは解放する。
・今後、盗み、強姦、嘘、裏切りは斬首する。

ここでヴラドは、自らの称号を、

「タタールの領域の山々を越える領域の全Ungro-ワラキア*1のミルチャの公、Severin のバーナート地方の公、ドナウ河の両岸から巨大な海(黒海のこと)に至る地域とAmalasとFaragasの王子、そして、Dirstor城の単独支配 者」

と名乗る。続いて、"Armashia".を設置する。今日のところはそれだけだ。と「アルマシア」という新しい幹部職を任命し て終わる(これに任命されたのが、冒頭ヤノシュに会いに行くヴラド一行を呼び止めた騎士)。

 風呂に入りながら、アルマシアに今後の作戦を命ずるヴラド。

 私に知らせずに勝手に物事を運ばないように、とも釘を刺す。既得権保持に走る貴族はどうするんですか?と問うアルマシに、1本 の剣を与える、しかし注意しないと、それは両刃の剣となる。成功すれば良し、さもなくばお前の首が最初に落ちるだけだ。と回答す るヴラド。

 一方で、ヴラドに不満を持つ貴族達が食事をしながら相談している。ヴラドのことをくさして、
「彼は初めて鞍をつけられた子馬のようなものだ」「望みもしない戦争に借り出されてたまるか」と口々に不満を述べるのだった。

 夜、追いはぎやられた遺体が発見される。護衛は何をしていたんだ?護衛を倍にしよう。と家臣がいっている。
翌朝、農民たちが稲刈りをしている。ヴラドが馬で立ち寄る。護衛も無しに危険だと家臣達が追いついてくる。

 続いてヴラドは諸侯を召集する。時刻になっても揃わない諸侯にヴラドはいらだちを見せる。アルマシアは、彼らは遅れてくるのが 習慣です、と弁明する。この場面の宮廷は、前の場面よりも広い宮殿。

習 慣だと!と怒鳴るヴラド。そこに3人のブラショフからのドイツ人商人が面会に来ています、との注進が来る。ドイツ商人は、街道の 安全に努めてほしいと陳情 に来たのだった。昼と無く夜となくならず者が出没している。取り締まって欲しいと。昨夜執事がやられ、トルコの織物と高価な衣服 を盗られた。 Ransack,タルゴヴィシュテは盗賊に囲まれている。と述べる。ヴラドは、取り締まりを約束し、ブラショフ商人の特権を強化 する手紙を渡す。ワラキア 国内の通行を保証する、というものだった。

 そして議会が始まる。この国は他国に早急に追いつかねばならんというのに、午後出勤だあ?こ こは諸君の国ではない、諸君が所属している国なのだ!私も同じだ。この国を所有しているわけではなく、所属しているのだ。ハンガ リーのラディスラフであっ て、ラディスラフのハンガリーではない!ポーランドのカジェミシュであって、カジェミシュのポーランドではない!とひとしきり気 炎を上げるヴラド。癇癪が 破裂したのだった。いったいどうしたんです?と目を剝く諸侯達。

ヴラド
 −本日の議題は、国のビジネスについて論じたい。

家臣 
 −トルコの盗賊がジュルジュ(Giurgiu)付近に出没しており、国境はちゃんと決まっていない。だからドナウから Brailaまで広まってきてしまった。この問題を終わらせたい。

ヴラド
 −ブザウ(Buzau)とブライラ(Braila)の間に2千の騎士を配置したい。

家臣 
 −われわれは戦争は望んでいない。スルタンへの貢納時にスルタンに言えばいい。1453年にハンガリーとオスマンの間で結ばれ た和睦で決まったことだ。

ヴラド
 −静まれ!貴族諸君。貢納を決めたときにいた奴はだれだ。私はワラキアの王だ。メッセンジャーではない!貢納のことは口にする な!

家臣
 −条約を破ると、ハンガリーとオスマンが攻めてきます。彼らに対抗する力はわが国にはありません。

ヴラド
 −細かく分裂していて国力が発揮できるのか?得手勝手なことを言っていて、国力を集結できるのか?

家臣 
 −我々の騎士が不十分とでも。

ヴラド 
 −いいや。トルコ軍は常備兵だ。これがトルコ軍が強い理由だ。ハンガリーも国王の軍隊を持っている。鉄で強化された中核軍をも つべきだ。

家臣 
 −わが国は貧乏だ

ヴラド 
 −お前らは富んでるだろ!国が貧乏だあ?ミルチャの時代は違ったぞ!商工業を促進する。この国は富の源泉を持っているんだ。本 日より、商工業は国王に所属することとする。

家臣 
 −懸命とはいえませんな。貴族は国の基礎ですぞ。

ヴラド 
 −基礎が弱ければ国も弱い。もし国が富んで君らが富まなかったら、私に言って欲しい。

というような会話から、当時のワラキア公国の状況が描かれる。


 議会は散会となり、帰りがけにヴラドの主張に反対派する貴族は愚痴る。彼は子馬じゃなく、暴れ馬だったぞ。彼は鞍も鐙もぶち壊 すぞ。と。
 会議の後、トランシルヴァニアに使者を送ると、入れ違いに入ってきた使者が、盗賊はタルゴヴィシュテに入り、近郊の村を襲って いると伝えてくる。そこでヴラドは盗賊を捕らえて処罰するのだった。

 以下は、見せしめに串刺しにされた盗賊たち。中央奥の隊列が、護衛に守られた隊商。ヴラドはこのような形で隊商に治安回復を示 したのだった。


 続いて有名な、負具者・貧者を集めて焼き払う場面。山中の城館で宴会が行われ、乞食たちのリーダーが、ドラキュラに乾杯!とか やっているが、ヴラドは途中で変装して外に出る。そして、館の中で宴会をしている者たちが気づいた時には館に火をかけられている のだった。
 下記はそれを丘から見下ろすヴラドと家臣達。

 丘の上のヴラドの元に伝令が来て、ブザウ(Buzau)、ブライラ(Brail)a間に2000の騎士が配置されたと報告に来 る。ここまでで30分。

 一方、反ヴラド派の貴族はオスマン朝のスルタン(メフメト二世)に密使を送る。

 モルダヴィア公シュテファン(在1457-1504年)と会うヴラド。「我々は誰とともに戦うんだ?」と尋ねるシュテファンに ヴラドは「ペーター・アロン(Petru Aron)」と答える。1457年当時は、シュテ ファンがヴラドの支援を得て、モルダヴィア公ペーター・アロンを放逐し、公位から追われたアロンと内戦中であり、これは公位奪回 直後の話だと思われる。下記がシュテファン公。

※ モルダヴィアは、アレクサンダル善良公(在1400-32年)没後、息子と孫達の間で目まぐるしく公位が変わり、1432-57 年の間に述べ15回入れ替 わっていた。ペーター・アロンは1457年当時アレクサンダル善良公の非嫡子で、善良公の息子(または兄弟)のボグダン二世を暗 殺して公位に就いていた。 当時24歳になるボグダン二世の息子シュテファンはトランシルヴァニアに亡命しており、ヴラドやハンガリー王の支援を得て 1457年公位を奪回した。しか し、アロンは最初ポーランド、その後東トランシルヴァニア(セーケイランド) に亡命して1467年まで抗戦し続けた。善良公の息子の一人イリアシュの息子アレクサンダル二世は、ヴラドの母方の従兄弟にあた るので、シュテファンとヴ ラドは親戚という間柄となり、ヴラドは即位前の一時期モルダヴィアに亡命し、ボグダン二世が暗殺されると、シュテファンとともに トランシルヴァニアに亡命 した仲。

 ヴラドに対して、シュテファンは自らの領土を以下のように述べる。

 「山脈がハンガリー王からわれわれを守ってくれる。そして私は、The Hotin, The Orhei, Tighina,Soroca,
Alba Citadel という砦の鎖がタタールの侵略から我々を守ってくれ る。モルダヴィアは甲冑のように安全だがひとつだけ欠けている点がある。それはキリアだ」

 これらの場所は現在のモルドヴァ共和国に位置し、下記地図に示してあります。クリックすると拡大します。

Hotin とはホティン、地図の左上隅の、現ウクライナにある、モルダヴィア国境付近の都市。Orheiとは現モルダヴィアのオルゲイ、ソ ロカとは、現モルダヴィア にある、ウクライナ国境沿いの都市、ベンデル(ルーマニア語ではティギナとも)は、現モルダヴィアのベンデル、そしてAlba Citadelは、現ウクライナ、オデッサ西南60km付近にある現ビホロド・ドニストロフスキー。キリアとは、ビホロド・ドニ ストロフスキーから更に南 西150km程の、ドナウ河デルタにある町。黄色の線は、これらの都市を結んだ線、ということになります。


シュテファンは、ハンガリーでもオスマンでもどっちでも同じく敵だ。キリアが無いと、オスマン帝国に対して無防備だ、と主張す る。ヴラドは、どっちも我々にとって壁にならない。我々の中に壁を作る(同盟する)しかない。とキリアを争うことの無益さを主張 する。

※ この部分は映画を見ているだけでは良くわからなかったのですが、「ドラキュラ伯爵 −ルーマニアにおける正しい史伝」によると、 キリアは、ポーランド、ハ ンガリー、オスマン帝国いづれにとっても、交易の拠点・戦略上の要害であり、経緯は不明ながら、ヴラドは治世の当初、キリア市を 支配下に置いたようだとの こと。1462年にはシュテファンはキリア市奪回を目指してキリアを攻撃し、ヴラドと戦端を開いている。こうしたモルダヴィアと ワラキアの内紛がオスマン 帝国の抵抗力を弱めた結果となった。映画のエピソードは、キリアをめぐるシュテファンとヴラドの認識の不一致を描いており、シュ テファンは西はハンガ リー、東は要塞の防衛ライン、南はキリアを防衛することで、モルダヴィアの防衛が鉄壁になる、とあくまでモルダヴィア中心の防衛 構想を主張し、ヴラドは、 キリアはワラキア、モルダヴィア双方にとっての防衛線であり、ここを争うのは無意味だ、と主張しているものと思われる。恐らく ルーマニア人視聴者は、そう した背景をある程度理解しているので、映画でのシュテファンとヴラドの会話が理解できるのだと思われる。

 シュテファンとヴラドが、さりげなくキリアを巡る主張をしているところに伝令が来る。反ヴラド派貴族がスルタンに貢納を倍にす るから、別の公を立ててくれと願い出たとの事。

  1459年となった。反対派貴族達の軍が、Govora(ゴヴォラ)修道院を焼き討ちしている。ゴヴォラはブカレストから北西 200kmあまりの南カルパ チア山脈南部に位置する。本記事冒頭の地図には赤線を引いていないが、ブカレストの北西100kmにトゥルゴヴィシュテに赤線を 引いてあり、その更に北西 100km地点にあるビテシュティ近郊に、修道院はあった。大貴族であるアルブ(Albu)を首領に蜂起し、まずは修道院を襲撃 した。この時アルブはヴラ ドを「ドラキュラ」と呼んでおり、「ドラキュラは三日以内にここに来ることはできないから、三日以内に10倍の兵を集める。我々 の側には2000の騎兵が いる」と発言している。どころが、そう言っているそばから、ヴラド軍が急襲して来る。

 「ドラクラ!ドラクラが来た!」

  アルブはじめ3人の貴族は教会の中に逃げ込み、司祭に守ってくれと嘆願する。そこにヴラド達が入ってくる。ここは聖なる場所です ぞ、陛下、と司祭は言う が、ヴラドは連行させる。司祭がヴラドを諭そうとするが、ヴラドは「10人の罪人を改悛させるには一人を死刑にすればよいが、 100人を改悛させるために は10人を罰しなければならない。10000人なら100人だ」とヴラドは反論する。最後はアルブの兄弟らしき人物に説得にいか せ、処刑を命じさせたよう である

 こうしたヴラド反対派貴族の討伐により、ヴラドの宮廷の貴族の数もだいぶ空席が目立つようになった。自発的に貴族が後任となる ことを申請し、空席となった前任者の椅子に座るのだった。トランシルヴァニア山中ではまだ反対派の残党が蠢動していた。

 ワラキアからの隊商(ブラショフを抜けてきた)のもとにシラージ(Szilagi。映画ではシラギと聞こえる。場所は冒頭の地 図の左上、現サラウ付近)の兵士がやってくる。「ラディスラフ(ハンガリー名ラースロー5世: 在1444-57年)は王位を去らなければならない。ヤンコ(ヤーノシュ・フニヤディ)の子供が王位につくべきだ」と兵士達は言 う。シラージはヤンコ派で ある。王位がヤンコの子供になるまでシラージは剣を置く(王の招集に従わない、という意味らしい)。ブラショフを抜けてきたと隊 商が言うと、シラギの兵士 は、「気をつけろ、ブラショフはラディスラフ派だ、と警告する。ここはトランシルヴァニアの政治情勢を語った場面だと言える。ブ ラショフでは王派が商人を 牢屋に放り込んでいるとの報告がヴラドの元にもたらされる。

※当時、トランシルヴァニアは、ハンガリー王ラディスラフを支持するトランシ ルヴァニア侯ニコライ・ウイラキの一派と(ハンガリー派)、フニヤディ家を支持するミハイル・シラージ、ラディスラヴ・ガライ等 の一派(地元派)に分かれ て抗争していた。ミハイル・シラージはヤーノシュ・フニヤディの義弟だった。

 シラギの反乱はトランシルヴァニアに拡大していた。ハンガ リー(ブラショフの商人代表)とワラキアとで交渉が持たれる。ハンガリーの言い分は、ヴラドは反乱を支援していないが、鎮圧もし ていない、だから反ヴラド 派鎮圧の支援もしない。ワラキア(ヴラド)の言い分は、鉄と鋼鉄はワラキアの工芸品で重要な商品であるが、その取引を何故ブラ ショフは妨害するのか?とい うことにあった。会議中、ブラショフ側が「ヴラドはブラショフからワラキアに来た300人の商人を、その妻と子ともども虐殺した (史実では串刺しにしたと される)」と述べる。また、ヴラドは商業内容に踏み込み、ブラショフ側交渉者は「ドラキュラは我々同様商人のようだ」と述べる。

 ブラショフ商人達が集まって会議をしている時に下記の内容が会話される。当時の貿易の状況を説明する場面のようである。

 −雄牛、馬、ワックス、織物、銅、銀、鉄はワラキアの産品だ。我々がトルコに売れるものは何だ?銀と金の鎖か?
 −ワラキアの商業路は東西の結節点にあり、トルコはベール、ジャム、絨毯、絹、レモン、米、香辛料、オイルを我々に売る。

 颯爽とゆくヴラドの隊列を農民たちが眺めている。農民の子供が尋ねる。

 −彼はなんでドラキュラというの?

周囲の大人のひとり:ドラクルは通常彼の父のドラコーの息子という意味だ。

子供:悪魔なの?
大人:いや、人間だ。良い人間だ。
子供:良い人間ならなぜドラクルと呼ばれるの?
大人:それは首の周りに竜を持っているからだ。
別の大人:子供に嘘教えるなよ。Dracon(ドラコン)だ。正しくは。それはドイツから得た名誉ある称号なのだ。
子供:それはドラゴンなの?


ワラキア側はブラショフ郊外に市場を立てた。それはトランシルヴァニア商人が売る市場だった。ブラショフ商人が価格の調査に出向 く。

  一方、AmlasとFagaras(冒頭地図参照)の公としてヴラドの従兄弟にあたるダン三世を、ハンガリー王が認めたらしい。 ブラショフ商人が乾杯して いる。ダンの公位就任がこじれてAmalas・Fagrasとワラキアの戦闘に発展する。ヴラドが下記城を急襲した時はもぬけの 殻。部下がなんと逃げ足の 速いことよ。とコメントするのだった。


今 度は夜、トルコ人がタルゴヴィシュテとその近郊の村を襲い、娘を奴隷狩する。教会から銀器・燭台なども奪う。穀物まで奪ってゆ く。ヴラドはManzila に命じて、軍の半分を率いて救援に行かせる。そこにシラギからの伝令が来る。このような状況の元、ミハイ・シラギ(当時ベオグ ラードの司令官)の仲介によ り、ブラショフとワラキアの会議がシギショアラでもたれる。出席者は以下の面々。

Johanes Reuden(ヨハネス・レウデン) - ブラショフ代表
Albert(アルベルト) −ハンガリー王の副大臣
Agriaの大司教の監察官

 ブラショフは、ヴラドを、キリスト教秩序を揺るがす存在だと主張。ワラキアの使者は、ワラキアに、ブラショフ商人がしたことを 棚にあげて何抜かす、と主張。シラギの司令官が仲裁に入り、三ヶ月の休戦を提案(史実では、1457年11月23-1458年2 月2日の休戦)。

ところが、三ヶ月とは条約に書いてないので、ヴラドがは激怒する。

※ このあたりの筋の背景としては、当時、ブラショフ商人がワラキア貿易を独占していて、ワラキア商業発展の妨げとなっていたという 事情がある。ヴラドは、ワ ラキア商業発展の為、ワラキアに来ていたブラショフ商人300人を串刺しにし、財産を没収し、ブラショフ商人を弾圧する、という 強行手段に出た。ワラキア の産物が映画で強調されているのは、ワラキアの富をワラキア商人自身が扱えず、ブラショフ商人に独占されている状況を描いている ものと思われる。ブラショ フにヴラドが市場は、ブラショフ商人を排除した市場だと思われる。ヴラドはこのような複数の手段を使ってワラキア商業の保護育成 に努めた。

ハ ンガリー王の使者がヴラドの宮廷に来る。ラディスラフ死去(1457年11月23日)とマティアス・コツヴィヌス即位(ヤーノ シュ・フニヤディの息子。 1458年1月24日)を伝える。使者は、臣従国としてブダペストに来るように、といい、ヴラドの宮廷にざわめきが。彼(マー チャーシュ)は自分の身を守 れないらしい、とヴラドが返す。同盟はするが、臣従はありえない!とヴラドは力強く主張するのだった。

 着々と権力を固めるヴラドに追い 詰められた貴族4人が、ヴラドの早朝の祈りの時間を狙って暗殺を実行する。しかし、ヴラドは事前に察知していて、人形を刺した貴 族を2階のバルコニーから 見下ろして、「Good Morning ボヤール!」と声をかけ、余裕で逮捕するのだった。

 第一部の最後は、オスマン朝への貢納につ いての宮廷での議論。価格は低いとオスマンへの貢納支払い停止に反対な家臣。オスマン朝を刺激したくない家臣達。対するヴラド は、価格が低いなど自分を欺 くな。貢納額は日に日にあがっているのだ。自由の価格は自分たち自身が自由であるかどうかで決まるのだ。

 こうしてオスマン朝に対する貢納停止に踏み切ったワラキア公国は、オスマン朝の遠征を招くことになるのだった。

〜第一部終わり〜

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