蜀王子伝説

 

 

  古代開明朝蜀王国(?~ 前316年)滅亡後、最後の王の子が、当時ベトナムにあった文朗国を征服し、安陽王となった、という伝説があるそうです。開明朝蜀王国の最期 については、「蜀王本紀」や「華陽国志」双方に記載がありますが、王子の最期に言及しているのは、「華陽国志」の方で、白鹿山で自殺して果てたということになっています。しか し、後の史書に、この王子か、或いは別の王子と蜀国軍団が生き残っていて、交趾(ベトナム北部)に至り、当地にあった文郎国を征服した、とい う伝説が記載されているとのことです。その文献について、「大明山的記憶 -駱越古国 歴史文化研究」という書籍に色々記載を見つけたので、少しまとめてみました。この伝説は、史記や漢書にはないそうです。

 

 

1.「水経注」に引用されている、「交 州外域記」の逸文

「蜀王子が3万の兵を率いてきて、駱王 と駱侯を討った。その後、蜀王子兵を率いて駱侯を討ち、安陽王を称した」

 

2.「広州記」 唐代の司馬貞の著した 「史記」の注釈書である「索隠」に、史記本文の注釈部分として、「広州記」からの引用が記載されている。

「広州記」は、3つあったとされ、作者 はそれぞれ、晋代の斐渊、顾微、及び劉宋の劉澄である。どの書からの引用かは不明だが、下記の引用文が「索隠」に記載されている。なお、この 部分は、こ ちらに原文が掲載されている。内容は下記の通り。

「その後、蜀王子の将兵が、駱侯を討 ち、自ら安陽王と称した」

 

3.「旧唐書・地理志」にある「南越 志」からの引用

「その後、蜀王が3万の兵を率いて雄王 を滅ぼし、蜀はその子を安陽王につけ、交趾を治めさせた」

 

 

いづれも、その後、南越王尉佗が安陽王 を攻めた、となっています。最後の「南越志」のみ、討伐したのは、蜀王子ではなく、蜀王となっています、が、王に即位したのは王子という点は 共通しています。

 

 

「交州外域記」がもっとも古く、三国時 代の呉で成立したと推測されるそうです。ベトナム側の資料としては、15世紀の「岭南摭怪」という書の中に、「金亀伝」という編が あり、その中に、「交州外域記」記載の安陽王について記載されているとのこと。その内容は、

 

1)王子の名は、泮。

2)蜀王子は、雄王の娘を要求したが、 拒絶された為、国を滅ぼし、安陽王となった。

3)安陽王が作った国は甌駱国となし た。

 

とのことです。一体どこまでが史実を反 映しているのでしょうか。「大明山的記憶 -駱越古国 歴史文化研究」所収の論考では、下記のように、幾つか反論が記載されています。

 

1)蜀が前316年に滅亡してから、秦 が前214年に岭南を平定 し、3郡を設置するまでの102年間も蜀王子が長生きしていたのか?(甌駱国滅亡は前208年なので実 際は108年間となる。また、この説は、前258年に即位した安陽王が、そのまま秦の征服まで生きていた、との前提をとっている。大越史記全書によれば、蜀王は、征服時の前257年から50年間在位したことになってい る)。

2)当時、現貴州省には多くの国が勃興 していた。蜀王子が軍隊を率いて交趾まで辿りつくのは難しいはず。

3)南越では、蜀の遺物は一切発見され ていない。蜀の墳墓は特徴的だったはずである。

 

こちらの記事 では、交趾で蜀文化の特徴を持つ遺物が発見されたとの記載があります。ベトナムの馮原文化遺跡玉璋が三星堆遺跡の遺物に似ていた り、三星堆遺跡の銅環が、ベトナムの銅荳文化(Dōng Dâu)で大量発見されたりと、両地域の交流は1000年以上前からあった、と推測される、とのことです。どうなのでしょうか。交易がある、という程度で は、蜀王朝の遷移の証明にはならないのではないように思えます。最近成都市繁華街で、戦国末期、恐らく開明王朝時代の墳墓と考えられる遺構が 見つかっていますが(こちら に解説があります)。当時の蜀王国では、非常に特徴的な文化を持っているわけですし、王子が個人的に亡命して、土着文化を受け入 れるならともかく、軍団を率いて国を征服したというのであれば、埋葬のような重要な祭祀については、征服先の国でも行ったのではないでしょう か。少なくとも交趾に移住した蜀の人の多くは、蜀の習俗で埋葬された可能性が強いと考えられます。ベトナムで、船棺埋葬墓でも発見されない限 り、蜀王子征服説は成り立ちがたいように思えます。

 

 とはいえ、上記反論中の1)にあるよ うに、108年間も蜀王子が生きていた可能性は低いとは思いますが、蜀王子は前257年の安陽王即位後、直ぐ死んだのかもしれませんし、「南 越志」では、蜀王の子が安陽王として即位した、とあるので、蜀滅亡時の王子本人ではなく、王子の息子が安陽王についた可能性を考えれば、前 214年当時の安陽王が、最後の開明王の孫である可能性はありえるとも思えます。

 

また、当時の交易ルートは、雲貴高原と 五嶺にさえぎられていて、河川に沿ったルートが主なルートだったと考えられます。四川から交趾に抜けるには、貴州を通過するのではなく、一度 雲南に入って、紅河沿いに交趾に抜けるルートとなるルートがメインだったとも考えられます。しかしこの方面は、前280年頃に、楚が進出して おり、もし、蜀がこのルートをとっていたとしたら、なんらかの痕跡に遭遇したのではないかと思われます。貴州から抜ける場合は、広東省の方に 出てしまうため、一度ここに出てから、再度交趾に向かったことになりますが、広西壮族自治区と交趾の間は山がちで、雲南経由のルートよりも、 更に可能性が低いように思えます。

 

 ベトナムで、明らかに蜀王国の文化遺 構が発見されない限り、史実性は低いままに留まるものと思われます。この伝説は、前257年に、なんらかの勢力が、突然興隆して、それまで交 趾にあったとされる、文郎国を滅ぼしたという事件を反映しているのでしょう。この勢力は、現広西壮族自治区の東方にいたとされる西瓯国との説 もあるようです。

 

 

 参考資料

-「大明山的記憶 -駱越古国 歴史文化研究 - Research on the Historical and Cultural of Ancient LuoYue」(広西民族出版社)」

-「大 越史記全書/外紀卷之一」(Wikisource)

 

なお、蜀王子が移住したとされるコーロア城の遺跡についてはこちら

 

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