1月10 日

 

 12 時10分発の便なので、ゆっくりしていいと考えていた。

8時25 分頃起床し、9時頃出発、9時15分頃バス乗車。9時20分のバスに乗る。10時35分頃空港着。

11時 40分乗機、出発が遅れ、12時半頃の発。梧州に13時10分頃着く。

 

  空港は完全に日本の各県にある地方空港と同じ。

発着便を 見ると、広州、深圳、1日4本くらいで、その他の都市への便は、広州経由だったりする。

空港に売 店はなく、ジェット機は私が乗ってきたのだけ。

しかも右 側2列、左1列の3列しかない。乗客25人程。こんなに小さい飛行機に乗る(セスナを別とすれば)のは久しぶりかも。いやはじめてか?

タラップ は、扉の裏側についている4段の階段だけ。扉を手前に開けて、そのまま下に降ろすと、

扉の内側 に4段の階段がついている。

 

到着後、 ゲートにつかず、空港ビル近くに停車し、そこから乗客は歩く。

空港は、 他はセスナ機が多数並んでいて、バケツか何かをさげたヘリが一機近くで訓練か何かをしていた。

 

バスはと まっておらず、バス停らしきものもなし。乗客は25人くらい。

知人が送 迎にでもきているのか、ワンボックスに乗ってゆく。タクシーは3台程度。

バスが無 いのでタクシーで中心部の汽車駅(東駅)に行く。30元。

乗ってか ら、市を西から東に横切る形になることに気づく。

以前来た ときの記憶によると、バスターミナルは、東駅と西駅があり、西駅の方が

近いはず で、西駅に出てから市バスで東駅に移動した方が安上がりだが、そこまでケチる程のものでもない。

 

どうも最 近は、ケチケチ意識がだいぶ減ってきたようだ。

そういう 時期は過ぎたということなのだろう。

東バス駅 に14時20分に着く。汽車駅で地図を買い、見所を探す。

地図によ ると、龍母廟という場所が観光地のようである。

博物館と 龍母廟に行くことにして、昼食。

ちょっと 店失敗したか。いまいち。安かったけど。

 

散歩しつ つ歩いて博物館へ。

旧市街に あたるようで、民国時代と思われる町並み。いい感じ。

こちらの アパートは、防犯用にベランダにつけた柵に特徴があるが、ここまで鳥篭的になっているのは初めてみた。思わず撮影。

 

     

 

  最近開店したと思われる日本料理屋があった。

1階は回 転寿司。2階が座敷席だろうか、階段が見えた。

こんな地 方の都市まで日本料理屋があるとは。日本の地方にフランス料理屋やイタメシ屋があるのと同じことか。

 

  

 

 

 博物館 はしまっていた。旧市街の古びたビルの並びにそのままはまり込んでいて、銀行か役所の建物の様。

最初は気 付かず通り過ぎてしまう。

 

      

 

繁華街 (?)を抜けると、市街地の背後は小山となっていて、その斜面に家が立ち並ぶ。

  斜面の建物。1階より2階が広く張り出している。トルコ風。思わず写真。

 

               

 

 

 14 時50分頃。龍母廟着。15時50分頃まで見学。

龍母と は、戦国秦時代の人で、龍を拾って育てた女性とのこと。

前290 年農暦(旧暦)5月8日現梧州藤県水東街孝通坊の生まれ。前211年卒。80歳と長寿。姓は温。幼い時木船に乗っていて洪水にあい、

広東の悦 城まで流された。梁という漁民に拾われ育てられた。

川で巨大 な玉を拾って帰り、家に飾っていたところ、その7日後か7ヶ月後かに、5匹の竜が生まれた。

成長後、 江河に放した。人々は温氏を「作龍母」と称した。

獅子舞の 練習をしていたので、しばらく見る。龍母は善良聡明で、百姓の為に善事をなすといい、学んで知識を蓄えた。

薬草を育 て、各種医療に精通し、傷病者を救い、百姓の為に尽くした。

五匹の小 龍の助けのもと、南越や西瓯の人々を率いて荒山を開拓し、旱魃の時、江河の管理を指導し、洪水を防ぎ、多くの自然災害との戦いに打ち勝った。

(龍母か 誰かは不明だが)、誤って一匹の龍の尾を傷つけてしまい、それが原因で洪水が発生してしまったときも、それを鎮めた。

始皇帝 は、龍母を招こうとしたが、彼女は地元が恋しい為、この治にとどまったとされる(中 国語の解説サイトはこちら)。その後西江河神とされるに至った。

 

 この龍 母を祭る龍母廟が、西江流域には幾つか建っている。

この梧州 の龍母廟もそのひとつで、北宋代に最初に建設され、明万暦、清康熙年間に修築され、更に2007年2月には、ジャ イアントロボのような巨大彫像が山上に立てられた。

龍母廟の 建築物は、宋代の威風を残しているとのこと。下記写真は、入り口付近から、奥に向かって3層の建物が並ぶ龍母廟と、山上の像を撮影したもの。

建物は宋 代建築様式の風情があるとはいえ、完全に最近の建物という感じ。

 

    

 

 丁度写 真手前の広場で、獅子舞が演じられていたので、しばし見学。

獅子舞 は、完全な気ぐるみではなく、被り物を両手で持って支えているので、獅子が立ち上がった時の演技などは、

両手で高 く獅子の頭を掲げる為、殆ど人が見えているのだが、生き物のように見えてくるから不思議。上手いのかどうかよくわからないが、獅子に見えてい た。

日差しは かなり暑かったが、獅子舞を見ているうちに冷えてきてしまった。日陰に入ると寒いが、日向にでると凄く暖かい。

 

         

                廟内で売られていた蝋燭                       廟は山の斜面にある。左下、道路に面したところが入り口。

                                右上に向かった斜面に廟が立ち並び、右上山頂に巨大像がある。

 

 龍母廟 から、川沿いの堤防が、堤防歴史ストリートとかいうものになっていて、

堤防沿い の壁一面に、梧州ゆかりの歴史上のあれこれのレリーフや説明が記載されていた。龍母。漢代の著名人。梧州ゆかりの詩など。

この堤防 は、1994、98年に26mもの洪水が発生し、それがきっかけで作られたもののようで、堤防の上と内側がバス通りとなっている。

 記載さ れていた古代の地元出身著名人には、龍母以外には下記の人々がいた。

 

 趙光 (~前111年) 南越王趙侘の族弟。前183年、趙侘より蒼梧王に封じられる。この地に最初の蒼梧王城を築く。武帝侵攻により漢に降伏し、 隋桃侯となり、3000戸を封じられた。

      西江南岸に墓があるとのこと。

 陳欽 (前?~後15年)故経学者。五経博士。陳氏春秋を著した。

 牟子(170~?)  東漢末の学者。一説に名を子博といい、後世牟融として伝えられた(別に牟融という後漢時代の山東出身の学者がいる)。蒼梧郡出身。

       儒生となり,通経史諸子に博識で、仕官しなかった。後、仏教を研究し、「老子」を学び、「理惑論」(37篇)を書き、仏、道、儒教の共通 点を論じた。

 士燮 (137 — 226年) 字は威彥交州広信の人(現広西省蒼梧)。 先祖は山東の 人。新の王莽末年の大乱で交州に移住し、六世の子孫が父の士賜で、この地の豪族 となった。年少時代劉子奇に「左氏春秋」 を学び、孝廉に推挙された。187年成為交州太守となり、当時の交州刺史朱符は、各地に重稅を 課し、反抗を引き起こし殺された。士燮はこれを平定し、南中郎に任命された。その後事実上交州各郡を統治し、その後40年にわたり独立政権と して統治した。居城は嬴楼(ルイロー)にあったとされる。その統治は、在地の居民と 外来からの移民を調和させ、東漢末年の中原の大乱にあって、交州は彼の統治下にあって、相対的な平和と安定にあった。多くの中原人士がこの地に 移住するのを許可し、漢人の中原文化の交州(現広東、広西及び越南北部)への移入をもたらし、莫大な権益を得た。弟士壹は合浦太 守、更に下の弟士(黄+有)は九真太守、更に次の弟士武(士燮より 先に死去)は南海太守となった。漢滅亡後、孫権は步骘を送り併合をはかり、士燮は步骘を礼儀正しく向かえ、步骘が蒼太守吴巨を討伐するのを助 けた、この後、交州は名義上呉国に属することになった。士燮はその子を国に送り、人 質とし、毎年宝物を貢じて政権の維持を図った。孫權から左將軍を与えられた。彼の死後、吳国は呂岱を派遣し 併合を図り、ついに滅亡した。士氏の政権はベトナムの一部をも統治していたため、ベトナム史家は、ベトナム君主として扱い、士燮 を「士王」と称している。

 

 このよ うに、士燮の一族は、合浦、九真、南海など旧南越国の領域を支配し、後漢末にあって、独立国の威勢を示したが、息子の士徽の代となって呉に滅 ぼされた(227年)。

繁栄した 一族の一覧は下記の通り。

 

士燮,字威彦,蒼梧広信の人。左将军。
士廞,士燮子,武昌太守,士徽の誅滅事件で廃される。
士徽,士燮子,自署交阯太守,誅される。
士祗,士燮子,士徽の誅滅事件で誅される。
士干,士燮子,士徽の誅滅事件で誅される。
士颂,士燮子,士徽の誅滅事件で誅される。
士壹,士燮二弟,士徽の誅滅事件で誅される。
士匡,壹子,中郎将,士徽の誅滅事件で誅される。ただし事件後庶民に落とされて生き残り、数年後、法を犯して処 刑された。
士(黄+有),士燮三弟,士徽の誅滅事件で誅される。
士武,士燮四弟。早世。

 

 なお、 梧州は、唐武徳年間に梧州と改称され、明成化六年(1470年),梧州に中国歴史上最初の総督府がおかれ、広西、広東を管轄し、梧州は両広の 政治、軍事の中心となった。北宋代に貨幣鋳造の中心地となり、月産1.5万緍を算出したとのこと。またこのあたりには水上婚の習慣があったと のこと。広西・広東の名称は、前111年武帝がこの地に侵攻した折、「初開粤地宜広布恩信 広信」と発布し、「広信」と名づけたことから、ここから東を広東、西を広西というようになったとのこと。

 

 さて、 このように歴史解説を見ながら堤防沿いを歩き、そのまま歩いて西江に出て堤防に上がる。

 

  

 

  川岸に船が接岸している。まるで海辺のような感じ。川幅がこれだけ広いと、海の代わりになるのだろう。

内陸でも 海がなくても、人々は水辺で憩えるのだろう。汽車駅近くまで歩いて、堤防の内側へ。いきなり雑多な商店街。どこでもドアを通過したよう。

 

    

 

  写真の左側は、19世紀西欧風の感じがしなくもない建物が続いている。

16時 30分頃汽車駅に着くが、意外に本数が少ない。雲浮市行きバスは本数も少なく、もう終っていた。

そこで、 肇慶に行こうとすると、最終バスは45分と表示があるのに、それも無いとのこと。

仕方が無 い。省境を越えた、10キロ程先の封開というところまでいくことにする。

その先の 郁南行きの方がよかったかと、後で気付く。郁南は、雲浮市。封開は、肇慶市。

本数は、 同じ市内の方が多く、市境、省境を越えるバスは本数が少ないようである。

雲浮に行 くのであれば、封開の先20kmほどにある郁南にすればよかった、と思ったものの、今更変えるのも面倒なので、そのまま封開に行くことにす る。9元。

バスは満 車になって直ぐに出発した。7元。

 

 梧州 は、観光地は龍母廟くらいしか見なかったが、他に、明清代民居の威風の残る金 龍巷や騎桜長廊、唐代開元年間に遡る道観である白鶴観な どがあるとのこと。

 

 17時 10分頃、封開の郊外の汽車駅に着く。ここから中心部への送迎バスが出ているようで、辺鄙な街道沿いの汽車駅。

梧州の地 図の裏に封開の地図があった。見ると、河が合流する先端にあり、鋭い二等辺三角形をしている。

国道は、 三角形の底辺部分を通過している。

 

 肇慶行 き17時30分。結構いいバス。55元。日本クオリティのバス。

先頭の3 番席。凄く見晴らしが良いが、この席は安全ベルトをしなくてはならないようである。

肇慶まで 150キロ。国道とはいえ、路面が滑らかで、これも日本クオリティ。広東省は、はやり進んでいるという感じがしなくも無い。

なので割 とスムーズなペースで、20時半頃肇慶に着く。

結構冷え てきていておなかもすいたので、宿に入る前に夕食。この前着たときに食べた、汽車駅横の店は閉まっていた。残念。

 

 汽車駅 横の路地は、露天市となっていて、1kmくらい続いていた。

その途中 にある賓館に入る。疲れていたので、招待所に入る気はしない。考えてみれば寝不足。88元。まぁまぁ。ここにする。

チェック インした後、地図を買いつつ、繁華街を一周。露天市を見て回る。ベッドとかを路上で売っている。路上問屋街という感じ。 

まったく 不況という感じがしない。服屋や靴屋電機屋などでよく聞く、ブーズーブーーバン バビバビバンバン、という景気のいい曲。

まさに景 気のいい曲とはこういう曲のことを言うのだろう、という感じの曲が、22時を過ぎてなおかきいれ時の繁華街に響いている。

油絵の早 書きをしている人がいた。

「赤壁  決戦」の巨大なポスター。「1月7日から2月1日まで全面爆発」というキャッチが凄い。

 

この日の 部屋番号は「2088」。中国語発音で「アリババ」。88という数字も中国ではおめでたい数字。なんとなく気分いい。

 

1月11 日

 

6時40 分起床、7時7分出発。2区間程バスに乗り、

7時38 分、明代建築の崇禧塔着。 明万暦10年(1582年)の建設。丁度塔の横から朝日が昇るところ。

 

         

 

高さ 57.5米,平面八角形,外観九層、内側は17層。8時半に空くとのことだったので、見学しないことに。

朝日を浴 びて、白身の塔芯が若干赤く輝くように染まっている。

堤防か ら、上る朝陽を見る。 更に南に目を向けると、対岸の高要の市街が、靄に沈んで絵になる景色。中心に塔やビルが薄っすらと見えている。

 

                   

 

 

 

 崇禧塔から500mほど西 に歩くと閲江楼というところがある。こちらも8時半からで、30分程時間があったので、近くの文昌閣を見てから朝食にする。

文昌閣は 完全な廃墟。閲江楼は、漢代は鵠奔亭といい、南宋隆興年間(1163—1164年)、

唐代高僧 石頭和尚陳希遷の石頭庵を記念する為に改建し、宣德六年(1431年)拡張し、崧台書院と言った。崇禎十四年(1641年)再度改建した。

 

         

                  文昌塔                             閲江楼

 

8時半頃 再度閲江楼に行くと、丁度スクーターで受付のおばさんがやってきたところ。20元。

この建物 は西江を見る風景台だったよう。

 展示館 は、2階中国共産党の北伐の基地だったようで、広東省から湖南への北伐経路とその詳細がパノラマやろう人形を用いて展示されていた。

じっくり 見ればいろいろ勉強になり、少しは面白いのかも知れないが、急にトイレに行きたくなってさっさと終える。

1階は遺 跡の出土物。漢代の遺物の展示もあったが、少ない(こちらで紹介)。 別館の方も、何かの記念建物の模様。

ここでは 硯の展示がされていた。この展示は3つの点で勉強になった。

 一つ は、唐代の硯が残っていること。褚遂良の硯が、模造品だが展示されていた。宋代、元代も残っていて、明初以降は結構な数が残っている。

 もう一 つは、硯が彫刻芸術であったこと。限られた素材を生かしたカメオのような芸術だと知った。

 3つめ は、この付近は硯の名産地であるということ。近隣の産地のパノラマ地図や、原材料の発掘工程、製造工程などを扱った図があり、肇慶近郊の地形 も把握できた。

 このあ たりは、まだ山地で、たまたま河の付近が開けているだけの土地なのだった。

  下記 は展示物のひとつで、市内には多数の硯店があり、そこの店主は一般的に、このような彫刻家のようである。

        

    北京オリンピックのメインスタジアムとプール        山岳地帯と池(池の部分で墨をする)

 

 9時 20分頃博物館を出て、宋代の城壁を目指すが、近くにある肇 慶高要學宮(または肇慶府学宮)という、北宋崇甯元年(1102年)に建設された学校(?)跡を見る。

中身は博 物館として利用されていたようで、今も一部展示物が残っていた。歴代の改修を経ているとのことだが、明代あたりの様式を残しているようであ る。

というこ とで一応撮影。

 

         

 

 

 その 後、再度宋代城壁を目指すが、東城壁はいつの間にか通過してしまい、中心部にある両 譙楼についてしまう。10時15分頃。

ここは清 代の県令の役所だったようで、マテオリッチが肇慶に3年間滞在した。そのマテオリッチの人生の絵巻や、裁判の蝋人形などがあり、

マテオ リッチゆかりの展示館という風情だった。ここは、肇慶府衛の所在地で、肇慶府の政治上の中心だった。

 宋重和 元年(1118年),府衛前の筑高台建楼で、名を御書楼といい、明天順六年(1462年)、郡守黄瑜が再建。両谯楼と改称した。

明末 (1646年),複明運動中の桂王朱由榔がここに滞在し、永明宫と改めた。

 

    

 

西城壁 は、城門は無く、城壁近くは、坂となっていて、城壁を越えるとくだりとなっていた。

城壁の上 は歩道となっていた。、東城壁は、この為に気づかなかったと思われる。

  西城壁中央の南側の西面は一応整備され、城壁そばまで立て込んでいるが、反対に、北側の西面は、写真のように未整備となっている。

 

        

 

 この後 梅庵へ。

 

梅庵は、 禅宗6代目の慧能が開いた場所で、泉がわいた箇所に立てられた。

慧能一代 記の蝋人形館が面白かった。父親は失脚した役人で、幼年時代に死去し、賢母に育てられたということのよう。

ここに は、宋代の威風を残す建築物2点。梁に特徴があるとのこと。

 

      

 

 

梅庵内の 梅園でしばし休憩。1月というのに、木陰が涼しく気持ちが良い。

11時か ら11時半頃まで見学し、披云楼を見に行く。が、どこから入るかわからないので、前回よりも近くで見ることができたが、外から見るだけ。

 

  

 

  バスで汽車駅へ。12時頃着。12時半のバス。昼食の時間が無い。仏山へ。

14時 40分頃仏山着。地図を購入し、昼食をとりながら漢代墓を探す。市バスで移動。30分くらいかかる。

で、30 分くらい歩いて探す。着いたところの地形が地図と若干異なっていて、まさに漢代墓のあるあたりに公園があり、何の碑文も残っていなかった。

少し歩い て探し回るが、碑文が見つけられず、少しがっかり。

先週の衝 陽の漢代遺跡といい、碑文も見つけられないなど、ちょっと悔いの残る探索が続いてしまった。

 

 続いて祖廟を見に行く。17時入場。いまいち期待はずれ。黄飛鴻(1856-1925年)と いう近代拳法の有名人の記念館。

何度も映 画に登場している有名人のようで、ジャッキーチェンの映画「酔拳」の先生役もこの人のよう。

 

    

 

17時半 迄見て、水を買って両替え。汽車駅に戻る。

18時半 の開平行き。49元。19時50分頃開平市街地区に入るが、市中心部にあるバスターミナルに着いたのは20時半。

 地図を 購入しホテルを探すが、中堅ホテルがあまりなく、高そうな(でも古そうな)ホテルが多い。

ここが観 光地だと知る。その割りには巨大な屋台広場がある他は、飲食店が少なく、入った洋食もある店は、弊店間じか。

入店した 時は客が沢山いたが、途中からどんどん帰りだし、後半は私1人に。レジ係を一人居残りさせてしまった。

 

 手ごろ な価格の宿がなかなか見つからず、漸く見つけた宿も、エアコンが動作していない。少し風邪気味。

部屋を変 えてもらうと、70元が90元の部屋になり、「豪華間」となってしまった。

これまで 豪華間というところに泊まったことがなかったので、豪華間を知るいい機会。

と思いそ のまま泊まるが、豪華間は、殆ど通間と同じだと判明。この宿は站前賓館という。

駅前の安 ホテルでいいや、と思ってる客層をひきつけるものがあるのではないだろうか。気に入る。

 

 食事後 繁華街を散歩。途中で、ちょっと入ってみたショップで「これよさげ」と思ったジャケットが3300元(5万円)。

特に高給 点とも思えないのにこの値段、。驚き。値札一桁間違ってるんじゃないの、と隣のジャケットもみてみるがこちらは1000元(1万5千円)。

打ち間違 いではない。こんなものが商店街の服屋で平然と売っているくらいにまでなっているのだろうか。やれやれ。

22時半 宿に戻る。部屋に戻ると、布団が一枚増えていた。

風邪ひい てるからエアコンが必要だと言ったので、服務員のおばさんが持ってきてくれたのだろう。ありがたい。

とはい え、そもそも布団があるなら、エアコン要らなかったので、70元の部屋でよかったわけだが。

 

 

 

1月12 日  

 

 早朝、 7時の市バスで赤坎へ。

丁度日の 出。月が日の出の太陽にあぶられてそら低く際立って見える。7時頃のバスに乗り、25分頃赤坎着。

バス停 で、自力村や立園のバイタクに勧誘される。

堤西路の 「欧州宮殿風建築物」を探すがなかなか見つからない。

聞いても 逃げるばあさん2人。字が読めないのだろうか。

多分本能 で、赤坎の撮影所を見つけてしまう。ここで場所を聞くが、なんと言っているのかいまいちわからない。

結局中心 部を一周してわかったことは、結局は、この撮影所の周辺が、堤西路の「宮殿」なのだった。

 

 広東省 を扱った古鎮シリーズのガイドブック掲載の写真では、シェーンブルン宮殿に見えた赤坎の建築物は、ただの昔の町並みだった。

西洋風と はいえ、完全な西洋館ではなかった。ただ、遠景では、見ようによっては、宮殿にみえなくもない。

しかし、 騙されたと思っていってご覧ともいえないところという感じ。

 

  

 

赤坎の映 画村は、「宮殿」に見える河沿いの堤西路沿いの町並みの西半分となっていて、こちらは改修してきれになっていた。

あと30 分くらい待てば映画村が開館するが、対して見たいとも思えず、自力村に行くことにする。

バイク 20元。安いのか高いのかわからないが、10kmくらいありそうなので、高くはなさそう。

バイクの 後ろ乗る。全然寒くない。立園のそばを通過する時、あれが立園だと教えてくれる。しかし結構な距離な感じ。

途中の標 識によると、国道から5kmとなっているが、国道を折れる地点まで3,4kmありそう。実際は、6km程度らしいが、それ以上に感じた。

 

 自力村 に8時半頃つく。

9時の開 館だそうで、しばらく待っていると、観光団体かと思えるきれいな中型バスがやってきた。

これが、 受付や管理人達の団体。10名くらいいたので、少し驚く。最初は観光団体かと思ったくらいだ。

9時45 分、入れてくれる。50元。結構高い。

立園や映 画村とのセット券もあり、そちらは、65元、90元、などとあった気がする。自力村単体券は50元。

 

 村その ままを見てまわる施設。古代ローマの都市のフォルムのような広場。19世紀のイタリアの農村のようにも見える。

このくら いきれいに整備されていると、中国の田舎も、イタリアの農村のような感じで、もっと観光客を呼べるのではないだろうか。

この広場 に面した建物3件が、展示館となっていて、当時の民家の内部がわかる仕組みとなっていた。

入るとか まどがあり、説明版が展示されていた。

それによ ると、全世界の華僑の数や、歴史的な広まりについての記載があった。

華僑は、 19世紀末から20世紀にかけて労働者として広まったということがわかる。全然知らなかった。

もっと前 の、明清の時代から、東南アジアあたりに広まっていた中国人が、19世紀後半に、オーストラリアや米国に広まったのだと思っていたが、

どうやら そうではなく、19世紀末になってから広東省の開平周辺という特定の地域から世界の広まったということらしい。

台山が華 僑の故郷と聞いていたが、この説明によると、開平から台山周辺に最初の移住があって、その後、台山から世界の広まったということらしい。

開平周辺 にも華僑の建設による欧米風の館が広まり、現在でも1833もの、当時の欧風館が残っているとのこと。

うち 200あまりが、保存管理されているとのことである。

当時の記 録が残る人々の写真が展示されていた。そこには苦労の生涯が記されていた。

この欧風 住宅は、よくよく見ると、植民地時代に欧米人が直接立てたような欧米建築そのものではなく、近づくと見た目をマネしたダミーであることがわか る。

どうや ら、親戚が送ってきた絵葉書、あるいは華僑自身が帰国して、持ち帰った絵葉書や写真を元に建築したということらしい。

なので概 観は一見瀟洒な西欧風建築に似ていても、近づくと、コンクリートの打ちっぱなしの鉄筋ビル。

映画の セットのように見えなくもない。そんなインチキくさい建築物だが、当時の生活跡が残っているのだと思うと、そこはかとなくロマンが感じられ る。

 

目出つ 4,5階建の建物は、今は利用されていないようで、3館ほどが展示館として公開されていた。

 

       

 

 

 

さらさわ と木立の影で風がさわやか。とても1月とは思えない、夏の早朝という感じ。

いい ねぇ。広東省の田舎の冬旅行は、意外にいいかも知れない。

10時 15分頃まで見て、入場口まで戻ると、バイタクもいそうも無いので、歩いて国道まで戻ることにするが、

県道クラ スの道路に出たところで、10分程歩いたとこで開平行きバスが来たので乗る。

11時頃 汽車駅着。昼食。11時35分の宝安行き。宝安15時着。

16時ま でバスが拾えず、17時南頭着。18時頃自宅着。戻って直ぐに片づけをして寝る体制。

すると、 結構休まり、疲れが取れた。

旅行に出 ると、いつも遅く戻ることが多いが、早めに戻って休憩すると、意外に疲れが取れると判明。

 

2泊3日 梧州~肇慶~仏山~開平~深圳 826 km、航空券390元、有料施設訪問回数6箇所、交通機関利用回数14回

 

 

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