ポーランド歴史映画「カジミェシュ大王」第二部

 1975年ポーランド製作。ポーランド史上屈指の名君カジェニシュ大王の生涯。第二部 (1350年頃から1370年を描く)。今回は、映画の中の発音通り、カジミェシェは、「カシミール」と表記します。

 冒頭、第一部と同様、教会の穴掘り場面から始まる。馬車で運ばれるカシミール王。恐らく馬車で運ばれているのは、落馬したから ではないかと思われる。考えてみれば、悲壮なテーマ曲は、第一部の冒頭からだった。

  馬車で運ばれながら回想。スルツカの部屋。スルツカが妊娠を告げる。あまり嬉しそうではないカシミール。スルツカは直ぐに気づ く。再婚するのね。アンナ・ ルクセンブルカ伯?、ツルカランド伯?、アデファランド・ヘスカ(ヘッセン)伯?誰なの?と問い詰め、口論になり、スルツカはや がて部屋を出て行ってしま う。スルツカの家。

 そして結婚式。クラクフの王宮も、漆喰で覆われ、きれいで明るい内装となっている。

  この親娘が入場してきたとき、ランド・ グラフ・へスキー・ヘンドリックと呼ばれていた。2番目の妻はヘッセン伯息女アーデルハ イト・フォン・ヘッセン で、父親がポーランド発音でヘンリックなので、ヘッセン伯の娘アーデルハイトのことだと思われる。史実では1341年、カシミー ルは41歳、アーデルハイ トは16歳だった(黒死病の流行(歩ランドでは1350年頃)と前後するが、演出上この順番となったのだろう)。

 初夜、カシミールはそれとなく部屋を出ようとするが、家臣に扉を閉められてしまう。頑張って開けようとするが、家臣も全力で扉 を塞ぐのだった。

 建設現場には活気が戻って建設が進んでいる。黒死病は去り、現場には活気が戻っている。

  スルツカの家を訪ねる王。木造家屋だが、窓には小さなステンドグラスが嵌っている。スルツカとは仲直りできたようである。キスし てことに及ぼうとするとこ ろで、王の耳に早馬の音が聞こえてくる。不承不承扉を開けると、敵の侵入の報告が。今回の敵はドイツ騎士団ではなく、装備も顔つ きも東方の軍隊のようであ る。明らかにタタール人と思われる兵士も加わっている。

  一団は、物陰から息を呑んで見守る農村に襲撃をかけ、家畜や農民毎略奪するのだった。リヴィウという単語が出ていたから、 1340年、当時ハーリチ・ヴォ ルイニ(現西ウクライナ)のリヴィウ付近にいたポーランド農民迫害が背景にあるのではないかと思われる。当時の農家の屋根のひさ しは、人の身長よりも低い 位置まで下がっていたことがわかる。

 出陣したポーランド軍。王は先頭の天蓋の無い馬車。

  敵軍には明らかに東洋人が多数混じっているが、頭目はスラヴ系なので、この戦いは、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)の支援を受 けてハーリチ・ヴォルイニ 国がポーランドに侵入してきた1340年の冬の戦闘がモデルではないかと思われる(映画の中では、黒死病が終わっているものの、 アーデルハイトとの結婚は 1341年のことなので、シナリオ上、時間を前後させているものと思われる)

 カシミール軍は中世重装騎兵の典型だが、長槍で突撃するだけではなく、剣を持って戦っている。機動力のある重装騎兵というとこ ろ。

  敵方は軽騎兵。最初に弓を放ち、その後は騎馬上での剣戦である。カシミール軍は2つの同盟軍と合流してから戦っているので、 1366年のハーリチ・ヴォル イニとの戦いもモデルとなっているのかも知れない。いづれにしてもカシミールの治世では、1340年から1366年まで断続的に 何度もハーリチ・ヴォルイ ニと戦い、結果として領土が2倍になるのである。映画を見ていると、防衛戦争に見えるが、実際はハーリチ・ヴォルイニ国の内戦に つけこんだ侵略戦争であ る。

 戦闘結果の帰趨は定かではないものの、燃えている農村に農民達が戻されるので、戦争は勝利したということなのだろう。戦後、ス ルツカを訪ねるが、侍女が「誰もいれるなと言われている」と言い、王はそのまま帰る。これ以降、スルツカは登場しない。
 
 場面は宮廷に戻り、ドイツ騎士団の使者がやって来る。一方的に口上を述べ信書を渡して去っていったのだが、これで一応の平和協 定となったようで、これ以降ドイツ騎士団がポーランドの農村や教会を襲う場面は出てこない。

 次は国内への統一法典の布告と新体制の発表である。クラクフ城内に、全国の貴族が集められ、役人が王の布告を読み上げている。 多数の旗は、それぞれの貴族が参加しているということであると思われる。

 上記写真中央あたりに構えられた王のひな壇。この映画としては、戴冠式以来の華やかな場面。

  この体制一新で、1343年来、ポズナン知事を務めてきたMaciej Borkowic (Macko Borkowic(ブロコヴィッチ)) は解任され、新たに二人の知事に置き換えられたようである。これは1348年のこととされている。これに不満を抱いたブロコウィッチは勝手にポズナニ市長 を名乗って居座る。映画では、王の布告を聞いて解任されたブロコヴィッチが、クラクフ城外に出てきて、兵士らしき者ともめ、兵士 と決闘となり、殺害してし まうことが反乱の開始とされているようである。その話はその夜のうちに王に伝わるが、王は苦悩するばかり。家宰と見られる老人 が、部下の男に、ブロコ ヴィッチをスパイするように命じる。

 ブロコヴィッチの家(反乱兵士の陣営でもある)の周囲でキャンプする兵士達の間に入り込んだスパイだったが、見つかって逃亡、 追いかけられて処刑される。下記は、ブランコヴィチの家から出撃する追っ手。

 史実では、王は1352年になり、ポズナン市長を更迭し、シレジア人のWierzbięta Paniewic Niesobiaをポズナン市長につけ るが、これは事実上反乱状態にあったヴェリコポルスカ地方の反乱を公式的なものにすることになった。
 ブランコヴィッチはBorków, Awdańców, Grzymala, Naleczow and Zarembaなど、ヴェリコポルスカ地方の有力貴族とともに反乱を拡大し、カリシュ知事のカリシュ(Benjamin Urzasowa Kalisz)を殺害する。ベンジャミンという名前から、カリシュはユダヤ人だったのではないかと思われます(カシミールはユダヤ人には寛容政策を採っ た)。
 下記は、明け方、カリシュの木造の城砦を襲撃するブロコヴィッチ軍。


 カリシュの城砦は燃え上がるのだった。

 その後、ブロコヴィッチは王の元に出頭して許しを請い、十字架に誓わせ、許される(史実では1358年)。ところが、ブロンコ ヴィッチが家に戻ると(下記が家)、誰もおらず、家にも入れない。そして気づいてみると、周囲を兵士に囲まれているのだった。

 こうして逮捕されたブロンコヴィッチは、地方の城の地下の穴倉に落とされ、木の蓋をされ、釘で打ち付けられ、事実上処刑されて しまうのだった(史実では1360年)。

  馬車で揺られる現在の王に戻る。漸くクラクフ城にたどり着き、担架に仰向けになったまま城に担ぎこまれ、寝台に寝かされる王。そ こでまた回想場面となる が、もう回想場面も老境に近づいているので、回想と「現在」の映像との見分けが難しくなってくる。ここからKazko Slupski (北海沿岸にあるスウプスク公国の君主でカシミールの娘エルジュビェタ(第一部で野宴で見合いをさ せられた気の毒な娘)の息子(彼は映画ではカシュコと呼ばれている。カシミール没後、スプウスク公国に加えてドブジン地方を一時 的に相続しただけに終わった。通常はカジミェシュ4世と呼ばれる)が登場してくることになる。本作唯一、カシミールに 次いで登場期間が長かった人物かも知れない。

  カシュコとその友人がサイコロ遊びをしているところを見つけて怒るカシミール。カシュコの年齢(1351年生まれ)と、カシミー ルの老境ぶりからして、 1365年頃のことかと思われるが、この後、カシュコとリトアニア大公の娘が結婚する場面が出てくるので1360年頃のことにな る。下記がリトアニア軍と の会盟に向かうカシミールとカシュコ。

 リトアニア大公アルギルダス

 一方のカシミール。まだ50歳の筈なのに、70歳くらいに見える。

 アルギルダスとカシミールの前に跪くカシュコとアルギルダスの娘ケンナ。アルギルダスはカシュコに、リトアニアの帽子と毛皮を 与え、カシミールはケンナにポーランドの王冠を与える。ウラーの歓声が沸き起こり、カシュコとケンナは兵士達に担ぎ上げられ祝福 される。

 続いてアルギルダスは息子のヤゲウォ(後のポーランド王ヤギェウォ家開祖、ヴラディスラフ二世)をカシミールに紹介し、カシ ミールはヤゲウォに剣を与えるのだった。

 右がカシミール。中央がアルギルダス。左がヤゲウォ。

 その後、野営地で静かな婚約の宴会が行われる。老詩人が竪琴を奏で、みな静かに聞き入っている。

 カシミールとアルギルダスは、林の中を散歩しながら会談する。カシミール王は、リトアニアとポーランドが協力すれば、ドイツ騎 士団を挟み撃ちにできると身振りを交えて語る。

 しばらくして野営地にドイツ騎士団の捕虜が連行されてくる。この場面、台詞が無く、アルギルダスの表情も読めなかったのだが、 恐らくリトアニア側は最初からポーランドとの同盟の贈り物としてドイツ騎士団の捕虜を連れてきていたのではないかと思われる。

  ドイツ騎士団の根拠地で鐘楼の鐘が鳴り響いている。団長と思われる人物が臣下に叩き起こされる。急いで着替えて窓から外を見る と、聖歌を歌いながら騎士団 本部に人々が押し寄せてきている。それを騎士団騎士が出て行って、近づくのを防ぐのだった。家臣の口からリトアニア公ケーストゥ ティス(アルギルダスの 弟)の名が出ていたから、押し寄せていたのはリトアニア人だと思われる。ポーランドとリトアニア連合の結果としての、ドイツ騎士 団領への侵攻ということだ と思われる。

 これは団長が窓から見ているところ。左側にステンドグラスの窓が見えている。右手奥に港湾が見える。海辺の拠点であることがわ かる。

  ここで再び場面はカシミールの宮廷に戻る。毛皮を身につけ、背が曲がったその姿は、ほとんどイワン雷帝を連想させる。この場面で は、家臣に向かってよく しゃべるようになっている。ブランデンブルグとかドイツ騎士団とか口にしているから、ドイツ勢力対策を話していると思われる。

  そして、ブランデンブルグのルートヴィッヒ6世が1365年に死去したことで、ヴィッテルスバハ家の断絶を予期したブランデンブ ルク内の数名の諸侯がポー ランド側に寝返った(1365年にSantoku、 Drzeniu、1368年に Drahim、Czaplinek、Wałcz)。下記は、そのブランデンブルク諸侯がカシミールの配下に入る儀式の様 子。

 こうして苦難に満ちた王の最後の晴れやかな日は終わった。

 落馬して骨折して寝台まで運ばれた王は、カシュコにいくつかの所領を与えるよう遺言するが、王の息が止まった直後、臣下は書類 を破いてしまうのだった。王の逝去に泣いているのは側近だった僧侶だけ。クールな王を見送るクールな家臣達はこのようなもので あった。

 偉大な王の生涯は終わったのだった。

〜第二部終わり〜

余禄:
中世ブルガリア歴史映画と同様、 16世紀までの、共産主義時代に製作されたポーランド歴史映画・ドラマも制作年順に並べてみました。年代と敵対関係や微妙な関係 として登場した外国も記載してみました。何か傾向がわかるかも知れません。

鉄十字軍(1960年・ドイツ騎士団)
ボレスワフ大胆王(1971年・キエフ公国)
コペルニクス(1973年・ドイツ騎士団)
Gniazdo(1974年)
カジミェシェ大王(1975年・ウクライナのタタール)
鷹の紋章(1977年・ドイツ騎士団)
王妃ボナ(1981年・リトアニア・ハプスブルク)
バルバラ・ラジヴィウヴナの墓碑銘(1982年・リトアニア)
兜と修道服(1985年・ドイツ騎士団)
王家の夢(1988年・リトアニア)
鉄の手(1989年・トランシルヴァニア)

と 思って並べてみましたが、中世ブルガリア歴史映画と異なり、あまり明確な傾向はなさそうです。あえて言えばいかにも共産主義時 代っぽい作品は「鉄十字軍」 に感じられるだけ。「王妃ボナ」とそのスピンアウト作品である「バルバラ・ラジヴィウヴナの墓碑銘」や「王家の夢」などは、ブレ ジネフ時代とかだったら貴 族文化礼賛として批判されたかも、とか。70年代の作品までは悪者一辺倒な感じだったドイツ騎士団が、「兜と修道服」では娯楽映 画の悪役程度になってい る、とかでしょうか。ただ、民族主義を高らかと歌い上げるブルガリアやルーマニア映画と違う傾向が、中世ポーランド歴史映画には 感じられる、というのも、 ポーランド歴史映画のひとつの特色ではないかという気がしました。

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