2002 created
2020/Sep/17 updated
前期ササン朝
(293-379年)


ナルセス
(在位在293‐302年)

  ナルセスはバフラーム死去時点ではアルメニアにおり、アルメニア王であり、 ローマによってアルメニア王につけられたティリダテス討伐軍の司令官であった。当時ナルセスは自らを 「諸王の王」と自称していた。  恐らくティリダテスがアルメニア王を名乗った為、本筋の王の立場を明確にする為にナ ルセスは諸王の王としたのかも知れない。ナルセスは彼の支援する貴族達に求に応じてアスーレスタン(バビロニア)へ至り、そこで貴族達と落ち合い盟約を結んだ。この 時、以前ナルセスの即位を阻んだカルティールも来ていたとされる。この地パイクリには、碑文が残されており(碑文の翻訳)、この時集まっ た貴族か、或いはその後ナルセス登極後の彼の臣下のリストが刻印されている。その中にクシャン 王の名も見えている。他にはラハム王、アプガリッド王などの名も見え、アラブの諸部族も服属していたことが知れるのである。このリス トは単にナルセスの戴冠式に代表者を送ってよこした者達の一覧なのか、彼の即位を支援した者たちなのか 結論は出ていない。

 ※このリストに関し、『Cambridege History of Iran Vol2(1』のp130にはあらまし以下の内容の記載があります。【要約】】このリストの特徴は、登場している王達の殆どがサ サン朝の辺境の王達であり、ササン王家 の王子達の名は無く、キルマーン、メルヴ、ギーラーン、メシャンといった重要地域の者無 く、カーレーンやスーレーンといった名門家の名もないという点にある。これはつまり、ナルセスはマイナーな支配者達の支援を受け ていて、対抗者バフラームは帝国の中央部の同盟を保持していた、ということを意味している。こうなると、ナルセス登極後の大貴族 達の弱体化といったことを推定べ きか も知れない。そうして不幸なことに、ナルセス時代の内政の資料は無く、これに関しては推測するしかないのである】。最近確認したところ、パイクリ碑文には、カー レーン家とスーレーン家が言及されていることがわかりました。Cambridege History of Iranの解釈は一部修正する必要がありそうです(2020/Sep/17)

 ナルセスは即位後、ローマに奪われた領土の、アルメニアとメソポタミアを取り戻そうとし、ティ リダテスは296年王位から放逐された。297年初頭、ガレリウス下のローマ軍は敗北し、ナルセスはメソポタミアを回復した。 しかしアルメニアでは同じガレリウスに敗北した。ナルセスの要請で皇帝ディオクレチアヌスと和約が持たれ、ローマ人は北メソポタ ミ アとアルメニアの宗主権を保持しただけでなく、この地域の周辺も獲得した。ローマ人の要請によって、2国間の交換におい て、交換地としてニシビスを通過するラインが引かれた。この後40年間両国間に平和が維持された。

 ナルセスとその子ホルミズドの内政については知られていない。しかし、バフラームの時代と比べ て推測できる部分もある。例えばマニ教徒への弾圧だが、これはローマ帝国内のマニ教徒の支援を得るという意図もあってのことで、 297年アレクサンドリアにおいて、ディオクレチアヌスはマニ教徒のプロパガンダに対する勅命を発している。このことからマニ教 の動きが活発化していたことが想定され、それはササン帝国内でのマニ教の復権を意味している可能性がある。他の少数派の宗教につ いては知られていないが、この時代には反ユダヤ教やキリスト教徒殉教を示唆するものは見つかってはいない。シャープール1世治下 での宗教的寛容政策がナルセス時代には戻ってきたと考えてよい。ナルセスの統治の終わりに アルメニアはキリスト教へ改宗 した。これは国の運命を変え、アルメニアは312年のコンスタンティヌスの改宗後 ローマ帝国と同盟を結んだ。ナルセスは正統ゾロアスター教の熱心な支持 者ではなかったことがタバリーの歴史書から推測することが出来る。それによれば彼は火の寺院を訪れ なかったとのことである。

ホルミズド2世
(在位302-309年)
  ホルミズド2世は7年間統治した。彼は頑健で強く、アラビア資料によれば好かれていた。彼の統治に ついては何も知られていない。

‐Cambridge History of Iran Vol3(1) Iran under the sasaniansの章から -

シャー プール2世
(在位309-379年)

 ホルミズド2世の死に続いて起こったことははっきりしていない。息子であるアードゥルナルセが 王位についた。貴族達は彼らの手に実権を握り、王を廃し、彼の兄弟達を束縛した。一人ホルミズドだけが脱出し、ローマへと逃 亡した。王権は幼児のシャープール2世に与えられた。実はもう一人ホルミズドの息子である、もう一人のシャープールがおり、彼 はサカ王だった。当時ホルミズド2世の家内には2つの党派があり、サカ王シャープールとシャープールの兄であるアディアバネの王 アルダシールの兄弟間の党派だったとされる。そこで貴族達はシャープール2世の即位を支援したのだという説がシリアのキリスト教 徒の記録に残されている。時として貴族は力を示すが、全体としては集権化が進んでいた。シャープール2世の時代は初期ササン朝の 集権化(官僚制、法律システム)プロセスの初期ササン朝における一つのピークであると考えられる。 
 当初シャープール二世が幼児の時、権力は貴族の もとにあったが、直ぐにシャープールは貴族の黙認のもとに彼の手に権 力を握った。
 ローマのディオクレチアヌスやコンスタンティヌスの改革がササン朝にどのように影響したかを知る 資 料は無いにしても、なんらかの影響を及ぼしたと考えてもよい。

 シャープールの最初の遠征は砂漠のアラブに向けたものだった。
 帝国支配に対する反抗はスーサであり、王はスーサに圧力をかけただけではなく、町を象で踏み潰し た。その後ローマ人捕虜の為に市を再興した。彼はスーサの名前を変更し、イーラーン・フワル・シャープール(シャープールにより 建てられた、イランの栄光)と名づけた。この名前はスーサの北にあるカルカ・デ・レダン(市のアラム名)と混同された。これはカ ルカが 後にカワード1世によりイーラーン・アーサーン・カルカワードと変更 されるまで続いた。他に多くの市が再建あるいは 建設された。例えばニシャプールなど。

 ローマとの関係は概ね平和だったがシャープールはそれを打ち破った。337年にコンスタンティ ヌスの甥ハンニバリアヌスがアルメニアで成功を収め、シャープ−ルはニシビスを何度か攻囲した。細かい戦闘が何度も行われたが大 勢に影響はなく、とかくするうち東方の情勢が不穏になった。キオニテという恐らくはフン(ヒュンヌ)の一派が到来したから である。しかし彼らはトルコ語を話すようでもあったが、サルマート人などイラン系も含み、クシャンの領域に移住後はクシャン‐バ クトリア語を身につけた。シャープールは彼らを服属させることに成功し、ローマ戦に彼らを動員した。シャープールはアミダ(ディ ヤルバクル)の要塞を攻囲し他の町を占領し、人々をフーゼスタンや他の地に移送した。ユリアヌスは二手に分けて侵攻してきたが、 ユリアヌスは戦死し、後任皇帝ヨヴィアヌスとは ティグリス左岸のローマ要塞ニシビス、シンガラなどをシャープールへ割譲する こととし、ローマはアルメニアから手をひいた。これによりシャープールはアルメニアへ侵攻した。
 その後シャープールはヴァレンティニアヌスと交渉しにアルメニアに来ようとしたが、ヴァレンティ ニアヌスがゴート戦で戦死したため実現しなかった。

 シャープールはディオクレチアヌスが東方の防衛ラインを固めたのに対してイラン側の防衛ライ ンを拡張した。要塞、防壁、掘りなどを拡張した。またシャープールはアラブ族をイラクに移住させた、これはローマと同盟を結ぶ他 のアラブ部族への対処とする為である。コーカサスに対して シャープールが行った防衛対策についての情報は無いが、ダルベンドの 要塞彼に起源が無いとしても、シャープールが何らかの防衛対策を行ったことは 想像出来る。しかしローマのリメス(保塁線)は、シャー プールの軍隊が、前シャープール1世の軍隊と比べてもよく組織化され、訓練されていたにも関わらず、祖父が行ったローマへの侵 攻を思い留まらすだけの効果を与えたのだった。

 リメスと要塞に加えて重要な防衛システムは緩衝国の存在だった。ヒーラのアラブ族国家ラハムは その中で重要な役割を果たした。しかし同時に緩衝国の没落が、防衛上の弱点となってしまうのだった。3世紀初頭には、アディアバ ネやアラビスターン、ラハム国などがローマとササン朝間で重要な役割を果たした。

 シャープール2世はキリスト教徒、ユダヤ、マニ教徒への宗教迫害も行った。キリスト教は既にア ルサケス朝下でメソポタミアにも広がっていた。これらはシャープール1世や2世自身によって捕虜となったローマ人が中心だった。 司教はクティフォン、グンデシャープール、ビシャプールなどに存在した。シャープール2世はローマとの戦費調達の為、キリスト教 徒に 倍の税金をかけた。迫害は339年から始まり、シャープールの死まで続いた。キリスト教の中心地は、クテシフォン、アディ アバネ、フーゼスタンだった。

 この時代、ゾロアスター教組織も整備された。教会組織は国家とは別の独自の組織を持っていた が、君主より支えられていた。サファビー朝と同様、最高の地位は教会と国家双 方にとっての長であった。一方でそれは司教達によって組織され、他方で貴族達によって組織されていた。この形態は滅亡まで続い た。シャープール2世時代のモーバッドであるマフラスパンドの子、アードゥル バッドは他の宗教よりゾロアスター教の地位を高め、宗教信条の正統の確立に努めた。異端であるズルワーン 教は、シャープールの認可のもと、正統により排撃された。
 

- Cambridge History of Iran Vol3(1) Iran under the sasaniansの章から -  

2013/Mar/24 Updated 誤字・脱字の修正

BACK