8月6日

 7時半起床。朝食はパン。市門のベンチで食べる。旧市街、モスク、王宮プールなどを観光する。
 9時30分頃バスターミナルへ。 10時、 日本人旅行者と会う。 
 若くはない女性の高校世界教師。 年に3回は旅行に出るのだろう。 
ロンリープラネットという旅行ガイドについて教えてもらう。 船でニースへわたろうとしているのだそう。
 バスを待っている時、彼女がチュニジア少年に 「ここはアフリカだから」 と言ったとき少年は少しさみしそうな表情を見せた。気のせいかも知れないが。
 チュニジアの人は 自国をヨーロッパの一部と考えていると聞いたことがある。 というかどうも 南米やアフリカの旧植民地の知識人は欧米に留学していることも多く、
知識人は欧米の周辺と考えているようにおもえるふしがある。 
 ま、日本人も欧米予備軍との認識に陥っている部分があるのと同じ様なものなのだろうけど。
 
 バスの行き先表示はアラブ表記なので、どのバスがどれだか 全然わからない。 気をつけていないと乗り過ごしてしまう。 
 何度もまわりの人に確認する。 その教師を見送った後、 昼飯はターミナル脇のレストランで鳥。
 13時半のバスでレ・ケフまで移動。 16時45分着。 
 ドゥッガに今日中に到着することは不可能なので、 今日はそのまま通過して明日 ベジャから南に降ることにする。 
 そうすれば、 地図で 「眺めの良いルート」とされている ドゥッガ−メルス・エル・バブと ベジャ−ドゥッガ間のルートを通ることができる。

 17時発。しかしなんとせっかくのおすすめルートも雨になってしまって、あまり良く見れなかったのだった。
 メルス・エル・バブで下車(19時)後、 そのへんのねーちゃん3人組みに電車の駅を聞いたのに、
バスステーションなんかを教えてくれちゃう。 間違っていると分かっていたが、一応教えられた通りバスのステーションらしき地点まで行って尋ねると親切な青年が
 わざわざタクシー拾って 運転手さんに指示もしてくれた。 
 19時10分駅到着。 あんちゃんのいうこと聞いていて良かった。 結構町の中心部から遠く、 まったくのまちはずれに駅があったのだった。

 列車は予定時刻より少しおくれて着いた。19時40分頃の発車だったろうか。 あたりはすっかり暗くなってしまっている。
 べジャ到着は20時45分であった。 このあたりから、もう両替はあまりしたくなかったので、残りの所持金のだいたい毎日の配分を考え出す。
 しかしいきなり2万ディナールの高いホテルに泊まることになってしまった。
 駅の南がわにおしゃれなホテルの明かりが見えたのだが、高そうだったので、他をさがした。
 駅に到着後、 他の客のあとをついてゆけば自動的に中心につくであろう、と考えたのだが、一向にそれらしきところにつかないのだった。

 ブルガリアのゴツェ・デルチェフに似たような町 でそれほど照明にあふれているでもなく、全体的にさびれた、
暗い印象なので、 中心部に到達しても全然賑やかではなかった。 ま、もう時間もおそく店じまいしてしまったということもあったのだろうが。
 ベジャのホテルは多少高かったが、 内装なアラブ風でま、値段相応。
 しかし翌日の朝食はコーヒーとパンだけ。 まるっきりコンチネンタル風。 これまでのとまった中堅ホテルはこれに比べればhるかに英国風であったのにくらべると貧相であった。

 トイレットペーパーが無いので切れているよと頼んだら、他の部屋のやつをはずして持ってきやがった。
夕飯はその辺の安飯屋。おっさんが食っているのがうまそうで同じ物をと頼んだら、それは辛ーいスープで、 それにパンを千切っていれてご飯の様に食べているのであった。
 熱くて辛くて、はふっはふっとかき込んだ。 あんまりうまくは無かったが、とにかく安く済んだ。


8月7日

 7時半銀行へ行き56ドルを両替する。 50ドルにしようか迷ったのだが、あと6ドル。 この端数に泣くかもしれない、と思って余分に換えておく。
その後バスの乗り場を探すもなかなか見つからない。念の為2人の人に尋ねて両者同じ方向を示したので、
その方向へ行ったのだが見つからない。 そこでまた別の人に聞いたら、 ついてこいと、 元来た道を戻り始め、センターを過ぎて反対方向へ。
 いやあ、ずいぶん親切だなぁ。 謝礼請求されたらどうしよう、 と考えていたら、 ちゃんとドゥッガ行ルアージュの乗り場へ案内してくれた。

 結局両替後30分ほどうろうろしたことになる。 
 8時45分発車9時30分ドゥッガ村到着。 途中の道も「眺めのいい道」である筈だったのに、小雨と霧らしき低い雲が垂れ込め、
またもあまり見れない。
 ドゥッガ村(と勝手に呼んでいたが正確にはテブルスーク村というらしい)から遺跡まで数キロ。 ベジャからのルアージュに同乗した青年がタクシーしかないと教えてくれる。
タクシー。15とふっかけてきたので、当然値切る。たちまち10にさがる。8まで値切
ろうとがんばっていたら、先の青年が、「往復なんだぞ」と身振りで示す。 どうやら相場のようであると思い、
9千テディナールで妥結。 
 9時50分遺跡到着。 結構距離がある。5キロくらいだろうか。 タクシーにしてよかったと思う。歩いたら大変なことになるところであった。

 カエロワンであった教師がチュニスから直行乗合タクシーがあると話していたのを思い出す。
ドゥッガはローマ時代のスッガの都市遺跡。 これもエフェソス級。 丘の斜面にあり結構広大。 
 11時15分の約束で迎えに来てもらうことにしたが、ちょっと短すぎるかもしれない。 
 入り口を入るとすぐに劇場跡がある。 巨大遺跡はもうなんども見ていてあきてきているが、それでもここはなかなかよかった。
 スベットラの劇場が殆どきれいすぎるくらいに修復されていることを考えると、 こちらは大分原形通りに見える。
 そのまま丘をあがって行くと、 数人の人足さん達が発掘中だった。 
 坂を下ってフォルムへ行く。 ローマ時代は小さい都市だったのだろうが、 ほぼ当時の町の規模のまま残っているらしい。
 当時の中庭を持つ家が屋根の部分をのぞいて原形を想像できうる程度に残っていたり、 公衆便所が原形を留めていたり、
 複雑に入り組んだ設計の浴場、 更に古い時代の城壁、 神殿跡、 ポエニ時代のマウソレウムも残る。
 単体の遺跡でここまで色々残っている遺跡は自分としては初めてということになるのではないだろうか。
 時間がなくなり、最後は走る。
 

 11時15分ちょうど。 タクシーは既に待っていた。 11時半村に戻り、 45分のルアージュでチュニスに戻る。
 13時チュニス着。チュニスのどこについたのかはわからないが、中心部の町並みの間に市電が見えたのでおおよその見当はつく。
しかしあれだけ大きい旧市街の城壁や高層ビルホテルアフリカが見えないので若干不安になる。
 バスターターミナルの近くで水道遺跡を見かける。 早速ターミナル到着後、 水道遺跡を見に行く。
 そこで休んでいるとき、 少年に声をかけられる。 しかし彼は英語が出来ない。 しかもいきなり「ニーハオ」と言われたので少々気分が悪くなった。
本人は友好のつもりだったのかもしれないが、私はその少年の先入観のなかに見下している、という気配を感じとったのだ。
 「悪いけどぜんぜんわかんないんだけど」 と取り合わないでいたら、 そのうちおこりだして最後は何やら罵倒して去っていった。
 きっと 「おまえなんか、ここにくるな。チュニジア語もフランス語も出来ないくせに」とか言っていたのであろうと思う。
 その考えは まったく正しいのだが。  
 しかし私の経験からすれば、本当に友好的で声をかけてくる連中は、もっと違う態度をとると思う。
 言葉が通じなくても、 伝えよう、と努力する姿勢があるから、言葉がわからなくてもある程度身振り手振りで通じることもある。
  そういう人間同士では、言葉がわからない相手に対して 自国の言葉をまくし立てる様に話したりはしない。 少なくとも話ながら、
会話以上に身振りや筆記を使って、伝えようとする前向きな姿勢を示す。

 この後トゥブロボ・マジェスのローマ遺跡にゆくつもりだったのだが、時刻表によると、電車は14時15分発である。
 市電まで出て乗り込んだもののぎりぎりになってしまう。(途中反対方向にのってしまったのかと慌てる。なぜならば地図駅名と実際の市電の駅名が違っていたから)。
 しかし程なくホテルアフリカが見えてきて、繁華街に入り方向は安心したものの、時間的にまにあうかどうか。 凄いストレス。
 バック・トゥー・ザ・フューチャーの毎度毎度お約束のクライマックスを思い出す。 
 「なんでいつもぎりぎりなんだ!」
 
 14時10分頃駅に到着。
全力で窓口まで走る。14時13分ぎりぎりで乗り込むことが出来た。
 しかし凄い込みよう。列車の扉を開けたままでみんなそこに腰掛けている。
 体の方向を変えることも足をずらすこともできない。またもやストレス。 もおういやーーーーー、やややと悲鳴を上げたいくらい。
 暑くて混んでいて、 立ったままで。 とにかくストレスフルな1時間半だった。 
 ま、途中からだんだんすきだしたけど。 
 途中ローマ遺跡を通過した。 多分ウティナの遺跡だと思われる。

 15時45分、トゥブロボ・マジェス着。 通りかかった軍服の青年が 「どうしました」。 とトゥブロボ・マジェス遺跡までのいき方を教えてくれる。
 それによるとなんと3,4キロもあるそうな。 しかも更に困ったことにこの町にホテルはないのだそう。
 ということで彼の提案は、ザゴウアーンまで出ればそこにホテルがあるし、ローマ遺跡もある。 今日はそこに泊まってそこの遺跡を見ることにして、
明日マジェスへ行ったらどうか。とうもの。 話が長くなってきたので、彼は道路向かいのカフェへ行ってそこへ座ろうという。
 「さあ、きたぞ。 なんとかコーヒーだけで済まそう」 と話が終わったところで 「コーヒーでも」といったら、
 「いや、いいんですよ」と 恥ずかしそうに、 逃げるように かばんを持って ささっと去ってしまった。

 まあなんと正直な青年だろうと感動してしまった。ちょっと感激。 チュニジアであった一番さわやかな青年だった。
さてそのままルアージュでザゴウアーンへ移動する。 道々水道が見えてくる。 停車してじっくりみたかったが、それは無理。 あきらめる。
しかしおそらく古代ローマの水道が今も使用されていることは間違いない。

 ザゴウアーンはスリーベン(ブルガリアの町)みたいな山のふもとにあった。 ほんとに良く似ている。
 一番似ているように見えるポイントで写真を撮ることは出来なかったが、本当に良く似ていた。
 ホテルはだいぶ町外れにあるらしい。 1キロ先だとみなさんおっしゃる。 いわれた通りに行くと、別荘地らしきところにたどり着く。
 ここは山。チュニスからの距離もちょうどよく、高級別荘地になっているのではないだろうか。
 となるとホテルも結構高級なのでは? ホテルは町の中心地から歩いて20分、山の中腹にあるものが1件だけなそうな。
 途中ホテルの看板にはホテルニンフォとある。 そういえば遺跡の名前もニンフォ。 
 ホテルの近くにハドリアヌス建立の泉源神殿遺跡がある可能性が高い。
 

 ホテルでは1万5千。予算ぎりぎりである。もうすこし安いところをあてこんでいただけに、これはしかたがない。
 しかもこの時点では最後の晩は最初に泊まった3万6千のホテルに泊まることに決めていた。あのひんやりしたベッドで休みたかった。
 部屋を下見にゆく。 部屋は独立した建物。 アパルトマン形式。 どうやら4〜5部屋はいった建物が何棟か敷地内にちらばっていおるらしい。
 寝室2部屋、 それにキッチンが独立していて、 居間は10畳くらいある。 OK、とフロントに戻っていざ支払の段で19000要求される。
 どーして? 二人部屋を一人で利用する場合あと4千かかるのだ、 といわれる。
 なんと。 これは予算外だ。 仕方が無い。 あきらめる。 
 「これからチュニスへ戻る」 と伝える。 もう本気でそう考えていた。 そしたらちょっとまってとフロントマンは奥へ消えて、しばらくして戻ってきて、
1万5千でOKとのこと。 助かった。  

 遺跡を見に行く。 どういうわけか警察がやってきて検問された。 だれか付近の住民が、
あやしい外国人がうろついている、とでも通報したのだろうか。 ははは。 あまり東洋人は来ないんだろうな。

 夕飯はスイカとパン(170ディナール)で思いっきり安くすませる。バス亭は丘の中腹にあり、ちょうど日没が見れた。
 広広とした部屋でゆっくり休む。 チュニジア観光はおおむね終了。 あとは次ぎのトルコにむけて休養モードに入りつつ
無理しない範囲で見れるとこだけ見るだけ。
 

8月8日

 7時50分出発。8時20分発9時20分チュニス着のルアージュ。
チュニスーザゴウアーン間の道路沿いに延々とローマ時代の水道が残る。
 一部今も利用されているのが見えた。 なんとまあ。 トゥブロボ・マジェスがみれなくても幸運だった。

 チュニス到着後、そのままバルドー美術館を目指すが市電を乗り間違える。
 この為バルドー駅に着いたころ(11時)には雨、 しかも結構激しい降りになってきていて、駅で雨宿り。
 11時25分 小雨になった雨なかを走って、美術館着。 1時間程見学。

 ここはまったくの古代ローマのモザイク美術館。 トルコアンタクヤのモザイク美術館より規模大。
 この美術館そのものが旧王宮(18世紀頃?)らしい。
 12時半、出口のベンチで眠くなってしまい、1時間ほど居眠りする。

 14時半ビゼール行のバスへ。 ビゼールはチュニスから50kmほど北の地中海に面した中規模都市である。
 コンフロントというのは「直通の急行」(直訳すると、海岸線まで直行、とい
う意味であろうか)を意味するらしい。 何度もバスのドライバーにあっちのバスだとピンポンにされ、しまいにはチケット売り場にやらされて、気分が悪かったが、
とおあれ急行のチケットの差額分を支払って急行バスに乗り込む。
 一般バスは満員であったが、この急行バスは冷房付きの観光バスで乗客は半分くらいしか乗っていない。

 15時半ビゼール着。 宿をさがす時間はあったのだが、なかなかみつからない。 本当に見つからないのだ、これだけの繁華街の規模で。
やっとみつけた宿は見かけにくらべちょっと高いが、 ちょうどフロントにフランス人学生が帰ってきて、 ここはいいよーといわれ、ついここに決めてしまった。
 しかし案内された部屋はフランス人が泊まっている部屋に比べると酷い部屋。 これで1万5千。 あーあ。
 しかしもう探すのも面倒なのでここにする。 
 15時半から17時まで宿で休む。

 海を見に行くことにする。海岸線は広かったし、ここカルタゴで見た海岸と異なり、一応砂浜。
 しかし海草だらけ。 海水浴場としてはいまいち。 持ってきたトルコ紀行の本を読みながら寝そべってすごす。
 帰り際突然トイレに行きたくなり(大)、 もうホテルに帰っている余裕もなくなってしまい、浜辺の50cmくらい土が盛り上がっている所の陰ですます。
 ひゃー。ちょっと砂浜にいる連中が振り向けば見えちゃう。 ヒヤヒヤ。 

 18時半戻る。金が無いので、水、パンとヨーグルト、スイカを買いに行く。 
 パン屋でせいぜい締めて500ディナールを 3700も要求される。 ふざけるな、帰る、といったら店員の親父が出てきて、これは計算違いだ、370が正しい、と訂正してきた。
370だと、多分こちらがもうかってしまうことになるのだが、 「間違い」 にするにはゼロを一つとるのが最善策である。 息子の方は恨めし気にこちらを見ていた。

 ホテルの部屋は汚いし最低。 ベッドも毛布も汗が滲んでいて臭い。 自分の服をふとんがわりにし寝る。
寝返りをうたないように眠る。 これさえ我慢すれば明日は天国だ、と言い聞かせて。 しかし、当然ながら眠りは浅かった。

 ホテルは旧市街の中にあり、窓からの夜の眺めはアラブの雰囲気が良く出ていたように思う。
 窓辺にもたれて流れてくるコーランの放送に耳をかたむけつつ、界隈の人の動きを見る。この部分は結構良く、 なにやら昔の旅行者になったと思えばこれくらいの衛生度は、
とかえって そうした昔の待遇を味わっていると思うと それなりにしのげるのだった。
 
 

8月9日
 
 7時起床。8時のバスで8時50分にはチュニス着。 9時30分にはカルタゴ行き電車の駅に到着、10時30にはカルタゴ駅のシディ・ボウ・サッド駅に着く。
 10時45運には浜辺に到着。 しかしどこをどうまちがえたのか抜け道みたいなところから海岸にでることになった。
 ここはほとんど断崖で、 そのくだり道は ごみだらけだった。

 パラソル3千。 寝そべって過ごす。 スイカを食っていたら、ガキがナイフくれとよってきた。
 親父がすみませんと あやまりながら子供を回収していった。 単なる携帯ナイフなのだが、そう言えばあの頃はこうした小道具に惹かれたっけ。
 15時頃まで浜辺にいて、散歩しながら駅まで戻る。
 そのまま海岸伝いに上っていったのだが、 この時の海は非常にきれいだった。
 カルタゴ北の海水浴場そばの 断崖上から見る地中海はエメラルドグリーンに輝いて良。 やっと地中海を見た気になる。

 16時10分ホテル。 やっと一息。 シャワー、洗濯。 ズボンは汗でどろどろ。 すっかり重くなっていたので思い切って洗濯する。
 
 前に行ったスパゲティー屋で夕飯。ウェイターは私のことを覚えていた。 シーフードスパゲティー。 20時30分ホテル戻る。本を読んだりテレビ
見たりして22時半寝る。
 
 

8月10日

 7時12分起床。 8時半出発。 空港行のバスで昨日ビゼールで会ったフランス人達にまた会う。
 50分空港着。 しばらく空港の外で陽にあたってズボンを乾かす。

 チェックインカウンターで30分くらい並んでいたのだが、私の番になったら、 これはビジネスクラスよ、 ということで別のカウンターへまわされてしまった。
 くそー。 並ぶ必要などなかったのだ。
 最後に残った通貨でサテンでケーキ。 アラブ首長国連邦で働いている青年に会う。 建築技師とか言ってたっけ。 結構待遇いいみたい。
 12時40分ゲートイン。
 13時離陸。 時計を2時間進める。

滞在中の費用 9泊10日 356$ 移動距離約1652KM 利用交通機関 32回