文郎国
蜀王子伝説について調べていたら、文郎国に行き当たりました。文郎国の伝説については、色々情報がありますが、出典となると情報が少ないようです。そこで少し調べてみました。
1.酈道元(469~527年:北魏)の「水経注」
中国の史書の中では最初に「文郎国」または「文郎(狼)」の文字が登場する書籍とのこと。「水経注」に引用された「林邑記」の中に、下記の文章があるとのこと。
“朱吾(今越南广平省洞海县南)以南有文狼人,野居无室宅,依树止宿,渔食生肉,采香为业,与人交市,若上皇之民矣。” 、 “朱吾县南有文郎究(水)。”(朱吾(現ベトナム広平省洞海県南)の南に文狼人がおり、野に住み家屋や部屋を持たず、生肉を貪り、花を摘むことで暮らしを立て、人と市場で会う、まるで天帝の民のようだ」 という感じでしょうか。最後の「若上皇之民矣」がうまく訳せないので、どなたか正確な意味を教えてください。最後の一節は「与人交市若上皇之民矣」(まるで天帝のように人と市場で交わる)と、一文となっている文献もあるようです)
本書は、李朝(1010—1225年)と陳朝(1225—1400年)時代に、文学者や史学者が民間から広く収集し、整理したものが原型で、その後も追加・修正され、十六世紀中にはほぼ現在の形に近いものとなった模様。第一巻に、文郎国は 「东夹南海,西抵巴蜀,北至洞庭湖,南至狐狲精国」という文章があるそうです。東は南海に面し、北は洞庭湖に至り、南は狐狲精国(これは、チャンパー(占城)国のことだそうです)にまで至る、つまり、長江の南からベトナム中部に至る大領土を誇っていたことになります。この領域は、古代越人の居住範囲と重なる可能性もあることから、文郎国の伝説は、古代越人の勢力範囲を反映したものとの見解があるようです。
1479年に大越国の史官の呉士連(ゴ・シ・リエン)が、既に成立していた、「大越史記」と、「大越史記続編」に、中国とベトナムの史書を参考にして加筆修正を行ったもの。15巻。「大越史記全集」ともいう。国王黎聖宗(レ・タイン・トン)に献上された。創世記から、現朝まで記載されている編年体の史書。「資治通鑑」に習って編年体&漢文で記載されている。「大越史記」は、陳朝の1272年、国史として黎文休(レ・ヴァン・フウ)によって作成されたもので全30巻。現存していないとのこと。「大越史記続編」は、1455年、黎仁宗(レ・ニャン・トン)の命令で藩孚先(ファン・フウ・ティエン)が編纂。「大越史記」に、陳朝以降の歴史を追加。全10巻。
「大越史記全書」は、1479年成立以後も段階的に追記が続いた。1665年、範公著らが呉士連本以降1662年までを追加。1697年、黎僖らが1665年版(景治本)に、1675年までが追加されたとのこと。
下記に、大越史記全書(外紀第一巻に記載されている文郎国に関連する部分を訳出してみました。商と周の先祖が人間ではないとする記述には、ベトナムの、中国に対する優位性の主張という印象があります。また、創世神話が、完全に中国の神話となっている点は、当時の世界認識の反映と言えそうです。
中国神話と鴻厖王朝 |
黃帝の時に万国が建国された,交趾は西南における果てであり,遠く百粵地方にあった。堯は羲氏に交趾に住むように命じ、南方交趾の地を定めさせた。禹は全国を九州に分け、百粵の土地を楊州域となし、交趾はここに属した。成周時代、越裳*1と称し始め。越の名はここで初めて登場している。 *1 後漢王充、漢書、張衡「東京賦」などに記載がある。 【鴻厖紀】 (1) 涇陽王(諱を祿續と言い、神農氏の系譜である) 壬戌,元年 初め、炎帝神農氏の三世の孫を帝明といい、帝宜を生んだ。南巡して五嶺に至り、婺*2という仙人の女性の接待を受け、王を生んだ。王は聖智聡明で、帝明はこれを評価し、跡継ぎにしようと欲した。王は兄の手前固辞し、敢えて命を奉じなかった。帝明は帝宜を後継者とし、北方を治めさせた。王を涇陽王に封じ、南方を治めさせた。その地を赤鬼國と号した。王は洞庭君の娘を娶り、その名は神龍といい、貉龍君を生んだ。 (「唐紀」では、涇陽の時代に、羊の放牧をしている女性がいた。洞庭君の娘と自称していた。次女は涇川に嫁いでいたが、分かれさせられた。「寄書」と「柳毅伝」は洞庭君に捧げられた。つまり涇川と洞庭の代は婚姻関係があり、ここに由来がある)。 *2 星座の名前でもある。 (2) 貉龍君(諱を崇纜と言い,涇陽王の子) 貉龍は帝來の娘を娶った。その名は嫗姬と言い、百男を生んだ(俗に百の卵を生んだともいわれる)。これが百越の祖先である。ある日、姬に言って曰く、「私は龍種で、あなたは仙人種。水と火のように相容れないので、一緒にいることは難しい」 このため別かれることになった。五十人の子は、母に従って山に戻り、五十人の子は、父に従って南に住んだ。(または、南海に帰った)。長男を封じて雄王とし、君位を継がせた。 史臣呉士連曰く、天地開闢の時、気が人となった。これが盤古氏である。気があって変化し、然る後に形をなし、陰陽二つの気ではなかった。「易経」によれば、天地は混沌としていて、万物は熟成された。男女は精を結合し、万物が生まれた。よって夫婦となった。その後親子ができて、父がいて、その後、君臣ができた。その後、聖人と賢人が生れ、普通とは異なっていた。天の命ずるところ、吞玄鳥*1が卵を生み、これが商の祖となった。巨人の靴跡から周が興った。記録は皆それが確実なことだとしている。神農氏の後の帝明、仙人の女を娶って涇陽王を生み、これが百粵の始祖となった。王は神龍の女も娶り、貉龍君を生んだ。貉龍君は、帝來の娘を娶り、百男を生んで育てた。これがいわゆる最初の越の本である。「通鑑外紀」には、帝來は、帝宜の子との記載がある。この記載によれば、涇陽王は、帝宜の弟であり、,双方で婚姻をなした。なお荒地であり、礼樂はいまだ盛んではなかった。 *1 燕 |
文郎国時代 |
1 雄王は即位し、建国して文郎国と号した(その国は、東は南海に、西は巴蜀に、北は洞庭湖に至り、南は胡孫国に接している。胡孫は、占城国のことで、現広南のことである)。国を十五に分かち、それは交趾、朱鳶、武寧、福録、越裳、寧海、陽泉、陸海、武定、懷驩、九真、平文、新興、九德であり、臣として所属した。文郎は、王のいる都である。貉侯という宰相を置き、貉將という将軍を置いた (訛って後に雄將と言われた)。王子は官郎といい、王女は媚嬝と言った。蒲正という役人がいて、代々父から子へと継いだ。王は代々皆雄王と号した。時に、山麓の民は,河川を見ると、皆で魚や蝦を集め、互いを率いて略奪し、蛇に咬まれたところが傷になった。王は述べて曰く、「山蛮の種族は、水族とは異なっていた。これらの人々は、同じことを好み、違うことを好まなかった。故にこの病となった」 人に命じて墨で身体に水の怪物を描いた。これを蛟龍*1と見たことで咬傷による害は無くなり、百粵の文身の風俗はここに始まった。 *1 神話に登場する水中に棲む龍のこと。 2 雄王六世の頃、武寧部の扶董鄉に、富裕な翁という家があった。一男が生まれ、三歲あまりの頃、膨大な飲食をするようになり、言葉を言わず、笑わなかった。丁度その頃国内に警報が出て、王は人に命じて敵を撃退することができる者を探させた。その日、その子供は、たちまち言葉を話せるようになり、母親に、天使が来るのを迎えるように告げた。曰く、一振りの剣と一頭の馬を与えて欲しいと願い出、君は憂が無くなると言った。王は剣と馬を与え、その子供は直ぐに馬を躍らせ剣を揮って軍の前に出て、官軍をその後に従えた。賊を武寧山の山麓で破った。賊は自らお互いを討ちあって倒れ、死者は群をなした。残党は整列して拝謁し、天將と呼び、たちまち皆投降してきた。その子供は馬を躍らせ、空に飛び去った。王は居住する庭と邸宅を建てるよう、また、廟を立てて、代々祀るように命じた。後に李太祖は、沖天神王に封じた。(その神祠は、扶董鄉の建初寺の側にある) 3 周の成王の時代、我が越は、周に使者を送りはじめた(いつ頃のことかは不明である)。越裳氏と称し、白雉を献呈した。周公曰く:政令は施されず、君子はその人々を臣下とはせず、指南車を作らせて、本国に送還させた。 4 末期に属する時代、雄王に娘がいた。媚娘と言った。美しく艷やかだった。蜀王はこれを聞き、王に結婚したいと申し出た。王はこれに従うことを欲し、雄侯はこれを止めて曰く、「彼は我々の版図を欲しています。婚姻もって、その理由にしようとしているのです」 蜀王はこれを聞いて怨に思った。雄王は同意する者を求めた。群臣曰く、「この姫は仙人であり、能力と德を併せ持っています。まさに婚姻は可能です」。この時、二人の外から来た者が、朝廷に拝謁に来た。婚姻を求めてきたのである。それぞれ王に問いかけた。対して曰く、「一人は山の精に、一人は水の精に。どちらもこの地方に住んでいます。明王には聖女がいると聞いています、敢えて来て、 お伺いを立てたいと思います」 王曰く、「私には一人娘しかいない。どうやって両方の賢者と結婚できよう」 そこで、先に婚礼のための贈り物を用意することができて、先にここに来た方に、そのまま与えよう。と約束した。二人の賢者は承諾し、挨拶をして帰っていった。翌日山の精は、珍しい宝物、金銀、山の禽獣などもってやってきて献納した。王は約束したとおりに嫁にやった。山の精は、 居住している、高い山の峰にある傘圓山へと戻っていった。水の精もまた、急いで財宝をもってやってきたが、山の精より後で至り、及ばなかった。これを恨んで激しく雲を興して雨を降らせることを行い、水を溢れさせて水族を率いて追いかけてきた。王と山の精は鉄の網を張り、慈廉の上流を横断する形で堰き止めた。水の精は別の河から侵入してきて、,莅仁より廣威山麓に入り、川岸で川の合流を飲み込み、洪水が起こり、陀江に入って傘圓山を襲った。各所で穴が掘られ淵となり、深い池となり、傘圓山にたまった水は一帯を襲った。山の精は神と化し、蛮人を呼び、竹を編んで水を防ぐ防柵とし、弩をもってこれを射て、鱗をもつ諸種族は、矢箭の中を避けて走り、山の精を破ることができずに終わった (俗伝では、山の精と水の精は後の世でも争い続け、毎年洪水となり、常に互いに攻めあった)。 5 傘圓とは、我々越の巔山のことで、その霊験は、非常にあらたかだった。媚娘は既に山の精に嫁いでいた。蜀王は激怒し、その子孫に託した。必ず文郎を滅ぼしてその国を併合するようにと。孫の蜀泮に至り、勇気と知略があり、文郎を攻めてこれを取った。 史臣吳士連曰く、「雄王の世は,諸侯や藩屏を立て、国を15部に分けて、15部の他は、それぞれ長や補佐がいて、その庶子は地位を継承した。母に従って山に帰った50の子は、父親があるようにはいかないことをどうして知ることができるのだろうか。母を君長となし、諸子は各々が他方の主となった。現在でも、蛮族の酋長には男系(男父道)、母系(女父道)という言い方があるのを見る事ができ(現在の王朝ではこれを改めさせている)、理があることと言える。山の精と水の精の事が、甚だ不可思議な話であり、信頼できる書は無いといえ、その話も古く、その言い伝えは疑わしい。 以上鴻厖氏は、涇陽王が壬戌に、帝宜と同時に受封してから、雄王末期の世と伝えられる、周赧王の五十七(前257)年癸卯に終る当り、概ね二千六百二十二年である。 |
。
蜀王朝(前257~214年) |
【蜀紀】 安陽王 姓は蜀,諱は泮。巴蜀の人である。在位五十年。都は封溪(現古螺城(コーロア城)。 甲辰,元年。周赧王58年(前257年) 1 王は文郎国を併合し、国号を甌貉国に改めた。はじめに王屢は兵を興して雄王を攻めた。雄王の兵は強く將は武勇に優れていた。王屢は敗れた。雄王は、王に言って曰く、「私は神の力を持っている、蜀を恐れることはない」 遂に武装を廃して修理もせず、酒と宴会をもって享楽的にすごした。蜀軍が真近に迫ったが、なお、深く酔って醒めなかった。血を吐いて井戸に落ちて薨じ、その衆は、戦いに倒れ蜀に降った。王は越裳に築城した。広さは千丈あり、螺旋形をし、法螺貝のようであったので、螺城(コーロア城)と号した。またの名は、思龍城(唐の人は最も高い城という意味で崑崙城と呼んだ)。その城築は完全に崩壊してしまったので、王はこれを患い、齋戒して、天地山川に神祇を祈祷し、城を再興した。 丙午,三年。東周君元年(前255年) 1 春,三月,神人が城門にやってきて,城を指して笑って曰く、「工事はいつ終わるのか」と聞いた。王は殿上に上げて接見し、この問いに答て曰く、「江使が来るのを待っているのだ」 神人は直ぐに去った。後日早朝、王が城門を出ると、東浮江から金亀がやってくるのが見えた。江使と称し、人の言葉を話した。これからのことを相談した。王は非常に喜んで、金を盤に盛って、盤を殿上に置き、城が崩れた理由を尋ねた。金亀曰く、「この本土や山川に精気がある。前の王朝の王子がこれを獲り付かせたのだ。国の為に報復するつもりだ。七耀山に隠れている。山の中には鬼がいて、 これは前代の役者で、死に、ここで葬られて鬼になった。山の傍に館があり、館の主の翁曰く、悟りを開いた者*1と、一人の女と一羽の白雞がいて、これが精の余った部分となっている。往来する人はすべて、ここに来て夜宿泊すると、必ずや死ぬことになる。鬼がこれを殺害するのである。だから人々が群れをなしてうめき声を上げ、それが城を崩壊させているのだ。もし白雞を殺せばこの精気は除かれる。そうすれば、城は自ら完成する」 王は金亀を館に行かせ、宿泊人を偽らせた。館主の翁曰く「郎君は貴人ですね。さっさと行くように願います。禍を取るために留まるようなことはしない方が良い」 王は笑って曰く「死んでも生きてもそれは運命だ。鬼魅が何をすることができよう」,こうして宿に宿泊した。夜、鬼と精霊が外から来るのが聞こえた。門を開けるように呼んだ。金亀はこれを叱咤し、鬼は入ってくることができなかった。夜明けの鷄の鳴声がある時間になると、衆鬼は走り散った。金亀は王にこれを追うようにいい、七耀山に至った。精気の殆ど尽く収蔵することができた。王は館に帰還した。翌朝、館主の翁は、王はまず死んでいるものと、人を館に呼びにやり、葬儀をしようとした。笑っている王を見て、跪拝して言った、「郎君はどうしてこれと匹敵するものを得られようか。きっと聖人であろう。」王は白雞を乞うて受け取り、これを殺してこれを祭った。雞を殺したら、女もまた死んだ。そこで人に命じて山を掘らせ、古樂器と骸骨を掘り出して焼いて砕いて灰にしてこれを江河に撒いた。妖気は遂に根絶された。これより築城は、半月を過ぎることなく完成した。金亀は辞去することになり,王は感謝して曰く、「荷君の恩にはすごく感謝しているよ。城は既に堅固になった。外敵が侮っても、これを防ぐことができる」 金亀はその爪を外して王に付て言った。「国の安全や危険には、自ら宿命があり、人もこれを防ぐことができる。賊がやってくるのを見たら、この霊爪を用いて弩機をつくり、賊に向かって発車すれば、憂うことはありません」 王は家臣の皐魯(一説に皐通)に命じて、弩の機械を造らせた。爪を使って造った機械である為、名づけて曰く、霊光金爪神弩。唐の高王*1が南詔を平定し、兵が帰還中、武寧州を通過した時、夜、夢の中に異人が出てきて、皐魯と称した。曰く、「昔安陽王を援けて敵を防ぐ大功を立て、貉侯に中傷されこれを去った。死後、天帝が、過ちが無いことを不憫に思い、命じてひとつの国を賜った。管領都統將軍は賊を征伐した。農作業時は農地に種を蒔き、皆これに従事した。今、既に明公は討伐して逆賊を平定し、虜とし、再び本陣に戻るところだというのに感謝も告げない。非礼である」 高王は目を覚まし、僚に属する言葉を使って詩を作った。「美しい交州の地は、悠々と万年を来り、古えの賢者は見ることができた、終生自分の心に満足して過ごすことを」 *1 「悟空者」 *2 南詔討伐軍の司令官高駢のこと。 壬子,九年。東周君七年(前249年) 秦、楚、燕、趙、魏、韓、齊凡七國。 1 この年周が滅んだ。 庚辰,37年。秦の始皇帝呂政26年(前221年) 1 秦は六国を併合し、皇帝と称した。時に我々の交趾は慈廉県に李翁仲という人がいた。身長二丈三尺*2。幼少時、郷に行って労役に就いた,笞を打つ刑場の長官となり、遂に秦に仕え、司隷校尉になった。始皇が天下を統一すると、兵を指揮して臨洮を守り、その名声は匈奴に鳴り響いた。年老いて田舎に帰り死去した。始皇帝は、非常に評価し、銅を鋳じて像をつくり、咸陽の司馬門に置いた。それは中に数十人を収容でき、中に潜んでこれを揺り動かすと、匈奴は校尉が生きているものと思い、敢えて侵攻しなかった(唐の趙昌が交州都護だった時、毎晩夢で、翁仲とともに「春秋左氏伝」を講じた。その故宅を訪れると、そこにあった。祠を立てて祭り、高王が南詔を破るまで、常に信心に対してご利益があった。高王は祠の字を修理し、木で彫った像を立て、李校尉と名づけた。その神祠は、慈廉県瑞香社にある)。 *2 1尺=前漢22.5cmの場合は、517.5cm 丁亥,44年。秦の始皇帝33年(前214年) 1 秦は諸道の逃亡者を徴発し、贄壻(後述)、人を買って兵とし、校尉屠睢を將として樓船を率いらせ,史祿に秦鑿渠(現靈渠)を開鑿させ、食糧を運ばせ、深く嶺南に侵入し、陸梁の地を略奪し、桂林(現広西明貴県)、南海(現広東)、象郡(現安南)を置き、任囂を南海尉に任じ、趙佗を龍川令(龍川、南海郡に属す県)に任じ、領内の罪人の歩兵50万の五嶺を守らせた。任囂、趙佗は謀略を以って越南に侵入した(贄壻とは、財産を持たない男であり、妻の家に身を預けている男のことを贄壻と言う。人の身にできる腫れ物のようなもので、剰余物といえる。陸梁地と言われているところがあり、それは嶺南で、山陸の間に住んでいる人が多い。その性格は強い柱のようである。よって陸梁と言われた)。
辛卯,48年。秦の始皇帝37年(前210年) 1 冬、十月、秦の始皇帝は沙丘で崩御した。任囂と趙佗の両将が来寇してきた。趙佗は北江の仙遊山に軍を進駐して王と戦い、王は霊弩を使って応戦した。趙佗軍は敗走した。時に任囂は水軍を小江(都護府のこと。後に東湖と訛った。現東湖津のこと)に配したところで、土地の神を侵害し、病を得て戻った。趙佗に言って曰く、「秦は滅んだ。計を用いて泮*1を攻めよ。国を建てることは可能だ」 趙佗は王を援ける、王が持つ神弩を敵にすることは無理なので、退いて武寧山を守り、講和を打診した。王は喜び、分平江(現東岸天德江)の以北を趙佗が治めることとし、以南を王が治めることとした。趙佗は子の仲始を派遣し、宿衛に就き、王の娘である媚珠に求婚し、これを許された。仲始は媚珠を誘い霊弩を秘かに見て、密かにそれを壊して、これを摩り替えた。北の親の元へ帰ると言い、媚珠に言って曰く、「夫婦の恩情はお互いに忘れることはできません。両国の和が失われ、南北が分断されたら、私がここに来たとき、どうやってお互いを見つけたらいいのか」 媚珠曰く、「私が鵞鳥の毛を錦の寝具の中に常に入れておいて、毛を抜くところに至ったら、分かれ道に毛を置いて、行き先を示しましょう」 仲始は帰国し、趙佗に告げた。 *1 蜀王の名 癸巳,50年。秦の二世皇帝胡亥2年(前208年) 1 任囂は病で死去するにあたって趙佗に言った。「陳勝達が反乱を起こし、民心は落ち着かなくなっていると聞いている。この土地は僻遠にあり、私は群盜がここを侵犯することを恐れている。道(秦が越道を開鑿した箇所)を遮断し、自衛して諸侯がどう変動するのか待っていた」 重い病を得て曰く、 「番禺(漢で言う南城)は山を背負い水路は険しく、東西各数千里あり、お互い助け合える秦人は非常に多く、また建国して王を立て一地方の主となるには十分なところである。郡中の長吏には謀をするに足る者は無く、そこで特に公を召してこれを告げることにした」 これにより、趙佗を自に代わりとした。任囂が死すと、,趙佗は直ぐに檄を飛ばして橫浦、陽山、湟谿の関に告げて言った、「盜兵が来るだろうから、急いで道を遮断し、諸兵防衛に就くように。」 檄が到着すると、州皆これに応じた。ここにおいて、秦が置いた役人を尽く誅殺し、趙佗一派を郡守に代えた。趙佗は兵を発して安陽王を攻め、王は弩機が既に失われていることを知らず、囲碁をして いて、笑って曰く、「趙佗は私の神弩を恐れていないのか!」 趙佗軍が接近し、王は弩を取り出したところ既に折れてしまっていた。敗れて(媚珠を)走り探して、馬の上に媚珠を座らせ、王と一緒に南へ逃れた。仲始は野鴨の毛を追った。王は海浜に至り、舟には櫂が無くいきづまってしまい、金亀が自分を早く救いに来てくれるように何度も呼んだ。金亀は水の上に湧いて出た。叱って言うには、「馬の後に乗っている者は反逆者である。これを殺せ」 王は剣を抜いて媚珠を斬ろうとした。媚珠祝曰:「忠信に徹するあまり人を騙すところとなってしまった,願わくば珠玉となって、この汚名を雪ぎたい」 王遂にこれを斬った。血が水の上に流れ、蛤の中に入り、心に達して真珠となった。王は七寸の文犀を持って海に入って去った(今の辟水犀のこと。世に伝わっている演州高舍社夜山とはここのことである)。仲始は後を追ってきたが、見ると媚珠は既に死し、その屍を抱いて慟哭し、螺城に戻り埋葬したところ、遺体は玉石となった。仲始は媚珠を思って悲嘆にくれ、媚珠が化粧をしたり、沐浴した場所に戻ってきて、、悲しい想いに勝つことができず、最後は投井戸の底に身を投げて死んだ。後の人は、東海で輝く真珠を得ると、井戸の水でこれを洗って、その色はますます輝いた。
史臣呉士連曰:金亀の説話は信じられよう。神が降臨する場合、石を通して話すこともある。神は人のやることに沿って現れ、物に託して言葉を顕わす。国が将に勃興する時、神明は降臨し、以ってその徳を監督する。將に亡ばんとする時は、神はまた降臨し、以ってその悪い部分を見る。 故に、国が発展する時に神がいて、また亡ぶ時も神はいるものである。安陽王は築城の徭役によって国を発展させようとしたが、民の力を無駄に使うところがあった。よって神が金亀に託してこれを告げたのである。中傷や怨みは民を動かすことはなく、これは当然であることとまた似ている。心配して憂い、神を望むことがあるが、それは個人の私欲が出てきた場合で、私心はひとつの萌芽であり、天の理に従って滅ぶ。神はどうして禍をもって恐れさせずにおこうか。霊爪を剥がしてこれに付け、敵を退散させるに足るものだったが、それは災いの萌芽となったと言える。神が虢国*2に土地と田を賜った運命の如く、虢国は滅亡の運命に従った。その展開は当然で、人の行いに関しないことがあろうか。言葉による依頼をせずに、道理に従って行動していて、国の繁栄が、長く無いことをどうやって知ればいいのか。媚珠における鵝毛を道の上に落としていった故事に至っては、そのようなことがあるとは限らないし、あるにしても、殆どありそうもないことだったりする。後に趙越王女は、再度同じ言葉を繰り返している、何ということか。歴史の編纂者によると、蜀と趙の亡国の原因は、皆女婿に関連している。原因となったことは、両者に共通している。従って、鬼が城を壊すということもまた信じることができる。曰く、伯有*3の祟りの類のことは、彼の廟を立てた後、帰るところを得て止んだ。妖魔を除き、憑きものを払った。史記における安陽王の敗亡に至っては、その原因は神弩が交換されていたことにあるとし*4、趙越王の敗亡は、その原因は兜が爪を失ったことにある*4。神は言葉をかりて実行する。もしそれが国を固め、武器として防御になるなら、自ずとそこに道があり、道を得た者は、多くの援けを受けて興隆し、道を失った者は、援けも少なくして、亡ぶ。これについては非情なものなのである。 以上安陽王、甲辰に起こり,癸巳に終わる。凡そ50年だった。 *2 戦国時代の国 *3 伯有 戦国鄭国の臣(~前543年)反乱を起こして死す。 「春秋左氏伝」に、伯有死後8年後、伯有の霊が夢に出て、2人の人物の死を宣告した。すると、予告した日にその通りの事が起こった。鄭大夫子産が宗廟を立てて収まった。 *4 「史記・西南夷両粵朝鮮伝第六十五」には、安陽王は登場せず、南越国の滅亡にあたって特に兜と爪に関する記載はない。 【大越史記全書 外紀 卷之一 終】 |
参考資料
-ベトナム史書の解説については、「ベトナム雑記帳」の年表解説の頁や、「東南アジア史学会関西例会2002年2月例会の報告」を参考にしました。