東冶城遺跡

          


紹介

 秦の 征服後、秦の支配下にあった閔越国は、漢代になってから、漢の服属化で、前202年から110年までの間独立を維持してい た。この時代、現在の福建省省都である福州に都があったとされている。前110年、漢に征服されて、会稽郡の東治県となり、 治所が置かれた。左図は、「閔越国都城考古研究」(厦門大学出版社)p173に掲載されている、漢代福州の海岸線と、現在発 見されている遺跡の分布図。現在は、この図の範囲全てが陸地となり、福州の市街地となっているが、当時は、図中真ん中あたり 記載されている、現屏山公園は突き出た半島、于山や烏山(烏石山)は島だったことがわかる。それぞれの島に、古代越時代のな んらかの施設があり、于山には、越王無渚の宴会所があったとのこと。

 右図は、屏山の南から、現在の于山や烏山あたりの間にあった、漢代から明代に至る都城の変遷図。ピンクの上(北)の あたりが、屏山公園の南に面していて、紫色の部分が晋代の都城。その上の緑の小さい円が、漢代の都城。漢と晋都城を囲む 茶色が唐代、更にその周囲の青緑色が五代の梁の時代の都城。この時代は、福建は閔越として独立していましたが、この独立 時期に発展した模様である。その東南方面の黄緑部分が、宋代。南側城壁は、于山や烏山を囲んでいる。更に北側のピンクが 明代。このように、福州は、湿地の埋め立てで発展してきた町といえる。扉写真は、于山の大士殿に展示されていた福州城の 発展を表した模型。


 東冶県は、日本と因縁のある地名である。「漢書」地理志に描かれた倭国は、「楽浪の東」と記載され、朝鮮半島の東に あるとされている。しかし、晋代に書かれた「三国志」では、邪馬台国は、「会稽東治の東の海中」にあるとされている。岡 田英弘氏の考えでは、もともと史書は政治文書なのであるから、魏に使えた作者の陳寿が、当時の権力者司馬仲達側に立った 記述をした結果、邪馬台国が呉国の背後に来ることになった、との説を記載していた。邪馬台国との通交は、対呉国戦略上の 重みがある為、呉国の背後に来るように、あえて陳寿が記載した、だから、実際の地理的位置合わない記載となっているのは 当然なのだ、との説。説の妥当性はともかく、東冶県は、このように邪馬台国と関連があるという点で、日本とも関係がある 地名となっている。

 

 東冶は、「閔越国都城考古研究」(厦門大学出版社)p214の「東漢時代の東冶の継続用例について」の章で、以下の 史料に登場しているとある。以下、「閔越国都城考古研究」の印象部分と、Wikisourceの当該部分のリンクを掲 載。

1.後 漢書巻33・鄭弘伝

”舊交阯七郡貢獻轉運,皆從東冶泛海而至,風波艱阻,沈溺相系。”

2.三 国志46巻・呉書・孫策伝

”策曰:「虎等群盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。”

3.三 国志57巻・呉書・虞 翻伝

”朗不能用。拒戰敗績,亡走浮海。翻追隨營護,到東部候官,候官長閉城不受,翻往說之,然後見納。” -朗とは、王朗のこ と。以下の王朗伝と同じ内容の記載。

4.三 国志13巻・魏書・王朗伝 

”孙策渡江略地。朗功曹虞翻以为力不能拒,不如避之。朗自以身为汉吏,宜保城邑,遂举兵与策战,败绩,浮海至东冶。”

5.榕 城考古略巻上

”闽在周为荒服,自无诸建国,都冶为城,是为冶城,设险守国,自汉始也”

6.榕 城考古略巻中

”侯官县治 在官贤坊内。旧治在岊江,今侯官市地。”

※榕城は福建省省都福州の別称。「榕城考古略」は19世紀に福州の人林枫(字芾庭)が、宋、明、清の地方志を元に編纂 した福州地方志。

考古学史料として、屏山遺跡から「万歳未央」と刻印のある瓦当(軒丸瓦の先端の円形の部分)が1997年に出土してい る。瓦当上半分に「万歳」、下半分に「未央」との刻印がある(「閔越国都城考古研究」p191に写真がある。「万歳」 「未央」は漢代瓦当に多く使われた文字(漢代以外にも使われているかも知れない・未確認)。このことから、ここが漢代の 官庁が置かれていた場所である可能性が高く、置かれていた官庁だとすると、東冶との可能性が高いとされる。

 

  さて、その東冶県の場所として、現在 は福州だと考えられている。福州では、この時代の都城遺構や墓地など多数の遺跡が出土している。比較的大きな城壁に囲まれた 都城は2箇所発見されている。新店遺跡と治山遺跡である。最上段左図中、一番上に位置しているのが新店遺跡である。上段左 は、福州新店古城村にある、新店遺跡の城壁跡。写真の中の赤丸付近が、北部城壁となっていて、畑の中に、上段右写真の、政府 の碑文が立っている(上段左が、北側から撮影したもの。上段右は、南から北に向かって撮影したもの)。碑文の背後が、 60cmくらい、こんもりと盛り上がっている部分が、閔越国時代の北部城壁。漢代の城壁は、閔越国時代の城壁の外側にあり、 閔越時代の城壁から東に60m、北に100m、西は岩渓(小川)が境界、南城壁は、新店小学校の敷地にあると記載があった。

 左右の写真は、北城壁から150mくらい南にある行政府の碑文。左写真から更に100m程南に右写真の碑文がある。 おおむねこのあたりが、漢代新店城の中心地で、遺物が発掘された場所らしい。

 

 左右の写真は、冶山遺跡に関するもの。冶山は、屏山南側に広がる都城。数箇所で 遺物が発見されているが、遺物の発掘の後は、そのまま新しいビルなどが建てられているので、見学できるような遺跡は残っ ていない(と思われる)。

 左写真は、漢代東治見城の中心付近にあった欧冶池。一応現在も池が残っている。 右は、于山の大士殿の展示にあった冶山遺跡のランドマーク。実物を探したのだが、見つからなかった為、展示されていた写 真を掲載。これは単に、この付近が治山遺跡(漢代東冶県)所在地であったことを示すランドマークであって、背後の城壁が 漢代城壁というわけではない。Wiki の東冶の記載はこちら(中国語)

 

 左右の写真は、福建省博物館(福建博物院)に展示されていた 漢代の船の復元模型(「漢楼船」というらしい)。右は瓦とレンガ。

 

旅行情報

旅行情報

 新店古城は、福州市の北、新店村にある。19番、945番、 802番のバスで終点の1個前のバス停、新店収費站下車。バス停を降りて西側が新店古城地区。下車後、西に向かう未舗装 があるので、西に向かって5,6分で閔越国時代の北壁があり、その南100m程度村道際に中心部の碑文がある。新店収費 站まで、中心部の鼓楼バス停から約20分。

  福州の宋明代史跡はこちら

 治山遺跡は、鼓楼路の鼓楼バス停付近。鼓楼バス停付近に現在 省建設銀行、農業庁が立っているところで遺物が発見されている。欧治池は、鼓楼バス停から真東に150m程の地点にあ る。がわかりやすい道路は無いので、上記物理的位置に向かって適当に歩くしかないと思われる。

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