10月4日

  昨夜はホテルに着いた時は人通りがまったくなかったが、朝ホテルのドアを一歩でると、そこは歌舞伎町通りのような大混雑。
車は渋滞し、通行人はうっかりしていると肩をぶつけかねず、まっすぐ歩くことが出来ない。どこでもドア状態。

  ホテルの部屋の窓は飯屋の裏窓と背中合わせになっていた。 客がうまそうなものを食っているのをみてそこで朝食にする。
しかし大人気で狭い店内は満員。 並んで待った。  サリ市街にある15世紀の廟を2つみてからゴルガンに向かう。
 これらの廟はわざわざ出かけていって見るほどのものでもないとおもうが、もののついでで見に行くのもいいかも。 でも中には入れない。

 サファリでゴルガン行ミニバスターミナルへ移動。 いつのまにかサファリを利用するのがうまくなってきている。
サファリとタクシーでは倍から10倍は料金に差がある。
 10時15分発12時ゴルガン着。 右手に見えている山並みが段段低くなってゆく。 あたりの緑も段段減少し、風景の中に茶色が混じり出す。
 

 ゴルガンでは、イラン版万里の長城サッケ・デ・イスカンダールを目指す。
しかしなかなかみつからない。 知らないくせに大丈夫だ、 さあ乗れ、 というタクシードライバーがたまにいるが、肝心なところでそのパターンにはまってしまった。
ガイドブックにはゴルガンから30キロ程度のところ、 と書かれていたが、 50キロ以上はかるく走って到着したところはダムによる塞き止め湖だった。

 北へまっすぐ向かうと、あたりの起伏がなくなり、綿畑が広まってくる。 ひたすら平面の世界へ入って行く。
 日本と似た様な景色は消えうせ、どんどん沙漠へ至るグラデーションが窓の外を流れて行く。 

 どうやら今はこのダムのことを 「サッケ・デ・イスカンダール」 と呼んでいるらしい。
確かに 「防塁」 ということでは長城もダムも同じである。
道々場所を答えてくれた連中は このダムのことを念頭に置いていたのではあるまいか。
だから50キロも走ることになってしまったのではないのだろうか。

 そのうち運転手が 長城は塞き止め湖の下に水没したのだ、 身振りで言い出す。
そんなことはない、 このガイドブックの出版年を見ろ、 今年の5月だ、 このダムはどう考えても5年以上は前に造られているだろう、と身振り手振りで言い返す。
根負けしたのか ドライバーはダムの従業員のいるところへ車を走らせ、 従業員になにやら質問している。
 そのうち従業員がこちらへ来い、というジェスチュア。
ダムの管理棟のような事務所へ連れて行かれ、 そこで責任者の部屋へ案内された。
その中年のでっぷり太った責任者は英語で会話が出来た。
書類を裁き、 部下になにやら指示をとばしながら平行してこちらにも質問してくる。
ここでも長城は水没したといわれたが、 ガイドブックの出版時を示し、 絶対残っている筈だ、 と頑張ったところ、
「所長」 は何度か従業員に質問を繰り返し、 一部水没をまぬがれたところがある、 従業員の一人に案内させよう、 というご返答をいただくことが出来た。
やったーらっきー。 ところが、 せっかく迷惑をおかけしたのにもかかわらず、事務所から帰り際、 事務所長に礼を述べる時、
最後の一言をしくじってしまった。 「I feel much interesting the history and culture of IraQ」 とやってしまって失笑を買ってしまったのだった(わざとじゃない。思わずでて
しまったのだった)。

  さてダムの従業員に案内してもらって 漸く長城の残骸を見ることが出来た。 
ほんとに残骸であった。 綿花畑の中に土がこんもりももりあがっているところに、 明らかに人工的に加工されたと思われる石が散らばっているだけなのであった。
これでは原形を想像することも出来ない。 南をみるとエルブルズ山脈は遠く 低く 薄くかすんでいる。
 近くの集落にも案内された。
 集落の端にあった小さい石造りの倉庫のような建物を示し、 「この石は長城の石を持ってきたものだ」 とのこと。
 タクシーの運ちゃんが近くの売店(といっても泥レンガの、倉庫みたいな建物の中にスナックとZAMZAMが置いてあるだけ)でZAMZAMをダム職員と私と運転手の分を
買ってきてくれた。 私は売店でついてにパンを買って昼飯にしてしまう。 一応2人にも差し出したが、いらないとのこと。

 結局12時頃ゴルガンをでて戻ってきたのは4時半だった。 こりゃ最初に交渉した額じゃ足りないだろうと1万うわのせして6万だしたのだが、それでも足りないという。
相場はチャーターで1時間1万。 5万でも多目なのに、 ふざけるな、 と言い合いになる。 6万2千だし、 「これで全部だ」 と下りてしまう。

  ガイドブックの位置が間違っていたので、ホテルさがしにちょっと手間取ったが、程なく見つかりチェックイン。
 凄く疲れていて17時から18時半、ホテルで寝転がって休憩。

 宿の親父に (正確にいえば親父は知らなく、親父をつうじて夫人に教わったのだが、ペルシャ語でパルティア朝のことを 「アシュカニアン」 というとのことである。つまりパルテ
ィアはアシュク、中国の安息に結びつく。 これでやっと長年の疑問が解けた。 「アルシャック」 がアソクになまったという説明ではいまいち納得できなかったのだ。その後
「民族の世界史 アフロ=アフリカを読むと、当時ペルシャ語と漢語との間ではr/nの置換があったとの記述を読んだ。してみると、arshak->anshakとなったということになる)

  ペルシャ語もトルコ語もぜんぜん話せないから、 接触出来る人たちは限られてしまうわけだが、 旅行中インテリと戦争捕虜経験者に時々出会った。
 このゴルガンで泊まった宿の親父は本人曰くオックスフォードに留学していたというインテリ。 どうやら79年のイラン革命後帰国を余儀なくされ、
イラン・イラク戦争で3年間捕虜になり、 結局宿屋の親父になることになってしまったようである。 こういう人は結構いるようである。
 テヘランへ向かうバスで隣り合ったおっさんも そうした一人の様であった。 オレゴン大学に留学していたそうで、 この人の場合はイラン革命そのものを担った学生部隊だったらしいのだが、 帰国して結局革命の結果が 予想を越えた内容になってしまい、 思うような人生を歩めなくなってしまったらしい。
 アルデビルのサフィー廟の門番をやっていた男は イラン・イラク戦争時8年間も捕虜になっていたそうで、 戦争で怪我をしてすこし頭をやられているらしく、
 「俺は子供の頃頭は良かったんだ。 しかし戦争へ行ってからこんなになってしまった。 勉強がしたかった」 とこぼしていた。
 話している内容からすると論理的で知性は高そうであったが、 思考を振り絞って言葉を絞り出している様な話し振り。
この男のなにかが壊れていることは間違いないように思われた。

 夕食は宿で紹介してもらった定食屋。 安くってうまかった。
 夜中、ゴキブリがベッドの上に上がってきた。 なにか寝ている時なにか手にのっかったな、と思い、はっと起きてみるとゴキブリ。
 部屋には3つベットがあり、あまり意味はないと思うが、他のベットへ移った。

10月5日

  ゴルガン博物館へゆく途中の店で朝食。 
 レバの串焼き。 ここでは客が自分で焼くのであった。
 
 ゴルガン博物館では 歴史を研究している学生といつわって 博物館の従業員に館内を案内してもらい、 ついでに資料室も覗かせてもらった。
2階は考古学、 地階は民俗学で、 宿の主人は 「あんな小さい博物館ではたいした人材もいないし、 たいしたことはわからないだろう」
と言っていたが、 小さい割には充実している内容だし、 学芸員達は親切で熱心である様に見えた。
しかしヘカトンピュロスの場所は分からなかった。

 セルジューク時代のモスクを2個所見学し ターミナルへ行くためにタクシーを拾ったら、また昨日の奴だった。 1500しか払わねぇぞ、と言って乗る。

 10時50分発のバス。 3分の1くらい空いていた。 門のところで乗ってきた親父がとなりに座り、チケットいくらだった?と尋ねてくる。
定価がないのは外国人だけではないらしい。 
 6時間もバスに乗っていたので、 このおっさんには色々な話をきいた。
イラン革命当時と現在の問題のみならず、 日本の製品について(ミシンの話)、 米国留学時の経験から 米国人に浮気と近親相姦が多い理由、
各国の食事など多岐にわたり、殆ど景色を見ることができなかった。 特にエルブルス越えの峻厳な景色は何枚か撮っておきたかったのだが、
でもまざ話は非常にイランを知るための参考になったのだからよしとする。

  18時30分テヘラン着。 既に日没を迎え薄闇が降りてきている。 
 トロリーバスの駅前の路上で 乗客全員降ろされる。
市バスでメイダンフセインへ。 
 そこで乗り換えてメイダンホメイニへ。
メイダンフセインは大繁華街だった。 
 新宿西口のような大きなロータリーのまわりは 新宿東口のような賑わいである。
これに比べると、メイダンホメイニは 規模は大きいが新宿西口という感じ。 乗り換えバスがなかなかわからず 目的のバスにたどり着くまでに 5回も人に尋ねてしまう。

 18時50分ホテル着。 値段からして当然トイレシャワー付きだろうと思っていたら、なんと洗面とベッドだけの部屋だった、そのかわりエアコンがついていたが。
ま、そこそこきれいなので 自分を納得させる。 もちろん朝食付き。 
 ホテルは表通りから一本奥まった路地にある。 表通への路地の出口の向かいにあった飯屋で夕食。
 安くてうまかった。 
 

10月6日

  7時半に朝食におりたら、レストランは満員、 8時25分まで待たされることになってしまった。
 最初にカジャール朝の王宮を見に行くが、 途中イラン人青年にひっかかり、 王宮も10時からということでバザールにある彼の絨毯屋へ行くことになってしまう。
 金が無いのを納得していただいたが、 それなら記念に絨毯の写真を撮っていけば、 といわれて 何枚か絨毯の写真をとることにする。
 そのあとバザールを少し案内してくれる。

  ゴレスターン宮殿は民族博物館と王宮からなる。 
民族博物館の展示は、 イラン各地方部族ごとに衣装が飾られていて○。
地方の生活風景の模型になんと 日本人形がイランの衣装を記せられて 駱駝に乗っているのには驚いた。
 きっと当時流れ流れてイランにまでたどりついた日本人妻がいたのだろう。 というわけはなく、 日本で働いたイラン人が持ち帰ったに違いない。

 ゴレスターン王宮では入り口がわからず、 たらい回ししされたので ヒステリーを起こしてしまい、 チケットを叩き付けてでてきてしまった。
私に当たられたイラン人は親切な方だったのだが、 ちょっとこらえきれなくなってしまった。 悪かった。 
酷いことをしてしまったと反省しているが、 ちょっと疲れてもいた。
 ゴレスターン宮殿の正面ファサードはまさに日本のパチンコ屋状態。

  次は本屋巡り。 歴史地図帳、 パルティア、 ササン朝の遺跡写真集を探してあるいたが、
良いものは手に入らなかった(ササン朝遺跡の写真集だけは 空港の免税店でまあまあのものを手にいれることが出来たが)。
ホテルからメイダンフィルダウシーまで出て(ガイドにあった通りメイダンフィルダウシーのところで闇両替人に声をかけられる)、
 テヘラン大学前の本屋街を何件かあたるが、 目的のものは見つからない。
 途中で飲んだメロンジュースがとてもおいしい。
 文化系の本屋より、理科系の本屋が目立つ。 いつの間にかテヘラン大学前まできてしまう。 
 本屋で日本に住んだことのあるイラン人にあう。 この人にも冷たくしてしまった。 もっと色々話をしたそうであったが、 何しろ忙しいのだ。
 本屋調査は一応終了にして博物館巡りに向かう。

 ここから45分ほど歩いて宝石博物館まで戻る。
 宝石博物館は日時が限定されていて、 日曜、 火曜の2時から4時ということ、この日は火曜だったので、宝石博物館にゆくことにする。
 日本人ツアーの一団も入り口で待っていた。 そのガイド(イラン人)によると月曜もやっているのだそう。
ここはイラン銀行の金庫室が博物館となっていて、 カジャール朝、 パーレビー朝時代に集められた王室所有の宝石が貯蔵されているそうである。
ガイドには 「日本人が一生で目にする以上の量の宝石を目にするだろう」 と書かれていたが、まさにその通りだった。
研ぎ米みたいに平箱に無造作に入ったダイヤ、 サファイア、 エメラルド。
 それも宝石別に。 凧糸でできた 暖簾かと思ったら 細かい真珠でできた糸。
 宝石で出来た海はエメラルド、 陸地はサファイアでできた 直径1mの地球儀。
これを見ていると 日本の天皇家ってなんて質素なんだろうと思うようになってしまう。

 次いで歩いて20分ほどのところにある、 ガラス陶器博物館へ。
ガラス陶器博物館は陳列棚がおしゃれ。 陳列容器とそのレイアウトを見にゆくだけでも価値があると思う。
博物館を半分ほど見終わったところで、 先の宝石博物館で一緒だったツアーがやってくる。
向こうはバス。 こちらは徒歩。 しかも途中でメロンジュース買って飲んでるのに どうしてこっちの方が早くついたのだろう?

  考古学博物館は火曜休館とガイドブックにはあったが、 場所確認の為と、 念の為行ってみたら開いていた。
もう3時20分くらいであったが、 大急ぎで見る。
16時10分までみて 後は売店で本を見せてもらう。
ペルセポリスの写真集はいいものがあったけど、 目指す資料はなかった。
17時。 博物館終了とともに メイダンホメイニへ。

  イラン女性は家庭ではチャドルはつけなくてもよいとのこと。 
それでは映画の中の家庭内のシーンはどうなのだろうか。 これを確かめるために映画館へ行った。
 やっぱりというべきか驚いたというべきか、 映画の中の女優はずっとチャドルをつけたまま。
これではプレイスラム期の映画は作れないに違いない。

 ところで旅行中にバックパッカーから仕入れた映画の話。
 「タイタニック」 
インド人の観客はアクションシーンになると 沸きあがるが、 ラブシーンになるとしらけていたとのこと。
中国人。 デカプリオが凍って死ぬシーンで大爆笑なそうな。
 観客の反応からするとブルガリア人と日本人はやっぱり欧米圏かな。
 イランはどうだろうと見たかったのだが、イランでアメリカ映画は御法度なのでした。
 残念。
 しかしカナダのテレビドラマはやっていた。 
マネキンでさえチャドルをかぶっているイランでいきなりテレビで 「フツーの姿の女性」 が映っているのはなんか異様だった。
 映画館の予告編やテレビでは、 アメリカ戦争アクション娯楽映画(「ランボー」みたいな奴)そのものといえるイラン製の戦争映画がやたらやっていた。
 アフガニスタンゲリラとの戦いかと思っていたら、 イランイラク戦争なのだそう。
 イランではZAMZAMというイランオリジナルのファンタとコーラがあるが、 これらに限らず色々見ていると、
基本的にこの国にはアメリカ文化の影響が濃く、 潜在的にアメリカが好きな様に思える。
 18時55分映画終了。
 
 映画自体は初期の 「太陽にほえろ」とかでやってた様な社会はドラマ。

 メイダンホメイニの隅でまたイラン兵士のブロマイド売り場があった。
 イラン・イラク戦争で活躍した兵士は国民的なスターらしい。
 兵隊ブロマイドやA4版の兵隊のチラシがあちこちで売られていた。 アイドル写真を集めるのと同じ様に、若者(少女も含む)が買っていた。
しかしその半数近くが怪我して血だらけのものや死体だった。
いくら英雄でも死体の写真を路上につるしたり、 買ったりする神経はちょっとついてゆけない。

 19時10分 昨夜の飯屋で夕飯。 店をでたところで闇両替を持ちかけられる。 20ドルだけなのでレートは1ドル5千と低い。
これで今日考古学博物館でみたペルセポリスの写真集が買える。 

 ところでガイド本にあった通り、 メイダンフィルダウシーには闇両替屋がたむろしていた。
 宿では両隣の部屋がうるさかった。
 

10月7日
 

 今日は早めに食堂へゆく。 昨日の反省で。 しかし今度は逆に昨日とは大違い、
6時55分にゆくと私は3人目。 従業員も来たばかり。

 まず、最初に考古学博物館でペルセポリスの本購入。 7万5千。
歩いてテヘラン大学前のエンゲラブ広場へ。 結構かかった。 45分くらい。

 考古学博物館の人も絶対歴史地図帳はある筈だ、と断言し、しかし新刊本屋にはなく、古本屋だということで古本屋を紹介してまでくれたが、イメージしていた様なものは手に
入れることは出来なかった。
 それよりなにより本屋巡りをしていて、 すくなくとも本屋と出版物、 店員の状況に関する限りでは、 この国はどうよく評価しても準先進国なのでは、
という印象を持った。 というのも基本的に出版物は理科系に偏っているのである。
 セルビアでもハンガリーでも、 またブルガリアでも本屋へ行って 「歴史地図帳」 といって一度で通じないことはなかったのだが、
ここでは 普通の世界地図をもってきたり、 文字だけの歴史書を持ち出してくる国は初めてである。 
私の質問のしかたがおかしいとも思えない。 なぜなら歴史を勉強している英語の出来るイラン人に 「歴史地図帳」 という言葉をペルシャ語で表記したメモを使って
質問しているわけだし、 なにより本屋の主が分からなくても、 横でやり取りを聞いていた女学生が理解して代わりにどんなものが必要がを説明してくれたわけだから、
これはどう考えても本屋の主の素養に問題があろう。

 しかたがないので簡単な歴史地図を含んでいる歴史の本を購入、6万レアル。
結局日本の高校地図帳のほうがペルシャに関して詳しいのだった。

 タクシーで空港へ。 エアポルト、 エアポート、 アエロポルト、 アエロガーラどう言っても運ちゃんには通じなかったので 飛行機の絵を書いて見せたところわかってくれた。
11時25分空降着。
驚いたことにここにはレストランも郵便局もなかった。 
 またもお菓子ですます。 待っている時間は長かったが、購入した歴史の本にすこしだけ英語の部分があり、
その記述によるとヘカトンピュロスはゴルガンの南、 エルブルス山脈を越えたダーマン近郊の遺跡と推定されていることがわかった。
 一応収穫はあった。
スナックバーがあったので、そこでお菓子とジュースでひもじく過ごす。

  15時45分入り口が開く。 税関へ入る。 しかし税関は16時半からだそう。
しかしどんどん人が入ってくるので、 16時20分、 税関が開く。
一応かばんの方は開いてみせる。
しかしそれほど詳しく検査されるわけではない。 入国時発行された所持金証明書の提示はもとめられなかった。 
チェックインする。 窓側にしてもらう。 16時40分出国審査。
 免税店でササン朝遺跡写真集発見。 18.5ドル。 18ドル分しかない。 1ドル分はドルで支払って購入する。
18時8分ゲートイン、 18時20分バス。 18時25分搭乗。

  この航空機では緊急時の案内は一切なかった。 空港にレストランはないし、 緊急時の為にガイドはないし、色々イレギュラーなことが続いているので、
ひょっとしたら機内食もないのではと不安になる。
 もはや イラン航空何があってもおかしくはないかんじ。 ま、結局夕飯はあったのだけど。
この航空機は北京経由。 深夜北京に着き、 北京で中国人が大勢乗り込んできた。
 

その他

@イラン旅行中会話をしたイラン人の半数以上の人にペルセポリスとイスファハーンに行くように薦められた。
ま、いつでも行けそうなところは次回以降にあとまわしということなのだが、イラン人としても外国人に薦める場所は上記2個所がメインらしい。

Aイラン  滞在中の費用 200ドル。 歴史資料を41ドル買い込んで計241ドル。
  (夜行バス3回使用、タクシーチャーター3回(合計約20ドル))
   交通機関使用回数合計15日間で52回

Bイランで女性の髪を見る機会はついぞなかった。 しかし日本に戻ってたけしの 「ちょっとへんだぞ日本人」 でイラン人女性がふつーの格好で出演していたので見ることができた。

Cイランでは一般の車も手を挙げると止まってくれ、 タクシー、 サファリとして利用できることが多い。
ガイドブックにも、 交通機関として一般の車がちゃんと乗っている。 それは事実であった。