7時40分出発。11時25分成田着。 12時集合。 中国ヴィザ用の写真を西遊社のかたに渡す。
13時半離陸 15時20分ソウル着。
えらく疲れて眠い。 しかし遠藤さんは免税店を見たがる。
遠藤さんの話を色々聞く。
最後は限界ベンチで居眠り。
17時55分離陸。。 機内では藤木さんのおとなり。 色々話を聞く。
21時タシュケント着。 タシュケント上空で見た夜景は大都市のもの。 ソフィアみたいな感じを予想していたので意外。
空港では日本人ツアーばっかり。 東急観光や住友金属のツアーとか。 すごい。
空港で1ドル115スム。 現地添乗員の方がレートがいいとのことで両替やめる。
ホテルはやたら巨大なホテル。 きっと旧共産主義時代特有の、 重厚長大で中身がすかすかのホテルでは、
と思っていたが、 それほど酷くはなかった。
23時やっとホテルに入室。 えらく広い部屋。 夜景がきれい。 テラスからは東京タワーのようなタワーが見える。
6時24分起床。
朝食時、松下村塾の人と隣り合わせたのでちょっと話を聞く。
ニュースでロシア語放送。 時にブルガリア語と同じ単語があるのがわかる。
朝食後16階の改築中のフロアへ。 見晴らしよく市内一望できる。 バス停は正方形あるいは長方形の箱型で、
道路に面した部分だけが 壁が無く、 箱の上には塔の様なものちょこんと載っていて、如何にもイスラムっぽい。
街並みはのびのびとしている。 8時20分出発。途中バザールに一度よってから東へ向かう。
9時55分アルケリク(アングレアン?)の町。 ここでバスからワゴンに乗り換え。
バスは検問に引っ掛かり通過不可とのこと。
11時半乗り換え、ガソリン給油。 ガソリンスタンドでは給油機を修理していた。
ここでトイレ。
だんだん山がちなところへ入って行く。
右手に河。 堰止湖。 舗装してない部分あり。 一般のバスを追い抜く。
ブルのぼろバスと同じ。 それよりひどいかも。 当然ながら酷く遅い。
こりゃ一人できたら、 一般バスではタシュケントーフェルガナ間は1日ではは移動できないに違いかもしれない。
12時半 とある県境にある村のレストラン(といってもただのホールに椅子と机が置いてあるだけだが)昼食。
ゲートがある。 州境なのだそう。 トイレは裏の林ですます。
ここを発つと道は色葉坂の様に曲がりくねり、標高も上がり出す(と言っても確かこの峠で2200mくらいだった気がするが)。
カムチック峠2268m。 ここがフェルガナ峠へ至る道路の最高地点。
石塔が立っている。 現地の人に写真を撮らされる。
将来縦貫トンネルが開通すると、 ほぼ古代シルクロードに沿った道をゆくことになるのだそう。
現在の幹線道路は古代シルクロードとは2,3キロづれていることになるらしい。
15時40分コーカンド着。 トイレ休憩。 5スム。
添乗員のおごり。 ここでターヒルに日本人のGFの写真を見せてもらう。
18時頃フェルガナ着。 旧共産圏に典型的なホテル。 ビジネスビルみたいな12階建てくらいのホテルフェルガナ。
お湯が出ないのでバケツで配給。 だが面倒くさいので水シャワーを浴びてしまう。
夕方フェルガナの中央バザールへ皆で散歩に出かける。 女性の衣装が華麗だったが、 若い女の子には写真を拒否される割合が
高かった。 おばさんは平然と同じない。
夕食は地下。 ダンスホールの様なところ。 市の役人だか議員だかがとなりのテーブルでパーティーしていた。
体調あまり良くない。夜目薬して寝る。
9時〜10時フェルガナ考古学博物館。
石器時代から近代まで、小さいながら充実している様に思えた。
フェルガナ盆地の地形図、 チムール時代の兵士の鎖帷子、 斧。
コーカンド王の肖像、 コーカンドじ時代の鍛冶屋などの実物大模型。
内閣の備品とかもあったような・・・・
国旗と国章の詳しい説明もあった。
午前中眼痛。 少し寝て良くなる。
11時半〜12時35分アフシケント遺跡。
8世紀頃の都市遺跡。
シルダリア北岸、川に面する50m程の断崖上にありロケーションは抜群。
でも見学時間が短くて結構見所があったのだと知ったのは、帰国してシルクロードのビデオをみてからだった。
規模は大きいがどほとんど風化していた。 自力で行くのは難しそう。 多分タクシーしかないのでは。
アフシケント遺跡前の食堂で食事。 魚料理。 店の前で裁いていた。
スイカがおいしかった。
私はいかなかったがトイレの中では水の代わりに砂を使用する様に砂がもってあるのだった。
13時半出発、15時10分クヴァ到着。16時半まで見学。
カラハン朝前後の都市の跡。 発掘はまだ一部。
でも土台だけなので遺跡自体はそれほどではないけど、 歴史の本にもそんなに詳しく載っていない、 素人にはイメージがつかみずらいカラハン朝の遺跡を
見ることが出来るとは思わなかったのでちょっと感動。
トイレに猛烈にいきたくなり、遺跡のすみでこそっとみんなに隠れてする。
出土品の一部を見せてもらう。 ガラス器、フラスコなどに驚嘆する。
暑い。日傘が役に立つ。
付近の子供たちが寄ってくる。 お金を要求しない。 純真である。 これがもう数年立てば 観光文化が浸透し 「マネー、マネー」 というようになるのだろうけど。
クヴァ市の入り口。 巨大急須と茶碗、ざくろの像。 これが市の象徴なのだそうだ。
17時アクテペ着。 先史時代のテル。 まだ未発掘。 フェルガナ市街が一望できるとのふれこみは過大。
フェルガナ盆地は関東平野くらいだだっつぴろく、 スイスの様に山に囲まれた盆地を想像していたので、 ちょっとイメージと違った。
18時頃ホテル着。 アフシケント遺跡で、 石川さんが蹴ったまねをしたのでこのフェルガナ市だけの現地ガイドのアレクセイがタヒールに文句を言っていたという。
アレクセイにあれはジョークだと説明したら、 彼も分かってくれている様だった。 お礼に日本から持ってきた絵葉書と5円玉を渡す。「御縁があります様に」という意味も説明。
夕飯は5階?だったか、カラオケバーのようなところ。
6時45分起床。 8時20分頃出発。
出発時アレクセイからみんなの分のフェルガナの絵葉書もらう。
9時35分運河で写真ストップ。
10時10分コーカンド着。
コーカンド汗国(フィアデルハーン(最後のハーン)の宮殿を見学。
1873年建設、114室。ハーレム部分は崩壊している)王宮、 ジャメモスクとメドレセが残る。
これらは木造建築。 天井がいちいち面白い。 ポタラ宮みたい(行ったこと無いけど)。
イーワンスタイルというらしい。 青と白、 緑と赤の組み合わせ。 中国の影響も濃いように思える。
12時半、コーカンド汗の墓を見る。 装飾はやっぱり復元・修復されている。
オリジナルの部分が必ず一部区画のこっていて、 比べることができる。 修復部分とオリジナル部分は大分違う。
コーカンド市内で昼食。 昼食の手配にいっている間に美術学校のトイレを拝借。
学生に絵を見ないかといわれる。 「ニャーマ・ブレーメノ」 で通じたみたい。
13時半から18時半移動。
帰りのバスの中では井上さんに色々話をうかがう。
国旗のシート、 語学のシートなど色々参考になる。 旅行代理店業界についても少し教えてもらう。
ワールド航空、 旅のデザインルーム、 トラベル世界。 そんな世界があったのか、と初めて知ることばかりである。
発破を仕掛けているとのことで、停車していたときのこと、井上さんが 「御元気ですか?」 と現地語で書かれたシートをとなりのダンプの運転手に見せたところ、
運転手かた ウリをもらった。 休憩したバザールでも井上夫妻が大活躍、 大いに盛り上がっていた。
夕方タシュケントへ。 夕食20時。 23時頃寝る。
タシュケントーフェルガナ間364km、タシュケントーコーカンド間236km。フェルガナーコーカンド間90km。
6時51分起床。 朝食後散歩。 雨。 1時間20分ほど散歩する。
ホテル前の道路を隔てた公園のチムール像、 官庁街、 ポーランド大使館、 地下鉄駅などを見る。
9時出発。 メドレセと金曜モスクを見る。 (バラク・ハンメドレセとジャマモスク。タシュケント旧市街にある。すこし旧市街を垣間見る。)
地方の給料は月2千から3千スムとのこと。
タシュケントタワーは375km先からでも見えるのだそう。
その後国立歴史博物館へ。 如何にも旧共産圏の博物館。
エントランスは3階まで吹き抜け、吹き抜けの奥の壁に約20mX10mの巨大な壁画。
昼食はバザールの奥の店。 ちょっとわかりにくい裏路地を入ったところ。
今日は友達の誕生日とかでパーティーしている一団が。井上夫妻が友好を深めていた。
ナボイ劇場は日本人捕虜によって作られたそう。 デパートで誰かがが傘を買いに。
その結果デパートで遠藤さん行方不明。 捜索に戻ったり。
雨の中サマルカンドへ向かう。
途中シルダリアで写真ストップ。
360度見とおせるような平原を走り、やがてゼラフシャン川が近づくとカラコルム山脈の支脈も見えてくる。
このあたりで、もう一度 チムールゲートといわれる場所で写真ストップ。
断崖に書かれた大量のペイント。上の方はどーやって書いたのだろう?
アムダリアのオアシス地帯との地域境界らしく、このゲートと言われる、100mほどの巨大な岩山の間をゼラフシャン川(?)と幹線道路が
通っており、ここは古代から幹線道路であり、軍隊はここを通って進軍したらりい。
このあたりはまだ雨模様であったのだが、サマルカンドは晴れていた。
18時10分、サマルカンド着。 改修中の足場の組まれたモスクらしきものが日没間際の
夕日の陰となって見えてくる。 廻りの近代建築物に囲まれていても、一際巨大で目立っているのには驚いた。
18時半チェックイン。 サマルカンドのこのホテルはえらく近代的。 結構新しめ。 多分ここ2,3年中の新築だろう。
やわらかなオレンジの内装がモダンである。 中庭にはプール。 フロアにはビリヤード台。
民族ショーバーもある。
民芸店が面白く、 お土産に手ごろなポケットイラストが数十展示されている。
藤木さんはこのイラストを買っていた。
井上夫婦は民族ショーバーにいったみたい。
23時頃、日本人ツアーが到着する。 モントとかいうツアーとのこと。
7時半起床。 食後1時間くらい、チムール廟へ散歩にでる。
上着を着ないで玄関を出たところ、ひんやりと肌寒い。 上着を取りに戻るべきだったかも知れない。
朝水の様な便が出たのも兆候だったのだろう。 夜も少し寒かった。 毛布をもらっておくべきだったかも知れない。
天気は上々、朝のすがすがしい空気の中、 チムール廟、 その手前の廟を見て戻る。
午前中はチムール一族廟、 アクサライ廟(ウルグ・ベクの子供の墓、ウルグ・ベクを暗殺したのでチムール廟には入れなかったらしい。未整備。内部には入れない)、
レギスタン広場、歴史博物館へ。
今回の旅行で一番印象に残った思い出はこのサマルカンドで半日ガイドをやったことである。
チムール廟でツアー客の一人のあるお年寄りの女性が階段からこけた。
皆真っ青になって救急車を呼んだ。 どうも肩の脱臼らしいということで日本人添乗員と 現地旅行会社添乗員(ウズベキスタン人)二人とも付き添って医者へ行くことになってしまった。「添乗員代理に任命します。 あとよろしくね」 ということで唖然としている私を置いてツアー責任者二人は救急車に乗って行ってしまった。
こうして私はチムール廟、 レギスタン広場、 歴史博物館等で、 彼らが戻るまでサマルカンドの現地ガイドの通訳・兼代打添乗員をすることになった。
添乗員とは大変だと思った。 私はそれほど英語ができるわけではないし、 専門用語はわからないし、
ぼられているお客の為に代わって値切り交渉もやら無くてはならないし、 その間すきを見て添乗員の解説ノートを読んで
現地ガイドが話していない内容を付け足さなくてはならないし、 とにかくしゃべり続けていなくてはならないし、 お客がどっか行ってしまわないよう監視してなくてはならないし
非常に疲れた。
しかしその代わり 「のどがかすれる」 と言っては他の客から飴を徴発し 「疲れた」 と言ってはお菓子やビタミン剤をもらったりして気分はよかった。
しかし昼食後判明したのだが、 あまりに消耗が激しい理由は熱が38度も出ていた為なのだった。
どうもチムール廟ですでに疲れ気味で立っているのが少々きつくて、 やたらと座りたがって、 とうとう 廟の 「聖なる」 場所に(それとは知らず)座ってしまったのだが、
その祟りだったのかもいしれない。
昼飯後は午後の観光はあきらめてホテルで寝る。 14時半にすこし良くなったもののその後寝汗で冷えて38.9度まで熱が上がってしまう。
寝ている時がんがん汗がでる。 シーツを何度も代える。
他の連ちゅうは午後アフラシアブ(モンゴル進入以前の旧サマルカンド遺祉)へ。
結局夕方に余分な毛布を持ってきてもらう。 夕飯は部屋へ運んでもらう。 食欲はなくはないが、やはりのどをとらなくなっている。
21時、ターヒルと石川さん一緒に病院までつきそってもらう。
美人の看護婦さん。 ブルガリア語とロシア語でも案外通じる。 年齢は?独身? 注射うってもらって引き換えす。
診察料、 注射料ただ。 社会主義時代の名残らしい。 税金払ってない観光客も例外無い扱いなのだそうだ。 これは旅行には安心だ。
特に今回旅行保険に入って無いとあっては。
街灯は暗く、夜の市街はブルガリアのようである。 なぜかほっとして、リアル感が沸いてくる。 この雰囲気になにかなじむのだ。
ブルガリアの空気にリアリティを感じる様になっているのだ。。。。