白帝城

 

   


紹介

 三国蜀の劉備死去 の地として有名な白帝城。城としての起源は後漢初期に遡る。「華陽国志」によると、新末に、導江の卒正(蜀の太守)に任じられた公孫述は、夢に神人が登場 し、「八ム子糸、十二為期」と告げられた、と妻子に言った。妻子が解釈するに、「八ムはこ公の文字となり、子糸は、孫となる。これは、公孫氏が12年間皇 帝でいることができるという意味なのでは?朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なりという。ましてや十二年とは!」ということで皇帝に即位することにしたと の伝説があるとのこと。

 公孫述が、瞿塘峡の小さな郷里で、白い霧が巻き上がる様が、白龍の飛翔に見え、これを吉兆として白帝と称し、年号を龍興と称した。更に、瞿塘峡の西南の隘路に兵を配して城を築いた。もとは子陽城(紫陽城)といい、この時白帝城と改称したらしい。

 白帝城は、建武11年(紀元35年)漢の将軍岑彭は、荊門を破り、公孫述の将、任満を捕獲、白帝城を占領した。その後公孫述は後漢軍に破れ、皇帝にあること十二年で滅んだ(ただし公孫述が西南を支配したのは28年間に及んだ)。

 

 これとは別に、白帝城のあたりは、古代巴蜀史に登場する魚鳧人(巴国史「その他諸説参照」)の発祥の地で、巴人は、白帝天王を崇拝していたため、白帝城は白帝天王の祭祀を行った場所だとの説もあるらしい。

 

   三国蜀の劉備劉備は呉に敗退し白帝城に逃れ家臣たちにあわせる顔がなく、そこで白帝城に永安宮を建造し隠居し、そのまま死去した。正史「三国志」では、 諸葛亮が遺体を成都に運び、埋葬したとされ、現在の成都・武侯祠内に劉備の墓がある。しかしながら、奉節県では、劉備は奉節に葬られたとの説も唱えられて いるとのこと。これには根拠もあり、

 

1.現成都の劉備子孫の系図には、墓は奉節近郊の山中にある、とされている(?州府后花園内)。

 

2.劉備死去は5月であり、既に気温は熱く、遺体を成都まで運ぶことが可能だったのか。

3.史書には甘夫人と合葬された、とあり、奉節地方志には、甘夫人の墓は、奉節にあるとされている。

4.現甘夫人墓近くは大規模な墓のような地形としていて、地下十数メートルに通道と金属反応がある。

 奉節県は、前314年に秦が巴郡を置いた時に、魚復県を設置したのがはじまり。呉に敗れた劉備は、永安県と改称し、230年魚復県に戻され、649年、奉節県となった。

 現白帝城と奉節県は、三峡ダムができたことによいる水位上昇の為、もともと陸地だった部分の多くが水没している。水没前の写真や、旅行記は、こちら、「なんちゃって世界紀行」の長江・三峡徒歩旅行編や、重慶市編に掲載されています。現在は、上段左右の写真(西側、奉節県旧市街方向から撮影)のように、ほぼ孤島となってます。

 上右写真は、東側から撮影したもの。以前は、陸続きだったのですが、現在は、島と陸地の間に橋ができています(開通の記事はこちら)。 白帝城は、下段左写真のように街道沿いに大きな駐車場と入り口がある観光地。今回時間がに余裕がなく、また遺跡が無いとのことなので入場はしませんでし た。白帝城には、水上バスの波止場があるようなので、水上バスで直接行く分には簡単だが、陸地からいく場合は、結構わかりずらいので、Googoleマッ プを元に、付近の地図を作成したので、参考にどうぞ。

 奉節新市街から、市バス9番と5番を乗り継ぎ、5番で、橋Aをわたった直後に降ろしてもらうと、そこから徒歩5 qほど。或いは長距離バスを白帝鎮 で下車し、そこから5km程西に歩く。白帝鎮と奉節新市街の中心部は、30q程離れていて、かなり距離があります。奉節を拠点に観光する場合は、橋@を経 由する為、移動にかなり時間がかかります。また、当方の拠点巫山市や西方の拠点万州市間のバスの本数は、2008年9月現在極度に少なく、一日3、4本程 度しか無く、移動の主流は水上バスとなるようですが、観光シーズンは、日中のチケットが入手しにくいようです。

旅行日記  BACK