トルコ旅行記 1 イスタンブール旅行(7月10-12日)
2 トルコ旅行(8月10−26日)
12半頃 ソフィア駅でイスタンブール行き夜行の切符とマケドニア行バスの切符を購入す
る。
隣の窓口で客が ツァーリ・グラッド* といって購入していた。 国際列車の売り場でツァー
リ・グラッドといえば
イスタンブールしかありえないが・・・今でも ツァーリ・グラッド で通用するのであろうか。
驚いた。
*ブルガリア語で「皇帝の都」、ニュアンスとしては「都(みやこ)」、「京」という感じ。
その後旅行代理店、考古学博物館、ゲオルギ教会、学校へ行った後もう一度代理店へ航空チ
ケットの支払に行き、
もう一度学校へ戻ってメールをうった後、 20時50分駅に到着。 22時45分国際列車到
着。
焦ってセルビアの車両にのってしまう。チケットにかかれてたワゴンの番号が
セルビアのワゴンであったことも混乱した一因。 セルビアのおっさんを怒らせてしまう。
焦らなくとも、ソフィアでブルガリアのワゴンは これからゆくり連結となったのであった。
23時10分発車。
部屋は予想以上にきれいでしっかりしていた。 洗面所も完備。 扉に小窓が無
いのでノックされてもだ
れがたたいたのか分からない。 ブルガリア内ならともかくトルコに入って、 トルコ語で返事さ
れてしまっても、
誰が来たのかがわからないのだ。 (チェーンついてたっけ。記憶にない。無かったよう
な。。。)
不用意にあけて銃でもつきつけられたら。。。でも結局車掌が検札に来たとき、そのままあけ
ちゃったけど。
トルコ語でなんか言われてもわからないし。
2時半。国境着。 4時半入国。 (トルコ入国審査に下車したっけか?しな
かった様な。。) 8時頃起床。
車窓からは 民家や町は見えてこない。 荒れ地が続く。 そのうち右手に湖が見えてくる。 町
も。 イスタンブールが
近づくにつれて 列車はスピードを落とし、 そのうち停車ばかりするようになる。 天気は
上々。
時々郊外列車とすれ違う。 みな扉を開けて、外に向けて身を乗り出しながら乗っている。
競馬場がちらりと見える。 日本の木造建築のような古い住宅が線路際に並んでいる。 日本の
ようだ。
10時40分シルケジ駅着。 駅で両替。 フィルムも1本買う。 ぼられた。 ま、仕方な い。慣れるまでは。
駅前を 航空会社の代理店探してちょっと散歩。 ショーウィンドウのシャツから目を離せな
くなってしまい、つい買ってしまう。
4950リラ。 電気屋等に入ってみる。 あふれかえる、無造作に置かれた商品。
裏通りに入って目についた自転車屋。 大量の自転車が腐るくらい 店前の路上に並んでいる。
これだ。 この感じ。 このエネルギー。 アジアのもの。 この無秩序とパワー。 まだまだ
若々しい。
ブルガリアにはないものだ。 ブルガリアではなにかお祭り騒ぎをして 人手あふれていても、
どこか寂れていて、
年寄りじみた枯れた、 衰退のにおいを感じさせるのだ。
代理店は シルケジ脇の通りを南に入ったばかりのところの 2階にあった。 東京行き片道切
符。 615ドル。
ええーっつと驚いてしまう。 親父、 600でいいよ、と15のところに線を引いて消してし
まう。 600!?
即購入。 (ブルガリアの)ソフィアの代理店では2683ドルだったのに。
アギア・ソフィアへ。 絨毯
屋につかまる。 やたらに日本語がうまい。 日本人のガールフレンドからの手紙を 読んでくれという。
なのに聞いていない。 みえみえなんだよね。 さっつ 無駄な時間を使った。 さっさと退散。
アギア・ソフィアは工事中で入れない、 などといって嘘までついて 絨毯屋へ連れ込むというの
も気に入らない。
地下貯水池を見て ハギア・ソフィアへ。 ハギア・ソフィアはすげえ。 下馬評どおり。
異次元空間 とまでは言いすぎかもしれないが、 改修用の足場がなければ、 本当にそう思え
たかも知れない。
もう一度行きたい。
ブルーモスク。 礼拝が終わるまで 20分ほど待つ。 靴を持って入る。
脇の入り口から見える海が陽光に照り映えて きらきらと穏やかにたたずんでいる。
グランバザールの近くを通ったはずだがよく分からない。 バザールのあたりの
どこかで スイカ一切れ買って食べる。
ちょっとまよってしまったが 15時10分頃 シュレイマニエに到着。 なんぼかの寄進が必
要だが 小銭をもっていなかったので、
日本人観光客に崩してもらう。 トイレへ行くと 管理人の青年が 「古代式だよ、あっはっは」
という。 何てことない アラブ式。
ヴァレンス水道橋へと歩く。 水道橋のところで 赤い液体の 妙なピクルスの酢漬けみたい
なジュースを飲む。
なんだこりゃ。 このあたりから 結構疲れてくる。 足も痛み出す。 テオドシウス城壁まで
歩く。 結構距離がある。
途中もう一つ大きなモスクを通過する(ファティフ・ジャミ)。 16時半頃城壁到着。 城壁
沿いに30分ほど歩く。
途中のスタンドで サンドイッチとジュース。 ずいぶん遅い昼食となった。 城壁沿いにライ
フルの遊戯施設があり、 ライフルで風船を割っていた。
このあたり、なにか夜店のあつまりの様。 トプカプ門まで行って トプカピ・ガラッシュを探す
が全然見つからない。
だんだんじれてくる。 傾いた陽が強く照り付ける。 結局タクシーで行かねばならないことが
わかり、18時頃バスターミナルへ。
空港についてしまったかと思われるような巨大な一大バスターミナルだった。 これにはびっく
りした。
18時15分発のエディルネ行で20時20分着。日没前に着いてしまう。 ガ
イドブックには4時間とあるが、2時間で着いてしまう。 日本並みの高速道路。
料金所もあるところも日本みたいで 同じ運用法である。 バスは高級ベンツ。 ターミナルのバ
スはベンツか三菱。 たまにイスズがある。
ミニバスはイスズが多い。 バスの中ではジュース等が配られた。 香水のサービスもあった。
ずいぶんサービスいい。
エディルネのバスステーションでは予想に反して客引きなど全然寄ってこない。 ちょっと拍
子抜け。
タクシーでエディルネ駅へ行ってもらうが、 ちょっとした手違いで国境を目指されてしまう。
引き返させて駅へ行って電車の時刻を聞いた後、市内へ引き返す。
5千のところを3500まで落としてもらったが、 それでも無駄な金を使ってしまった。
ちょっと市街を散歩。 最初に行ったホテルでは両替受け付けてくれない。 仕方が無いので
スーパーで両替してもらう。
今日の銀行レートと同じレートで両替してくれた。 使い捨て髭剃りがブルより安かったので買
う。 ビールも1本。
キャラバン・サライを改造したホテルがある。 結構雰囲気がよさそう。 宿泊額を聞いたのだ
が、あまりに安いので「嘘だろう?」と
耳を疑ってしまいすぎ、肝心の額を忘れてしまった。 5万(千)リラくらいだったと思うのだが
忘れてしまった。
マクドナルドで夕飯。 ちょっと肉がケバップっぽい。 マックの中は上着を着
ないと寒いくらいの冷房。
22時50分マックを出て セリミエ・ジャーミーまで散歩。 ライトアップされえたジャミー
はこのうえなくきれい。
ジャミー近くの菓子屋でアイスを買い店のテレビでやってたサッカーの放送を見る。
こんな時間になっても売店やっている。いいなぁ。店の人に 紅茶ごちそうになる。
今日だけで紅茶何杯飲んだろうか。
23時50分タクシーで駅へ。 0時5分駅着。 ホームで待っている時ブルガリア語を話す
青年がいた。
エディルネの駅舎はスビレングラッドの駅舎と同じだ。 スビレングラッドの駅舎はトルコの影響
下で作られていることを意味するのではないか。
1時20分エディルネ発 1時40分カリプラ着。 2時40分出国。 一度列車を下りてコン
トロールへ。ソフィアまでの切符も購入。
3時10分スビレングラッド。 入国に時間がかかる。 コンパートメントの中はルセへ帰るお
ばさんとルーマニア人二人。
4時出発。 ビール飲んで室内の人達と話し込んでいる内に寝てしまう。
はっと起きたら列車はどこかの駅に停車している。 おばさんがどこ? とだれかに聞いてい
る。
どうもスタラ・ザゴラらしい。 「あんたおりなくっていいの?」と言われ、慌てて下りる。 6
時40分だった。
すっかり乗り換え予定のディミトロフ・グラッドは寝過ごしてしまった。 ははは。 7時20
分スタラザゴラ発 10時プロブディフ着。
もう約束に間に合わないのでタクシーで(ソフィアの)学校まで。 予想以上に東京行きチケット
が安かったので、
ちょっと散財してもいい気分になり、プロブディフ-ソフィア間155キロをタクシー使う。
100ドル。 12時ちょうどに学校前に到着。
マルマラ海が空から見える。 17時着。 イスタンブール到着後空港ですることはまず3っ
つ。
両替、本の発送、リコンファームである。 両替は手数料のことを忘れていて300ドル一気に
換えてしまう。空港は損なのに。あほ。
リコンファームは問題なくすぐ済む。 本の発送は出来ることはわかったが、箱が必要とのこと
で、
なにか本の代用になるものをと、ウィークリー新聞と荷造りベルトを買ってポストに戻る。
しかしポストのおじさんは箱を用意してくれていた。 感謝。しかし買ったばかりの新聞とベル
トは不要に。
ビザンチン紀行とトルコ紀行の本、それからローマで買ったローマのガイド、チュニジアで買っ
たチュニジアのガイドブックと
地図等不要となったものをつめて発送する。11万リラ。約44ドル。
ブルサまでバスで行こうとタクシーに乗ったところ、グラサンの運ちゃんにさかんにフェリー
を利用することを勧められる。
バスなら5時間のところがフェリーだと3時間でブルサまで着くとのこと。 いわれたままにフェ
リーにするが、
「すぐそのさき」とか言いながらフェリー乗り場にはなかなかつかず 結局20ドル近くかかるこ
とになってしまった。
途中右手にハイウェイからバスターミナルが見える。 遠くから見ても巨大だ。
フェリーポートについてみると、タクシーの親父は19時発だといっていたが、実際には21
時発。
それまで軽くサンドイッチ食べたりして暇をつぶす。 21時出港。 ちょっと冷房が寒い。既に
日は暮れていて真っ暗。
22時、対岸ヤロワ到着。 すぐにブルサ行のバスが来ていたので そのままバスでブルサまで
移動する。
22時14分発。 23時にはブルサについてしまう。ちょっと早すぎないか?本当にブルサだろ
うか。
ガイドブックによれば街中のターミナルへバスは着く筈なのに、 どーみても荒野にぽつんとある
幕張メッセの様な
超近代的巨大バスターミナルに到着する。 ここが終点だという。 ターミナルは闇の中でまるで
水晶のように輝いている。
広大な内部にはたくさんの飲食店やショップ。 雰囲気はまさに西部アメリカ。 車中隣の席でト
ルコ語の練習につきあってくれたおやじが
「ここが、ブルサだよ、さあ下りて」 という。 えー? ここが? 一体どこが? 下りてみて
もどこにも街の気配すらない。
こんななんにもないところ、一体ブルサはどこなんだ、と覚えたばかりのトルコ語で、おやじに確
認してみる。
「ぶるさ、どこ?」
するとおやじ、 「あれがブルサだ」 と振り返って指をさす。
振り返りおやじの示す方向へ目をやると、 そこには星を撒いたような街の灯かりが10キロほど
先の山の斜面にいっぱいに広がっていた。
まるで銀河。鮮烈な一瞬だった。
この時の印象に近い画像をネット上に見つけました。ご
参考にどうぞ。実
際はこんな感じだったのかも知れませんが、記憶に残る映像は前者のもの。
ブルサ市街までそこから市バスで更に20分かかった。 街道 沿いはまるで日本の様。
鮮やかなイルミネーションのショールームが立ち並び、レストランは深夜族であふれている。
「一体ここはどこだ?これじゃ日本と同じじゃないの」 いや日本以上かも。
ブルサ市内のバスステーション(オトガル)の混雑も日本以上では?
ブルサターミナルで待っているときそこで休憩していたバスドライバーに紹介してもらったホテ
ルはオトガルに面していてすぐ見つかったが満員だった。
しかしその並びにもホテルがたくさんあり、 非常に便利。 次のホテルで部屋は見つかった。
しかも日本人ということでパスポートを見せたら1万7千が1万5千になった。 窓が無い部屋
だったのでちょっと暑かったけど、まあまあだった。
宿に着いたらもう24時。 夕飯を食べ損なった。
今日一日で、市バス、タクシー、飛行機、フェリー、長距離バスに乗った珍しい1日となった。
6時45分起床。 朝からがんがんドルムシュ(ワゴンのバス)が走っている。 7時15分
オトガル。
7時半にターミナルに到着。 8時半発。 陸軍青年と一緒になる。14時半アンカラ着。彼に地
下鉄まで案内してもらう。
予想通り3層構造の大規模バスターミナル。 まるでドイツかという感じのきれいな新品の地下
鉄。 あまりに近代的な地下鉄にびっくり。
チャドルなどしていないどころかノンスリーブのシャツのトルコ人女学生。セクシーすぎ。いいの
かこれで?
バスで一緒だった青年の名は 「チャガタイ」というとのこと。チャガタイとはモンゴル系の名
前だと思ってたので 「えっ?」と
聞き返したら 「知らない? チンギスハーンの息子の名前なんだけど」と言われる。 これは重
大な情報で、
様様な意味を含んでいる様に思うのだが、今は掘り下げて議論している余地は無いけど。地下鉄の
駅は、地下鉄の終点で、バスターミナル(ASTI)駅となっていた。そこから市外中心のクズライ駅まで乗車し、そこから博物館へと歩く。
アナトリア文明博物館はちょっと期待はずれ。 少し期待しすぎたかも。 全盛
期のヒッタイトの遺物がたくさんあるのかと思っていたら、
前7、8世紀の遺物に集中していた。 ミダス王の墓の模型は役に立ったけど。 地下にローマ時
代の遺物も展示されていた。
最初から前7、8世紀の遺物を見に行くつもりだったなら、結構良かったのかもしれないが。少し
期待が大きすぎたようだ。
ビザンツ時代の要塞は修復されすぎという感じ。 なんだかアンカラはそれほど時間をかけて
みる場所でもないような気になってきて、
城塞の上まであがってみるきにならなかった。アンカラはまた来るかも知れないし。 とにかく最
初の6日間くらいで
(東部国境まで行って)折り返してしまいたい、とちょっと焦り気味だったこともあって、要塞は
下から見上げただけでおわりにする。
アウグスト神殿は工事中で入れず。 カラカラ浴場跡は 「こんなもんか」。
アタテュルク廟は4時をすぎてしまい入れず。 周りをぐるっと半周したけどいやー、ひろかっ
た。
半周したところで地下鉄の駅があったので、そのままバスターミナルへ。
アンカラのバスターミナルの様子のわかる映像@、映像A。 空港か と思うほど大きく、バス会社のチケットブースが延々と並んでいます。
バスで一緒だった学生は繁華街をぜひ見るようにすすめていたが、 まあまたこんど、 とい
う ことでターミナルへ。
20時発のサムスン行きに乗り、出発時、日没寸前の夕日がバスとバスに乗り込む客の間を通して
あたりを強くオレンジに染めている。
22時48分スングルル着。 しかし妙なところでおろされてしまったことにくわえ、
バスの助手がホテルの方角を反対方向を教えてくれたことと、 「H」 の標識をホテルと勘違い
したりで(ホスピタルだった)、
なかなかホテルは見つからなかった。 こんな時間なのに長距離バスはがんがん通る。
反対方向へ1キロは来てしまったので、 都合2キロほど戻ったところ、 運良く街道沿いに
モーテルがあった。
22ドルと高かったが、 贅沢言ってられない。 朝食付きとのことでもあるし。 23時30分
チェックイン。
そのあとビールを買いに出る。 トルコっていーわー。 こんな時間にもこんな辺ぴな場所でもお
店が開いているんだから。
7時40分から8時40分朝食。 スングルルのセンターまでは500メートルくらい。 ス
ングルルは一応まともな町だった。
客引きがやってきてドルムシュでボアズカレ。 なかなか客が集まらず、 発車しなかったが、非
常に安くすんだ。150だった。
10時にスングルルをでて40分にボアズキョイ着。 遺跡観光。 しかし妙なタクシーにひっかっかた。
ボアズカレは只でまわってやるという。 そのあとヤズルカヤへ行けば2万とのこと。 私はヤズ
ルカヤに興味はなかったので、
なんども断ったのだが、あまりにしつこいので
「乗ってもいいけど、ヤズルカヤへは行かないよ、ボアズキョイが只ならお金は一切払わない
よ」 と念を押して乗ることにする。
最初のライオン門のところで、自作レリーフの売り子が来た。売り子もしつこいし、親父はヤ
ズルカヤをしつこくすすめるし、
この門を見た時点でこの場所がとてもきにいったので、車でポイントポイントだけつまみぐいする
にはもったいない、
歩いて回りたいと考えなおし、 「悪いけど歩くことにするわ」 と断って親父にはさよなら。
この親父とは村に戻ってまた会うわけだけど、跡で彼の言うところによればこのとき私が「叫ん
だ」のだそうだ。こーゆーのは議論の手なんだね、きっと。
何でも相手に責任を転嫁するという。親父は去ったがレリーフの売り子はしつこく後をつけてく
る。
こいつにはとうとう「しつこいなあんた」と怒鳴ってしまった。たしか記憶に寄ると最初50ド
ルだったものが1ドルにまでさがり
「いくらなら買うんだ」といっていた。
しかし天気も良くボアズカレ自体はトルコのベストスリー。
1時頃村へ戻り 昼食にしてバスを待つことにする。 さっきのタクシー親父がまたしつこく
寄ってきてうるさい。
交渉する気もないので、寝転がって帽子を顔にかぶせて昼寝しはじめれば、 親父はそれが交渉の
ジェスチャだと勘違いしたらしく、
色々話しを持ち掛けてくる。 こっちは150で来れたので、 1万以上では絶対乗らないと決め
ていただけに、どこまで行っても平行線であった。
しかしやってくるドルムシュがみな「店じまい」(ひょっとしたら午後の休みということだった
のかも知れないが)で
なかなかスングルル行が来ない状況に、遂に親父、やってきた店じまいのドルムシュと交渉し1万
5千。私が拒否するととうとう怒り出し、
1人だけで行くんだ。1万5千は相場だ、と怒鳴った。確かにそのとおりなので、仕方が無い、乗
せてもらうことにする。
しかし走り出したら走り出したで、道々人がどんどんのってくる。くっそー。そこのところも含
めて交渉しとけばよかったが
ドルムシュの親父は英語がだめとくれば仕方が無いし、店じまいのところを私の為に車を出してく
れたことには変わらないし、
なにより前払いだったので、取り戻すことは不可能である。
15時頃スングルル着。 街道沿いでバスをヒッチする。 長距離バスががんがん通るので
ほどなくサムスン行を捕まえる。
19時20分サムスン着。 サムスンは海岸沿いに長く伸びた町で結構大都市。 車中大学生と隣
り合った。
ドストエフスキーの本を読んでいたので関心を持ってしまい話かけた。 アンカラに遊びに行って
いたみたいだが、
サムスンの工科大学に通っているのだそう。 アンカラやイスタンブールのような 大都市で暮ら
したいのだそうだ。
田舎は保守的で 自由が無いからいやなんだって。 どこも学生は同じだなあと思う。
ちなみにドストエフスキーは学校の課題で読んでいるわけで 退屈だそうである。 やっぱり
ね。 僕は「悪霊」だけなら好きなんだけど、
なんて言えなかった。
ホテルはターミナルから中心に歩いて最初に見つかったホテルにしてしまう。 夕食後散歩に
出る。ホテルを出るときちょっと小雨がふった。
海岸に子供用の小さな遊園地があった。 これを見ているかぎり、 ブルガリアでたまにみる遊園
地は トルコからのものだということがよくわかる。
ここにもギリシャ遺跡があるはずで さがしてみるが分からない。 海岸の歓楽施設の一画にギリ
シャ神殿を模した
レストラン(のようななにか)があったので、 きっとこのへんだろう とは思ったが、 結局わ
からずじまいだった。
22時ホテルへ戻る。
5時半に目が覚める。窓から丁度日の出を見ることが出来た。しかし半分雲にかくれてはいた
けれど。
7時半散歩に出る。 黒海岸まで行ってみる。 9時15分のバスでトレビゾントへむかう。
直線距離とくらべると、 道は曲がりくねった海岸線を走り、予想以上に時間がかかる。 トレビ
ゾントについたのはもう16時。
エルズルム行きは18時なので その間短いけどトレビゾント観光へでる。
目的はローマ時代の要塞跡であったが近くまではいけたものの、街路が入り組んでいて、簡単に到
達しようとすれば民家に侵入しないとならなそうで、
公道から要塞際へ到達できる道を探している時間も無く、要塞そのものへは到達できなかった。
ガイドブックの地図と実際の住所表示が異なっている様に思えたのも問題だった。 とどのつま
り道にまよってしまったのだ。
地形的には単純なので繁華街に戻るにはたいしたことはないのだが、ピンポイント的になにかを探
すのは骨がおれ、
時間もないことだし、行は歩いてきたけど帰りは乗合タクシーで戻る。
バスターミナルでイランからきた日本人バックパッカーに会った。 彼が持っていたのだが、
初めてアジア横断の本が出ていることを知った(旅行人の「アジア横断」)。
イラン情報を収集。バスは1ドルで1時間、長距離バスはばんばん走っている、など。これまで
イラン旅行情報は無かったのでちょっと安心する。
エルズルムへのバスではこれからイランへ行こうとしている日本人に会った。
彼はスイスへ語学短期留学に来ていて、アジアをいけるところまで行って日本に戻るのだそうで、
パキスタンではなくトゥルクメニスタン方面へ行くのだそうだ。
エルズルムには23時8分に到着。 ここのバスターミナルはこれまでのターミナルと違っ
て、ひとけなく静まり返っていた。
終電の行ってしまった駅の様に、白熱灯がかえって暗闇を強調するようにさみしく灯っていた。
ホテルのある中心部まで歩くつもりで歩いていたら、 タクシーに声をかけられ、結局タクシー
利用。 900。 それほど高くはなかった。
下車後、 町はもうしずまりかえっていて人気なかったが、 ふらふらしているおっさんはい
たので、 今晩目的としてるホテルについて場所を尋ねたら
非常に親切にわかりやすく教えてくれたので迷うこと無くホテルは直ぐに見つかった。 しかし満
員だった。
そこの従業員は友達が働いているとかいう歩いて3分程のホテルに案内してくれたが、そこも満
員。
結局戻って、客がチェックアウトしたばかりで まだかたづけていない部屋をぱぱっと整理して
ベッドメーキングして空けてくれた。
いやーうれしかった。 こんなに親切にしてくれるなんて。感動。