2011年10月2日作成

第一次ブルガリア王国歴史映画「ボリス一世」第一部「変革」

 1984年ブルガリア製作。日本で言えば、仏教による国家統治を目指した聖徳太子に 相当する、キリスト教を国教としたボリス一世(在852-89年)の即 位中の出来事をつずった二部構成4時間の大作。キリスト教の国教化時期、863-865年を扱った第一部 「ПОКРЪСТВАНЕТО(変革)」をご紹介 します。本作品は、既にキリスト教化されたブルガリアの、教会か宮殿の写本室で、伝記を執筆する伝記作家の語るボリスの歴史、と いう体裁となっています。 伝記作家の場面(下記)は、各部の冒頭と末尾、及び中間の、計7回程登場します。


 第一部は、天地創造より6371年、主の没後、863年 という語りから始まります。。。。(詳細にご興味のある方は 「More」をクリックしてください)

 天地創造より6371年、主の没後、863年、ボリス支配の10年目。
 どこかの軍に追われている民衆の場面から始まる。焼かれる村。殺戮。襲撃者たちを、道を岩で塞いで射る者。砦に伝令の馬が駆け 込む。

 砦の中に点在する家。

 砦の中心部に、ボリス達、支配層の天幕がある。

 どうやら襲撃されているのは、ブルガリア領内の村落である模様。

 ある日、ブルガリア軍が、ギリシア人を一人奪ってきたようである。ボリスは彼をそのまま書記官として採用してしまう。天幕の前 で幹部達と打ち合わせをするボリス。その後、各自天幕に戻り、各々自打ち合わせを行う。

  ボリスは側室のヴェレスラヴァと打ち合わせをする。その後入ってきた別の年長の男と討論となり、更に天幕の外に面会者が来たとい う。その面会者はスラブ人 (スラブスキー)の地方部族長、ムティミールからの使者だった。どうやら冒頭の戦闘場面は、スラブの一部族との騒乱だったよう だ。ムティミールの陣営に向 かうボリス一行。ムティミールの陣営も、ボリスの砦と似たようなものである。一つ興味を引かれたのは、下記のように、砦が荷車な どから構成されている点 で。
 

 そのムティミールの陣営。スラブ族は農耕民なので、恐らくこれは戦争用の移動式陣営だと思われる。

 下記ムティミールの天幕。

 下記左がボリス。右がもっとも親しい家臣のエットク(恐らく親族だと思われる)。

  ムティミールから飲み物を勧めるが、エットクがボリスの肩を抑える。そこでまずムティミールが飲む。その後ボリスが飲む。下記は ムティミール王(現在の チェコ東部のモラヴィアを中心としたモラヴィア王国(833-902年)の初代君主モイミール(位833-846年)に発音が似 ているが、モイミールの在 位年はボリスの即位前なので別人だと思われる)。

和平交渉の条件がまとまる。ムティミールが提示した条件は下記3点である。
1.ボリスが乗ってきた白馬をムティミールに渡す。
2.一緒に連れてきた側室ヴェレスラヴァも渡す。側室は、自らムティミールの天幕に自ら入ってゆく。
3.3つ目は国境。ガルベロ地帯をくれ、という。これにボリスは逡巡するが、エットクがあげろ、といい、交渉はまとまった。 

 場面は再び本作を物語る伝記作家に戻る。
天地創造から6372年、キリスト没後864年。伝記作家は年代記を読む。年代記にはイラストが入っている。

  洞窟に集まるブルガリアの人々。当時、ブルガリアでは異端であるキリスト教徒が洞窟礼拝堂で密かに礼拝を行っていたのである。ブ ルガリアのキリスト教改宗 を巡っては、カトリックと正教会が争って布教を行っていたのだが、ここではイコンを崇拝していたから、これは正教会である。そこ に兵士が襲撃する。ところ が、礼拝者の中にボリスの姉、エブラクシーアがいた。暴力をやめよ、反キリスト者と聞け!と訴えるエブラクシーア。

 王族がいたことに驚き、とりあえず兵士たちは去る。

  宮廷のボリスとエブラクシーア、エットク。宗教について論争している。ローマにつくかコンスタンティノープルにつくか議論してい るが、エットクは改宗その ものに反対である。エットクはボリスに決断を迫って出ていってしまう。ボリスに向かって聖書を読む姉(左がエブラクシーア、中央 が王座の前のボリス)。

 その時地震が来た。姉はボリスに無理やり十字切らす。すると地震は収まった。あまりな偶然のタイミングだが、ボリスを畏怖させ るには十分だった。地震が収まると、ボリスはすぐさま夫人のところに駆けつけるのだった(この864年の大地震は史料にも記載さ れている史実)。

 戦争にでるボリス軍。騎士と歩兵から構成されている。


 途中で煙の上がっている村に遭遇し、避難してくる人々と、負傷して担架で運ばれる男に事情を聞く。やったのはローマ人たち(ビ ザンツ)のようである。敵は10万、味方は2万歩兵と1万騎士の計3万)。ミハイル3世と母后テオドラ(前回ご紹介した「コンス タンティン・フィロソフ」に も登場していた)あてに書記に手紙を書かせるボリス。キリスト教への改宗を条件に出したところで臣下が驚く。ボリスは答える。向 こうは10万、こっちは3 万、どうしようもない。エットクはじめ何人かの重臣は改宗に不満を示すが、家臣の中に(恐らくボリスの弟ドクス)が、アミン、と つぶやき、不完全だが、十 字らしきものを切る。驚くボリスとエットク。エットクはつばを吐き捨てる。これがブルガリアだ。とエットクにいうボリス。ビザン ツへの使者にエットクが 立った。
 下記はビzンツへの書簡の封泥。


再び伝記作家に戻る。6373年/865年は新国家の始まりとなった、と語り始める。。。。 

 宮殿内での合唱の隊列。ボリスの洗礼式が行われる。ボリスはビザンツ皇帝ミハイル三世の名前からミハイルという洗礼名を貰い、 ボリス・ミハイルと名乗るようになった。

  続いてローマ教会(左肩から十字を切ったからカトリックだと思われる)の一行がやってきてなにやらボリスを説得しょうとし(どう も教会建設について議論し ていたようである)、最後は聖書をボリスに収めている。我々はあきらめない、と言って去る一行。下記は迎えたボリスの装束。改宗 前と変わって、かなりキリ スト教君主的装束になっている(この王座と背景は、そのまま映画「クル ム汗」にも出てきた。同一セットだと思われる。更に、首都プリスカ宮殿も、「クルム汗」と同じセットだと思われる)

 宮殿の外に出ると、陳情の人々。胸の中に異教のペンダントを隠しているのを取出して首を絞めて怒るボリス。ペンダントを外すさ せる。宮殿の地下にある浴場を除き見るボリス。この浴場跡は実際に残っている(プリスカ遺跡写真はこちら)。浴場から皆が出てきたところにボリスが現れ、皆の首 からぶら下がっている異教のペンダントを見つける。皆隠そうとするが、もう遅い。 

 王妃が出産。シメオンと名付けるボリス。キリスト教化して以来最初の子供である。祝宴が開かれる。エットクが入ってきて、耳打 ちし、途中で杯を投げ出し、エットクと出て行く王。地下に行くと、ギリシア人書記が首をつらされていた。激怒する王。

  続いて場面は、郊外の川で行われている村民達の洗礼式となる。ボリスが見学に訪れた時、馬で引きずられている若い女に出会う。彼 女は異教徒だった。彼女は ボリスに言う。石、太陽、月、星々、我々にはこれらがある。なんでキリスト教が必要なものか。みんなギリシア語なんてわからない (これで改宗前の皆がして いるペンダントは石だとわかる)。

 更に野原での村の祝祭を訪れるボリス。あちこち見て回っているようである。洞窟を訪れるボリス。今度 は異教徒が洞窟に集められ縛られたり、くび木をつけられたりしている(改宗前はキリスト教徒が隠れて礼拝していた洞窟である。立 場が逆転してしまったこと がわかる)。洞窟を案内しているのはエットク。チェヴォベックという名の男が磔にされている。この人は十字架を首からかけてい る。そしてボリスに向かって アナテマ(キリスト教用語で「災いあれ」の意味)と叫ぶ。兵士が槍で彼を刺し殺す(アナテマ、という言葉を普通用語として使った のかも知れない。男がかけ られていた十字架も、無理やりかけさせられたのかも知れないが、このあたりは良くわからなかった)。

 そしてある日の夕方。王宮前の野原に星の数のように松明をもって群衆が集まってくる。祖先の崇拝した神々を信じるもの達が団結 して押し寄せたのである。この場面はまさに「星の数程」という形容がよく当てはまる程に壮観だった。

  重臣会議が開かれる。エットクが出ていく。地下に出て、木枠のトンネルを通って馬を出し、丘の裏斜面のようなところから出られる 仕掛けのようである。翌朝 になっても王宮前を埋め尽くす群集。ついに、扉をあける木槌をもった一隊が王城の扉を打って、開けようとし始める。破られる前に 開門し、周囲の軍隊・民衆 は中庭に入る。

  ところが、後ろから昨夜密かに王宮を脱出したエットクが多数の軍隊を引き連れて到着し、群集は挟み撃ちになってしまう。王城城壁 上から一斉に射手が立ち上 がって構える。そして、十字架を持ったボリスが登場。剣を振り上げた一人が即座に討たれる。凍りつく空気。そしてボリスがなにや ら説教したところ、皆引き 上げだす。なんなんだ。ところが、貴族だけは引き止められる。そして、貴族達を武装解除させ、中庭で順番に一人ずつ斬首するの だった。

  深夜、家臣と夕食を食べながら会議。初日520人*1を処刑し、今480人が残っている、とのこと。エットクが剣を抜いて演説し て自害してしまう。その時 タングラ、と最後に口にする(タングラは、中央アジアのトルコ系・モンゴル系遊牧民族の間で崇拝されていたテングリ崇拝の一 神)。異教徒のまま終わったの だろう。姉の部屋では、姉も死んでいた。誰がやったんだ、と叫ぶボリス。ここで第一部幕。

*1 、ロバート ブラウニング「ビザンツ帝国とブルガリア」によると、865年の反乱での貴族の処刑者数は、フラ ンク人ヒマンクル(806-882年)の年代記には、52名と記載されているとのこと。

 本作は、なかなか宮殿の全貌が写らないのがちょっと不満。カットが部分部分なので、なかなか全容が把握しがたかったのがもどか しかった。


〜第一部変革 Край〜
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