大鵬所城(大鵬守御千戸所城)
バス通りの目印「大鵬所城」とある。 |
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バス通りを入ると奥に南門が見える。 |
南門(2009年夏入場料20元) |
海賊、倭寇に対処する為、1394年に築城された軍営都市である。(築城の経緯詳細はこちらを参照ください)大鵬には広東の三大民族がいる。広府、客家、潮汕が交錯するところである。大鵬は移民地区でもあって、大鵬人の祖先は各地から集まってきた。よって大鵬の建築は独特の風格を持つにいたった。広府と客家の両方の特徴を持つ「尖鋭飛帯頂式」、房屋の平面布局、瓦石営法などが混ざり合っている。よって大鵬の伝統民居は、広府と客家式の合併といえる。 |
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遺跡見取り図。城壁はほぼ残っており、主要な建築物も残っている。 |
中央通り。南門を入ったところ。 |
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縦横1.5㎞程。南の方の東西に貫く通りは十字街。 |
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西門蕗から西門を見たところ。 |
大鵬粮倉は丘の上にあり、その横から東北方面の市街を眺めたところ。 |
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大鵬粮倉 |
大鵬粮倉 |
大鵬粮倉 |
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食糧倉庫。嘉慶「新安県志」の記載によると大鵬倉は明正統元年(1436)年に設置され、万暦4年(1586年)増築、城内に大使署を設倉し、康熙8年(1669年)屯倉2間、雍正10年(1732年)に6間、続いて3間を増築し、帰県丞の管轄とした。現大鵬倉は1950年代に人民公社が屯倉の跡に大規模に拡張して再建したもの。
当初、軍属が各地から集まってきた為、大鵬居民の言葉は、この地方ではひとつの方言となっているとのこと。 左倉庫内部は、当時の農具や生活用具などの博物館となっている。意外に充実している。 |
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天后宮 |
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東門を外側から見たところ。 |
地元の名士賴世超将軍の家 |
十字街 |
東門外。七夕と同じような願掛けがある。 |
大鵬の街並み |
大鵬の街並み |
大鵬の街並み |
賴恩爵振威将軍の家図面 |
賴恩爵振威将軍の家 |
賴恩爵振威将軍の家内部 |
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道光初年における汛官と炮火台の位置 |
清代広東省の海防軍事施設 |
賴氏の始祖は周武王の弟で、賴国に封じられた。その子孫が国の名を姓として使うようになった。後、穎に改め、穎公15世の時、文学孝廉となった。漢高祖の頃大司馬となった。32世碩公の時、築宝翁と号し、晋末太常少卿となった。後江西赤竹坪(現寧郷)に移住し35世標公の時、唐僖宗の頃錦衣衛直殿将となり、福建汀江上杭古田里に移住、58世厚公より帰善県淡水碧甲司鶴湖卜居に移り、鶴山一世祖となり後に栄豊園を立てた。 |
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大鵬所城周辺図面 |
清代の大鵬所城の復元模型 |
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鵬城賴氏は、鶴山賴氏の一分枝で、始祖の名は賴吾彪。乾隆年間に広東紫金から鵬城へ移ってきた。手工業で生計を立てていた。生活は清貧で、第三目が世超である。広東(王京)州の鎮総兵官となり、武功将軍に封じられた。この後、賴氏は代々習武の家をして国家を救った。清の嘉慶、道光、咸豊年間に三代で五つの将軍を出したことから、「三代五将」または「一門6進士三代五将」と呼ばれる。 初代賴世超 広東(王京)州の鎮総兵官 武功将軍 正二品 2代賴英場 浙江江定海鎮総兵官 振威将軍 従一品 3代賴恩爵 広東水師提督 振威将軍 従一品 賴英場の弟三男 賴信揚 福建水師提督 建威将軍 正一品 賴信揚の6子 賴恩錫 福建晋江総兵官 武功将軍 正二品
連平の顔氏と並び称され、「文顔部賴」と呼ばれた。1856年には、宋代楊家、清代賴家とまで顕彰されたりした。 |
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